こたえなんていらないさ

舞台オタクの観劇感想その他もろもろブログです。

できることをやりたい

しんどい気持ちを逃すことを目的に勢いだけで書いており、なにか結論を出せる文章にはならないことをまずお詫びしておく。


あまりに苦しくて、ふと気づくと歯を食いしばっている。舌に歯の形がついてしまう。同じことを友人が言っていた。
開くはずの舞台の幕が、もうずっと開かない。
本来は初日の訪れを華々しく告げるはずのアカウントが、中止のお詫びと払い戻しのお知らせだけをツイートしている。
まだ上演がどうなるかわからない、少し未来の演目の稽古に励むキャストは、不安そうな素振りを見せずに、ただ前向きなツイートだけをしてくれる。

今日もどこかで、何かの演目が上演されていて、そこに笑いや涙があって、上演後には拍手が弾ける。
わたしにとってはそれが当たり前の日常だった。自分が劇場に行かない日にも、TLにとめどなくあふれる感想が、キラキラした言葉たちが好きだった。無意識のうちに、舞台が上演されている事実に救われて、支えてもらっていた。
でも、その日常は失われた。
この日々に終わりが見えなくて、ただ陰鬱な空気ばかりがそこに漂う。
いま手元にあるこのチケットたちが、生きるのかどうか、まだわからない。
冗談ではなく、強い意志を持って前を向いていないと、目の前が途端に真っ暗になる。


観劇は、単なる娯楽だ。それは間違いない。
でも、娯楽とは文化であり芸術であり、人が人として生きる上で欠かせない喜びをもたらしてくれる、かけがえのないなにかだ。
それに支えられて毎日を生きている人がいて、それをなりわいにして毎日を生きている人がいる。
エンターテインメントが当たり前に息の根を止められてしまった先に、いったいどれほどのものが失われるか。そのことが、本当に恐ろしい。


諦めたくなくて、守りたくて、悔しくて涙が出る。
放っておいたら大好きなものが死んでしまう気がして、できることをやりたい。
助けさせてほしい。取り返しのつかない形で失う前に、できることをやりたい。

この深刻さを、笑い飛ばせる日が、早く来てほしい。

刀ミュ 歌合 乱舞狂乱2019 公演を見終えての感想その4~「和歌」が彩る物語~

気づけばもう3月に!2月中に終えるつもりだったけど終わらなかった!
今回は、作品中で取り上げられた六首の和歌をモチーフとした物語それぞれについての感想をまとめました。



「歌合」というタイトルを裏切らず、真正面から古典文学を客席にぶつけてきた今回の作品づくり、本当に容赦がなくて、侮りがなくて、ただただ「最高!」に尽きた。
以前のエントリーでも少しだけ触れたとおり、作品中に取り上げられた六首は、万葉集および古今和歌集を出典としている。

以降、現代語訳を引いてこれた歌は引用元を脚注に記載、一部は自分で訳している(ので、合っているとは限らないのでご容赦を)。


◆第一首:「天地(あめつち)の 神を祈りて 我(あ)が恋ふる 君い必ず 逢はざらめやも」

碁石が立てるちゃりちゃりという”乾いた石の音”に、どことなく懐かしさを覚え、過去の記憶に当て所を探して思いを馳せる、石切丸の物語。


この場面で歌われる歌についてまず最初に印象に残ったのが、歌詞の内容が、ある種の無常観、諦観のようなものを湛えていたことだった。
歌詞を明確に記憶しきれていないのだが、物語の冒頭に石切丸がひとり口ずさむ歌には、「いつか歩んできた道」「いつか誰かのために叫んだ声」といった過去の経験が「記憶の中に紛れていく」と歌われている。
しかし、その最後は「それでいい」と結ばれるのだ。
とどまることなく過ぎ去っていく時間の中で、全てを覚えてはいられないという事実。
それでもこの身が経験してきた物事は、決してどこかに消えることはなく、自分の中に確かに降り積もっている。
…そのことがわかっているからこそ、石切丸は「それでいい」という肯定の思いと共に、静かに歌を閉じるのだろう。
人と共に長く在り続けてきた石切丸だから、その境地に達することができたのかな…と思わせられて、誰よりも心優しい大太刀がおそらくは頻繁に接するであろう”孤独”にも、勝手に思いをさまよわせてしまったりした。


後半に歌われる『お百度祷歌』にも、似たような控えめさがある。
「幾度幾度祈れば 届くかな届くかな 何度何度願えば 叶うかな叶うかな」
ここに溢れる、祈りの在り方の慎ましさ。
絶対に叶う、願いが届くと、言い切ってしまうことはないのだ。
届くかな、叶うかな、と、あくまでもそっと、ささやかに祈りを託す。
一歩一歩、重ねて一歩。
叶うかどうかはわからないけれど、でも足を踏み出そうとする意志が、確かにそこにある。

天地(あめつち)の 神を祈りて 我(あ)が恋ふる 君い必ず 逢はざらめやも
天地の神に向かって祈りを捧げ私が恋しく思うあなたに、必ずやお会いいたしましょう。
万葉集・第十三巻、3287*1

石切丸の物語にこの歌が当てられていた意味を考えてみたのだが、
彼にとって「祈る」という行為がごく親しい存在であるという事実を、端的に表した歌だからではないか…と思った。
人がなにかに対して思いを馳せるその様子そのものが、おそらくは石切丸を石切丸たらしめてきた核といえる部分もあるだろう。
「君い必ず逢はざらめやも」に溢れる、そうありたい、と願う心の強さが、人々を前へと歩ませてきたことを、石切丸はきっと誰よりもよく知っている。
彼が思い出した「乾いた石の音=玉砂利の音」は、その人々の祈りに直に結びつく象徴のようなものだ。
思いがけず、自らのルーツにつながる音の記憶に巡り会った彼は、短冊を供えながらそっと手刀を切り、目を閉じて微笑んでいた。その充実感に満ちた穏やかな表情は、つばさくんが石切丸を長らく演じてきた今だからこそできるもののように思えて、とても好きだった。

◆第二首:「世のなかは 夢かうつつか うつつとも 夢とも知らず ありてなければ」

一首目からいきなりガラッとトーンを変えたこのパート、本当にお腹が痛くなるほど笑った。笑い死にそうだった。刀ミュを見ていて間違いなく一番笑った時間になった。
ここまでコメディに振り切って描かれることが、刀ミュの中ではこれまでありそうでなかったので、つまりは観客側にもまだそういう免疫がないという状態。いやーすごかった!
…っていうか、一首目との緩急がちょっと極端すぎるよ!ついていけないよ!笑

原作ゲーム内には「根兵糖(こんぺいとう)」と呼ばれる、見た目がこんぺいとうにそっくりな、レベル上げに使えるアイテムがあるのだが、その根兵糖をおやつ代わりに食べたがる本丸の仲間と攻防戦を繰り広げているうち、疲れて見た夢と現実とがごっちゃになってしまう、蜻蛉切の物語である。


夢と現実をごっちゃにしてしまうというシンプルなコメディだけど、だからこそそれぞれの役者の力量がなければ成り立たないパートでもある。
特に、話の中心を担っているspiさんの蜻蛉切の声の出し方や表情の作り方、本当に見事なコメディアンっぷりだった。
「巴形はこんぺいとうの中では意外な方なのだろうか!?」とか、作戦をこんぺいとう語で伝えた後、一瞬の間ののちに全員の賛同を得られたところで「ぅおーしょしよしよし!!!」みたいな言い方でガッツポーズをするところとか。挙げ句の果てに、槍をスタンドマイクに見立てたマイクパフォーマンス、あれは本当にずるい!笑


他に個人的にツボだったのは、しょごたんの堀川くんである。
なんと言ったらいいのか、あの「真顔でやりきるからこその面白さ」みたいな。こんぺいとうソングをかっこよくキメキメで歌い、華麗に踊れば踊るほど、そこに生まれてしまうおかしみ。
絶対にしょごたん本人も「その方が面白い!」って確信犯的にやっていたんだと思うんだけど、本当に憎らしいほど見事にキメてくる。さすがはアミューズ様…!ってなる鮮やかなダンス。しかし歌はこんぺいとう。このおかしさの波状攻撃には終始勝てなかった。
あとは青江の開口一番「やぁこんぺいとう」と、出陣前の「食ったり食われたりしよう」もおなじくらい反則…!だってあらきさん、ほんとにすごい顔してるんだもの!笑

世のなかは 夢かうつつか うつつとも 夢とも知らず ありてなければ
世の中というものは、いったい夢なのだろうか、現実なのだろうか。それは、現実とも夢ともわからない。あってないようなものだから。
古今和歌集 第十八巻 雑歌下:942*2

…見る側を「夢なのかなんなのかわからない」という気持ちにさせた点において、歌の世界を完璧に表現していたんじゃないかなぁと思う。笑
参加する脚本家が複数になることによって、早速こんな引き出しが増えるのか!と驚かされた部分でもあった。

◆第三首:「夏虫の 身をいたづらに なすことも ひとつ思ひに よりてなりけり」

三首目は、にっかり青江による講談パート。
語られるのは「雨月物語」の「菊花の約(ちぎり)」である。(元ネタはこれだよというのは、初日観劇後に友達から教えてもらった。)
ja.wikipedia.org


たった一人でセンターステージに設えられた高座にすわり、釈台を前に語り続ける青江。
冒頭では幽霊を斬った逸話を持つ彼ならではの、人魂との戯れが描かれる。
本当に終始、青江による「語り」と「歌」だけで物語が展開していくのだが、とにかく荒木さんの表現力の凄まじさに圧倒される時間になった。


講談の本物を見たことが私にはないのだけど、ちょっとやそっとで真似できるものではまずないように思える。…のだが、荒木さんの青江はそれを完璧に我がものにしていたように思う。(ご本人はきっとそんなことは全くないと言うのだろうけど…少なくとも見ている側にはそう届いていた。どちらかというと、演じる対象を”憑依”させるタイプの役者に感じるのだが、そんな荒木さんだからこその見せ場になっていたように思う。)
左門と宗右衛門、二人の声色を使い分け、表情も変えて、迫力たっぷりに哀しい物語を語る青江。
最後の「約束を果たしに来たんだ。…風に乗ってね。」のところには、本当に鳥肌が立った。
びゅうと吹きすさぶ風の音につられるようにふと上をみやって、そこからポツリとこぼされる「…風に乗ってね。」の迫力。宗右衛門がもうこの世のものではないことが十二分に伝わってくる、影を宿したわずかな微笑み。思い出してもゾクリとする。


今回の歌合、わたしは長野→福岡→埼玉→東京の4箇所で観劇したのだが、3箇所目となったたまアリで、500レベル、つまり最上階から観た回があった。
もちろん舞台からはものすごく遠い位置なわけなのだが、ここから見た景色が忘れられないのだ。
センターステージに座す青江に向かって、メインステージ側の前方から、細く真っ直ぐに差し込むスポットライト。その明かりに一箇所だけがぼうっとまあるく照らし出されて、周りの客席は、静寂と闇の中にしんと沈んでいる。その光景は圧巻だった。
たまアリという巨大すぎる空間を、あの時間青江は、確かにたった一人で掌握していた。彼の息遣いに、観客たちが固唾を飲んで引き込まれていることが、果てしなく上の500レベルにいてもわかるのだ。演じる力の凄まじさに、本当に痺れるように感動した。

『菊花輪舞』のメロディを歌う声。荒木さんの声は、微かなゆらぎも含めて本当に美しい…。哀切に満ちた歌声に乗って、暗闇の中にライトで描き出される菊の花。壁を伝ってくるくるとまわるその光も含め、一分の隙もないほどに完璧な世界が、そこに構築されていた。
にっかり青江というとらえどころの難しいキャラクターを2.5次元の現場にあそこまでリアルに息づかせることができるのは、絶対に荒木さんだけだと、刀ミュに青江がやってきて3年目だけれど、改めて痛感した。本当に良いものを見たな…!

