こたえなんていらないさ

舞台オタクの観劇感想その他もろもろブログです。

刀ミュ 葵咲本紀 全体を通しての感想その2~刀も人も、夢を見る~

早くしないと歌合初日に追いつかれてしまう!という必死さに駆り立てられるようにして書いています。そんな今日の日付は11月23日…しかももはや夜!歌合前日やないかい!笑
去年もらぶフェス福井の前に阿津賀志巴里の記事を慌てて更新したりしてたな(成長してない)。
ちゃんと書けるか自信がないのですが、葵咲本紀で今回メインテーマのひとつとして描かれている、と感じた言葉について、頑張って文章にしてみました。(※いつものことですが長いです!)




◆長らく「役割」を描いてきた刀ミュ。今回新たに描かれたのは「夢」だった

葵咲本紀に対する、私の中での大きな印象のひとつに、この内容があるんです。
折りに触れて「夢」という言葉がとても明確にセリフや歌詞の中で登場する今回の物語。様々な角度から「夢」を描くことが、葵咲本紀のひとつのテーマだったように思えています。


これまで刀ミュの世界では、ご存知の方も多い通り、長らく「役割」についてがメインテーマとして描かれてきました。
それはたとえば、下記のような場面に顕著です。

  • 「ぼくのやくわりはなんだろう?」と、無垢な笑顔で元の主である義経公の元から走り去る今剣。(阿津賀志山異聞)
  • 沖田総司の早逝の運命に苦しむ安定を、側で追い詰めずに見守りながらも、安定が一線を越えそうになった時は自分がかたを付けると決めている清光。(幕末天狼傳)
  • 歴史を守る刀剣男士として、それがどんなに意に沿わないことであっても果たそうとして、慈しんで育てた信康に手をかけようとする石切丸。(三百年の子守唄)
  • 自分たちの実在性に疑問を抱き、その事実が与えるであろう衝撃からなんとかして今剣を守ってやりたいと願う岩融。(つはものどもがゆめのあと)
  • 時間遡行軍の企みにより史実よりも命を長らえる可能性の出てしまった元の主・土方歳三を、命日には必ず殺さねばならないと、覚悟を決めようとする和泉守兼定。(結びの響、始まりの音)

…こうして挙げていくとそれこそきりがないほどに、刀ミュの物語を通底して流れている重要な要素、それが「役割」です。上記以外にも、たくさんの男士たちが、己の役割と対峙し、悩みながら成長していく場面が数多く描かれてきました。
さらに刀剣男士だけでなく、歴史上に生きたかつての主たちも、その時その場で己が果たさねばならないことが何であるのかという内容に対して、痛いほど真摯に向き合い続けています。


葵咲本紀でも、これまでと同様に、その「役割」を感じさせる描写は当然のこととしてあるのですが、それに加えて今回わたしがひとつ特徴的だなと思ったのが、「夢」という言葉の使われ方でした。

そこでより理解を深めるべく、広辞苑にお尋ね。「夢」という言葉の説明は下記のとおりです。(*用例は略しました)

ゆめ【夢】
①睡眠中に持つ幻覚。ふつう目覚めた後に意識される。多く視覚的な性質を帯びるが、聴覚・味覚・運動感覚に関係するものもある。精神分析では、抑圧されていた願望を充足させる働きを持つとする。
②はかない、頼みがたいもののたとえ。夢幻。
③空想的な願望。心のまよい。迷夢。
④将来実現したい願い。理想。

ここに挙げたような「夢」の様々な側面が、葵咲本紀では入れ代わり立ち代わり、といったふうに、様々に色合いを変えて登場していきます。
以降、具体的にどんな場面に夢が描かれていたか、説明してみます。

◆秀康と「夢」

葵咲本紀の冒頭は、暗がりの中にぽつんとひとり立ち、「ここは…?」とあたりをぼんやりと見渡す秀康の姿から始まります。
彼が目にしているのは、これからまさに切腹せんとする兄・信康と、その様子にただ黙って視線を落とす父・家康。
「おやめくだされ兄上!…父上!なぜ止めてくださらないのですか!なぜ兄上が死なねばならぬのですか!」
その悲痛な秀康の声は届かず、信康は覚悟を決めた表情で腹をかっさばき、介錯されて命果てます。
「兄上ェ…!」
そう叫んだ秀康でしたが、そこで「夢か…」と、はっとした表情で我に返ります。そしてどこか嘲笑するような表情でこう言うのです。
「…ふん。くだらぬ夢よ!」

◆篭手切江と「夢」

次に夢という単語が出てくるのは、篭手切江によるM2。
歌って踊れる付喪神を目指している彼は、心の中に描く”夢のすていじ”を思い浮かべ、本丸でひとり歌い踊ります。
篭手切江の心の中の情景が幻となって現れていることを示すような、ダンサーさんたちと一緒になったにぎやかなダンス&歌唱シーン。
しかし盛り上がった歌がラストを迎えるところで、ダンサー陣はさっと掻き消えるように姿を消していきます。はっと気づいた篭手切江の周りにはもう既に誰もおらず、そこにいるのは彼ひとりだけ。
さっきまでの光景は…?と一瞬虚を突かれたような表情になる篭手切江ですが、すぐにまた笑顔になり”今はまだ夢を 見ているだけ”と、自身の状況を語るように歌うのです。

その次の御手杵との”れっすん”のシーンでも、夢ははっきりとセリフの中で語られます。
御手杵に「なぁ、なんでれっすんを続けてるんだ?」と尋ねられた篭手切江は、こう答えます。「それは…夢があるから」と。

御手杵と「夢」

上記の篭手切江とのやりとりの直後、篭手切江が発した「夢」という言葉に反応した御手杵は、怪訝そうな顔から徐々に苦しそうな表情へと、顔つきを変えていきます。
そんな彼の背後を覆い尽くすようにばさりと降りてくる、大きな面積の真紅の布地。
暗闇の中にはたはたと揺らめくその様子に想起されるのは、当然のことながら、「炎」そのものです。
なにか幻覚を見ているような表情の御手杵は、隣で話している篭手切江の声も耳に入らないまま、顔をしかめて苦しげに、絞り出すように叫びます。
「これは…夢だ!」

◆信康、秀忠と「夢」

そこに更に重ねられるのが、弟である秀忠に対して、信康が語る「夢」です。
武勇に優れた兄・秀康がいるのに、兄ではなく自分が後を継ぐように指名されたことに納得が行かず苦しむ秀忠。
史実上で既に亡くなっているはずの信康は、弟である秀忠に兄としての声をかけることは叶いません。秀康は自身の正体を伏せたまま、秀忠に「わしと夢を語ってくださらんか」と声をかけます。
怪訝そうな表情をしながらも、秀忠は請われるがままに、こう答えます。
「夢…夢ですか。夢というほどのものではないですが、私は、父上が目指す泰平の世を築くことができたら、それでよいと思っております」
その言葉を聞いた信康は、さも嬉しそうにこう呼びかけるのです。
「私の夢も、全く同じにございます!」と。
百姓に身分を変えたのち、かつて武士として生きていたころに一度諦めた「泰平の世を目指す」という夢に、また再び巡り合うことができたと語る信康。
「夢は、身分や立場が叶えてくれるものではございません。願い続けた者だけが、叶えられるもの。…私はそう思います」
そう力強く諭すように語りかける信康。その勢いに押されるように、秀忠は家康から自分が跡継ぎに指名された件について、再び向き合ってみる決心を固めるのです。
「納得の行くまで、父上に、尋ねてみようと思います」と。



こうして見てくると、まさに最初に引用した辞書どおりですが、「夢」とは本当に色々な意味を持つ言葉であることがわかります。
冒頭の秀康や御手杵は、自身の内側にあるトラウマや苦しみを、①、もしくは③として目の前に映し出してしまう。
篭手切江は、④のいつか果たしたい望みとして、眩しい舞台の光景を思い浮かべている。
秀康や秀忠が心に決めているのもまた、大志とも言うべき④の在り方です。


そして夢を語る上で最後に触れなければならないのは、やはり篭手切江の「先輩」について。

結城秀康の所持している刀

今回、結城秀康が時間遡行軍側に取り込まれてしまうきっかけとなったのは、自身が所持している刀と感応してしまったことでした。
劇中で秀康は、敬愛する兄・信康との幼き日の思い出の回想から、その兄を死に至らしめた父・家康への怨みの感情を爆発させます。
舞台上にはその秀康の感情に呼び覚まされたかのように、黒い「陰」のような存在が滑り出てきます。そしてその「陰」は秀康の苦しみに呼応するように、秀康自身が受けた仕打ちを、次々と言葉にして耳元で囁きかけるのです。
「己の子と認めなかった」「まるでモノのように」「たらい回しに」と。
その声によって己の内面にくすぶる様々な思いを増幅された秀康は、ついに腰に帯刀していた刀を抜き去ります。そこで舞台上・秀康の背後に現れるのは、不気味に蠢く時間遡行軍たち。
不遇の出来事に見舞われた歴史上の人物たちの悲しみや怨みにつけいるようにして、時間遡行軍側が彼らの意識を乗っ取るという描写は、刀ミュではある種定番のようにもなってきましたが、今回の結城秀康は、阿津賀志山異聞での義経、幕末天狼傳の沖田総司に続く、3人目のパターンとなりました。


葵咲本紀で出陣を命じられた鶴丸たち4振りには、今回の敵の狙いは「結城秀康である」と主からはっきりと伝えられていますが、それを全うする形で、秀康の刀から生じたこの「陰」と、篭手切江とが真正面から対峙するシーンで、物語はクライマックスを迎えます。

この「陰」のような存在は、篭手切江にとっては”先輩”=縁のある刀であることが(詳細な背景は明確には語られませんが)、途中で明らかになります。
篭手切江は、今回の事態への対処について、異なる見解を持つ明石との衝突を経ながらも、”先輩”をなんとかして救いたいという思いを抱き続け、クライマックスのシーンではそれを実現させようと試みます。
秀康の目を覚まさせよう、操られている状態から解放しようとする上で、その原因となっている存在=先輩の刀を折るのではなく、あくまでも語りかけて阻止しようとする、という手段を選ぶのです。

決意を固めた篭手切江がその刀を握ると、刀は途端に暴れるように動き出し、篭手切江の全身を振り回しはじめます。同時に舞台上には陰のような存在がまろびでて来ますが、その場にいる誰にも、その姿は映っていないように見えます。
緊張感のみなぎる表情で見守る刀剣男士たちに、必死で「大丈夫です」と叫ぶ篭手切江。「これは僕が向き合わなくちゃいけないことなんです!」と覚悟を決めている彼は、「思い出してください、先輩!」と懸命に呼びかけます。
その篭手切江の声に、「お前は…誰だ」と応じる様子を見せる陰。
「僕です、篭手切江です!」
「篭手切江…?」
その声に、何かを呼び覚まされたのか、”先輩”は再び激しく蠢くように動き始めます。
それに再び操られた状態になり、体を引きずられるようにして動く秀康。
二人はここで、とある歌を歌います。

◆「先輩」と夢

この場面で、”先輩”と秀康の二人によって歌われる歌は、「鬼哭啾啾」というタイトルであることが後日明かされました。
「しゅう しゅう」という音は、作品の冒頭に歌われる秀康の歌の中でも何度も繰り返されるのですが、「きこくしゅうしゅう」という単語自体、私は観劇の間では聞き取れなかったし、そもそもこの言葉の意味も知りませんでした。
でもただ、この音を聞いて、「ああ、哀しくて泣いているんだな」っていうことは、見ていて自然と伝わってきていました。
声と音の響きに、あまりにも哀切が満ちていたから。

  • 鬼哭啾啾(きこく-しゅうしゅう)