夏虫の 身をいたづらに なすことも ひとつ思ひに よりてなりけり
夏の虫は、火に飛び込んでわれとわが身を焼き滅ぼしてしまう。それというのも、恋の火にわが身を焼きさいなんでいる私と、そっくりそのままの身の上だからだ。
古今和歌集 第十一巻 恋歌一:544*3

刀として振るわれるばかりで僕は交わりを知らない、と冒頭に語る青江。しかし彼が詠み上げる歌は、恋の激情に身を焦がすさまを歌ったものなのがまた、ある種の矛盾をはらんでいてぐっと来る。矛盾を抱えるのもまた、刀剣男士、心を持つもの所以なのだ。

◆第四首:「梅の花 折りてかざせる 諸人は 今日の間は 楽しくあるべし」

四首目は、梅の花香る陽気に誘われて、誰もいない本丸の庭先に現れた明石によって「戯れにしゃべくりでもしてみまひょか」と披露される、落語のパートだ。


主が大事にしていた梅の枝を誤って折ってしまった…と明石によって思い込まされた今剣と小狐丸が、明石の口車に乗って最終的には「枝が折れたことをなかったことにする」ために、梅の木そのものを切り倒してしまう、というお話。
そもそもの発端は明石自身が枝を折ってしまったことであり、それをごまかそうとくくりつけた手ぬぐいを取ってくれるように今剣に頼むところから、この騒動は始まっている。

…正直に言うと、この話だけは最初見ていて、とにかくハラハラした。何にハラハラしたかというと、刀剣男士の描かれ方についてである。
最後はもちろん「明石が暇つぶしに考えた作り話」だったという種明かしがされるのだけど、そして見ながらもそうあってほしいと願ってはいたものの、はっきりと作り話だと明かされたときは、ものすごくホッとした。
二人を騙して木を切らせてしまう明石も、明石に乗せられて主の大切な木を切り倒してしまう今剣も小狐丸も、けっこう見ていて心がひやっとする描写ではあったな、と思うのだ。わりとギリギリなラインを攻めたなぁという印象。


ただ、ここで狙って描き出されていたのは、おそらくはその見ていて「ハラハラする」部分だったのではないか、と思うのだ。
たぶん、刀剣男士が内包する「人間くささ」みたいなものを、敢えて表に出そうとしたパートだったのではないだろうか。(M2の『神遊び』に”炙り出される本性”という歌詞があったことを、ここでちらりと思い出す。)


明石国行は、初登場となった本公演「葵咲本紀」での描写において、いろんな謎が残されている刀剣男士である。
篭手切江に詰め寄るときの彼は、時間遡行軍について(おそらくは本質を捉えた)独自の解釈を持っている様子を見せるし、
出陣先の時代に生きる人間を協力者に仕立てる三日月のやり方には「ありえへんで」と真っ向から反発しながらも「いや…まだや。まだ終わってない。じっくり見届けさせてもらいましょ」と、含みをもたせた言葉を残している。
現時点では、刀ミュの観客にとってもどこかまだ掴みどころのない明石というキャラクターが、少しこちらの心をひやりとさせるような描写をぶつけてくることには、なんとも言えない納得感があるような気がしたのだ。

人と同じように心を持つ刀剣男士たちが、常に清く正しくあるとは、もちろん限らないのだ。
彼らが本質的に誤った道に陥ることは、しっかりしたあの本丸のことだからきっとないのだろうけれど、それでも彼らが心を持つゆえに、どこか自分勝手な行動に走ることがあったとしても、さほど不思議ではないのである。
この梅の花の物語は、そんな事実をこちらに向かって、ぽんと無造作に投げてきたような気がする。

梅の花 折りてかざせる 諸人は 今日の間は 楽しくあるべし
梅の花咲く枝を折って髪にかざして飾る人びとは、今日のあいだはみな、楽しくすごすことでしょう。
万葉集 第五巻:832*4

「どうですか。もしかするとこれもまた、ひとつの現実なんですよ。ちょっとドキッとしたでしょう。でもひとまず今のところは、この美しい梅の花を愛でて楽しもうじゃありませんか。」
…投げかけられたのは、そんなふうにどこかちょっぴり毒のある、ビターなメッセージだったのかもしれない。刀ミュにしてはかなり珍しいかつ、新しい試みだったな、と思う。

◆第五首:「ぬばたまの 我が黒髪に 降りなづむ 天(あま)の露霜 とれば消につつ」

兼さん・青江・はっち3振りの軽装お披露目となったパート。
とくにはっちに関しては、軽装が発表になったのが、原作ゲームのサービス開始五周年であった1月14日だった。
その時点で歌合は全9都市のうちすでに7都市での公演が終わっていたのだが、それでもしっかりラスト2箇所にはっちの軽装を間に合わせてきたところに、刀ミュの本気度が表れていた。(それまでの公演では、ひとりだけ見慣れた内番姿だったので、軽装で初登場したときの悲鳴や歓声が高橋くんはすごく嬉しかったらしい。笑*5
初日、まず最初に兼さんが軽装で登場したときの、会場に響き渡ったたくさんの悲鳴。その後に続けて表れた青江についても同様で、まさかこの目で見られるなんて…!?と言葉を失った人が多数だったと思う。


このエピソードは、とても穏やかな優しさに満ちていた。
髪の長いもの同士、風呂上がりに一緒になることが多いなと和やかに語り合い、日常の手入れ方法について話に花を咲かせる3人。
その話の途中で、同じく髪の長い刀剣男士仲間である千子村正からもらった椿油を手に、「願掛けだよ」と言って青江が微笑む。
青江は一足先に任務での役割を終えて本丸に戻ってきているのだが、戻ってきた後も、引き続き出陣先で長い戦いを続けている村正と蜻蛉切の無事を祈って、願掛けと称してその椿油を使い続けていたのだ。
つまりこれは「葵咲本紀」とイコールの時間軸なわけで、そんな風に新しく、優しい時間を描き出してくれたことが、すごく嬉しかった。


ここで3振りによって歌われる『夕涼み 時つ風』で、刀ミュ史上前代未聞の大事件が起こる。
伴奏に達者なアコースティックギターの音色が聞こえてきた…と思ったら、まさかの演奏者が、堀川国広その人だったのである…!
メインステージでギターを華麗にかき鳴らして微笑む堀川くんがライトアップされた瞬間、客席からは動揺した悲鳴と同じくらいのボリュームで、笑い声が上がっていた。
…いやだって、意外がすぎるでしょ!!!笑
そんな、内番姿でアコギを弾いちゃう堀川くんって…現実世界に存在していいのかよ!?ってなるよね!?刀ミュの堀川くん、ギターで兼さんに寄り添える系国広さんだった…!?
と、そうやってこっちは全力で混乱してるのに、こんぺいとうパートと同じで、あまりにもしょごたん演じる堀川くんのギターがうますぎて、その完璧さに逆に笑いが出てしまう…といった状況になっていたように思う。
しょごたん…ギターがうますぎるよ!さすがのアーティスト活動の賜物だよ!かっこよすぎるよ!気のせいかもしれないけど、公演の終盤で若干アレンジ増やしたりしてなかったですか!?笑
演出の自由度の高さに本当に度肝を抜かれたし、そんな意外な演出にも全力で「…あり!これは、ありよりのあり!!!」ってなっている客席と刀ミュとの信頼関係も、すごく楽しかった。

ぬばたまの 我が黒髪に 降りなづむ 天(あま)の露霜 とれば消につつ
わたしの黒い髪に天から降りてきた露霜を、取るとそのまま消えていった。
万葉集 第七巻:1116*6

馬に乗れればすぐに髪が乾くと言い張る兼さんが足をガッと開きすぎて、ちょっと!もも引き見えてるよ!状態になってたり、切なくて美しいのにおかしさもところどころに滲んでいて、すごく楽しいパートだったな。
軽装の青江のヘアスタイルの優雅さったらなかったよね…。はっちは相変わらず天女のような美しさだった。
刀ミュがおたくたちの想像をまたしても軽々と超えてきた歴史的な1ページだったと思う。

◆第六首:「ふたつなき ものとおもひしを 水底に 山の端ならで 出づる月影」

今回の六首の中で、わたしが一番好きだったのはこれ…!
なんて粋なことをするんだろうというか、今だからできる表現だったなというか…。

この物語の主人公は小狐丸。
見事な満月を庭で眺める小狐丸と明石。小狐丸は、庭の池に映ったもうひとつの満月を見て、明石がやってくる前に本丸で起きたという、ちょっと不思議な話を語り聞かせる。


長曽祢虎徹御手杵堀川国広の3振りが、立て続けに「ついさっき、別な場所で小狐丸の姿を見た」と言う場面から回想は始まる。
そこへ「面白そうな話をしているじゃないか」と賑やかしにやってきた鶴丸国永。
見に覚えのない自分の目撃情報を次々に口にする仲間に対し、自分はずっとここにおり、厨にいったりもしていないし、油揚げを食べたりもしていないと反論する小狐丸。
そうして「小狐丸が二振り、か…」と考え込む面々に、鶴丸は「狐にでも化かされてるんじゃないのか?」とおかしそうに言うのだが、それを受けた小狐丸ははっと何かに気づいた様子になり、突然刀を抜く。
「あなたがた全員、いつもと何かが違う。…足りないのですよ、刀が。」
小狐丸がそう言い放つと、4振りはさっと姿をかき消し、次の瞬間、それぞれが狐の面をつけた状態で再び現れる。
狐にゃ表と裏がある、と歌い踊る彼らの最後に姿を表したのは、もう一振りの、やはり面をつけた小狐丸だった。


―小狐丸が二振り。
この表現だけで、言葉にするにはあまりある感情が湧く人は、きっととても多い。

2018年の夏に上演された「阿津賀志山異聞2018巴里」において、小狐丸を演じる北園涼くんはパリ公演の本番直前に思いがけず網膜剥離と診断され、出演することができなくなってしまう。そしてパリ公演の1ヶ月後の東京公演の千秋楽まで、彼が小狐丸として舞台に戻ってくることは、その夏の間じゅう叶わなかった。
その時に小狐丸の代役を務めていたのが、刀ミュのトライアル公演からアンサンブルとして参加し続けている岩崎大輔さんである。


歌合の舞台上で、面をつけたもう一振りの小狐丸と、涼くん演じる小狐丸とが正面から相対した様子を目撃したとき、息を呑むような思いになった。
顔はもちろん見えないのだけれど、もう一振りの小狐丸を演じているのが岩崎さんであることは、その姿ですぐにわかる。
青年館で、皆が言葉にできないたくさんの感情を抱いて駆け抜けた夏が一気にフラッシュバックして、ただただ言葉を失った。


そうして己とそっくりなもうひと振りと並び立って向かい合いながら小狐丸が歌うのは、「ひとつはわたし ひとつもわたし」という歌詞なのだ。どちらも自分自身なのだと、分離した心に呼びかける歌。
歌は最後、さらに「ヒトナリヤ モノナリヤ」と続けられる。これは言うまでもなく、らぶフェス2016の流れを汲んだ歌詞。

この「ふたつなきものをおもひしを」の物語は、これまでの偶発的な、決して幸運とは呼べなかった歩みも含めて、その全てがかけがえのない時間なのだと、正面から「今」を肯定するようなものだったと思うのだ。
あの夏に残してきた思いと、それを支え続けた人の存在、そのどちらにも等しく光があたっていて。
どう言い表しても陳腐になってしまいそうだし、二人の築き上げたものを尊ぶには足りないので、わたしにはこれ以上の言葉が使えない。
刀ミュが歩んできた道の確かさと、その場に結ばれてきた様々なかたちの信頼関係が、ありありとそこに浮かんできているように思えた。
千秋楽のあとに、二人で並んだ写真を更新してくれたこと、本当に嬉しかったな。

ふたつなき ものとおもひしを 水底に 山の端ならで 出づる月影
まさか二つはないものだと思っていたが、いまこの池の水底に、山の端からではなくて見事な月が昇ってきた。
古今和歌集 第十七巻 雑歌上:881*7

何が本当に起きたことなのか、結局は結論を煙に巻いてみせたような、答えを出しきらずに不思議な余地を残して閉じた語り口も、三条派らしさが溢れていてものすごく好きだった。



しつこく書いてきた歌合振り返り記事もたぶん次回でラスト。
最後は気が済むまで鶴丸かっこいい国永さんの話をします!

▼歌合について書いた過去記事はこちら
anagmaram.hatenablog.com

anagmaram.hatenablog.com

anagmaram.hatenablog.com

*1:万葉集に関してはこちらのサイト( https://art-tags.net/manyo/thirteen/home.html )を参考にさせていただいた。上の句については、”天地の神を祈るように”あなたを恋しく思うことが日常的であるということなのかな…と解釈した。うまく訳に落とせなかったけど。「やも」は反語の係助詞であるので、=必ずあなたにお会いしましょう、という意味でとれるかと思い、そのように訳してある。

*2:奥村恆哉『新潮日本古典集成 古今和歌集』(2017)新潮社

*3:現代語訳出典は注2と同様。

*4:https://art-tags.net/manyo/five/m0832.html 訳は自分でつけてみた。シンプルな歌で万葉集らしいなと感じた。

*5:ミュージカル刀剣乱舞2.5ラジオ第44回 2020年2月8日放送回より。https://youtu.be/Sl-LvVHx72g

*6:https://art-tags.net/manyo/seven/m1116.html 訳は自分でつけてみた。これも四首目同様、万葉集だなぁと感じる素朴さ。

*7:現代語訳出典は注2と同様。

刀ミュ2部ライブ曲より、勝手に「このイントロが好きだ!」選手権(個人戦)

エンタメを深く愛する我々にとってはあまりにも明るい気持ちになりにくい今の状況。
…だったらセルフでなにか楽しいことを自分に供給してやる~!と思い、金曜の出勤中に思いついたのがコレです。
刀ミュの曲、ほんとうに全てが大好きなんですが、その中でも特に「このイントロに弱い…!」みたいな楽曲がいくつかあるので、アホみたいにニッチなテーマですが、いちど「好きなイントロ縛り」で記事を書いてみたいと思いつきました。
好き放題できるのがブログのいいところだよね!笑


選手権と書いたはいいものの、全曲好きすぎて順序を決められないので、順不同で喋ります。そしてわたしが勝手に好きなものを喋るだけなので、個人戦としました!笑(つまり、どこにも勝ち負けが存在しない戦いである。)
まとめるにあたっての前提はこんな感じです。
ーーーーー

  • キリがなさそうなので、①「10曲におさめる」②「本公演の曲に限る」というルールを科しました
  • トライアルから歌われている曲は、2016年の「阿津賀志山異聞」本公演に寄せて紹介しています
  • せっかくなのでiTunesの楽曲紹介を貼ってるのですが、試聴パートってサビあたりなので…肝心のイントロは聞けないです!うける!笑
  • 音源未販売の「葵咲本紀」は、音の構成要素を細かく聞き直せないので含めていません

ーーーーー

…では参ります!




◆エントリーNo.1「Love Story」(阿津賀志山異聞/2016年より)

Love Story

Love Story

わたしはピアノイントロにものすごく弱いという弱点を抱えているのですが、ほんとにも~~このLove Storyのイントロ、群を抜いてとくにだめなんですよね。どうしてなんだろう…。
実際の公演で思いがけずにかかった瞬間は、過去に漏れなく泣いてきている(らぶフェス2016、単騎2017、単騎2018)。
どことなく、和を感じさせるテイストがある気がするんですよね。でも音とってみたら音階はシ♭から始まる変ロ長調B dur/B Flat major)だったし、とくにヨナ抜きというわけでもなかった。なので、なぜここに「和」を感じるのかは自分でも不思議。

控えめに始まったピアノに乗って、しゃらららら…ときらやかに流れていくウインドチャイム。
そこからぐっと勢いをつけるように、ドラムと共に意志を持って力強く駆け上るピアノの「シ♭レミ♭ファラシ♭ド」の8音が、なんとも言えずドラマティックな展開で、すごく好きです。
ここで頂点にあがった「ド」の音を受けて、今後はHa…の刀剣男士のユニゾンがひとつ下の「シ♭」から降りてきて、美しい音の橋がかかっていく。
なんと表現したら良いか難しいのですが…物語性の強さが随一なイントロだなぁと思うのです。
”切なさ”がぎゅっと詰まった16小節。

◆エントリーNo.2「Get Your Dream」(幕末天狼傳/2016年より)

Get your Dream

Get your Dream

第一音はシンバルから。始まりを予感させる、小刻みにかき鳴らされるエレキギター
その中に突っ込んでくる、ギュイーーーーンと空気を前に思い切り引っ張るように鳴る二本目のギター。ここからはじまるソロが、このイントロの主役という感じがします。ものすごくかっこいい!
どうしても幕末天狼傳という作品の性質が脳裏によぎるからか、このイントロにはすごく「男気」みたいなものをビシバシと感じてしまうんですよね。。
捨て身とまではいかないけど、とにかく後ろを一切振り返らないでがむしゃらに飛び出していく、っていう雰囲気に満ちている気がして。…うん、作品への印象と切り離して語ることができてないな。笑
ドラムも最初から重ためにずっしり遠慮なく刻まれているし、Aメロ直前のイントロラストに刻まれる8音の勇ましさにも、なんというか”生きる戦い”に迷いなく突っ込んでいく姿を想起します。

◆エントリーNo.3「Can you guess what?」(三百年の子守唄/2017年より)

Can you guess what?

Can you guess what?

  • 刀剣男士 formation of 三百年
  • J-Pop
  • ¥255

ベースとドラムでじわじわと世界が開き、そこへ満を持して!といった形で華々しく入ってくるギターソロ。
かっこよさのベクトルが明確なタイプのイントロだなと思います。ある種、芝居がかっているとでも言いましょうか。
イントロなので「始まり」であることは当たり前なのですが、なんというか…「今からかっこいい何かが、来るぞ、来るぞ、……来たァ~!!!」みたいなベタな感じがして、そこがすごく好きなんです。笑
展開にいい意味でのわかりやすさが炸裂していて、イントロだけでもなんだかカタルシスがあるタイプの曲かなと。ライブ会場でかかったときのテンションの上がり方が半端ない。
らぶフェス2018の初日では、まさかまた聞けると思わなかったので、嬉しくなりすぎてものすごい勢いでペンライトを振りました。

◆エントリーNo.4「FLOWER」(つはものどもがゆめのあと/2017年より)

FLOWER

FLOWER

  • 刀剣男士 formation of つはもの
  • J-Pop
  • ¥255

改めて聞き直して気づいたのですが、わたしの中の「Love Story」愛の派生形でもある気がしました。ピアノイントロ+ウィンドチャイム!
サビのメロディをふんわりと優しく奏でるソロピアノに、徐々にギターとドラムが加勢して、そこから一気に明るくシンセが鳴り響いて。
イントロの18小節から伝わってくるテーマは「ただそこに在る優しさ」だなぁと思う。

うまくいえないんだけど、明るくてシンプルにメジャーコードなのに、奥に切なさがこみ上げてくるパターンのメロディがこの世にはあるように思っていて、わたしの中ではFLOWERもそこに属しています。
イントロ・サビと、ABメロで転調しているのもツボなんだよな~。(イントロの話じゃなくなっちゃったけど)。
あまりに好きすぎて、1年以上目覚ましのアラームに設定していたにもかかわらず、思いがけないタイミングでシャッフルで出会うとガチで涙ぐんでしまうイントロです。

◆エントリーNo.5「響きあって」(三百年の子守唄(再演)/2019年より)

響きあって

響きあって

  • 刀剣男士 formation of 三百年
  • J-Pop
  • ¥255

こちらもとてもドラマチックな展開がすごく好きなイントロです!
頭の一拍目をガツンと叩くベース・ドラム、そのブレスを艷やかに埋めるストリングス。
刀ミュ2部曲の中では実はめずらしいと思ってるんですが、ストリングスがとても目立つアレンジ。イントロの第一音から、ABメロ~サビにかけてもずっと弦の音が聞こえてくる。
ある意味でのわかりやすさを持っているところ、Can You Guess What?と似ているなと思ってて、そうなると1部のミュージカルパートのストーリーと2部はやはり密接にリンクしているというか…各作品を担う6振りのチームの色合いが、楽曲に反映されているんだろうな、という気が改めてします。
「Can you guess what?」と「響きあって」には、どちらにも真ん中をまっすぐに攻めてくる、王道のイントロ感があるように思えます。やっぱり、徳川だからかしら…!?

◆エントリーNo.6「Brand New Sky」(結びの響、始まりの音/2018年より)

Brand New Sky

Brand New Sky

  • 刀剣男士 team幕末 with巴形薙刀
  • J-Pop
  • ¥255

構成はごくごくシンプルなんですが、シンプルだからこその説得力がある気がしてる。
鍵盤で「シ♭ラファ」の3音が4回繰り返されることが柱になっていて、3回目からはそこに同じ音でのギターが重なり、ドラムスが加わる。
音の要素は本当にすごく少なくて、みんなのユニゾンで歌が始まる「Brand New Sky, Go to the Space」までにはたった4小節しかないんだけれど、でもそこまでにちゃんとたっぷりと明るい”予感”が満ちているところがすごく好き…!

いわゆる頭サビの曲でもあるので、引きは当然強いほうだと思うんですが、むすはじ公演中に全員曲の2曲目としてこのイントロを聞いたとき、なんてワクワクした気持ちにさせてくれるんだろう!?ってびっくりしたことを覚えています。絶対に楽しいことがやってくるに決まってる!って確信できるというか、勝手に聞いてて笑顔になってしまう。
らぶフェス2018では聞けなかったので、歌合で聞けたのすごく嬉しかった。

◆エントリーNo.7「まばたき」(阿津賀志山異聞/2016年より)

これはMVがあるので動画を貼ります!(なぜならイントロが聞けるから。)使われているのは2015年11月のトライアルの映像…!泣けるなぁ。。

これもなんか、わけもわからずイントロに泣けてしまう曲なんだよな~!
音をとってみたら嬰ハ長調でした。シャープが5音についてる、すごくキラキラした音階、というイメージが勝手に自分の中にあるので、なんだかすごく納得した。
最初の1小節は、ピアノと(おそらくは)グロッケンでごく小さく、ささやかに幕を開けるのに、2小節目になった途端にいきなり要素全投入!って感じで、同時にギターもストリングスもドラムスも一気に鳴り始める。この展開の、なんというかちょっと大げさなところも好きです。
切なげな曲調ではあるけれど、ドラムが遠慮なく前に前にと進めてくれるのも大きいのかなぁ。前を向こうとする空気や意志が伝わってくる気がします。
「明るい、だけどどこか切ない」には、わたしはたぶん一生勝てない。

◆エントリーNo.8「断然、君に恋してる!」(阿津賀志山異聞2018巴里/2018年より)

断然、君に恋してる! song by 石切丸・岩融・今剣

断然、君に恋してる! song by 石切丸・岩融・今剣

聞いてるだけでウキウキしてくる、天才のイントロ!
断然はまじで全てが神曲だと思ってるんですが、こんなにウキウキできるイントロ他にないよね、と思う。粋なギターから始まり、4小節目おわりからの第二展開でぶぁっと一気に音が増える。ホーンっぽい音を出すシンセ、uh~のコーラス、まるでお祭り騒ぎみたいな賑やかさ。
ラスト4小節で繰り返されるシンコペーションで、思い切りよくAメロに突っ込んでいく様子がたまりません。客席でおなじリズムを刻んでペンライトを振るのがとにかく楽しすぎた!

◆エントリーNo.9「Lost The Memory」(阿津賀志山異聞2018巴里/2018年より)

Lost The Memory

Lost The Memory

まさかの鐘の音から始まるイントロ…。このなんともいえない荘厳さったらないよ!涙
パリ現地公演がある作品だったので、パリの都の大聖堂の鐘の音をイメージしたんじゃないかな、という気もしますよね。
イントロの間じゅう、とにかくずっとシンコペーション。前へ前へとつっこみ続けるリズムの刻み方が、ひたすらに意志を歌った歌詞の前奏として、ものすごくしっくり来る。
鐘の音から始まるのに次を受けるのがバリバリの近未来なシンセ音なギャップもたまらないし、最後を小刻みに駆け上がるトレモロっぽい処理も好き…。
このイントロ、好きすぎて言語化が困難になってしまう…。好きです!涙

◆エントリーNo.10「解けない魔法」(阿津賀志山異聞/2016年より)

解けない魔法

解けない魔法

刀ミュ2部曲の中で唯一、刀剣男士のセリフから始まるイントロ。
この曲が生まれたトライアル公演当時は、作品作りの全てがまだ手探り。いわゆる「乙女ゲー」要素も持つ刀剣乱舞をモチーフとしたミュージカルだからこそ、プレイヤー側に刀剣男士が愛を語りかける演出を取り入れてみた…のだと推測しています。
でも今は、その「僕と一緒に行こう。」のセリフが、逆にものすごくしっくり来ていて…。
これは単騎アジアツアー凱旋の感想で書いたことだけれど、刀ミュの深紅の薔薇にしか見せられない景色を、加州清光はいつだって、わたしたちに見せてくれる。僕と一緒に、まだ見ぬ景色を見に行こうって、ずっとわたしたちを新しい世界に誘い続けてほしい。

清光のセリフの裏でピアノによって奏でられるサビと同じメロディー。セリフ後半に差し掛かるとそこにドラムスが加わり、Laの音で歌う清光の声で歌はAメロへと続いていく。
構成音の要素がすごく多いイントロなんですよね。Laの音の裏に聞こえる16分音符も欠かせない存在だと思う。一言でいうとゴージャス…!清光のために作られた曲にこの豪華さ、納得しかない。
刀ミュの加州清光の全てはここから始まったわけですが、誰よりも愛らしく、力を持って真っ赤に咲き続ける清光の魅力が、このイントロにすでに詰まっているなと思います。
わーん、ずっと大好き…!



「なんでこれが好きなんだろう?」って理由を掘り下げたり、言葉に置き換えようと試みる作業がすごく好きなので、イントロという狭い領域についてフォーカスするのは楽しかったです!
とくに音楽については深い知識を持ち合わせているわけではないゆえ、使える語彙の不足を痛感しているのですが…!(18歳までそこそこガチで習っていたピアノ+吹奏楽での合奏経験に頼って書いています。致命的な誤りがあったら申し訳ない。)

好きなものについて考えるだけで、ぜったいに元気が出る。せっかくなら言葉はそういうことに使いたいから。

皆さんはどのイントロが好きですか?