浮かばれない霊魂の泣き声がもの哀しく凄い感じであるさまを表す語。

つまりおそらく、”先輩”、そして”先輩”に感応した秀康にとっての夢とは、②の意味の存在だったのでしょう。

②はかない、頼みがたいもののたとえ。夢幻。


決して手の届かないものとしての「夢」。
それを望む切なる思いが、叶えられないことへの悔しさが、秀康と”先輩”を結びつけてしまう端緒となってしまった。

描かれていない話なのでこれは完璧に想像でしかありませんし、史実も一切無視したものとして聞いてほしいのですが、
"先輩"は、まるでたらい回しのように3つの家を行き来させられた自分の主=秀康の不運と呼ぶべき状況に、なにか憤りのような悔しさを「モノ」なりに感じていたのかもしれません。
もしくは、”先輩”には過去にそのような不遇の目に遭った別な持ち主がおり、その記憶を保持した状態で秀康に出会ったため、秀康の状況にその悔しさを増幅させていくに至った…など、いろんな可能性が考えられるな、と思いました。*1

秀康は、その力を誰よりも強く示さねばならない/示すことのできたはずの天下人の子として生まれたにも関わらず、いつも天下とは縁遠い場所に追いやられてきました。
そんな彼がその手に<刀>を握るとき、いったい何を思っていたのか。
誇れるはずの生まれ、華々しさを伴うはずの血筋。
でもそれ故に、父は幼い自分を無下に遠ざけ、さらには敬愛してやまない兄の命まで奪った。
武士にとって、常に傍らにあるもの。それが刀。武人の誉である刀を手にしながら、秀康の胸中に渦巻くのは、怒りや悲しみ。
思うようにならないことばかりが起きる時間の中で、秀康にとって「夢」とは叶えるためのものとしてではなく、儚く消えるものとして、徐々に位置付けられていったのかもしれません。
そしてその感情が「モノ=先輩」に宿る思いと、感応してしまったのでしょう。

◆刀も人も、夢を見る。それは、そこに「心」があるから

ここまで見てきたとおり、葵咲本紀の物語においては、本当に様々な角度から「夢」というものが描かれ、語られていました。

「夢を叶える」という行為自体は、輝かしく喜ばれるべきものとして認識されることが、一般的には多いように思います。
しかし同時に、その背景には、たくさんの「叶えられなかった夢」も存在しているのが事実です。

誰かの眩しい夢の陰で、ひっそり泡と消えた己の夢を、じっと抱いたままの人もいる。
かつて描いた夢について「あれはまさに”夢”だったんだ、現実はそんな甘いものじゃない」と、諦めたような思いで日々を過ごす人もいる。
また更に、たとえ夢を叶えることができても、その過程で様々に苦しい思いを経験している人だっている。
もしかしたら、夢を達成したいという強い願いは、いつのまにか呪いのように働いてしまうことだってありえます。


そんなふうに様々な思いや変化を人にもたらす「夢」。
人が夢を得て、自身の中に思い描いたり、それに向かって努力をしたりできるのは、人に「心」があるから。
そして、その心は、人の身を得た刀剣男士にも等しく存在するのです。


刀も人も、夢を見る。
わたしが今回葵咲本紀を見ていて最終的に感じたのは、そんなことでした。


篭手切江が微笑みながら<とくん、とくん>と歌う時、彼は自分の胸元にそっと手を当てています。
今は血の通った体を持つ篭手切江。
だからこそ、彼は「歌って踊れる付喪神になる」という夢を抱き、それに向かって努力をすることができる。
夢を、叶える対象として、自分の力で追い求めることができる。

そして、「その篭手、もらいます!」と叫ぶ声があり、握ることのできる手があるから、
誰かを思い、手を差し伸べたいと願う心があるから、
篭手切江は、任務の中で”先輩”を救うことができた。


かつてはモノとして人々の傍らにあり、彼らの喜びや悲しみ、迷いや希望を受け止め続けてきた刀剣男士たち。
人の身を得た彼らは、今はかつての主たちと同じように、夢を語り、夢に惑う。時に苦しく翻弄される。でも「ともに」夢を叶えようとすることもできる。
そのことが持つ力というか、刀剣男士たちが「生きている」という事実そのものを、わたしは「夢」というモチーフによって、葵咲本紀に語りかけられたような気持ちになりました。


「天下は…夢か」
そう篭手切江に問いかけた瞬間、”先輩”の姿は、他の刀剣男士たちの目にも映る存在として初めて姿を表します。
刀剣男士として顕現しているわけではない、まだ混沌とした意識のみの、未分化の存在の先輩にも、宿る思いが確かに息づいている。

刀剣男士と<そうでないもの>との違いはいったい何なのか。何によって彼らは区別され得るのか。
明石が今回の出陣の途中で篭手切江に真正面から突きつけたように、その境目は、おそらくとても曖昧でもあります。
それでも、自らの意志を持ち、他の誰かに寄り添える彼らだからこそ、<刀剣男士>として本丸の仲間たちと、歩むことができるのでしょう。
ときに、かつての主が抱いた夢を、痛みとして心に映しながら。



絶対に書きたかったこの「夢」の話なんですが、長期間寝かせた割に、ぜんぜんうまく書けませんでした!難しいよ~…!
葵咲本紀、書けば書くほど言葉にしたいことが増えるというか、触れたい場面が増えていく。それに追いつけることがいつまで経ってもない気がする。
いったん葵咲本紀についての記事はこれでおしまいかな?見ながら沢山書いておいて本当によかった。
読みにくかったと思いますが読んでくださった方ありがとうございました!



▼「葵咲本紀」についてのその他感想記事はこちらにあります
anagmaram.hatenablog.com

*1:なお、秀康を惑わせ、操る原動力となるこの存在が具体的にはいったいどの刀であるのか、葵咲本紀の中では明らかにされません。 作品展開のバランスを考えても、わたしは「この刀の正体が具体的には何なのか」については、あまり重要なポイントではないのかな…?という気がしています。 説明が難しいのですが、ええと、誰でもいい・どうでもいい、ということを言いたいのではなくって…どちらかというと、史実がどうかということより、そこに託された物語性のほうがより大事なのかな?という気がするんです。 結城秀康の元に、もしかしたら何らかの形で篭手切江と縁の深い刀があったこともあるかもしれない、くらいのニュアンスで受け取っておければ十分なのかな…?と。(歴史に詳しい人であれば簡単にわかる内容なのかもしれませんが!)

ミュージカル「エリザベート」2020キャスト発表の衝撃 ~推しは来年、ルキーニになる~

その事実の発表からもう12時間以上が経っているのだけど、まだちょっとどうしたらいいか、わからないでいる。

わたしは俳優の黒羽麻璃央くんを応援している一介のおたくです。
そんな推しであるところのまりおくんが、このたび、ミュージカル「エリザベート」にご出演される運びになりました。
…ルイジ・ルキーニ役で。
www.tohostage.com


ちょっとまって
ほんとに。ちょっとまって。
以降、全然まとまらないのですが、今回の衝撃的すぎる事実の受け止めが追いつかない叫びをお届けします…。




◆覚悟はしていた。でも、覚悟の「中身」が追いついてなかった

エリザ2020について…正直なところ、わたしはまりおくん、出る可能性が限りなく高い、数値で言うなら80%は超えてる、と思っていたんです。
なので、11月12日にエリザ2020の制作発表がある、そこでキャストも発表になる、と知ったとき、ああXデーはここだ。わたしの2020年はここで一回命運が決まる、という覚悟をしておりました…。なんなら制作発表は抽選申し込んでました。当然落ちましたが!

なんで出る可能性がある、と思っていたのか。以下は数ヶ月におよぶキャスト深読みおたくの妄想の歴史です。

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  • ①今年7月のバースデーイベントでのまりおくん。あまりにもはっきり「帝劇に出たいです」とおっしゃった。あわせて、イベント冒頭で「26歳は、楽屋のれんをかけられるような、一人楽屋を持てるような大きな役を舞台でやりたいです」ってめちゃくちゃはっきり言っていた。
    • ふだんあまり将来の仕事を匂わせたりするタイプじゃないまりおくん。この明確すぎる発言を聞いたとき、ここまで明言するということは、2020年にきっと大きめのミュージカルが決まっているんだな、という予測がまず立った。
  • ②同じくバースデーイベントにて、ロミジュリで共演した古川雄大くんの話になったとき「ツイッターで言ってないからわからなかったと思うんですけど、エリザ見に行きましたよ。」と、ものすごくさらっと言い放つ。
    • 見にいってほしすぎたけど、行ってたんかい!…いや、行ったならその時なんで言わんのじゃい!普通に共演の縁でよかろ!?言わんその理由を深読みするぞ!?となる。
  • ③その後、エリザ2020が公演されることが発表に。一気に心のそわそわ指数が爆上がりする。
    • エリザ2019の大千秋楽に入っていた友人から、演出の小池先生が「2020のキャストはびっくり箱」とカテコで発言なさっていたことを聞かされる。そのびっくり箱にもしや推しが…?と思い始める。
  • ④前後して、エリザ2019でルドルフを演じていた京本大我くんの所属するSixTONESのメジャーデビューが発表になる。さらに2020年5月に、別なミュージカルで、京本くんは主役を務めることも発表になる。
    • ということは…さすがに2020は京本くんルドルフ、卒業せざるを得ないのでは?つまり、ルドルフが1枠空くのでは…?と思い始める。
  • ⑤その後9月になり、同じくエリザ2019でルドルフを演じていた木村達成くんが、2020年の別な東宝ミュージカルに出演することも発表になる。
    • 地方公演が重なっている以上、たつなりくん、出れたとして帝劇だけでは?ルドルフ、トリプルキャストの可能性があるのでは…?とほぼ確信しだす。
  • ⑥今月に入って、まりおくんのインスタのストーリーに三浦涼介くんとのツーショットが突然あがる。
    • ふたりはロミジュリで共演した仲、だけれども。だけれども。。なんでこの時期に一緒におるん…それって…と最後のピースを渡された気持ちになる。

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こんな感じで、まりおくんの隠されてる来年の舞台のお仕事はきっとエリザに違いない…りょんくんたつなりくんとトリプルでルドをやるんだ、たつなりくんが出られない地方を主に担当するんだ…という勝手な予想を、わたしは一人で静かにしていたんですね。時間をかけて、じっくりと覚悟を、決めていたんですね。

そして迎えた、11月12日。
12時にわたしのもとにやってきた途方も無い事実。

推し、ルキーニでした


いや、ちょっと、ええ?
ルキーニ?ルキーニってあのルキーニ…????


あのね、ルキーニはね、
覚悟してなかったよ!!!!!!!
いやほんと、繰り返しになるけど!?
わたし完全にルドルフのつもりの覚悟をしていたんです???よ???
だって!!!エリザの若手デビューゆうたらルドルフやんか!!!よしおさんもゆうたさんもルドルフから始めたやんか!!???ねえ!!??普通に考えてそうおもうやろ!!??順当にいったらルドルフやんけ!!???!
この気持ち、わかっていただけますか!!???
すみません!!推し、ルキーニでした!!!!!!!(だれに謝っているんだ)


◆ロミジュリのマーキューシオがもたらしたもの

すべてはここ。ほんとうに、これに尽きる。。。
ロミジュリがまりおくんにもたらしたもの、本当に、大きすぎる。
anagmaram.hatenablog.com


私が数ヶ月前、ただの夢見るおたくの妄想で「まりおくんに帝劇に出てほしいなぁ。エリザで見れたらいいのに」といったトーンのぼんやりとしたつぶやきをぽつぽつしていたとき、通りすがりの方から「麻璃央くんならルキーニがありえると思います」ってリプライをいただいたことがありまして。
そのとき「いやー!?そんな!?そんな大きな役は流石に!?」と思いつつ、でも「…ありえるな…」とは、正直、ちょっとよぎった。
なぜかというと、小池先生、まりおくんのマキュの演技を、すごく買ってくださってることがわかってたので。。
狂っているタイプの役、という意味だと小池先生の理想としてはルキーニなのかもしれないな…と。
といいつつ「いや~~~まっさかぁ~~!!!」と、自分の中ではうっすらとした可能性だけをいちおう残しつつも、さすがにないだろう、という方向に落ち着かせていた、のだけど。。


小池先生がまりおくんのマキュを気に入ってくださってるな、と思った理由もいくつかありまして。補完する事実を集めて構成するのがすきなおたくなのでこうなる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • ①ヅカに知見のあるかたとロミジュリ2019を見に行ったときのこと。観劇後に感想戦をやっているとき、その方がまりおくんのマキュについて「あれはものすごく小池先生の好きなタイプのマキュ、間違いないよ」と力強くおっしゃった。とにかく好み、そうとしか言えない、と。
    • 当然その時点で小池先生の好みに関しての見識を持ち合わせないわたしは「ほほお、そうなんですね…!きっと稽古場で忠実に演出のご指導についていったんだな!えらいな!」と思っていた。しかし。
  • ②またしてもバースデーイベント。ロミジュリについてのファンからの質問で、きっとすごく難しいことやつらいことも多かったと思うんですけどどうやって乗り越えましたか?といった内容に対してのまりおくんの返しが我々の予想を超えていた。当日の記憶のほうが正確なのでレポツイート貼ります。
    • これ、本当にひっくり返ったんですよね。お芝居が通用したと語る推し。ものすごく厳しいことで有名な小池先生から??と、わたしは仙台の地で完全に宇宙猫顔になっていた。
  • ③それを踏まえての、ロミジュリ2019パンフで小池先生がまりおくんによせた紹介コメントが本当にしびれる。過去にもブログで紹介したことがあるのですが、再び引用します。このやばさを全人類かんじてほしい。

マーキューシオの黒羽麻璃央2.5次元スターのミュージカル初登場だが、見かけに寄らず(失礼)大変ユニークで面白い。未知と無限を秘めている。

  • 未知と無限…??????(宇宙猫顔ふたたび)

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…このたびのキャスティング、恐れ入りました。本当に。まじでビビり倒している。
だってさぁ!??ルドルフ、まさかのりょんくんシングルキャストなんですよ!?
それに対してルキーニが突然のトリプルって、いやそこ、バランス!!?なるやん!!?黒羽麻璃央の名前があったら順当にいったらやっぱどう考えてもルドルフやろ!!??ってなるやん…?

それだけ、小池先生にとって、まりおくんは「ルキーニ」だったんだな…と思えて…ちょっとほんと、どうしたらいいのか…
おそらくは今のまりおくんの実力に、可能性をたっぷりとプラスして見て頂いてるのだろうということをひりひりと感じて、やっぱりどうしたらいいのかわからない、今この感情を言い表す語彙が見つかりません。
あまりにも「未知と無限」を体現させすぎてるよ、小池先生。とんだびっくり箱ですよ。ありがとう…ございます……(しにそうになってる)

◆9時間後にやってきた、喜びの感情

制作発表は12時までの開催でした。東宝の公式ツイートより早く、参加していた方のレポにより、キャスト名がぞくぞくとツイッター上に上がり始める。
わたしの勤務先は13時からがお昼休みなので、12時台はふつうに仕事をしていたんですけど、まぁ当然仕事にならない。意識2%くらいで仕事してた。残りの98%はどっかいった。でもそのわりには勤労したと思う。がんばった…。
友人からの「ねえ、まりお ルキーニだって」という、これは死の宣告か?心臓とまるんちゃうか?なるようなメッセージをチラ見したけど、仕事中なので返事はできない。そうこうしている間にも、スマホにはいろんな人からLINEがばんばか入り(「ねえ生きてる?」「おめでとうございます!」「ルキーニって!」など様々なあたたかいメッセージを頂きました)、お昼休みになってから改めて向き合ったけど、まぁ全っ然、向き合えなくて。
ご飯を無理やりたべたけど、正直食欲なんて全然ないし。
コメント動画来てるのは知ってたけど、見たら号泣するから見れないし。
キャストビジュアル見ただけでそもそも涙出てくるし。なんだあの美しさ。いまだかつてあんな美しいにふりきったルキーニいたか!!?(キレだす)


わたしそもそも、エリザベート、大好きな作品なんです……。
anagmaram.hatenablog.com
初めて見たのは2015年。その後2016年版も観劇し、今年上演された2019年版の感想について上記のエントリーを書きました。
これを書いた後も追加で2回見に行って、今年はトータル3回見たんですけど…
本当に好き。エリザ。いやみんな好きだと思うけど。こんなにぶっ刺さる演目があることが嬉しい、って思うほどに好きだなと打ちのめされるように痛感した今年、とくに初回はオペラ越しに引くほど泣きました。


そんな大好きな作品に、推しが出演なさる。帝劇デビューの演目として。
ルイジ・ルキーニで。
いやほんと、意味がわからないとしか…

ルキーニはいわゆる狂言回しを担う役。出番が多いとかいうレベルじゃない。まじで一幕も二幕もずっといる。
なんなら、パンフレットでの掲載順は一番最後です。シシィ、トートから始まるキャスト紹介の、一番最後がルキーニ役なの。それだけ番手が大きい役なの。
今年演じてらっしゃったのは、成河さんと山崎育三郎さんだよ…???
それを、若干26歳で、グランドミュージカル2作目のまりおくんが演じるということ…どうかんがえても、大大大抜擢としか言えない。もちろん史上最年少です。育三郎さん、2015年のとき29歳/尾上さんは30歳なので。というかそもそも2000年以降の東宝版で演じてきた人、今年までまだ4人しかいなかったんだよ…。ルドルフが若手の登竜門と位置付けられて2019年までで11人を数えるのに対し、2019年時点でまだ4人しか演じてこなかった役…。
まりおくんが、帝劇で、あのキッチュを歌うのか…ミルクを歌うのか…「インッペリアルシアター!!!」ってがなるのか…
いやちょっとほんと…どうしたらいいの…???


帰ってから、職場にいる間はみられなかったまりおくんのコメント動画を見た。
うごけなくなって、コートを着たままでリビングでぼたぼたに泣いた。


嬉しい、とじわじわ思えるようになったのは、21時を過ぎてからでした。
発表からは、とうに9時間が経過していた。

◆夢に双方向性があるかもしれない、そんなことを思えた瞬間

今年の2月24日に、ロミジュリ初日を見たとき。
その堂々とした存在感と今後への伸びしろの在り方に、まりおくんは近い将来絶対に帝劇に立てる、とわたしは確信しました。
いつかそんな姿を見たいと思った。でもその時は、まりおくんの今後の仕事はやはり映像シフトが確定しているように見えて、本人が舞台へどれくらい気持ちをもっていらっしゃるかが、まだこちらには伝わっていなかった。
なので、迷いながら、でもどうしても伝えたくて、4月梅芸での千秋楽で出したおたよりの最後に、こう書いた。


「まりおくん、いつか帝劇につれていってください!帝劇に立っているまりおくんを見てみたいです。いろんなお仕事があってやりたいことも沢山あると思うので、もしまりおくんの心の中にも同じ目標があるなら、それが叶うように全力で応援します。」


そう勝手に思っていたこちらの夢が、まりおくんの目標でもあるって教えてもらえた、今年7月のバースデーイベント。
その夢、いつか絶対に叶うよ、近い将来にその姿を見せてね!と思っていたところに今回届いた、予想を遥かに超えた形での帝劇デビューのお知らせ。


まりおくん、エリザベートにまさかのルイジ・ルキーニ役でのご出演、本当に本当に、おめでとうございます。
帝劇に立つ夢、叶いますね。
やっぱりどうしたらいいかわからないです。嬉しいんだけど嬉しすぎて、感情が追いついてきません。ただやたらと泣けてきます。



ファンでいられること、本当にものすごくしあわせに思います。
まりおくん、ありがとう。来年の春から夏の飛躍、心の底から楽しみにしています。
夢が叶う瞬間を、またひとつ一緒に経験させてもらえるその日に向けて、わたしも自分の生活をがんばります!
まりおくんだいすき!!!!!

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左は2015年版、右は2019年版パンフ。ここに来年推しの名前が載ったもう一冊が加わります

刀ミュ 葵咲本紀 全体を通しての感想その1 ~それは奇跡という名のすていじ~

葵咲本紀、全74公演、本当にお疲れさまでした…!(追記:予定されていた公演数になります。中止になった5公演を除くと69公演です)
今回、簡単にはまとめられない、色んな人の色んな思いが詰まった公演になったなぁ…と噛み締めています。
個人的にもものすごく、やばい思い入れがだだ漏れてしまう公演になったので、おそらく歌合が始まる限界までブログを書き続けるのですが、来月に入るとなんと半ばまでインターネットを失うので(引っ越しで…)今のうちに書けることを好きなだけ書いておきます!

今回は、ミュージカル『刀剣乱舞』の世界に「葵咲本紀」がもたらしたものについて、個人的に考えたことを書いてみたいと思います。(楽もおわったのであれですが、中身に触れるので当然ネタバレです。)




◆演出における新しい挑戦。より「ミュージカル」に近づいた本作

まずはこの話から!
初日に見たときに本当にしびれたポイントがここでした。

舞台上での見せ方が、より「ミュージカル」に近づいた、いってみればグランドミュージカルの文脈を意識したものになっていましたよね。迫力の出し方というか、ステージングの手法が大きく変わったことを感じました。

その場面を、いくつか具体的に箇条書きにしてみます。

  • ①篭手切江のソロ
    • 夢のすていじを思い浮かべて、想像の中で歌う篭手切江の後ろに、多数のバックダンサーが登場。それこそ、あたかも何か別のミュージカルが始まったかと思わせるような明るいナンバーが披露される。少しメタっぽさも感じる演出。
  • ②「刀剣乱舞」(メインテーマ)
    • 刀剣男士と時間遡行軍が集団で対になる演出。出だしサビ後、Aメロ前の間奏では、下手と上手とで音楽に合わせ刀剣男士と時間遡行軍がそれぞれ異なる振り付けを踊り、対決している様子が打ち出される。
    • 大サビ前の間奏のラスト、ギターのフレーズに合わせて刀剣男士が高く刀を差し上げる+そこに刃がぶつかり合う音響効果がぴったりと重ねられる。
  • 結城秀康が家康への怨みを歌う曲
    • 秀康の背後に、彼が所持している刀から呼び起こされたと思われる黒い陰のような存在が登場する。陰は、秀康に姿が見えているようないないような曖昧な距離感で、秀康に纏わりつくように踊る。
    • その後、舞台中央に吊り下がっていたボードが引き上げられると、そこには時間遡行軍が現れる。彼らもまた音楽に合わせて振り付けを蠢くように踊る。
  • 鶴丸の作戦曲
    • 歌の中に時折セリフをはさみ、状況を説明していく。鶴丸の作戦を聞いている男士たち+歴史上の人物たちも、その場にいる全員が情景に合わせてコミカルに動き回る。
  • ⑤篭手切江が「先輩」の目を覚まさせようとする曲
    • 懸命に「先輩」の刀を握りしめ、僕のことを思い出してくださいと語りかける篭手切江。彼をメインとして、別な歌詞で掛け合うように男士たちの声が重なる。途中、結城秀康と「先輩」による掛け合いも挟まれる。


…私の中で勝手に「うわぁ、ミュージカルだ~!?」って感じたポイントは主にこのあたりでした。

まず、初日に見てとくに驚いたのは③でしたね。
蠢くように低い姿勢で舞台後方から躍り出てきた黒い陰のような姿を見た時、とっさに「死か!?」って思ったんですよ。
わたしが思い浮かべた「死」とは、ミュージカル「ロミオ&ジュリエット」で、とても技量の高いダンサーの方によって演じられる、概念としての「死」を表す役のことです。
ロミジュリの劇中で、「死」は登場人物たちの目には見えない存在として描かれます。なにか不穏な空気が漂っていることだけを感じさせる存在として、歌うロミオの周囲に絡みつくように踊るその姿は本当にゾクリとさせられ、また大変美しくもあります。
今回、結城秀康に対する「先輩」の在り方が、まさにこれを意識したものだったな…と思いました。
秀康は「先輩」と呼応し合うように動くけれど、姿が見えているとも言い切れず、しかし存在は確かに感じている。
「ものに宿る思い」に感応してしまった秀康が、自らの意志を気づかぬうちに乗っ取られ、操られていることを示す表現として、とても効果的なものだったと思います。
「先輩」のメイク、血の気が一切なくて、目の周りの黒さや土気色の唇が本当に不気味な見た目で。手を差し伸べるたびに、手首からレースが生気なくだらりと垂れ下がって…視覚効果としてのインパクトにはすごいものがありました。
あとは階段に落ちる「先輩」の長い影もまた、ロミジュリにおける「死」の演出を想起させるものでした。