刀ミュ 歌合 乱舞狂乱2019 公演を見終えての感想その3 ~考察後半:まれびとまだか~

考察、というほどのものでは特にないんですが、感想かと言われると難しいな…と思ったので引き続き「考察もどき」としてお送りします。
前半はこちらです。
anagmaram.hatenablog.com




◆「まれびと」とは何か

桑名江・松井江が顕現するにあたって執り行われた”神事”のような一連の儀式。
獣の披露が終わり、終盤パートに差し掛かるタイミングの一曲目の中に(タイトルは『かみおろし』)、
「のぼる篝火(かがりび) まれびとまだか まれびとまだか」という歌詞がある。
”まれびと”という言葉、そのまま「稀(なる)人」として漢字変換はすぐに頭の中でも可能なわけだが、
具体的にどんな意味を背景に持つのだろうというのが気になって、ここについても辞書を引いた。

まれびと→まろうど

「まれびと」つまり「稀(まれ)に来る人」の意で、いまは「客人、珍客」を意味するだけだが、その伝統は根深いものがある。すでに平安時代の饗宴(きょうえん)習俗でも「主客」を「まれびと」といい、その方式には古代祭祀(さいし)に来臨する「聖なる者」を饗応する伝統が受け継がれていた。饗宴の主客を「まれびと、尊者」といい、その応対の当事者が「あるじ」であり、そのための設営が「あるじもうけ」であった。折口信夫(おりくちしのぶ)は「常世(とこよ)」という聖界の存在を想定して、ときあってそこから来臨する「聖なる者(まれびと)」が俗界に幸福をもたらすことに日本の古代信仰の根源を認め、「まつり」はこうした「まろうど」の饗応方式に源流するとした。(中略)
ともかく日本の異郷人・珍客歓待にはこうした伝統があり、いわゆる「あるじもうけ」の伝統もそこに生じた。『翁(おきな)』など芸能の「祝言演伎(えんぎ)」にもまた「まろうど」来訪の形はその跡をとどめている。
日本大百科全書(ニッポニカ))


思った以上に情報量が多くて、お、おお…?となったのが本音。なんとなくぽんと簡単に選んだ言葉ではなさそうだな、という印象を受ける。
ニッポニカでサマリーになっているその背景をもう少しちゃんと理解してみたいなと思い、折口信夫の思想について書かれた本を2冊ほど読んではみたものの、あまりに茫漠とした知識の世界が広がっていてちょっと手がつけられるあれではなかったので、いったん諦めた。結論としては、辞書にまとめてある内容、さすがに有益。それ以上のものは付け焼き刃ではなかなか…。


ひとまず、上記のような内容について、今回の顕現の儀式を理解する助けにしながら、改めて自分の頭を整理してみた。


まず、当然のこととして「まれびとまだか」と呼称される「まれびと」は、桑名江/松井江のことである。
上記のまとめを前提とするならば、聖界、かどうかはわからないが、ともかく彼らは、鶴丸たち刀剣男士がいる世界とは、また異なった位相から現れてくる、ということになる。


ここで思い出すのが、この顕現パートの直前にある、時間遡行軍がクローズアップされるシーンだ。
センターステージに四方八方からじわじわと集結した時間遡行軍たちは、一斉にメインステージを目指して走り出す。そして再びセンターステージ上にひとかたまりになった彼らは、中心に据えられた祠を取り囲み、それを脅かそうとでもするように不気味な動きを繰り返す。
しかしこのとき、時間遡行軍たちはなにか帯状の力に阻まれて、祠のすぐそばには近寄ることができない様子が描かれる。
実は歌合開演前、主の声によってなされる諸注意事項の中に、「結界を破る行為はお控えください」という内容がアナウンスされている。
初日にこの内容を聞いたときは心底ぎょっとしたものだが、ここでいう「結界」とは、この場面に登場している帯状のものを表しているのだろうと思われた。
そうしてしばらくの間、祠を手中に収めようとするさまを見せる遡行軍たちだが、そうこうするうちにに紛れもないその祠から、耳をつんざくような、人の声ともとれるようなとれないような、とにかくぎょっとするような甲高い悲鳴が上がる。最終的にはその声に悶え苦しむように、時間遡行軍たちは散り散りになって姿を消していく。


このシーンを見ているときに感じたのは、なんとも表現しがたい、背筋がぞうっとするような恐ろしさだった。
実際に時間遡行軍たちがあの祠を我がものにしてしまったら、いったい何が起こるのだろう、そう思わずにはいられなかったのである。
この場面から私が結論として受け取ったのは、
「今あの祠の中にいるものは、あちら側にもこちら側にもなりうる、まだ未分化の存在なのではないか」というものだった。
時間遡行軍たちは、今ならまだあの存在を、自分たちの側に引き入れることができると考えたが故に、ああして襲いに来たのではないだろうか。
それをギリギリのところで阻んだのが、本丸の刀剣男士(もしかすると主)によって施された”結界”だったのではないだろうか。


この描写には、巴形薙刀がむすはじで見せた、犬・猫・蝸牛の時間遡行軍へのある種共感とも言える眼差しや、こいつらは価値のないものだから壊しても良い、そういう理論かと篭手切江に詰め寄った葵咲本紀での明石国行のことが自然と思い出された。
やはり刀ミュが描いているものは、単純な善悪二元論などではないのだ。
刀剣男士の存在自体が絶対の正義で、時間遡行軍は必ず倒されなければならない悪、その2つは決して交わることのない異なる存在…というわけでは決してない。
そう単純に切り分けることのできない世界だからこそ、彼らは自分たちの使命に時に悩み、迷いながら、それでも前へ進もうと試み続けることになる。


「まれびと」とは、どこか遠くから来た存在。だがそれはまだ、刀剣男士たちとまったく等しい立場のものではなく、ともすればあちら側へ引きずり込まれかねないような、まだどこか危うい存在なのかもしれない。
そのことは次に続く描写により、さらに裏付けられる。

◆顕現に見える「意志」

いよいよ大詰め、顕現の場面について。
時間遡行軍による侵略の危機に晒されながらも、祠はなんとか守り抜かれる。再び白い装束を身にまとってその前に集まった刀剣男士たちは、「最後の大仕上げ」として全員で歌い、舞い踊る。
そして最後の「八つ!」の呼び声のあとに続けて鶴丸が歌うのは、「今こそ呱呱の声をあげたまえ」という言葉。
何回聞いても「ここのこえ」に聞こえるけれど、やっぱり知らない言葉だなと思い、聞き取った音からまたしても辞書を引いた。

呱呱(ここ)
乳呑子(ちのみご)の泣き声。

呱呱の声をあげる
産声(うぶごえ)を上げる。転じて、物事が新しく生まれる。
(いずれも広辞苑第七版)


これもまた、びっくらこいた…。そんな日本語があるのだなぁ。
鶴丸は、要は「生まれろ!」って言ってたことになるのねと…(そう書くとちょっと違うか…)

それを受けて祠の前には、新しい人らしき存在がついに姿を表す。しかしその顔は面で隠され、見ることはかなわない。
そして彼は、命を持ってこの世に現れたことに、どこか怒りを覚えているかのような、今自分が置かれている状況そのものを拒むかのような姿勢を見せ、こう歌う。

五蘊盛苦
この身に宿る痛み 苦しみ 悩み
何故我を呼び覚ましたのか

それに対して刀剣男士たちは、こう返す。

共に戦うため
使命果たすため
その力を貸し給え 貸し給え 貸し給え

最初に見たときに、わたしはここにも少しばかりの違和感を覚えた。
なぜなら「給ふ(う)」は、尊敬語である。自分よりも、身分が上の相手に対して使う言葉である。
これから仲間になるだろう存在であり、あくまでも刀剣男士と彼とは、対等な立場なのではないのか?それなのになぜ刀剣男士たちはあえて尊敬語を使うのだろう…というふうに思えてしまったのだけど、
つまりはそういうことなのだとしたら。その言葉遣いこそが事実なのだとしたら、どうだろう。


つまり、「かみおろし」と歌われたとおり、面をつけて祠の前に現れた段階では、おそらくまだあの存在は「神」そのものなのである。

刀剣男士は「モノでありヒトである」。付喪神のようなもの、と自分たちのことを呼称するけれど、実態としては彼らはやはりどこまでも「ヒト」に近い。
刀剣男士たちは「心」を持つ。彼らはその心を持っているがゆえに、己の過去に向き合って苦しんだり、仲間との軋轢に悩んだり、役割を果たさんと腐心したりと、とても”人間らしい”様子を見せる。

そんな彼らに対して、あの場面に現れた面をつけた存在は、まだ純粋に「ひとあらざるもの」なのだろう。
だからこそ、刀剣男士たちは「力を貸し給え」と、あくまでも尊敬語をもって、仲間になってほしいと呼びかけるのではないだろうか。

それを受けて、面をつけた存在ははっきりとこう歌う。

生まれた意味は問い続けよう
この身が語る物語を紡ごう

…ここに溢れる意志の表明。
あぁなんて刀ミュらしい世界なんだろう、と思った。

そも、最初に出てくる「五蘊盛苦」は「生きているだけで苦しみが次から次へと湧き上がってくること」を指しているそうだ。
ja.wikipedia.org

命を持つということは、その命ある限り、苦しみを引き受けることでもある。
命を授けられたその瞬間から、すでに彼自身もそのことをわかっている。だからこそ抗いを見せるけれど、力を貸し給えという呼び声に「応じて」、自分の意志で決めるのだ。
この身が語る物語を紡ごう、と。
そうして己の意志を高らかに告げたとき、彼らのもとに、「刀剣男士」としての名前―桑名江/松井江が授けられるのだ。


「物が語る故、物語」の世界がまた、ここにもひとつ新しく始まっていく。
命の元に集うのは、やはり物語なのだ。

◆まぶしいほどの生命賛歌

主による「来たれ、新たなる刀剣男士」の声に続き、ついに桑名江/松井江は華々しくその姿を光のもとに晒す。
堂々と顕現のセリフを述べた彼らの背後には、どうっという勢いとともに、薄紅色の花びらが激しく舞い上がり、それまでとはがらっと雰囲気を異にする歌が始まる。
晴れやかに虹色の光が差し込んでくるような、遠くまで、まろやかに響き渡っていくような、祝福の色合いに満ちた歌が。
ここでの急激な場面展開、最初は本当に驚いたけれど、そうして新しい仲間、新しい命を全力で喜び祝うさまもまた、ものすごく刀ミュらしいものだと感じた。


この曲のタイトルは『あなめでたや』なのだが(タイトルからして、なんて伸びやかなのだろう…!)、それまでの不穏さとはまた違った色合いでの「和」を感じさせるメロディである。
それこそヨナ抜き音階*1に近いような気がする…と思ってFinger Pianoで音をとって弾いてみたら、少なくともサビはヨナ抜きであっているようだった。
「あなめでたや めでたや ふくふくふく → ソミレレソミ レレソミ レミレドラソミ」なので、見事なまでにファとシがない=ヨナ抜きになっている模様…!(これはきっと和田さん、絶対わざとだと思う…!)
儀式の場面の重々しさとはがらりと印象を変えては見せつつも、引き続き「和」の世界観は貫かれている。だからこそ急すぎると言えそうな転換にも、観客側がすっと入っていけたように思う。


桑名江/松井江の背後にぶわっと吹き上がったピンク色の花びら、その中にすっくと立つ二人の立ち姿。それに重なる刀剣男士みなの温かなコーラス。
あの場面に溢れていたのは、紛れもなく「生命賛歌」、生きることへの喜びそのものだったように思う。
眩しくて直視できないほどの、見ているだけで勝手に涙が出てくるような、爆発的な生のエネルギーに、本当に心の底から圧倒された。
仲間を無事に迎えられたことを喜んで晴れやかな表情で歌い踊る刀剣男士たちも、どこかまだあっけに取られているような、これから世界をわかっていこうとする無垢さをたたえたような桑名江/松井江の佇まいも、私には等しく眩しかった。目の前に広がる光景が、あまりにも美しかった。


―共に戦うため、使命果たすため。
そう呼びかけた彼ら刀剣男士たちは、その使命と同時に、「命あること」の素晴らしさ、すなわち生きる喜びを、一足先に知っている。
だからこそ、一緒に生きよう、こちら側に来てほしいと、まだ名を知らない「まれびと」に、まっすぐに呼びかけることができたのだろう。


「生きること、そこに在ること」を、まず最初に肯定するその力強さは、刀ミュの過去作にも連綿と見られたものだと個人的には感じているけれど、
その力強さが、これまでにないほどに純度の高い形で表出していたのが、歌合のあのラストシーンだったように思う。



2月ももう終わってしまう!パライソに追いつかれないうちは、しつこくほそぼそと歌合記事を更新します!

▼その他の歌合感想記事
・千秋楽の後に書き始めたもの
anagmaram.hatenablog.com

anagmaram.hatenablog.com


・初日後にネタバレしない印象だけ叫んだ記事
anagmaram.hatenablog.com

刀ミュ 歌合 乱舞狂乱2019 公演を見終えての感想その2 ~考察前半:「八つの炎」を巡って~

刀ミュ歌合2019感想記事のふたつめです。
今回は、「作品の骨格や全体像をきちんと理解したいと思っていたら、いつのまにか古事記の解説書を読んでいた」おたくによる、ちょっとした考察もどきです。(結論からいうと、そこはなんていうか…うん、惜しかったね!って感じなんですけど。)
以降本文はテーマとの相性を考えて、言い切りの「である・だ」調で進めます&書いてるうちに終わんねえことに気づいたので、考察シリーズは2分割します!



長野での初日公演を見た後、わたしの頭の中にはひたすら大量の疑問符が湧いていた。

今回の歌合乱舞狂乱のストーリーは、「本丸において刀剣男士が二手にわかれ、歌合と称して競い合い、その力によって最終的に新しい刀剣男士を顕現させるまで」のお話である。

…ごく単純に言い表すとたぶんこんな感じにまとめられなくはないのだが、作品全体がもつ奥行きがとんでもなく深くて、とても一言じゃ説明ができないし、今までの刀ミュ作品の比ではないほど、最初は見ていて頭が混乱した。
本当に「一体何を見せられたんだ?」という困惑が、初見時はとにかくとても強かったのだ。

描いている世界がまったく理解できない、ということではない。
ただ、歌詞やセリフのそこここに散りばめられた言葉に込められた「意味」を読み解かない限り、この「わかるけど、よくわからない」感覚からはたぶん逃れられない。
…そう思って、今回はとにかく自分が意識の中で引っかかりを覚えた単語や場面について、わからないことはひたすら調べまくることにした。
以下は、そうして「知らないことは調べるしかない!」と開き直った、おたくの格闘の記録である。


◆冒頭/終盤で刀剣男士たちが執り行っているもの

皆が纏うあの白い衣装。全員がことごとく無機質な表情で、力強く足を踏み鳴らし、大きく体を宙に舞わせるあの光景は、明らかになにか、己より上位の存在に対して捧げる行為なんだろうな、と見ながら自然と感じていた。
なんでそう思ったのか?というのはもう、DNAが反応するから、みたいな感じ。あの舞台上の色合いや音には、自然と「神聖さ、畏れ」をこちらに感じさせるものがあった。

歌詞にも「神遊び」「神おろし」といった単語があることから、あの刀剣男士が白い衣装を纏った一連の場面は、一種の神事として素直に捉えてよいだろう。と考えた。
つまり刀剣男士たちは、歌合の世界の中で、神事を執り行っている。その目的はもちろん、新たな仲間を本丸に迎えること。

ここで最初に気になった単語が「いみび」だった。長曽祢虎徹が歌う「いみびたやすことなかれ」というパート。
鶴丸は松明をもって現れるのだし、火であることはわかるけど、詳細がわからないのでさっそく聞き取った音で辞書を引く。

いむび【斎火・忌火】
《名》汚れをはらい清めた火。火鑽(ひき)りで起こし、神に供えるものを煮炊きするのに用いるなど、神事に用いられる火。いみび。いんび。いむこ。いんこ。
広辞苑第七版)

忌み火
神聖な火。出産や死など穢のあった家の火を意味する所もあるが、本来は斎火(いむび)と同じく、清浄な火のことである。火は穢れやすいものとされているので、年の始めに神社から神聖な火種をもらったり、逆に火種を他所に出すことを忌む風もある。伊勢神宮では忌火屋殿(いみびやでん)という別電で、錐揉(きりもみ)によって発火させ神聖な火種をつくっている。今日でも出立のとき、火打ち石で発火させ、その火の力によって無事を祈願する切り火の習俗があるが、これも忌み火の一種である。忌み火ということばは、照明の火よりも、食物調理の火の神聖さを強調するとき用いるほうが多い。
日本大百科全書(ニッポニカ))

この内容については、広辞苑よりニッポニカのほうがよりイメージがしやすい。
ひたすらになるほど…と思った。冒頭で鶴丸が掲げてきたあの松明は、ただの火ではなく、聖なる火だったのだ。それも、新たな生命を呼び起こすことを目的とした。


そう、歌合の中には、象徴的に何度も「火」・「炎」が登場する。
松明はもちろんそうだし、途中で歌を読み上げた後、刀剣男士たちはその短冊を火に焚べる。その様子もまた、火に歌を「供えている」ように受け取れる気がしていた。

そうして度々登場する火・炎の中でいちばん私にとって謎だったのは、「八つの炎」という言葉だった。

桑名江/松井江が顕現する際、彼らは

我を呼び起こすのは 燃えたぎる八つの炎
我に与えられたのは 肉体と八つの苦悩

と歌う。
つまり彼らの顕現には、八つの炎が必要だった。ただの炎ではなく、八つ。
そして顕現の直前、あのイネイミヒタクク…の謎の歌を3回繰り返した後、刀剣男士たちは声を揃えて、突如「八つ!」と力強く叫ぶ。あの場面は、最初に見たときに本当に鳥肌が立った。


…この「八つの炎」って何のことなんだろう。
ここで、わたしの中には
「歌合の世界における<八つの炎>を理解したい」
という衝動が生まれた。
結果何をしたかというと、やっぱりとりあえず辞書を引いた。笑
日本語を巧みに操る刀ミュの世界において、理解のいちばんの手助けになるのはまずは辞書といっても過言ではないと思う。
2年前に、カシオのEX-wordで大人向けの最上位機種を買ったのだが、日本語だけで広辞苑・ニッポニカ・大シソーラス・旺文社の古語辞典などなど本当に何でも入っている電子辞書で、今回もとても重宝した。
そうして神事まわりの単語について辞書をいろいろと引くうち、そこから「日本の神様、神話といえば…とりあえず古事記なのでは!?」というわかりやすく短絡的な思考に至り、八つの炎について知るべく、まずは古事記について調べることにした。

古事記の中に「八つの炎」を探す試み

さぁ古事記を読もう!と思っても、あまりに馴染みがなくて、いきなり現代語訳を読んで何かをつかめる自信がなかった。ので、今回入門書としてこの2つを読んだ。

どちらもすごくわかりやすくて、面白かった。本当はこれではずみをつけて、最終的に現代語訳にまでたどり着きたかったけど、そんな時間がとりきれるはずもなく、読む前に歌合は終わってしまった…。(後で脚注で触れるけれど、それが惜しすぎたポイント…笑)


読んでいて改めて思ったのが、日本の神様ってものすごく自由だなということ。
何やってんのかその行動原理が正直なところよくわからないし、感情の起伏が急だしすぐに怒るし死んじゃうし。理解を超えた自由さで、でも明確に意志を持って動き回っているのだろうな、という印象を受けた。
魂としての自由さって言ったらいいのか…うまくいえないんだけれど、頼んで言うことを聞いてくれるタイプの相手ではないっていうか、単純な善悪二元論で物事決めたりしてなさそうというか。荒々しさと生命力が溢れているようで、まぁそれは私が日本書紀じゃなくて古事記を選んで読んだせいかもしれないけれど、とにかくそんなふうに感じた。


で、まずは八という数字についてなにが描かれているのか、わからないなりに一生懸命読んでみた。
しかし結論からいうと、そこになにかわかりやすい答えは存在しない。
八という数字は、単なる八という具体的な数を示すものではなく、古代においては「とても多い」という数の多いさまを表すものとして使われる。それこそ「八百万の神」みたいな。
なんだけれど、一方で古事記の中には、ひたすらに八にまつわるエピソードが多く出てくるのだ。
そもそも国生み神話で最初に生まれた島=日本を表す言葉は「大八島(オホヤシマ)」だし、アマテラスとスサノオのウケヒで生まれた神は全部で八人。ヤマタノオロチだっているし、とにかくいたるところ「八」だらけである。
そのことに関しては、どうしても無視できない気持ちになった。特別な数字なのだな、ということを感じざるを得ないというか。


では火についてはどうか。火については、明確に神様がいる。
火の神=カグツチは、生まれるときに自らが火であることにより、母であるイザナミを焼き殺してしまう。それゆえ父神イザナギの怒りに触れ、そのまま父神に斬り殺されている。
火というものは、それほどに力のある存在。命の根源でもあると同時に、命そのものを脅かすこともあると、昔の人が強く感じていた事実が、とても端的に現れているように感じた。
生まれたことにより母を殺してしまい、父に殺されるカグツチ。他にこういう描かれ方の神様っているんだろうか?と思うくらい、飛び抜けて不遇なような気がした。
でもカグツチに限らず、怒った他の神様に切り殺される系の神様。他にもいたなぁ。そしてその後に淡々と別な神様が生まれてきたりするので、秩序なのか無秩序なのか、となる。
古事記の国生み神話、無秩序の中に秩序がもたらされるって説明が多いんだけど、いやその後も結構カオスやんけ!と思うなどしていた。

かぐつち-の-かみ【迦具土神
記紀神話で、伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)二尊の子。火をつかさどる神。誕生の際、母を焼死させたため、父に切り殺される。火産霊命(ほむすびのかみ)。
広辞苑第七版)

…で、結局のところ、八つの炎というモチーフや、それと関わる神おろしの神事について、なにか明確な結びつきを見いだせるような情報は、私の手ではとくに見いだせなかったのである*1
ので、ここは頭を切り替えて、「今回の顕現における神事や八つの炎という言葉は、背景に古代神話のモチーフを散りばめた、刀ミュの自由な創作パートと捉えても差し支えなかろう!」と考えた*2
それがイネイミヒタクク…につながっているんだろうな、とも。
ただとにかく、日本の神様を巡って”八”という数字が特別なものとして認識されてきたことは、なんとなく肌感としてわかるようになった。

◆作品の中における「八つの炎」は何になるのか?

上記のとおり、この拙い調査をもとに、
・刀ミュ歌合の世界の中では、新たな戦う命を顕現させるにおいて、「八つの炎」が必要であった
といったんは仮定する。
そう仮定した上で、さらに気になることが出てくる。
それは、
歌合の場面描写の中では、いったいどこの部分が、具体的にその「八つの炎」にあたるのだろうか?
ということだ。


そもそも私が「八つの炎」に引っかかりを覚えたいちばんの理由はとても単純で、
「歌合で披露される歌は、劇中に六首しかない*3からである。
歌をそのまま「八つの炎」と捉えるには、あと2つ足りないのだ。

  • 1つ目:天地の神を祈りて吾が恋ふる君い必ず逢はざらめやも
    • 石切丸が短冊に歌を書きつけて火に焚べる。
  • 2つ目:世のなかは夢かうつつかうつつとも夢とも知らずありてなければ
    • 蜻蛉切が短冊に歌を書きつけて火に焚べる。
  • 3つ目:夏虫の身をいたづらになすこともひとつ思ひによりてなりけり
    • にっかり青江が短冊に歌を書きつけて火に焚べる。
  • 4つ目:梅の花折りてかざせる諸人は今日のあいだは楽しくあるべし
    • 明石国行が短冊に歌を書きつけて火に焚べる。
  • 5つ目:ぬばたまの我が黒髪に降りなづむ天の露霜とれば消につつ
  • 6つ目:ふたつなきものと思ひしを水底に山の端ならで出づる月影
    • 小狐丸が短冊に歌を書きつけて火に焚べる。

上記のとおり、明確に短冊を燃やす演出が入るからこそ、ここが「八つの炎」とまったく無関係とは考えにくくて、すこし考えこんでしまったのだが…
ここでまた気づいたのが、
「歌合の中には、ライブではなくお芝居パートだが、和歌が登場しない箇所がある」
ということ。
それは「巴形薙刀」と「松平信康と永見貞愛=物部」のパート、計2箇所である。


巴形薙刀は「逸話を持たない、物語なき巴形の集合」として顕現した刀剣男士である。
他の刀剣男士たちが、元の主たちと過ごした日々の記憶、多種多様な物語を持って顕現しているのに対し、巴形ははっきりと、自分には物語がないと述べる。

松平信康は、歴史の中では本来家康公の命により、切腹して命を終えた存在だが(=みほとせでの出来事)、その後石切丸に密かに命を助けられ、以後は松平信康の名を捨て掛川の吾兵と名乗り、農民として暮らしていた。そこから更に三日月宗近と出会い、各時代に存在するという刀剣男士の協力者=物部となり、村正たちの任務を助ける(=葵咲本紀での出来事)。
永見貞愛も信康と同様に、三日月から刀剣男士への協力を依頼された存在である。彼自身は、家康のもとに双子として生まれたものの、権力者の元においては双子は忌み嫌われる存在であることから、人知れず養子に出され永見家に育てられている(=葵咲本紀での出来事)。


上述のとおり、巴形薙刀には、明確に「物語がない」とされている。
信康と貞愛には、「歴史の中で悲しい役割を背負わされた存在」という共通点がある。言うなれば、華々しい語るべき物語を、歴史の中には見いだせない存在、ということだ。

つまるところもしかして。
物語を持たない巴だから、表舞台から姿を消した信康と貞愛だから、
彼らの<物語>が描かれるパートには、他の刀剣男士たちとは違い、歌が添えられなかったのではないか…?