この件については、たぶんあえての「わかりやすさ」を残しているのかな?って思ったんです。
あの演出を見た瞬間、超有名ミュージカルであるロミジュリを、ぱっと意識する人はそこそこな人数にのぼるはず。「そうですよ、今回はそういう文脈で描いているんですよ、そういう手法をとっていきますよ!」という、明確な受け手側に向けたメッセージが込められていたようにも感じました。
新しいことやっていくから、ついてきてね!というような。


他に大きな変化だったなぁと思ったのは、メインテーマの「刀剣乱舞」でした。
これまではセンターの大階段に、刀剣男士たちが六角形を描くような形で陣形をとり、揃って同じ振り付けをしながら歌い始めるのがお決まりでした。
その時点では舞台上には時間遡行軍は不在、あくまでも刀剣男士のみ。出だしのサビが終わって間奏になってから一気にうわっと遡行軍が現れて、戦い始めてAメロへ転換…という形式だったと思います。

ですが今回は、歌い出しの時点からそこかしこに遡行軍がいる状態。
最初のサビは、全員がセット上ではなく舞台の床の上=つまり同じ高さに立ち、各々が目の前の遡行軍を斬り付けているところからが始まります。ゆってみればユニゾンではなく、バラバラな動きから始まるんですよ。
その後、Aメロ前の間奏では下手に刀剣男士、上手寄りセンターに時間遡行軍がそれぞれかたまり、集団として対峙する形になります。そしてその状態で、それぞれの集団が同じ振り付けを、客席を向かずにお互いを睨み合った形で踊るんです。


作品シリーズを連綿と貫くメイン曲で、ここまでの5作品(※阿津賀志巴里を含めれば6作品)で続けてきた形とは全く違うタイプの表現をぶつけてきたところに、刀ミュが新しい扉を開こうとしている明確な意志を感じました。
みほとせの再演を挟んで、約1年半ぶりとなった待望の完全新作。
意気込みとしては「第二章」に近しいものがあるのではないか、と思えて、その心意気にめちゃくちゃ痺れました。
最初はいつものようなわかりやすいカタルシスがないような気がして、8月の東京公演の時点では正直個人的にはちょっと物足りなかったんですが、公演最終盤の凱旋公演で見たときには迫力が段違いに増していたのも感慨深かったです…!め、めちゃくちゃかっこよくなってる…!こういうことだったんだ!って腑に落ちるような思いになりました。
カンパニーとしての総合力がぐんと引き上がった時に、より見応えを増す演出だったんだなぁと唸らされて、高みを目指していることがビシバシと伝わってきました。


思えば、2016年の阿津賀志山異聞で「おぼえている」を聞いたとき、あ~本当はミュージカルがやりたいんだろうな、って思ったんですよね。
「おぼえている」は、時間遡行軍側に乗っ取られ、死んだあとのはずの時間を生き続ける義経公を、今剣がかばおうとしてしまうシーンで歌われるクライマックスの曲です。
2年後の阿津賀志巴里では説得力にあふれる見ごたえのあるシーンに生まれ変わっていましたが、2016年の時点では、正直まだ少しちぐはぐだな、やりたいことに追いついていないのかな、という感じが、見ている側からは若干していました。
また、次の幕末天狼傳に関して言うと、歌としての難易度、正直一番高いのでは?と思わざるを得ない、やたら難しめの虎徹兄弟の曲があったりもして。当時はまだ、方向性を模索している最中だったんだろうなと。
それ以降の公演では、わかりやすい「ミュージカル」をやろうとする曲は、ぐっと減ったように思っていました。歌によってストーリーを進める側面は弱まり、あくまでも刀剣男士の内面を表す機能としての歌が残ったというか。
でも今回、そこに再度、テコ入れが入ったように思えたのです。
表現の幅を広げるなら今だ、今ならきっとできる。そう判断されての、完全新作での大胆な演出の転換だったのではないかな、そんなことを感じました。

◆刀ミュにおける新人4人の中に、太田基裕さんとspiさんが配置された意義

葵咲本紀における刀剣男士キャスト6人のうち、4人が刀ミュ初登場。俳優としてのキャリアもまだかなりな若手といって差し支えない子が、とても多い今作でした。
その中に、刀ミュ本公演としては堂々の3公演目となる太田基裕さんとspiさん。お二人は年齢としても、俳優としてのキャリアも、他の4名に比べるとやはりぐんと先輩格に当たります。


そもそもが、みほとせの物語をそのまま地続きのものとして描くものでもある今作、物語の推進力としてお二人が担った役割は、本当に計り知れないものがあると思います。

家康が天下統一を成し遂げる史実通りの生涯を全うできるようにサポートする役割を任務として負っていた、みほとせの6振り。彼らが成り代わっている徳川家の家臣の生涯を忠実に再現するため、今ではうちの2振りだけが家康の元に残っている…という設定で、今回の物語は幕を開けます。
そこでは、みほとせの中では描かれなかった、任務の陰で村正と蜻蛉切が抱えていた様々な思いが明らかにされます。
家康の長男・信康の死への思いを迸らせる村正であったり、縁のある刀同士、己の役割を果たしあえばよいと村正に言われてはっとなる蜻蛉切であったり…。
つまり、村正と蜻蛉切の二振りには、今回の物語を成り立たせる上での説得力を明確に打ち出すという重要な役割が、かかっていたわけです。
しかしそこに関してはもう、お二人はこちらからは言葉も出ないくらいに、圧倒的な表現力を見せつけてくれました。
特に、検非違使に立ち向かって傷ついた村正が息を吹き返し、蜻蛉切と二人で会話する中盤のシーンは、公演によって舞台上で繰り広げられる表現が驚くほどに異なっていました。
役どころへの理解がとことんまで深まっているからこそだと思うんですが、そこまで表現の方向性に幅をもたせてもなお成立させてしまえるの!?って驚嘆させられていました。
あぁ、二人は本当に役を生きているんだな、今その場で感情が動くとおりに演じても、力量があるとわかっているからお互いに受け止めあえて、完璧なキャッチボールができるんだろうな…と思わされることしきりでした。こちらへ届くセリフの色合いが、日によって本当に違っていたので…!


しかし、お二人が担っていた役割は、それだけではなかったと思うんです。
刀ミュとしても新しい試みをふんだんに盛り込んだものとなっていた本作。にも関わらず、キャストの半分以上を新人が占めるという状況、それってかなり挑戦的すぎるのでは…!?と思うのですが、それを叶えることができた背景に、やっぱりお二人の存在があると思うんですよね。
東京公演は、明確にそれが感じられました。歌の面でもお芝居の面でも、とてつもなく大きな包容力のある土台として、お二人がしっかりと影から全体を支えている雰囲気がありました。


これは勝手な想像なんだけれど、制作陣としては、おそらくは次世代の育成というか…刀ミュという世界が続いていく上で必要なエッセンス、その場に生きた人にしかわからないものを、「役者の生き様としてまるごと新しいメンバーたちに伝えてほしい」っていうような期待が、あったのではないかな。
生身の役者が、公演ごとにその時間を懸命に生き、お客さんに表現を届ける、それが舞台。
演じる側の人達の中で、一緒に作品をやらなければ伝わらない本質的なことって、きっとこちらからは想像もつかないくらい、たくさんあるんだと思うんです。
「それを伝えてやってくれ」っていう、これからの刀ミュに、刀ミュイズムというか、ある種のバトンを繋いでほしい…というような制作サイドの意志を、今回勝手にですがものすごく感じました。

そしてそれを実際のところ、まるでスポンジのようにぐんぐんと吸収していく新人キャストの皆さん…!
凱旋公演では、ここまで総合力が伸びるものなのか?と驚くほど、本当に全員が、作品そのものがよくなっていました。
劇場のサイズが大きくなったことも関係あると思うのだけど、伝わってくる情報量の多さ・深さに、本当に驚きましたし、感動しました。まじのまじで、全員がよくなっていたんだよ…!


ロングランだし、どう考えたって楽な時間ではなかったと思う。体力的にもメンタル的にも厳しい局面は多々あったはずで。途中、体調事由による役者さんの降板という、とても辛いアクシデントもありましたし、通常の舞台公演に比しても、葵咲本紀は困難な場面がものすごく多い作品だったと言わざるを得ないと思うんです。
だけれど、わたしが毎回客席から見せてもらえたのは、ただただ見応えに溢れた、心揺さぶられる素晴らしいステージでした。
要さんの降板、そしてたった4日後の、臨王さんの急遽のご出演。
きっと公演に関わる人も、我々お客さん側も、皆の心が動揺していたあの時間に、もっくんが穏やかに、あくまでも端的にツイートしてくれた冷静な言葉の数々は、本当にかっこよかった。
普段の印象としては、どちらかというと必要なことは背中で語るタイプだったもっくんが、あの期間に座長として、言うべきと決めた言葉を明確に外に向かって発信していらっしゃる様子に、ただ胸を打たれました。そんな安っぽい言葉で語るのが申し訳ないくらいに、かっこよかった。

今回の事で、作品、俳優、制作陣、お客様にとってポジティブなものになることを願います これからのミュージカル刀剣乱舞にとって。

公演再開の日にもっくんがツイートしていたこの言葉どおり、葵咲本紀の幕の降ろし方は、本当に心の底からうつくしかったです。
改めて、関わったすべての方に、ありがとうと感謝の気持ちをお伝えしたくなりました。

◆「それは奇跡という名のすていじ」「あなたはその目撃者」

これは個人的に、エモみにやられてしまった思い入れポイントのひとつ。
篭手切くんが歌う夢の歌、本当に大好きだったんですよね…。
なんだか、舞台作品である刀ミュそのものを映しているナンバーのようにも思えて。

幕が上がれば、舞台を見上げれば、きっとそこでは何かが始まる。
胸が踊るような歌詞そのものの魅力ももちろんなんですけど、ものすごく嬉しかったのは、この曲で客席から手拍子が起きるようになったことでした。
友人に聞いたところによると、北九州公演からだったそうです。凱旋は初日は控えめでしたが、それでも劇場じゅうに手拍子がじわじわとひろがっていくのは、とても心震える体験でした。
何より、手拍子を聞いた瞬間の篭手切くんの、顔中に広がる笑顔、ぱっと輝くようなあの表情が忘れられなくて。
あの時間は、篭手切くんが夢見ている、まだまぼろしのすていじ。
でもその夢を、あたかも本物であるかのように、ほんのひととき観客として「一緒に」作り出すことができる。その喜びを痛いほどに感じました。
舞台っていいな、今目の前で繰り広げられるこの輝きを、ずっとずっと覚えていたい。この時間を浴びたことを忘れずにいたい。
「いっくよー!」って笑顔で歌う篭手切くんを見ながらほぼ毎回泣けてしまっていたのは、そんな気持ちが勝手にこみ上げてきてしまうから。

葵咲本紀の<目撃者>にさせてもらえたこと、本当に幸せでした!



ここまで勢いで叩きつけたけど、果たしてまとまった、と言えるのだろうか…?
新人だらけのカンパニーに対して、過去の文脈を複雑に織り込んだ脚本×色々とチャレンジングな演出をぶつけてくるの、本当によう思い切ったな…って初日は正直びびってたんですが、ちゃんとその試みが大きく実を結んだことを、千秋楽まで見届けて今回深く実感しました。

7月の双騎出陣に引き続き、刀ミュはいつだって「現状維持」では満足しないんだってことを見せつけられたような気持ちです。
間違いなく、これからの刀ミュにとっての新しい扉が、葵咲本紀によってまたひとつ開かれたと思います。
この流れで来月の歌合…いったい何がどうなっちゃうんでしょうね…!?(毎年恒例になってきた年末への怯え)


現時点で書きたくて書けてないのは、今作でテーマとして描かれていたとある言葉について、です!
こっちは11月になるかな~!