この2箇所を足すと、お芝居のシーンはぴったり八になる。
「八つの炎」が指すものは、もしかするとこの場面を含めての、八つのお芝居・物語だったのではないだろうか。


「人の心に宿る物語をよすがとし この世に生れ出づるのは 歌も我らも同じこと」
と、歌合冒頭で鶴丸は言う。
だからこそ、刀剣男士たちが、桑名江/松井江を顕現させるにあたって供える対象が「歌」なのだと、私はそう理解していた。
歌もまた、ちいさな一つの物語である。その身に固有の物語を宿して生まれてきた刀剣男士たちは、その「歌」を彩る物語を、また新しく、生き生きと表現する。

しかし、今この場で歌い、新たに物語を紡ぐ上で、過去にばかり囚われる必要はないのだ。
これは当然、わたし個人の”願望”を多分に含む理解ではあるけれど、
巴と物部ふたりのパートを含めたらきちんと八になるんじゃないか、と気づいたとき、なんだかすごく嬉しかったのだ。
たとえ自らの物語を歴史の中には持てないとしても、いまここに/かつてそこに、存在していた証は確かにある。その存在の証は、新しい命を生み出すよすがとして、歴史ある物語と同様に機能し得る。そう言われているような気持ちになったから。

葵咲本紀で貞愛が歌う「影は形に従い、響きは音に応じるんだろう」を、ここでもまた思い出した。

◆唐突に思えた二部パートのライブ曲。場面転換まではちょうど「8曲」

歌合でのライブ曲への展開、正直なところ最初は本当に唐突に思えた。
受け付けられないというわけではないんだけど、あまりにも急なので頭がなかなかついていかない。だって、逢はざらめやも…って玉砂利の音に心がしんとした後、こんぺいとう(根兵糖)でしぬほどわらってたら、急にmistakeのイントロが爆音でかかるんだもの、そんなの最初からついていけるほうがおかしいよ!笑

なんだけれど、ライブパートの歌の数を数えていて思ったのだ。
場面が明確に切り替わる=客席降りを始めるまでの間に披露された二部曲も、ぴったり8曲だったのである。
musical-toukenranbu.jp

1首目…あめつちの(石切丸)
2首目…よのなかは(蜻蛉切
・・・・・・・・・・・・・・
1曲目…mitake
2曲目…Impulse
3曲目…Stay with me

・・・・・・・・・・・・・・
3首目…なつむしの(にっかり青江)
4首目…うめのはな(明石国行)
・・・・・・・・・・・・・・
4曲目…Brand New Sky
5曲目…Nameless Fighter
6曲目…約束の空

・・・・・・・・・・・・・・
松平信康/永見貞愛の鯛パート(=前進か死か
・・・・・・・・・・・・・・
巴形薙刀/大和守安定/陸奥守吉行/大倶利伽羅の畑パート
・・・・・・・・・・・・・・
5首目…ぬばたまの(和泉守兼定
・・・・・・・・・・・・・・
7曲目…描いていた未来へ
・・・・・・・・・・・・・・
6首目…ふたつなき(小狐丸)
・・・・・・・・・・・・・・
8曲目…響きあって
・・・・・・・・・・・・・・
(※以降、客席降りと「獣」披露へ)

まあもちろん、客席降りの「百万回のありがとう」も「勝ちに行くぜベイベー」も、同じようにライブ曲なわけだし、そうやってこじつけすぎるのもどうかなと思うんだけれど、
ただなんていうのか…舞台の上から届けるもの、披露するものとしてのライブ曲は、響きあってまでで一区切りだなぁと、見ていてごく自然と感じたのである。


当たり前なんだけれど、二部のライブ曲もまた、「歌」なのだ。
だからなにも、お芝居パートの和歌だけを指して「歌合」と言っていたわけじゃなくって、あの華やかなライブパートの楽曲たちもまた、新たな仲間に会うための「歌合」の大事な要素だったんじゃないだろうか。


「遠くから、歌が、聞こえたんだ。」
桑名くんはそう言って、ほのかに嬉しそうに微笑んでいた。
「遠くから、歌が、聞こえた。」
松井くんは、どこか不思議そうに、これから何かをわかろうとするような表情でそう言った。

彼らの耳に届いていた「歌」は、もしかしたらこのライブパートの曲のことだったのかもしれない。
どこか遠くの方から響いてくる、力強い歌声と歓声と。
それはまさに、8曲目の「響きあって」が表す世界、そのものだったようにも思える。

Oh湧き上がった歓声はやがて波となりうねり出す
全てを伝えたい 解き放ってよCLAP & CALL

響きあって

響きあって

  • 刀剣男士 formation of 三百年
  • J-Pop
  • ¥255
(引用箇所に差し掛かるところで試聴が終わる!無念!)

一部の重厚な物語の骨格を携えたお芝居と、二部のキラキラした現代的なライブとが、奇跡のようにひとつの世界にまとまっているのが、刀ミュの大きな魅力のひとつである。
お芝居を中心に据えた試みになる、という触れ込みだった今回の歌合だけれど、もし上記の考察が当てはまるのだとしたら、
お芝居の世界の中に、ライブ曲までを抱き込んで、今までとはまた違う形で作品世界が融合していることになる。
なんていうかそれもまた、すごく刀ミュらしい表現といえるんじゃないかな…と感じた。

◆考察前半の最後に:なぜ「炎」なのか

ここに関しては、そんなに難しく考えることもなかったのでは…?と、あとになってから気づいた。
なぜなら、刀剣男士=刀は、火によって生み出される存在だと言えるからである。
日本刀の制作過程において、火が切っても切り離せないことはどう考えても明白であり、刀剣男士が新たな仲間の誕生において祈りを捧げる相手が火の神であったとして、何ら不思議はないのである。


明確に聞き取ることはできなかったのだが、
「いかばかりよきわざしてか あまてるや」の鶴丸のあとに、石切丸と小狐丸は
「火産みの神 しばしとどめん しばしとどめん」
と歌っているような気がする。
”~の神”の内容には10回見た今でもどうしても確信が持てないのだけど(ひぶみ、とかひるみ、とかそういう音にも聞こえる気がして)、
カグツチ火産霊命(ほむすびのかみ)とも呼ばれるから、そのことを何らかの形で指す歌詞だったのではないか…?と今はとりあえず理解している。



考察もどき前半は以上です!
なんであんなに熱心に「古事記を読まなくちゃ!」と思ったのか、自分でも今となってはよくわからない情熱に突き動かされていたし、その割に戦果うすっ!って感じなんですけど(そうでもないか?イネイミヒタククの真実に肉薄して終わってしまった無念さはある)、
自ら興味を持って調べたことにより、理解の奥行きがものすごく広がったことを感じました。それはとてつもない財産だったなと。久しぶりに図書館にいったもの…
そっくりそのままの答えが見つかることを期待しているのとも少し違って、自分が作品を受け取る感度を高めるための知識を得たい、みたいな気持ちなんですけど、それにはちゃんと意味があるなぁと思えたし、何より知識が増えるのは楽しかったです。

考察記事後半では、たぶん「まれびとまだか」についてをメインで書きます!
ちまちまとですが歌合の話はまだ続けるので、よければお付き合いください~。


▼その他の歌合感想記事

  • 千秋楽の後に書き始めたシリーズ

anagmaram.hatenablog.com

  • 初日後にネタバレしない印象だけ叫んだ記事

anagmaram.hatenablog.com

*1:知りたい気持ちが募りすぎて、東京都立図書館のメールでできるレファレンスサービスにも申し込ませていただいたけれど、やはり明確な文献は見当たりませんでしたという回答をいただいた。図書館の方、ご対応ありがとうございました…!

*2:実は、このカグツチを鍵として、例の「イネイミヒタクク」の謎を解明していた方がなんとTwitterにいました。 あの歌の謎解きははなから諦めてたんだけど、でもこんなに近くをウロウロしていて気づかない私って…!?となりました…。笑 自分で見つけたわけではないのでここに答えを書くのは遠慮するけれど、検索したら出てくると思うので気になる人は検索してみてください。カグツチwikipediaを見るだけでも、何かしらがわかると思います!https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B0%E3%83%84%E3%83%81

*3:この歌についても、本歌取りなのかそれともそのままなのか?と気になって調べたら、6首とも古典歌集に収録されている和歌でした。万葉集から3つ、古今和歌集から3つずつ。歌についての詳細はそのまま物語パートへの感想につながるので、別記事にすべてまとめます!

刀ミュ 歌合 乱舞狂乱2019 公演を見終えての感想その1 ~客席を「信じてくれたこと」への感謝~

歌合乱舞狂乱、9都市26公演が先日ついに終了しましたね。

11月24日に長野で幕を開けたものの、明確な「ネタバレ禁止令」のお触れが公式から出るというなかなか独特な状況のなか、ダイレクトな感想はいっさいインターネットでしゃべることができず…独特のうずうず感を感じ続けた2ヶ月間となりました。でもそのお触れを守りきった千秋楽の達成感には、とても清々しいものがあった…!

書きたいことは本当にたくさん。だって2ヶ月黙ってたんだもん、そりゃ言いたいこともあるよ!!!そりゃそうだよ!!!よく我慢しきったよね!!!

ひとまず脳内整理に着手してみたところ、多分書きたいテーマとしては、

  • ①「歌合」という作品全体への感想(中身にはあまり踏み込まない、主に印象論)
  • ②「歌合」が扱った古典題材に関する個人的な紐解きの記録
  • ③和歌6首について、脚本それぞれへの感想
  • 鶴丸かっこいい国永さんの話

…の4本立てになりそうな予感。おい最後。って感じですよね。すみません芸風です。笑
書く順番はこのとおりにはならなさそうですが、ひとまずこの記事では①について書いています!




◆本丸の「日常」を垣間見る贅沢がそこにあった

もうほんとに、この点がもはや審神者に対する福利厚生だったと思う…!
刀ミュ本公演は基本的に戦いに出陣している最中の話なわけで、のんびり過ごしている本丸の普段の様子は、どうしても描かれるチャンスが少なくなります。
冒頭やラストに出陣前後の場面描写は当然登場しますが、そのときの衣装は基本的に出陣の戦装束で、内番着姿が見られるのは年末のらぶフェスだけ。らぶフェスの内番スタイルも、基本的にはライブ中盤の盛り上げパートに持ってこられることが多くて、その格好でのお芝居はこれまで見る機会がありませんでした。
「あの本丸で、みんなきっと仲良く毎日を過ごしてるんだろうな…」とは思うものの、色々楽しく&たくましく妄想を膨らませることはできるものの!
実際にその様子を見ることって、これまでなかなかできなかったわけなんです。


それが、今年は!
お話パートの初っ端(石切丸メインの【懐かしき音】)から、登場する全員が内番着姿で、何気ない本丸の日常の一コマを描いてくれるという、いきなり見たかったやつが剛速球で投げつけられるような状態で、初見時は情報量の多さに泡を吹きそうでした。
碁盤を挟んで向かい合う石切丸と鶴丸、それをおっとりと見守る小狐丸。れっすんに励む篭手切江とそれにつきあわされる御手杵
阿波の酒もなかなかいけるじゃねえか!って言いながらお酒を飲み交わす兼さんとはっち。
その傍らでひとり黙々と畑当番を続ける大倶利伽羅…などなど!
(※勢いでこのシーンの鶴丸の話をし始めそうになったんですが、別記事で好きなだけしゃべるので、ここはいったんだまります!笑 あと「吾が恋ふる」のお話自体のやさしさが大変だった泣いたぜ!っていう感想もまた別記事にします!)


メインでお話を展開させる石切丸の周りで、朗らかに談笑したりふざけあったりするみんなの姿が、これぞ日常、というかたちでその場に立ち上がっていて、本当に感動したんです。
「そうだよ、こういう、いつもの当たり前の本丸のこと、本当に見てみたかったんだよ…!?」って、見ながらありがとうの気持ちが爆発してました。ものすごく嬉しかったです…!
別なパートでは、ゲームで実装されたばかりの軽装まで見せてもらえたしね。。はっちに至っては軽装が解禁されたの1月14日だったのに、公演終盤でしっかり衣装変えてくるんだもん、気合いと根性がすごいと思う(運営の)。
刀ミュはいつだって見たいものを見せてくれるなってつくづく思うんだけれど、この「日常」感はこれまで機会がなかったけどすごく見たかったもの!っていう内容だったので、余計に嬉しく感じたのかもしれません。
どのお話の中でも、刀剣男士たちそれぞれの関係性や、そこに漂う空気感がとても丁寧に描かれていて、本丸の息遣いをつぶさに感じることができたように思います。

◆参画した作り手の数は、そのまま世界観の奥行きへ

今回、脚本家・作曲家・振り付け師がひとつの作品に複数いるという、贅沢極まりない状態だったわけですが、正直最初は不安もありました!それは主に脚本面について。
御笠ノさんが書く本がわたしはとにかくツボすぎるので、別な人がお話をつくるとどういうふうになるのか、どうしても全然予想ができなくて。
だけど実際に見てみると、増えた作り手の人数は、ただただ世界観を充実させる結果にしかつながっていなくて。
不安に思う必要なんてなかったんだな、って拍子抜けするくらい、そこにあったのは「いつもの刀ミュ」が、シンプルにパワーアップした姿でした。
そして何より、あの複雑な色合いを、しっかりとひとつの作品にまとめあげた茅野さんの演出の手腕、見事すぎる。


なによりも個人的に「ついにこの日が…」って感慨深かったのは、和田俊輔*1さんの音楽を刀ミュの世界の中で聞いてしまったこと。
公演の事前に動画が公開されていた、あの「イネイミヒタクク」の歌、もはやあの前奏の時点で「いや、こんなんぜったいわだしゅんさんやろ!?」って思ってはいたんだけれど、そしてその予想はあたっていたんだけど…実際に公演の中で和田さんの音楽に触れたとき、なんというか脳みそが痺れるようなすさまじい衝撃がありました。
音が鳴った瞬間から、その世界の色合いや空気を一気に変えてしまう、恐ろしいほどの力が、和田さんの作る音楽にはあると思う。
でもそれでいて、絶対に作品全体を変な意味で”支配”してしまうこともないんですよ…。あれだけ作家性を感じさせる独特の旋律なのに、個性をぶつけているのに、それが世界観の全体を強固にする結果にしか繋がらないという。
そんな矛盾しそうなことが成立すんの?って思うんですが、じっさい成立しちゃってるので、やっぱり和田さん、天才なんだなぁって。あまりのすごさに、聞いているこちらからはこのとおりばかみたいな感想しか出せなくなってしまうんですが…。いやだって天才がすぎる。。

思い出すのは冒頭の「奉踊」を初めて見たときの衝撃です。
あの音楽にのせて、いわゆる神がかりの状態を想起させる、真っ白な衣装を身に着けた刀剣男士のみんなの踊りを初めて見た長野公演。あのときの、どこか「畏れ」にも似た、本能が体の内側で一歩後ずさりをしているような、荘厳な感覚は忘れられません。

◆全編を彩る、日本語の美しさ

具体的な内容は考察っぽいことを書こうと思ってる別記事に譲るのですが、今回、いわゆる日本文学の古典にあたる内容が多々引用されています。
そのため、日本語という言葉の豊かさを、あらゆる場面で浴びるように感じることができて、典型的な文系おたくであるわたしにとってはそれだけで至福のひとときでした。

もともと刀ミュ本公演で使われる言葉遣いの渋さに転がりまわっていた人間なので(例:三日月の「はてはていかがしたものか」*2だけでご飯が3杯食べられそう)、大好きな刀剣男士のみんなが、奈良・平安時代の和歌を次々と読み上げてくれたり、勅撰和歌集冒頭の序文をセリフの一部として述べてくれる世界は、あまりにも贅沢で。
いにしえの日本語の言葉遣いって、なんであんなにうつくしいのだろう。文字で読んでも感じることだけど、音で聞いたときのうつくしさが特にたまらない。古文に久しぶりにたくさん触れたら、なんだか心が独特の潤い方をした気がしました。


何より、好きだとて、私は古典作品に詳しいわけでは一切ないのです。知識は高校生止まり。学生時代の勉強の中で触れた古典が、教科としてものすごく好きだった、ただそれだけ。(今はまったく無理だけど、受験前の脳みそがいちばん賢いときは、辞書なしでほぼナチュラルスピードで古文が読めたくらい好きでした。今考えるとけっこうすごいと思う。笑)
でも大人になってから自分で新しく読んでみようとしたことは正直なところ一度もなく、今回刀ミュがこうしてとりあげてくれなければ、日常生活で出会うことがこの先もそもそもなかったように思います。

こうして、自分がそれまで知らなかったことや、好きだったけど長く離れていたなにかに対して、新しい形での出会いをもたらしてくれるという機能。それって、エンタメがもたらす効果としては、シンプルにすごいことなんじゃないかな?と思うのです。
「詳しいことはわからないけど、なんだか好き」って思わせてくれて、さらにその興味や好意の先に、自分の中で理解の枝を広げてみたいと自然に感じさせてくれる、という事実。
それはそのまま、その作品世界が奥深く、真剣に作り上げられていることの証左だと思うんです。
それだけ心を動かされて、もっと知りたい、理解したいって欲求を呼び起こす力が、その作品には宿っているってことだと思うから。


毎回思うことなんだけれど、お客さんを侮らない刀ミュの姿勢がわたしは本当に好きです。
「ちゃんと届ければ、絶対に届く」。そう信じて、とにかく高いクオリティのものを発信し続けてくれていることが、言いしれようもなくありがたいし、すごく嬉しくなる。
今回はこれまでの刀ミュの歴史と照らしてもとにかく度肝を抜かれる瞬間が多くて、なんてことをしやがる…!?って初日はとくに目を白黒させていたけれど、それだけ新しい驚きにたくさん出会わせてもらえたことについて、観客としてこれ以上の幸せはないと改めて思いました。

◆アリーナクラスの会場で成立した「お芝居」。残るのは、「信じてくれたこと」への感謝

「今年はこれまで(=真剣乱舞祭)よりも、さらにお芝居の要素を増やす挑戦をしてみたいと思っている」というコンセプトは、公演発表の当初から、運営側によってとても明確に告げられていました。
とはいえ、公演が打たれる会場はどこも数千人規模のアリーナクラスのところばかり。埼玉公演にいたってはたまアリです。
らぶフェスにももちろん物語が語られるパートはあるにせよ、ライブがメインだった3年間を見てきた身からすると、「会場規模は変えずにそこで”お芝居”を中心に据えるって、ほんとにそんなことできるの?」という、不安にも似た疑問が湧いていました。
だって劇場とは比べ物にならないくらいの距離が、客席とステージの間にはどうしても生まれてしまうわけだし。…ちょっと流石に無謀なのではないか?とドキドキしていたのも事実。
なのですが、その不安は完璧に杞憂でした!


不思議だなと思ったのが、らぶフェスを見ていたときよりも、ステージとの距離の遠さを感じなかったことなんです。
それこそらぶフェス2017のたまアリでは、アリーナ後方にいるときも200レベルにいるときも、決して「近い」と感じることはできなくて、ちょっとした疎外感を抱く瞬間も実のところ多かったのです。もちろんすごく楽しいんだけれど、座席位置による格差の体感には、そこそこシビアなものがありました。

それに対し、今回のステージングは、アリーナ後方に配置したサブステージと正面のメインステージとの間に花道を設けない、とてもシンプルな形。
つまりステージ間の移動はすべて徒歩(というかダッシュ)という、キャストにとってはかなり負担の大きなものだった気もするのですが、サブステージがアリーナ中央ではなく後方にあったためか、どこで見ていても遠さによるさみしさを得ることは特にありませんでした。
物語が展開する中心位置がメインステージでもサブステージでも、それはおんなじで。
うまくいえないんだけれど、作品世界の中への没入感が、あの会場の大きさで可能なものとは思えないくらいに高かったのです。
見ている客席側にも、ぴりっとした緊張感があったりして、その場にいる全員で「作品を成立させている」っていう体感が、不思議なほどに得られたんですよね。今回の会場の中で一番遠かったと思われるたまアリの500レベルで見た感想もそうだったから、ここは自信を持ってそう言える。


この「ライブ会場で公演を行い、数千人に対して生のお芝居を届ける」という一見無謀にも感じられる試みが、疑いようもなくしっかりと成立していたことにも、刀ミュの歩んできた道のりの確かさが表れていたように思います。
だってどう考えたって、受け手側にそれなりの集中力がないと、場の空気って簡単に発散してしまうと思う。音声にならないまでも、内心がざわついてる客席の空気感って絶対に演者にも伝わるものだし、その中でお芝居をやることはやっぱり無理だと思うんです。
だけどその点について、見ている間じゅう、本当に不安がなかった。
あんなに大勢の人がしんと静まり返って、息を飲んで一心に舞台を見つめている時間、わたしは初めて経験しました。


「難しいかも、無謀かも」って、きっと届ける側にも多少なりとも不安はあったと思う。だけど、わたしたち客席側のことを信じて、こんなとんでもない作品をぶつけてきてくれたことが、何よりもすごく嬉しかった。
これまでおためごかしのない、硬派に過ぎる作品作りを続けてきた運営と、それに惹かれてついてきたお客さんたちとの間に、もうしっかりとした受けこたえの関係性が出来上がっているんだなって思えて。
観客として信じてもらえるって、エンタメの受け取り側として得られる最高のご褒美のひとつだと思います。それを今まで以上に高い純度で与えてくれた刀ミュのこと、余計好きになりました。


なによりその信頼関係は、今回の「ネタバレ禁止」が観客側によって守り抜かれたことによって、ひとつ結実したのではないでしょうか。

歌合2019の作品の根幹=「これまで本丸にいなかった新しい刀剣男士(桑名江/松井江)を歌合によって顕現させる」という仕掛けは、基本的にSNSでは固く秘密として守り通されていたと思います。
作品のネタバレをSNS上でどう捉えるかという、そもそも議論を呼ぶ内容が絡むので難しい点もあるんだけれど、今回刀ミュがわたしたちに望んでいたのは、「観客として、皆さんも一緒にこの作品を作ってくれませんか?」っていう、ごくシンプルなことだったのではないかと感じました。


歌合の公演後、陸奥守吉行を演じている田村心くんが上げてくれたブログの文章に、こんな一節がありました。
lineblog.me

ネタバレ禁止を信じた「刀ミュ」と
ネタバレ禁止を守ったお客様

ミュージカル「刀剣乱舞」と
お客様との間に信頼関係がなければ
今回の「歌合」は本当の意味で
成立しなかったのではないでしょうか。

年月をかけて
たくさんの出陣を経て
たくさんの歴史ができて
その中で生まれた信頼関係なのだと思うと
すごいことだし素敵だなと思います。

受け手側で得ていた体感を、実際に演じていたキャストさんの言葉でそのまま聞くことができたことの嬉しさに、読んでいて勝手に涙が出ました。
この心くんのブログ本当に素晴らしいので、是非全文読んでほしいです…!


そして武蔵野での千秋楽、カーテンコールでの一コマ。


2ヶ月の長きにわたり、年をまたいで日本全国を飛び回り、しかもまさかのカンパニー内に絶対に存在をバレてはいけない秘密のキャストを抱えながら、全26公演をやりきった皆さんに、心からのねぎらいと、感謝の気持ちをおくりたいです。
わたしたちのことを、信じてくれて本当にありがとう。



なんか一番最後に書いたほうが良かったのでは?感のある、まとめ感たっぷりの文章になってしまったんですが、まぁ2ヶ月我慢してたから…笑
体調崩したりシンプルに忙しすぎてここのところ全然ブログを書く時間がとれてなかったのですが、2月にはいってだいぶ落ち着いたので、ここからしばらく気の済むまで歌合を振り返ろうと思います!

*1:数々の舞台作品の作曲を手掛けており、主に「TRUMP」シリーズ、ハイパープロジェクション演劇「ハイキュー!」で彼の音楽に触れている舞台おたくは多いと思います。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E7%94%B0%E4%BF%8A%E8%BC%94

*2:阿津賀志山異聞2018巴里で歌われる「向かう槌音」に登場します。

3年遅れで触れたドラマ「逃げ恥」があまりにも面白かったのでその感想

あけましておめでとうございます!あなぐまです。
当ブログは基本的に観劇+推しを追いかけるにまつわるあれこれを書いているブログなんですが、2020年一発目はめちゃくちゃに珍しく、とつぜん映像作品の感想を書きます。
そのタイトルは「逃げるは恥だが役に立つ」、通称「逃げ恥」です。…いや、なんで今なん?
www.tbs.co.jp

というのも、ご存知の方も多いと思うんですが、12月28日~29日の2日にかけて、年末に一挙再放送をやってたんですよね。
その情報は特に知らずに、メイク途中の時間つぶしにつけたテレビで見始めたのがきっかけ。
そのあまりの面白さに腰を据えて見てしまい、うっかり友達との約束に遅刻しそうになったので、慌てて録画予約を入れてそのまま家を飛び出しました。
それを29日にまとめて全話見たのですが…なんかもう、言葉をなくすほど、面白かった。


「いやこんな面白いなら教えてほしかった!?わたし当時なんで見てないの!?」って本気でどこかに責任転嫁しそうになりました。
…いや、教えてほしいもなにも、当時いやでも耳に入ってくるくらいの大旋風を巻き起こしていましたよね。うん、その記憶はたしかにある!笑
放送時期がいつだったかもおぼろげだったのですが、2016年秋クールという放送時期を確認して「あ~」と納得しました。
当時のわたしは最愛のコンテンツであるミュージカル『刀剣乱舞』のとある公演に命を賭けていたので、頭と心双方に、他の一切のものが入る隙間が一ミリもなかったのです。あのいきるかしぬかみたいな精神状態だった時期に、連ドラなんてまず見られるはずがない!(そんなに?)
そもそもの前提として、連ドラを見る習慣がまったくないこともあり、「すごいな~えらい流行ってるなぁ」とぼんやり思っていた記憶のまま、話の詳細もとくに知らずにここまで来ていたのでした。

そんな状態で今見たら、あまりにも面白かったので、ちょっとびっくりしてしまって…
「いや3年も前の連ドラの感想をなんで今?しかも新年一発目に?」という気持ちにはなるのですが、せっかくなので感想を書き残してみようと思います!