▼「葵咲本紀」についてのその他感想記事はこちらにあります
anagmaram.hatenablog.com

【ネタバレあり】刀ミュ 葵咲本紀 凱旋公演の感想その2(三日月宗近という機能について)

今これを書いているのは10月26日土曜の昼です。葵咲本紀…74公演が、もうあと4公演で終わってしまう。。
明日の夜には長かった公演に幕が下りるのかと思うと、もうすでに気持ちがクライマックスです。
前回のエントリーにも書きましたが、葵咲本紀の物語は本当に多面的で、どこに注目するかで受け取るものが大きく変わると思っています。
今回はわたしが葵咲本紀で一番叫びたいことを書きます。それが何なのか、タイトルにも入れられないんだ…!諸般の事情で情緒がいつも以上にめちゃくちゃな記事、テンションがジェットコースターです。あと連番にしたかったので「凱旋公演の感想」って書いたけどこれとくに凱旋関係ねーや!笑
本当は物語のメインテーマみたいなことを先に書こうとしてたんですが、着手したところ数日かかると判断したので、それは来月に改めて。以下当然ネタバレしているのでお気をつけを。
(※だいぶ後日に追記。公演当時、そのものズバリのタイトル避けていましたがもう1年半経つのでよかろうかと思い、タイトルかえました。※)





…わたしが一番したい話。
そりゃあもう、三日月宗近鶴丸国永の話に決まっている。お覚悟!(※ノーブレーキ宣言)

◆「それで?あいつはおとなしくしてるのか?」

ダメなんだって…今回ほんとダメなんだって…!!!

この鶴丸のセリフの中の、
「それで?あいつはおとなしくしてるのか?」のあいつ=三日月宗近だし、
その後のシーンで夜空に浮かぶ三日月を見上げながら笑って言う時の、
「やっぱり俺を一番退屈させないのは…君だ」の君=三日月宗近、なんですよね…。
お前何回見たんや、って話なんですが…この事実に向き合うと、見れば見るほどダメージが増幅されてしまって無理です!!!

本当に何度でも言う。わたしはつはものの三日月に心臓打ち抜かれたおたくなんだ。あの物語が好きすぎるし、あの中で描かれた三日月に魂持ってかれて帰ってこられなくなったんだ。あそこでまた一回人生が変わったんだ(=まりおくん推しになった発端はつはもの)。
そんなわたしが丸腰で葵咲本紀を見に行って食らったこの爆弾の威力、ちょっと想像してみてほしい。こっちの気持ちにもなってくれよ…!


刀ミュ本丸で、三日月宗近が行っていること。その全貌とも言えそうな内容が、今回葵咲本紀で明らかにされました。
「つはものどもがゆめのあと」で描かれた、衝撃的すぎたあの一連の行為…ひとりで歴史をさかのぼり、その時代に生きている歴史上の人物たちにその先に起こる出来事を教え、どう行動すべきかを伝えることによって、歴史を守ろうとしている試み。
その行為を知っているのは、つはものではおそらく髭切、小狐丸だけなのでは?という描かれ方だったんですが…今回の葵咲本紀で、思いっきりめちゃくちゃに知ってる人が、本丸にもう一振りいたことが判明してしまいました。その刀こそが、鶴丸国永…!


なんというかこの点、わたしにはほんとうに、納得感しかなかったんですよ。
というのも、始祖を同じくする三条の面々じゃたぶん、三日月にとっては親しすぎる存在なんですよね。
三日月本人も近すぎて心を語ることはできないし、三日月が何をしているのかを知った小狐丸は最初激昂してしまうし、でも最終的に「貴方がやっていることを、正しいとは思わない。でも、間違っているとも思わないことにしました」という距離のとり方に落ち着く。それ以上踏み込むことは、多分お互いにできないと思うのです。

しかし一方で。三条に縁を持つ五条の太刀であり、同じく平安時代から存する鶴丸には、三日月にどこかしら似た部分もおそらくは持ちながらも、流れを全く同一としているわけではないという、絶妙な距離感があります。
そんな彼だからこそ、本丸でただ一人、ある種対等に渡り合うような形で、三日月に相対することができるんじゃないか?…という描かれ方の、その説得力!


三日月宗近鶴丸国永。刀剣男士としての在り方、矜持みたいなものが全く異なっていそうでありつつ、どこかしらに通ずるなにかも兼ね備えていそうなこの二振り。刀ミュというひとつの作品シリーズ内において、美しいほどの対比構造が今回新たに打ち出されたな、と唸りました。
刀ミュの鶴丸、存在が事件すぎる。まさかこんな形で三日月とがっつり絡められるなんて全く思ってなかったので、本当に未だに受け止められない。どうしたらいいかわからない。かっこいいし。
主が今回の出陣の前に鶴丸に対して「貴方にしか頼めないのです」っていうのも、そりゃあそうよね、と思うもの。。
あの本丸においてのパワーバランスが見えたというか。三日月のことを止めるわけではないけれど、かといってそのままにしておくつもりもないし、それができる刀剣男士もいる、それが鶴丸国永だっていう明かされ方をしたことが、本当にもう、致命傷になりました!

◆「戦う刀」としての鶴丸国永

あとですね!個人的にめちゃくちゃな「いやちょっとまって」ポイントがあるんですが!
そもそもだけど鶴丸、主との対話シーンでいきなり「無垢な舞に飢えてるんだろ?」って言ってますけど、
じゃあ「無垢じゃない舞」を披露するのは誰…ってなったんですよね…なりません!?わたしはなる。
いや、そりゃ確かに、あの三日月宗近に無垢なんて言葉当てられないけど…ていうか待って!?鶴丸さん、あなたつまり、自認が<無垢>なんですか!!?(※「こいつは驚いた!」と言いながら椅子からすっ転ぶ様子)


いやでも、なんていうか…この「無垢」っていう言葉に詰まっているもの、わたしはすごく大きいなと思ってて。
なんだろうな、刀剣男士としてのあり方のシンプルさというか…いや、鶴丸にも内包しているものはもちろんあるんだけれど、深淵の覗き込み方が三日月とは全く違うスタンスなんだろうな、というようなことを感じるのです。

葵咲本紀での鶴丸は、清々しいまでに「いくさ場において強い、実力のある刀剣男士」として描かれています。
それが顕著だなと感じるのが、明石と鶴丸が本丸で初めて会うシーン。
あの短いやり取りの中で、明石が「あれはバケモンやな。…おー、怖。」って言うほどに、鶴丸が只者ではないことがガンガンに伝わってきてしまう(かっこいい)。
刀ミュの世界の中で、男士間にある実力の幅がここまで明確に描かれたのって、実は初めてだと思うんですよ。
今回いろんな演出で表現されている鶴丸の(おそらくは本丸においても圧倒的な)強さは、もちろん顕現してから日が長いというのもあるんだろうけど、それだけでは説明のつかない、やはり「平安刀」としての自覚っていうか…そういうものが為せるなにかを感じてしまいます。これもまた三日月とは違うタイプで、単純に見せかけてそうとも限らないっていうか、別な形での底の知れなさ。
出陣ソングひとつとってみても本当に強い刀であることがビシバシと伝わってくるんですよね。なんて勇ましく、かつ楽しそうに歌うのかと。戦場が自分の居場所なんだって、血が騒いで仕方ないって顔をしている。。
「ちょこまか逃げ回って翻弄するだけだ!」なんてとんでもねえ嘘を言って、本当に一人で検非違使との一騎討ちに臨むあたりも、どうしたってシンプルに強すぎる。かっこいい。そして自分にそれができると思っていることも含めて、あまりにもかっこいい。。
三日月だって当然相当に強いはずなんだけど、あの御仁ったら戦闘シーンでそういうところ全然出さないからな!?ってなりまして、ここでもこの二振りの対比がしんどくて死んでしまいます(…途中から徐々にただの「鶴丸かっこいい国永さんについてトーク」になっている)。


うまくいえないんだけれど、話を戻すと、鶴丸の言う「無垢さ」っていうのは、その瞬間、いまこのときに対して、ただひたすら新鮮な気持ちで向き合い続ける、みたいな意味なのかなって感じるんです。
そうあることで、自らに驚きを与えよう=退屈と抗おうとしているというか…
刹那的というのもちょっと違うんだけど、今ここで生きている自分と、同じように目の前に存在している相手との間の真剣勝負だからこそ、戦いが楽しくて、そこに生の実感を感じているのかな、というような。鶴丸の強さの背景に、そんなものを勝手に感じたりもしています。

◆三日月にとって「歴史を守ること」とは何なのか

まさか改めて、この話を真正面から考える日が来るとは…。
刀ミュの世界において三日月が歴史に対してしようとしていること、今回改めて考えてみたんですけど、まとめると、
三日月は「本流としての『歴史』を守り」ながら、「悲しい役割を背負わされている人」のことを、ひとりでも多く救おうとしている、というふうに表現できるのかな、と思いました。
2017年につはものを見ながらしにそうになって書いたエントリーはこちら。原型のようなことが書いてあります。(構成が今より下手で読みづらくて申し訳ない。)
anagmaram.hatenablog.com


類まれなる奇跡が重なって、美しい姿のままに長く存在し続けてしまった三日月は、その間ずっと人の心を映し続けてきた。そうして内側に積もり積もった時の流れへのある種の諦観と、人へのあたたかい眼差しが、彼の中には同居しているように思えます。
そうして長く在り続けて刀剣男士になった三日月だからこそ、歴史の重さを、誰よりも痛感しているような気がするのです。
今存在している世界は、後世に思いを繋ぎ続けた人たちがいるからこそ成り立っているもの。その人たちの「思い」こそ、失わずに守らねばならない。
しかし同時に、その過程でひっそりと消えていった無念の人々も存在していた、彼らもまた、確かに生きていた。その事実にも、できる限りは寄り添いたい。
その双方が揃った内容が、三日月にとっての「歴史を守る」ということなのかな…っていう気がしています。

歴史の本流を変えてしまうことは、そこに注がれた人の必死の思いや生き様を、無に帰してしまうことになる。その点で、三日月にとっては歴史を守る意志が生じていると思います。
だけれどそれだけでは、彼は己をよしとすることができない。
思いを遂げられなかった人、無名に終わった人。反対に後世に名を残したけれど深く傷ついた人。そんな様々な人々の悲しみを、彼はきっとたくさん、見てきてしまった。
「かたちあるもの」として後世に残り続けることの、ある種の残酷さがもたらした諦観が、思い切りひとへの優しさに振り切れているところが、わたしは刀ミュの三日月の在り方だと思っています。
だって、つはものの「華のうてな」の歌い出しが「しくしく くれくれ」な彼だから。人の悲しみに寄り添える心を持っているのが、刀ミュの三日月だから…。

◆「三日月宗近という機能」について

今回、三日月が歴史を明かしにいった相手は、切腹を命じられた日(みほとせでは、検非違使に殺されたことになっていた)のあとも、命をひっそりと長らえていた松平信康と、結城秀康の双子の弟である永見貞愛。
信康の人生の最期の哀しさは、みほとせで描かれたとおり、ここで改めて語るまでもありません。
もうひとりの貞愛も、のちの天下人の子としてこの世に生を受けたにも関わらず、まさに「歴史から消された」=表舞台からは、なかったことにされてしまった存在。
そんな二人に三日月が心を寄せていくのは、つはものを踏まえると、とてもわかる…と感じます。


でも今回、そんな三日月のふるまいが可能になったのは、そもそもまず、松平信康が生きていたからこそです。彼が死んでしまっているままの時間軸なら、叶わなかったこと。
さらにその始まりはそもそも、家臣ともども全滅させられた松平家を再興し、ひとり生き残った幼な子である竹千代を天下人である徳川家康に育て上げ、その人生を全うできるように見守る、というあまりに困難な任務を背負った「三百年の子守唄」の6振りへと繋がります。

その一連の流れに思いをはせていたら、
本丸の仲間が心を砕いて、繋ぎ織り上げた「徳川家」という名の織物の端から少しずつほつれていった糸の端を、三日月がひとり掴んで、そっと元の布に織り込んでやった。
わたしはそんなふうに表現したくなりました。


三日月がやっていることは、孤独で自分勝手なだけの行動というわけではなくて、やっぱりどこかで本丸の仲間たちと深く繋がっている側面もある、そんなふうに思えるのです。
だって三日月はそもそも、村正と蜻蛉切のことを助けてやれって、信康に言っているんだもの…。
さらに鶴丸は「必要な素材はあいつが揃えてくれたみたいだから、任せてみようと思う」って言っているんだもの。。

あの時の鶴丸は、三日月が何を思って行動して、信康と貞愛に刀剣男士の目的や正体を明かしたのか、まだ掴みきれていない段階だと思うのです。
だけれど、同じ本丸の仲間だから、三日月がやってみたことを信じたんだと思う。何か意味があるに違いない、そこに乗っかればきっとうまくいくだろう、って考えたんだと思う。


三日月が果たしている役割は、前項に書いたこととも重複しますが、

  • 1.世に伝わっている歴史の本流を守る
  • 2.その中で悲しい役割を背負った人の心を救う
    • 時折、上記2点目は刀剣男士たちが正攻法では対処しきれない部分への補助として現れることがある

上記のようにまとめられるのかなと感じました。

それが、今回最後に鶴丸が語る「この世界には、三日月宗近という機能がある。…そういうことだな」に集約されているのかなと。


刀剣男士が懸命の戦いで時間遡行軍を阻止したとしても、どうしても拾いきれないもの。
それは、歴史は歴史として変わらないのだとしたら、その中で悲しい役割を担った人の運命もまた、ずっと変わらないままであるという事実。
そこにほんの少しだけでも抗うことはできないか。
表に出ることのなかった人の思いもまた、同じように尊く存在していたのだということを、せめて確かめて繋ぐことはできないか。
今回、みほとせで出陣した6振りが抱いていた信康への「思い」を繋いだように、「歴史の改変を阻止する」だけでは救えないなにかを、ぎりぎりのところで可能な限り掬い取ろうとし続ける。
それが、三日月宗近が担っている役割=機能なのかなぁ…というふうに思いました。
もっと言うと、刀剣男士の協力者=物部を生み出すことが、三日月宗近という機能、なのかもしれないな。。



とにかく書き残すことを優先しており推敲が粗いので読みにくそう、申し訳ない!書きながら被ダメ値が跳ね上がりました。つらい。
これを書きながら思い出しを兼ねてつはものの一部のCD聞いてたんだけど、なんかもう説明しようがない涙があふれてしまって、ばかみたいに泣きました。もうあかん。

ミュージカル刀剣乱舞、本当にどこまでいっても怖い。これでもまだ書ききれてないことばっかりなのが怖い!とりあえずソワレいってきます!




▼「葵咲本紀」についてのその他感想記事はこちらにあります
anagmaram.hatenablog.com

  • 上記の中でもとくに「鶴丸かっこいい国永さん」についてのシリーズ(シリーズ?)

anagmaram.hatenablog.com
anagmaram.hatenablog.com

【ネタバレあり】刀ミュ 葵咲本紀 凱旋公演の感想その1(またしても鶴丸について)

わたしにとっては約2ヶ月ぶりの葵咲本紀。凱旋初日から2公演、まずはこの土日で見てきました!2ヶ月もあけて同じ演目を見る経験は流石に初めてでした。なんつうロングランだ…。
長い公演期間だと本当にいろんなことがある、と図らずも痛感したこの秋でしたが、残すところ気づけばあと10公演なんですよね。


刀ミュに関してはいつだってそうですが、言いたいことがありすぎてまとまる気がしないので、書けることを小出しにするスタイルでいきます!
と、とりあえず…鶴丸の話からしてもいいかな!?(いいよ!)
ネタバレ前提ですので、それでも構わない方はどうぞ!




◆「鶴丸かっこいい国永さん…」

東京公演以降のわたし、すっかり鶴丸に頭がやられてしまい、毎日まじでこればっかり言っている。


「なんで同じツイート何回も貼るの?」って思うじゃないですか。なんとこれ全部、別な日なんですね…。(過去ツイートを検索して「こいつバカじゃないか?」と自分に対して思いました。)
いや、ほんと、訳がわからんくらい、刀ミュの鶴丸…かっこいい…。しんどい…。って絞り出す、絵に描いたようなおたくの者です。
ただでさえものすごくかっこよかったのに、凱旋で見たら、予想をはるかに超えて進化なさっていた。。びびり倒しました。
上記のとおり、東京後半の時点で覚悟(※予想と言え)はしていたけれど、にしても。。ここまでとは。恐れ入るしかない。

わたしが地方公演見られていないので、2ヶ月開けばそりゃあ、という感じではあるんですが、にしたって!21歳ってこれだから!若いってこれだから!と怯えたくなるほど、上達なさっていた。こええよ。いやまじで、どんなポテンシャルやねん!なる。すごい。。感動する。

◆一番伸びていたのは体の使い方

でした!ほんと感動する!登場シーンにある舞でとくに顕著。
東京の初日近辺で見たときは、正直なところ、まだ覚えた動きを丁寧になぞるので精一杯かもなぁ、という感じがしてたんですよね。「舞」と呼べる形になるには、あと少しだ!がんばれ!って思って見ていたんですけど、もうね、その頃とは、完成度が段違いだよ…。
あの鶴丸の真っ白いフードのついた上着を、それはまぁ優雅にひらめかせていらっしゃる。。。
もともと、足の運びはすごく丁寧だったと思うんですけど、足の先から頭のてっぺんまで意識が行き渡ったというか、自由に操れるようになったのかな、と思いました。とにかく全身のすべての動きがなめらかにつながった感があります。

「鶴」そのものを思わせる、時折羽ばたくような動きを交えた、あの美しい振り付け。同じ平安刀としてわたしが思い浮かべるのはどうしたって三日月宗近なんですが*1、三日月ともまたジャンルの違う美しさでして…。三日月のようなどっしりとした重たさはなくて、ぐっと軽やかで。それこそ、身にまとう色合いの対比が、そのまま二振りの動きの違いとしても現れていそうな感じがする。

なんというか、演じている来夢くんの年齢と、本人のどちらかというと柔らかい雰囲気がもたらす、美少年と表現したくなるような、古刀なのに若々しさもあるような表現が、本ッ当に素晴らしくて。今だから見られるもの、というか、言ってしまえば今しか見られないものを見ている実感が痛いほどにある。(だってまだどこか、美しさのなかにあどけなさが残っているから…)
そこにいるのは刀剣男士=キャラクターであるわけなんだけど、演じている役者さん本人の持ち味があるから、その唯一無二の表現が生まれるわけですよね。どうしてもわたしはそこに意識が向かうというか、そんな素晴らしいものを成立させてしまえる役者という個の存在に感動してしまう。その点でも観劇が、好きなんだろうなぁ…。
そんなこんなで、友達とも話してたけど、来夢くんの鶴丸はまじで「見せ方」がわかってきた感あっておっそろしいです。
だって東京公演のとき、あんなにきれいに袖、宙になびいてなかったもん。。
結果として、凱旋初日の観劇を終えて出てきた感想のひとつが鶴丸国永の袖になりたい」でした。おたくってほんとそういうとこある。(自分の頭のおかしさをおたくの共同責任にするんじゃないよ)

◆その声の出どころを教えてほしい

あとはもう、声ね!声~!!!声がやばいんだってば~!!!涙
あまりにもアメイジング…なにをどう表現したらこの気持ちに追いつくのかわからぬ。
ほんと、どうしたらあんな声があの比較的華奢な体格から出てくるんだ!?

よく言われることだと思うのですが、声の特徴ってわりと体格と紐づきますよね!?
正確な来夢くんの身長は存じあげないけど…って書きながら調べました174センチだって!つまりそう、170センチ台前半の、どちらかというと華奢な体つきの俳優さんで、あのタイプの太く響く声を持っている人、わたし今まで見たことがないんですよ。。なのであっけに取られてしまう。
身長に対する声量のギャップでいうと、三浦宏規くんも少し近い?って友達と話していたんだけど、声質のタイプはまた兄者とも全然違うんだよなぁ。(ひろきくんは力強いビブラートが持ち味のひとつですよね。)
来夢くんの鶴丸、つややかな透明感がありながら、同時にとてもまあるい太い響きの発声ができて、低い音も細くならずにしっかりとこちらまで届く。
だって一部の「刀剣乱舞」で、あの歌うま村正派に混じって、ガンガンに声が客席に聞こえてくるんですよ~。。それに気づいて昨日「ヒエ~~~ッ」って椅子に背中はりつかせてのけぞってしまった。。ユニゾンパートで声が抜けて聞こえるってそうとうやで…と思っている。


声でいうと、セリフの発声というか表情もまた、全然東京とは違っていて。いや、方向性は同じなんだけど、あからさまに「伸びた」としか言えない。
わたし、刀ミュでは定番となっている、刀剣男士が声のみの主とひとりで対峙しているシーンが大好きなんですが(その始祖は清光なわけですが)、あそこの鶴丸、もう出だしから200点満点、いや1000点満点ではないですかね!?どう思います!?いや1000点でも足りねぇな!?!?だってもういきなり登場シーンから完璧じゃん!!??
ある意味では、あの食えない刀ミュ本丸の主と渡り合ってしまえるような、一筋縄ではいかない本丸における実力派…という鶴丸の描かれ方、表現するの、簡単じゃないと思うの。。相手は声のみなわけだし。
…そう思うんだけど!!!なしてそれが、できてしまうの?
来夢くん、鶴丸の天才なの?ってなってる…まじですごいね…???

「まぁ実際のところ、ちょっと長かったけどな!」ってカラッと笑う表情とか、
「おいおい、いつか見たような顔をしてるな。君がその顔をする時は、俺になにか面倒くさいことを頼もうとしている時だ」の、半ば呆れたような、全てをわかってる風の笑顔とか…
「で、何をやらせようってんだ?」っていう不遜な問いかけから、主に「鶴丸、奥へ」って言われたあとにすっと真顔に移り変わる一瞬とか。
す、全てが最高すぎて…息ができねえ…ってなります。すごい…(※お気づきのとおり、セリフを丹念に書き起こしただけになってしまった…)
あとさァ~~~!!!村正にさぁ、「鶴丸さん、このままでは…」って言われたあとの、「ははっ、全滅だなぁ!」がかっこよすぎて死んでしまう!!!!!!なにあれ!!??
好きなシーンたくさんあるけど、あそこ本当にダメ…あまりにもかっこいい…笑いながら「全滅」っていう単語を吐けるその胆力…好きすぎるやろ…

◆好戦的、という表現では足りないあの表情

わたし、凱旋初日を見た段階ではこう思ってたんですよね。ちなみに2バルのサイドで見てました。


…なんだけどさぁ!その翌日、凱旋二日目の20日ソワレで見たらさぁ!なんか全然そんなんじゃ説明つかない顔しててさー!!!アーーーッ!!!(いのちがおわる音)
鶴丸、なんかまじでものすごい顔で戦ってた…。びっくりしてしぬかと思った…。


戦闘中の鶴丸、基本的に笑っている。笑いながら、でも周りの状況も把握した上で、目の前の敵に恐ろしいほど集中している。それは知ってた。
相手を見据えてニヤッとした笑みを広げたかと思えば、そのまま迷いなく鮮やかに敵を斬り裂く。そして翻る真っ白い袖…。
20日はアリーナ席で「ウワァ強いよぉ、かっこいいよ~!」ってまるで小学生のような感想を抱きながらその一連の動きを見てたんですけど、でも、そうして笑っていた鶴丸が、次の瞬間。。自分の斜め前方、少し低い位置にうずくまる時間遡行軍のことを、凄まじい眼光の鋭さで上からねめつけていて…。
そのときにたまたま、座っていた席が鶴丸の視線の延長線上にあたっていたらしく、いわゆるオペラ越しに目があうやつをそのお顔の鶴丸とやってしまい、危うく声が出そうになりました。(遡行軍を見てたんだと思うんだけど、なぜか目が合う感覚になる視線の高さで、本当にびっくりした…)
瞳孔が開いた感じの目と言えばいいのか。戦場で出会って敵として目が合ったら「あ、これは助からない」って思わざるを得ないような顔。そしてなんとなくなんだけど、鶴丸はあの表情を、本丸の他の男士にはあまり積極的には見せないのでは…?って勝手に思えてしまう。そういう凄みに満ちたお顔でした。
好戦的、という表現ではちょっと足りない。「戦闘狂」に片足突っ込んでいそうな感じの、うっかり触れた者は無事では済まない鋭さ。
でも普段はそれを、どこか飄々とした空気で包み込んで自分の中に同居させているんだなぁと思うと…なんかもう、さぁ…!
そんな奥行きを感じさせる表現、この短期間で、よくぞ可能になさいましたよね…。来夢くん、まじすごいよ…。