◆「3年前」という古さを感じさせないストーリー

まずはここですよね…。3年って、ゆうてけっこう前だと思うんですよ。
だって、最初信じられなかったもの。劇中でみくりが見るスマホのメール受信日時が「2016/10/30」とかになってるの見て、「いや嘘では!?さすがに3年も前じゃなくない!?」ってしばらく本気にしてなかったもの。それくらいびっくりした。つい最近のドラマかと思ってた!

きっちり3年経ってなお、物語が伝えてくるその内容が、まったく古さを感じさせないんですよね。むしろ、未だに最先端を行っているのではないか?とすら思わせるほど。
唯一「ちょっと前の内容だな」って感じるポイントは、みくりのファッションくらいでしたもの。
「そうか、あの極端にトップスを前だけインするスタイルは2016年のトレンドだったか…!」って懐かしさを感じたりしました。
それ以外の面では、一切古びたポイントがなかったように思います。
強いて言えば、平匡の転職先、今ならたぶん爆速で決まるんじゃないかな?とか、それくらいか…?(優秀なITエンジニアなら2016年時点でも引く手あまただったのではと思うんですけど、どうなんでしょうね!?)


古さを感じさせない理由、それは「やりがい搾取」にみられるような、登場する言葉のキャッチーさだけによるものではなく、
この作品に通底する「相手や状況を、勝手に決めつけない。世間の『常識』を、当然のものとして捉えない」という、毅然とした態度にこそあるように思います。
その姿勢や心意気といったものが揺らぐことなく、物語をまっすぐに貫く柱になっていることが、現時点でもまだ「新しい」と感じてしまうポイントなんじゃないかなぁと。
多様性なんて言うのは簡単だけど、実践することは本当に難しいし、ざっくり言ってしまえば日本社会ってそれがものすご~く、永遠に不得手であるように思います。
そんな中で、ごく軽やかに、でも確信犯めいた打算を交えて、「みんなちがってみんないい!」って突きつけてくる逃げ恥の語り口、とことん胸がすくようでした。

◆「当たり前」に逃げ込まない、そのことの強さと苦しさ

みくりは、大学時代に彼氏に振られた時に言い放たれた「お前、小賢しいんだよ」という言葉が、ずっと棘のように刺さって抜けていません。
平匡は、年齢=彼女いない歴である自身のあり方について、みくりに言わせれば「極端に自尊感情の低い男」です。
そんな二人が、家事労働に対する正当な対価としての賃金を発生させる「契約結婚」という形を選ぶところから物語は始まりますが、時間の経過・関係性の変化に伴って揺れ動く二人の感情が、ものすごく丁寧に描かれていました。


特に秀逸だなと思ったのが、みくりが待ち望んでいたはずの平匡のプロポーズに対して「それは、好きの搾取です」と真っ向から険しい表情で反発してみせたこと。
あそこで、視聴者も平匡と同様に、冷や水を浴びせられた気持ちになった気がします。

だって、「好き同士なら、正式に婚姻関係をむすんで夫婦になることに、何ら障害などないはずだ」って、見ている誰しもが、当たり前のようにそう感じてしまってたと思うんです。二人には絶対に幸せになってほしい!と思っているからこそ。
でも、そこでみくりは自分の心の中に生まれたモヤモヤに、背中を向けることをしなかった。
これまでは給料をもらい、その対価として提供してきた自分の家事労働が、正式な結婚という形を取った瞬間に、無償で提供されて然るべきものに成り代わってしまう。
そのことへの釈然としない気持ちや苛立ちを、みくりは大好きである平匡に、ちゃんと正面からぶつけます。
その姿に、「そうだ、世間一般で当たり前と思われることがイコール幸せだなんて、いったい誰が決めた真実なの?」って、改めて脳みそを揺さぶられるような気持ちになりました。


逃げ恥のストーリーは、上記のとおりに
「『好き』という感情を肯定しつつも、生きる上での免罪符にはしない」
という、恋愛を描くドラマだとしたらかなり困難であろう道を進んでいます。(※そもそも、恋愛ドラマという枠には収まっていない作品だとは思うけれど。*1

ラスト2話では、結婚に対して新しく平匡から提唱された<共同経営責任者>という考えに基づいて、「仮に結婚をするなら、関係性が変わるなら、それ相応のあたらしい形・二人のルールを最初から作り上げねばならない」と決めて模索する二人の姿が、とても丹念に描かれていました。
みくりと平匡に関しては、正直ときめきがだいぶ目減りしたけっこうにシビアな描写続きの中、逃げずにここに2話しっかりと当て込んだこと、脚本の手腕がすごいなと思いました。
大半の視聴者が見たいであろう二人のラブラブな微笑ましい姿ではなくって、現実ありのままか?となるようなすれ違いを、丁寧にぶつけてくるのがすごい。
青空市の手伝いを始めて以降のみくりは、それまでの癒やし系そのものみたいな朗らかな笑顔ではなく、眉間にしわのよった険しい表情をたくさん見せるようになるのですが、その姿を見ていたら「いや、人生をともにするって、ほんとそういうことだよな…」と、身につまされる思いになりました。


そう、生活って、続いていくものなんだ。
好きな人と結ばれたら即幸せになってめでたしめでたし、では全然ないのだ。
忙しすぎる最中に「お願い、ご飯だけ炊いておいて!」って頼んだパートナーがそれをすっかり忘れて、あまつさえその事実を隠そうとまでしていたら、「いいです、私が買いに行きます」ってブチ切れて財布を掴んで家を出ていきそうにもなるよ。わかるよ、それが生活だよみくり!

「一緒に『暮らす』ことを続けるために、自分たちはいったい何をしたらいいのか?」って真正面から真面目にもがく二人は、本当に誠実でいじらしくて、何を大切にすべきなのか、妥協せずに選び続けました。
だからこそちゃんと、ドラマとしての嘘のないハッピーエンドにたどり着いたんだろうな、と思います。

◆ゆりちゃん。好きだ…!

もちろん主演の二人はめちゃくちゃに可愛らしくて、なんてことをしてくれるんだ!?と萌え散らかすようなシーンてんこ盛りで大好きだったのですが、それ以上にわたしがやられたのは、石田ゆり子さん演じる土屋百合(百合ちゃん)でした。
一気見しながらTwitterでひたすら「ゆりちゃん!」って叫ぶゆりちゃんbotになってしまった。それくらい好き。ゆりちゃんが好き。胸がくるしくなる。


これはたぶん2016年当時に散々言い尽くされたことだと思うんですけど、ゆりちゃんの最終話でのセリフ、めちゃくちゃに泣きました。

「自分に呪いをかけないで。そんな恐ろしい呪いからは、さっさと逃げてしまいなさい」

だーりお演じる「ザ・若くて綺麗な女」代表みたいな杏奈に対して、優しくかつ毅然とそう言い渡すゆりちゃん。
ここで語られる「呪い」=「女は若くて綺麗なうちに(のみ)価値がある」は、多分この先もずっと、この世の中からなくなることはないんだろう、と思う。
だけど、それに対して自分がどう振る舞うべきか、<選択する>自由は、確かに自分にある。


わざとらしく、おばさんのかわりに「お姉さん」と呼びかける杏奈に対して、ゆりちゃんが渡してあげた言葉は、なんというか…闇の呪いに対する光の魔法みたいなものだったんじゃないかな、と感じます。
それを聞いたあとの杏奈の表情が、視聴者にはわからないのもすごくよかった。
直前まで画面に映し出されているのは、ゆりちゃんに諭すように語りかけられて、居心地の悪そうな、むすくれた表情をしている杏奈。
本当は自分がとんでもなく恥ずかしいふるまいをしていることをわかっている、だけどその過ちをすぐに認めることなんてしたくないしできない。その様子を隠すことなくありありと顔に出すその様子が、リアルで好きでした。
すぐにしおらしく反省したような態度なんて取られても嘘っぽいもの。

杏奈はゆりちゃんに勝つつもりで乗り込んで来たのだろうけど、そこにあるのは勝負なんかじゃなくて、「自分を大切に生きなさい」ってわざわざ伝えてくれる、人生の先輩との時間だった。
きっとあの瞬間は、めちゃくちゃに悔しくて憎らしい気持ちになってるだろうけど、でもああしてゆりちゃんが言葉にして渡してくれたものは、きっと杏奈の未来をいつか変えるのだと思う。


ゆりちゃんのあの佇まいを見ていると、言葉にならない感情が溢れてきます。
どこに出しても恥ずかしくない本物のバリキャリ。当然お金に余裕があって、かっこよくて美人。周りにそう評価され続けながら、あることないことしょっちゅう言われながら、ただ自分が選んだ生き方から、きっとゆりちゃんは、逃げることだけはしなかった。
ゆりちゃんのその姿があまりにも美しいから、安っぽい言葉で勝手なことを言えなくなる。
ここでかけたい言葉は、「ゆりちゃん、幸せになってほしい」じゃない。
だってきっとゆりちゃんはずっと、自分として生きてきて、今の今まで幸せだから。そうに決まっているから。
だからたぶん、ゆりちゃんに言いたくなる言葉の正解は
「ゆりちゃん、笑顔でいてほしい」
だなと思いました。
ただ、笑顔でいてほしいです。うつくしい生き方を見せてくれて、ありがとうゆりちゃん。

◆丁寧に「呪い」が解かれていく話

逃げ恥を見て最終的に感じたのは、これでした。
登場する誰もが、過去のトラウマやこれまでの自分の人生の経験によって身についた、なにがしかの「呪い」を心のどこかに抱えて生きている。
その深刻さや強さに濃淡こそあれ、誰ともわかちあえない、自分だけの生きるつらさ、みたいなものを、全員がそっと抱えている。そしてその呪いから、みんな少しずつ解放されていく、そんな物語だったように思います。


傍から見ればなんの不満もなさそうな人だとしても、本人の心にはぽっかり空いた穴があったりする。
その事実を突きつけられたのが、酔った平匡をゆりちゃんが運転する車で送り届けるシーンでした。
助手席に座った風見が、高校時代に初めてできた彼女に関する苦い思い出を振り返りながら、「かわいそうだって自分のことしか見えてないあの子に、なんて言えばよかったんだろう」というセリフには、凄まじい強さがありました。
寝ているふりをした平匡に聞かせるつもりでわざと話した、僕は性格が悪いんですってあとになって笑いながら言っていたけど、それは半分嘘なんだろうな、と思わずにいられなかった。
「持っている」ように見える人にしかわからない生きづらさや苦しさを、わかることはできなくても、せめて想像することのできる人でありたいなと、感じさせられるシーンでした。


呪いは、どこに潜んでいるかわからないし、一度出会ってしまったら長期間苦しめられてしまうことがある、恐ろしい存在。だからなるべく出会わないよう、避けるに越したことはない。
だけどそうして運悪くかかってしまった呪いだって、誰かのたった一言で、たしかに解け去る瞬間がある。

「みくりさんのことを、小賢しい、だなんて、思ったことはありませんよ」
最終話で平匡が不思議そうに告げたその一言は、みくりの心の棘を、鮮やかに抜いた。


「逃げることは恥ではない、それで生き延びられるならそのほうが良い」
から始まるストーリーなんだけれど、
たぶん「自分」として生きることからは、どうしたって逃げられないんですよね。
ならばその分、できるだけ楽しい方がいい、幸せに近いほうがいい。
そのために必要な逃げならば、何度だって打って構わない。
大切なのは、生き延びることなのだから。


人が決めた価値じゃなくて、ただ自分が決めた信念に従って、なるべく伸びやかに生きられますように。
その中で、大切な人と、明るくて楽しい時間をできるだけたくさん過ごせますように。



見終わった後には、ただより良く生きようとする”意志”だけが明るく残る、そんなドラマでした。それこそ呪いのように作用してしまうことがある「自分らしさ」という言葉からも、するりと逃れるような不思議な軽やかさがありました。
3年遅れになったけど、見られて本当によかったです。
あとたぶん、日本全国が飽きるほど聞いてきたはずだけど、それでも「恋」はやっぱり名曲ですね!?星野源さんは才能のかたまりすぎるよね!?というか、あのエンディングに溢れる多幸感は反則だ。ロングバージョンはとくに泣けて仕方なかった。

3年遅れのとつぜんの感想(しかも長文)に、おつきあいありがとうございました!せっかくなので原作も読もうと思います!

*1:「新感覚の社会派ロールプレイング・ラブコメディ」だそうだ、なるほど…!間違いなく「ラブコメ」ですね。 https://www.tbs.co.jp/NIGEHAJI_tbs/intro/