その顔が脳裏に焼き付いて忘れられず、おもわずその日帰宅してから、刀剣乱舞の公式設定画集1を開きましたよね。鶴丸国永は、ページでいうと157ページです。

平安時代の刀工、五条国永の在銘太刀。
鶴を思わせる白い衣を身に纏い、赤は戦ううちにつくだろうからなどと軽く言ってのける。
そのさが、軽妙で酔狂であっても戦うことを忘れたことはない。

…ああ~~~!!!!!(うるせえ)
もうこれじゃん…あまりにもこれじゃん…。やっぱり鶴丸国永の天才なんじゃん…ええ…???(最終的に混乱した)



ここまでで、もう6000字を超えてしまいました。えっ…二部の話まだ何もしてないけど!?
物語の本質について向き合った感想は、書く時間がものすごくかかるので、たぶん11月になってから、かな…!
葵咲本紀、ほんとうに多面的。わたしのなかでは受け取る印象が、つはものに近いんですよね。
フォーカスする刀剣男士によって見えてくる物語がガラリと変わるし、思い入れポイントがあるとよその理解が浅くなっていけない。。
なのでしっかり書こうとするとみほとせの石切丸の話ばりに時間がかかる予感してます。うぅ~でもまとめたい~!(とか言ってるうちに歌合始まるんだよ…わたししってる…)


楽には間に合わなさそうだけど、今月中にあと一回くらいは頑張ってまだなにかしら叫びを叩きつけたいです。
ああー、大好きな公演がやっている期間って、めちゃくちゃ忙しいけど本当にしあわせだ!




▼「葵咲本紀」についてのその他感想記事はこちらにあります
anagmaram.hatenablog.com

*1:今回の物語の構成上、この二振りを対比せざるを得ないので、観劇中にわたしがくらっているダメージは相当なものだと自負しています…。許すまじ…。笑

「推しと初めて接触があるんだけど、どうしたらいい?」と聞かれたので、ポイントまとめました

標題のとおりの内容、近々初めて推しと接触の機会がある身内から尋ねられたので、これまでの経験則をもとに、まとめてみました。
これを書いている人は、沼落ちから7年目になる舞台・若手俳優おたくです。…ともなればそれなりに色んな現場は経験してきたので、それなりに役には立つのかもしれない。と思って書いています。(いまいち弱気)


馴染みのない人もいるかもしれないので念のために解説すると、ここでいう接触とは、握手やハイタッチなどをしながら、応援している相手本人と話せる機会のことを指します。
なお、わたし個人は推しと接触の機会があると「わーい!」と喜ぶタイプののーてんきなおたくなため、「どうしても推しの前に出たくないのですが、どうしたらいいですか!?」的なお悩みへのアンサーはこの記事ではすることができません。悪しからず…!
ですので以降は、覚悟を決めて推しに会いに行く方向けの記事です。



★目次

1.なにはともあれ、まず準備。〜接触の形式は何?想定される長さを予想しよう〜

若手俳優界隈でのベーシックな接触のパターンを、以下にひととおり挙げてみました。(※アイドルとかだと、また全然違うと思います!)
予定されている接触はどのタイプ?

1-1.所要時間短め:お見送り

イベント会場から退出するお客さんを、出口付近の廊下などに立った状態で見送ってくれるスタイル。
便宜上接触と呼ぶが、実際のところ数メートル離れた位置で立っている相手から手を振ってもらう、というイメージなので、触れ合いが生じるわけではない。
基本的にこちらが歩きながら見送られるので、話せる時間はほぼないと思った方がよい。
ひとこと挨拶のみでおしまいのつもりで、あくまでも「推しを間近に見られるチャンス!」と割り切ることがオススメ。
とにかく視覚に意識を集中しよう!

1-2.所要時間短め:ハイタッチ

お見送りと近しいことが多い。しかし、たまにハイタッチと言いながら「いや、もはやそれは高い位置での握手なのでは!?」みたいなこともあるので、気は抜けない。ハイタッチ状態で手を握られることもままある。
上記のとおり一番ブレが生じる形式なので、当日の様子を見極めることが肝要。

1-3.所要時間長め:握手

とてもベーシックな接触。平均すると、会話はざっくり2往復くらいできることが多そう。
剥がしのスタイルによって、けっこう大幅に所要時間は左右される印象。
話すことと顔を見ることに必死で、意外に手の感触は記憶に残らないことがある。(逆に手の感覚しか覚えてない、という人もいる模様)

1-4.所要時間長め:お渡し会

写真集、カレンダーなどを渡してくれるパターン。推しからそれらを受け取るタイミングでの会話になる。場合にもよるけど、握手と同じくらいの長さで話せることがわりかし多いような気がする。
触れ合いが生じない、という点では握手より気が楽。

1-5.所要時間長め:サイン会

推しはサインをするので自分の手元に視線が行きがち。そのぶん目が合う時間は短いけど、逆にあまり緊張しないで話せるかもしれない!という利点がある。話せる時間もそこそこあるはず。
あと普段目にする機会のないつむじとかが見られると思います(そこなの?)。

1-6.番外編:チェキ

撮影前は挨拶ができる程度。撮影後にチェキの出来上がりを待つ間に1〜2往復くらい会話はできそう。
しかし、推しと並んで撮影されることへの緊張がそもそもやばすぎて、なんかもう色々どうにもならないことが多い。正直「それどころじゃない」ってなる。始まる前の緊張が、それ以外の接触の比ではない。どうしたって段違い。

…ベーシックなものだとおおよそこんな感じかと思います!この他だと、

  • 撮影会(自分のスマホをスタッフさんに渡して、推しとのツーショットを撮ってもらう)

などもあります。わたしは経験ありませんが、変わり種になるともっといろいろあると思います。

2.なぜ時間を予測することが大事なのか ~形式に合わせたコンテンツを用意しよう~

なぜ最初に時間を予測しなければならないのでしょうか。理由は簡単。
与えられる時間に用意したコンテンツが見合っていないと、確実に事故るからです!
時間が短いとわかっている時に長めの言葉を用意したところで、実際には全てを言い切ることはできません。また、言う内容が長すぎると、相手に聞き取ってもらえない危険性もあります。
そうなると、推しが「えっ?」ってこちらに聞き返してくれたところで、はい時間終了〜!になってしまうことに。もったいないしすごく悲しい。そんなのは嫌だ!
反対に、思ったよりも与えられた時間が長くて持て余してしまい、どうしたらいいか分からなくなった…というパターンも起こり得ます。
そのようなことのないように、まずは接触形式から、予想される長さを導き出し、話したいことを組み立てることが重要になってくるのです!

2-1.使うワードは慎重に吟味

おおよその時間が把握できたら、次は言葉選びに移ります。
相手を傷つけるようなことは言わない…みたいなそんな当たり前の話ではなく、意外と大事なのが、「相手にとって聞き取りやすい言葉を選べているか?」ということなんです。
というのも、接触って、コミニュケーションとしてはかなり高度なやつをやらねばならないからです。

  • お互い初対面のようなもの(関係性があるわけじゃない)
  • 補助となる「文字情報」はない

…という、前提を共有できない状態から突然始まる、ごく短時間の会話、それが接触
つまりそもそも、きちんと会話を成立させるだけでもハードルが高いといえます。
話のマクラ・導入部みたいなものがなく、いきなり本題に切り込むようなものなんですよね。

日常生活における会話って、目の前の相手がどんなことを投げかけてくるか、なんとなく予測しあって、キャッチボールをしながら進んでいく部分があると思うんですが、接触ではその事前情報に当たるものが一切ありません。
なので、相手が受け止められないような豪速球を投げたり、届かないようなへろへろしたボールを投げてはいけないのです。
シュッとスマートに相手に届く、確実なボールを投げましょう。

2-2.「伝わりやすい言葉」とは?

では「伝わりやすい言葉」とは、具体的にはどのようなものを指すのでしょうか?

わたしがとても大事だなと考えているのが、「脈絡なくいきなりぽんっと投げかけても、相手に意味がすっと通る言葉かどうか?」という点です。
音声→言葉→意味への脳内変換が、なるべくシームレスに行われる言葉が理想。
というのも、文字で見たときと、音声だけで受け取ったときでは、たとえ同じ言葉でも、その伝わりやすさは全く変わってきます。日本語には同音異義語もたくさんあるし。
普段あまり意識しないことではありますが、この点、是非検討してみることをオススメします。

その他にも、

  • 前提に詳しい説明がない限り、本意が伝わらない内容じゃないか?
    • 良くない例:「この間の~の舞台で◯◯が~なところが△△だったんですけど、それがとっても~でした!」…前提が長い!一番伝えたいことが何だったのか、相手にわからない危険性が高い!
  • 相手にとって、聞き慣れてない言葉ではないか?
    • 自分と相手の生活圏や生活様式は全然違うことも考えられます。自分にとって当たり前の単語でも、推しにとって果たしてどうか?という観点も大事。(過去に「転職活動」っていう言葉が俳優をしている推しにちゃんと伝わるか吟味した経験があります*1。)
  • 同じ意味でももっと音数が少なくて、かつ聞き取りやすい単語はないか?

などなど、考えてみるべきポイントはたくさんあります。


プレゼン資料に取り立てた意味もなく横文字の言葉を使って周囲を困惑させる営業マンのようなことはせず、
推しに対して使う言葉は変にひねらずに、ごくごくシンプルなものに落とし込みましょう!

2-3.長さは調節できるようにしておく

先述の通り、接触の所要時間は思ったよりも長い/短い、どちらのパターンも考えられます。1往復と思ってた会話が2往復できちゃうとか。反対に本当に一言声をかけておしまいだとか。
なので、理想はコレ!という内容ができたら、そこからプラスマイナス、どちらにも対応できるように、プランBを考えておくとなお良しです。
「できればこの2点を話したいけど、時間的に難しそうだったら優先度の高いこっちだけにしよう」とか、予め考えておくだけでも、だいぶ違います。


上記を踏まえて、よし、事前準備はバッチリだ!としましょう。いよいよ本番ですが、準備は自分の番の直前まで続きます。

3.いざ当日! ~直前まで、現場の様子を見極めよう~

入念に心の準備をしたとして、結局最後は当日の状況に合わせるしかありません。
「じゃあ準備なんて意味ないじゃーん!」みたいな気もしますが、そういうことではないのです。先ほどのプランBまで含めたロープレを脳内で済ませておくと、思わぬ事態にも後悔を残さずに接触を終えられる可能性が高まります!

そのために、当日接触イベントが始まったら、確認しておきたいポイントは下記のとおりです。

3-1.推しのコンディションはどうか?

とにかく最初に確認したいな、と個人的に思っているのはココ。
そもそも体調があまりよくなさそうな日や、複数開催イベントのラスト回で、そろそろ疲れが見える…などなど、いろんなケースが考えられます。
その時は、言おうと思っていたことが、相手のコンディションに見合った負荷の内容かいったん考えてみましょう。リアクションを無理に求めるような内容を投げかけるのも、なんだか申し訳ない気持ちになりますよね。(わたしはなる。)
なので、なんか今日の推し、疲れてるな、しんどそうだな!って感じる時は、より推しに負担をかけないだろう内容にシフトするように心がけています。
自分だけ満足しても、しょうがないですから。あくまでもコミュニケーションなので、相手を思いやる気持ちは絶対に忘れたくないですね!

3-2.時間が押したりしていないか?

イベント運営上の思わぬアクシデントが起こり、予定されていたタイムテーブルが変更になるようなことは十分に考えられます。
その場合、接触にかかる所要時間を縮めるために、予想よりもスタッフさんのはがしがキツめになったり、本来思っていたよりも流されるスピードが速い!みたいなことが起こり得るのです。
また同じ回でも、序盤〜中盤〜終盤で流しの速度が変わっていくことも多々。
接触タイムが始まってみて、なんだか予想と違うな!という状況だった場合は、さっと準備していたプランBにスイッチしましょう。

3-3.その他、当日だからこそ言えたら嬉しい内容があったら回収してみる

これは余裕があったら…という感じですが、
「伝えたい内容に関するワードが、ちょうど直前のイベントで出た!」みたいなラッキーなパターンもあります。
あの話題がさっき出たから、推しの念頭にもあるはず=こちらから投げかけた時にも、言葉としてすっと認識されやすそう、という発想です。
トークショーなど何かしらのイベント後に接触、という時は、このように「AとBの話題で迷っていたけど、イベントでBの話が出たからBにしておこう!」みたいなより戦略的な組み立ても可能です。


以上で、会場の様子も見極められた。推しがまもなく目の前に。いよいよです。

4.ついに本番!しかし、ここで問題が起こる。 ~バグるおたく~

その問題とは、主に緊張です。それに尽きる。いやそりゃそうやろ。だって目の前に推しですよ???
果てしない緊張にやられながら推しの目の前に立ったとき、おたくは下記のようなバグり方をすることがあります。

  • 頭が真っ白になる
    • だって目の前にいるんだもの
  • そもそも、まともに顔が見られない
    • ふだんそんな間近に見る機会なんてないんだもの
  • 終わった後、一切の記憶がない
    • やばい目の前にいる、と思ったことだけは覚えてる
  • そんなつもりはないのに苦しそうだったり悲しそうな顔をしてしまう
    • しまいにはなんだか逃げるようにその場を去ってしまう


そして気づいたら、自分の番は終わっているのである。…お疲れ様でした!!!涙

5.接触を終えたあとの現実との向き合い方

めちゃくちゃ楽しみにして、緊張して迎えた当日。でも推しと話せる機会はほんの一瞬だけ。
「いや自分、あんなに事前に考えてたやん!?もっと他に言えることあったやろ!あともうちょっとまともに笑顔作れたやろ!バカーッ!!!」…みたいな気持ちになることもある。あるよ!
こんなに短い時間に対してここまで一喜一憂するなんて…みたいな賢者モードになることも正直あるでしょう!
でもまぁそんなこと言わず、せっかくの思い出なので、とことん大切に味わいましょう。

5-1.とにかく、メモる

実際、記憶はすぐに飛ぶ!でも手繰り寄せれば思い出せることもあります!
かけらでもごくごく一部でも、とにかく頭の片隅に残っていることはメモに残そう。手に握ったそのスマホに書き付けよう!

「やばい、近い、かっこよかった、目があった。しぬ」

でもいいんです。ないよりは。

「いきてた」

とかでもいいんです。そうだよ、推しは目の前で生きてたんや。それが事実なんや!

今日着てた服のここの飾りが可愛かった(※顔がちゃんと見られなくて服に視線が逃げていたときの例)とか、やたら目元の笑いじわばかりが印象に残ってるとか、初めて間近でホクロをみたなぁ…とか、断片でもなんでも良い。
自分だけが見た推しの記憶、それだけで価値があるのです。とりあえず記録にしましょう、そっと自分のためだけに書き残しましょう。
わたしはたいていスマホのメモにばばっと書き起こします。言い回しまで細かく覚えていたい!とある種執念のようなものを発揮して書く。このタイミングで手を振ってくれてたな!とか、細部まで覚えていたらなるべく全部書いておきます。(※あくまでも自分が読めればいいので、SNSにあげることはしません。)
そうしておくと何が良いかって、疲れたときや落ち込んだとき、読み返して元気を出すことができる!これはマジ。
せっかくの貴重な機会なのですから、誰のためでもなく将来の自分のために、かけらでもいい。記録に残しておきましょう!

5-2.可能なら身内に叫びを聞いてもらおう

LINEなどで聞いてくれる家族友人がいたら、どんどん聞いてもらいましょう。先程の出来事は現実だったのだ、ということを、あらゆる手段でしみじみと噛みしめよう!
わたしはいつも親しい友人にLINEで報告して、帰宅してから夫に無理やり聞いてもらっています。(そこ話すんかいとよく驚かれるんですが、聞いてくれるので遠慮なく話します)

また、SNSに上がる接触レポに関しては、おたくは往々にして他人と比べてしまい、心に悲しいダメージを負う傾向があるので要注意です。
自分にはその気があるなと自覚している人は、むやみに他の人のレポを検索したりしないようにしましょうね。
自分にとって大切な時間が過ごせたのだから、人のことはどうでもいいじゃないか。そこは割り切って、いっそのこと見ないようにするのもオススメです。他でもない、自分にとっての思い出をなによりも大切に。

6.接触全般のtips

以上が全体の流れです!以下はtips、マイルールのようなものをご参考まで。

6-1.相手視点を忘れない

一番はやっぱりこれですね。相手の立場に立って状況を俯瞰する余裕を持ちたい。
なので、言いたいことを一方的に投げつけて終わりにならないようにしたいな、と常々思っています。時間が短いからこそ…。
だってこちらにとっては一瞬ですが、推しは一度に数百人と会話してるわけで。それで疲れない人ってたぶんあんまりいないはず、と思うんですよね。なので負担をかけたくないなぁという気持ちが一番強いです。
あとは当たり前のことですが、相手が言われて嬉しいだろうこと、プラスに受け取ってもらえるだろうことを選ぶようにしています。
自分が伝えたいことが、相手が言われて嬉しいことかどうか…についてもちろん確証はないし、まぁその正解がわかったら苦労しないんだけど、なるべくなら言われて嬉しいことを言いたい!と思う。
なので雑誌やWebのインタビューなどで、そういう「言われて嬉しい情報」のヒントがないかは、丹念にチェックするようにもしています。

6-2.相手のタイプに合わせてみる

あとはお話しする相手=推しのタイプによっても、左右される部分は大きいです。

  • サービス精神のかたまりで向こうからガンガン話題を提供してくるタイプ
  • じっくりこちらの話を聞いてくれようとするタイプ
  • とにかく楽しい時間を過ごそうぜ!的に、その時の空気に合わせて自由に振る舞うタイプ

…などなど、特徴はいろいろです。
もし自分の推しの傾向がわかるようだったら、そちらに合わせてみるのも良いと思います!

まとめ

接触が嫌い・苦手な人もけっこういると思うんですが、冒頭でも触れたとおり、わたしは「推しと話せるなんてさいこー!超ハッピー!」と思うタイプのごくのんきなおたくです。
接触は、普段決して交わることのない世界線が繋がるというか、推しと自分との特異なアクセスポイントだと思っているので、その機会にしかできない経験は、ありがたくしておきたい。
あとはファンに対してニコニコやさしくしている推しの姿をひたすら見てるのも好きでして…その光景だけでもしあわせになる…。なんて優しいんだ!いい子なんだ!となって好きがあふれる。まじで見てるだけで幸せ(おめでたいな~)。
なんにせよ、ファンと近い距離でお仕事をするからこその苦労や負担も絶対にあるはずなんですよね。
「それを選んでなお、更にこういう会える機会をつくってくれてほんとにありがとう!」という気持ちを忘れないようにしたいな、と思いながら、接触イベントに出かけています。


あなたと推しとの接触が、幸せで心楽しいものでありますように!

*1:このときは握手会だったんですけど、ちゃんと聞き取ってもらえました。そりゃそうか。だって俳優って、転職活動はまずしないよな、って思って…笑

「好き」なんてきっとどうしようもない

おたくにおける「好き」という感情は、往々にして独りよがりなものに分類される気がするし、実際のところ、まぁ真実としてそうなんだろうと思う。

「好き」という感情が悪者にされて語られている場面も、実際のところ少なくない。

ともすると「気持ち悪い、怖い」といった修辞を添えられていることも、割によく見るように思う。

 

でもわたしは、どうしてもそのタイプの言説について「そうなのかなぁ」と納得できない気持ちがする。

好きってそんなに悪感情なんだろうか。そんなことはないんじゃなかろうか。

たぶん、本質はそこではない。

 

 

わたしが個人的に考える範囲ではだけど、「好き」という感情が「怖い」と言われてしまう何かになるかどうかは、その感情の行き先を、相手に押し付けてしまってるかどうかじゃないか、と思う。

わたしはこれが/この人が好きだ、の先に、「だから〜してほしい」「だから〜になってほしい」という条件がついたり、なにかが返ってきて当然というスタンスでの期待値がついて回り始めたとき、初めてその感情は「怖い」と呼ばれる可能性が出てくるのではないだろうか。

自分が発した「好き」の先を、誰かの責任範囲に含めようとしたときが、運命の分かれ目のように思えるのだ。

それはおそらく、いわゆる「見返り」をもとめる態度として表現できる気がしている。

 

 

その対象を選んだのも、好きになったのも、すべて自分の選択によるものだ。

果たしてそこに、見返りがあるのかどうか。

それは正直わからない。あるかもしれないし、ないかもしれない。

それに、見返りという言葉で片付けるには惜しい感情の交換が成立する場面だって、多々ある。例えば愛の詰まった優れた舞台のカーテンコールで、観客として確かにステージ側と愛と感謝の交歓ができた、と感じる瞬間は実体験として何度も存在する。

なので、好きの先に「戻ってくる何か」そのものを否定する訳でも勿論ないのだけど。

 

思い入れはある程度の執着を生む。だから「こんなに好きなんだから」というその先が続くのも、人間として当然のことだと思う。

だけど同時に、そういうあれこれを乗っけないままで、単なる「好き」を「好き」のままでとっておくことだって、やろうと思えばできるのも事実だ。

目の前の眩しい対象を、まるで魅入られたように一心に見つめ、そうして受け取ったきらきらと輝く宝石のような何かを、ぎゅっとひとりで握りしめる。

そうしたときにただそこに残る「好き」という感情って、それだけで誰かに/何かに害をなすものには、あまりなり得ないように思う。

 

 

自分が受け取って得たその「好き」を、「好き」のままにとっておく、もしくは深めて育てていく。そのことだけに集中していられるのが、たぶんわたしにとっての理想。

だからなのか、単に「好きって感情は全然尊くもないしグロテスクだ」という言説をみると、そういうことじゃないのでは?とどうしても反論したくなる。

本質はそこじゃないのでは。それは単に、他者に対する期待値コントロールがうまくいかずに暴走してるだけなのでは、と思うのだった。

 

 

「好き」に向き合うとき、わたしのなかで心象風景はいつだって一人ぼっちだ。

真夜中に、崖の先端でつよい風に髪の毛をなぶられながら、仁王立ちになってよく晴れた一面の星空をひたすら見つめている、そんな感覚。

自分にとってのそれくらいの切実さがあれば、その様子が他人にとってどれだけくだらなくて滑稽に見えても構わない。どう思われようが、そんなことどうだっていい。

 

砕かれたダイヤのような輝きは、夜のひんやりとした空気の中に凛と澄みわたる。

届きようもないその距離に打ちひしがれても、胸を焦がすことを決してやめない。

その覚悟と祈りのような気持ちが、わたしの中で「好き」をかたちづくっている源泉なんだと思う。

 

「好き」なんてきっとどうしようもないけど、わたしは自分にとっての「好き」を守り育てる戦いを、これからも気が済むまで続けたい。

 

 

風邪で具合が悪くて早く寝ようと思いながら、初めてスマホから書いてみた。なんできゅうにこんな文章を書いたのか、自分でもよくわからない。熱はないので熱にはうかされていないです。

わたしはいったいなにと戦ってるんだろう…(答え:己)みたいなテンションで今日も推しが好きだ!と思いました。