刀ミュ「~結びの響、始まりの音~」も、ついに明日が大千秋楽。今回は50公演あって長いと思ってたのに…早いね!
終わるときって、あっけないんだね…(やめろ)
そして略称がけっきょくどれがメジャーなのかわからないまま来てしまいましたけど、やっぱ「むすはじ」なんですかね?
私も最初はそうかなって思ってたんだけど、「音」を「おと」じゃなく「ね」って読むって知ってから「じゃあ”むすびね”でよくね!?」となっておりますが、…皆さんはどれを採用していますか?笑
前回の初回観劇後の記事 では、とにかく幕末天狼傳ロスが大爆発したそのさまを叩きつけることしかできなかったので(下記リンク参照)、
今回は話の本筋に近いかなと思われる部分についての感想?考察?のようなものを、書いてみたいなと思います。
今回、私が結び音のストーリーのキーだと思っているのは、巴形薙刀という存在です。
単体では逸話を持たない、巴形という形の薙刀の集合体として顕現した刀剣男士。
刀ミュの展開はゲームの展開と足並みをそろえることを意識しているように思っているんですが、七十振りを超えた刀剣男士の中で、あえて今巴形がラインナップされたことには、きっと意味があるんだろうなと感じていました。
今回、劇中で巴はいくつか決定的な言葉を発しますが、その一つが
「時間遡行軍。あれは、物語を持たない刀たちの成れの果てなのではないか。だとしたら…」
というもの。
初日に観たときは本当にびっくりして「!?」となりました(が、幕末天狼傳ロスで、その後それどころではなくなっていた)。
恐らくみんながなんとなく感じていた内容を、そんなふうに明確に言葉にしちゃうのが意外すぎて。ずいぶんと思いきったことをするなー!?って思ったんですよね。
この巴の投げかけは、わからないけど、ゲームの根幹設定にもかかわってくる、とても明確な示唆だと思うんですよね。
そこで、仮に、巴の言う通り、時間遡行軍が「物語を持たない刀たちの成れの果て」だとすると、何が言えるのか…ということを自分なりに考えてみました。
1.何が刀剣男士の条件なのか
巴形薙刀は、自らを「補充戦力」と称します。
隊長に任命されると「主、それほどまでに追い詰められているのか」と言ったりもします。
この「補充戦力」という表現がどうにも引っかかっていたのですけれど、つまり巴は自分のことを「仲間である他の刀剣男士とは違う存在」だということを言いたいのかな、と思ったんですよね。
他の男士とは違っているからこそ、彼が「補充戦力」になり得るのではないか、という発想です。
では、巴が他の刀剣男士と異なっていることとは…それはもう自明ですが「逸話を持たないこと」。それ以外にないでしょう。
つまり、本来刀剣男士を刀剣男士たらしめている条件とは「強固な逸話を持っていること」になるのではないか、と思ったんです。
逸話がある、ということは、その刀には、元の主たちと辿ってきた道筋があるということ。
それはすなわち、そのまま「歴史」ということにならないでしょうか。
つまり、逸話を持っている男士たちは、自分たちの内面に、元の主との思い出、記憶=歴史を守ろうという、モチベーションを持っているといえるのではないかと思ったんです。
逸話がなければ、その歴史を守るという強い動機付けも、生まれえないのではないかと。
そしてその「逸話」が、事実であるかそうないかという点は、恐らく重要ではないようです。
現に、前作の「つはものどもがゆめのあと」では、岩融と今剣が、この世に実在したことのない刀である、ということがはっきりと明言されました。
しかし、彼らの刀剣男士としての存在が揺らぐことは一切なく、
実際に岩融は、自らの非実在を認めたあとでもなお「この俺の記憶だけは、誰にも奪えない!」と堂々と言っています。
つまり、それが事実であるかどうかに関係なく、歴史の中で語り継がれてきた「強固な逸話」があることにより、刀剣男士は顕現しうるし、その存在を持続しうる、ということになります。
ゲーム説明では、歴史上の「名刀」が刀剣男士になって歴史修正主義者と戦う、という設定だけれど、
名刀ということはつまり、「逸話」を多数持つ刀たちの集まりに他ならないともいえるのではないでしょうか。
そういった背景を持たずに顕現してきた巴は、劇中で何度も「物語」という言葉を使い、自らと周囲の刀剣男士との違いを確認するように振舞っていました。
そして彼のその違いこそが、最初に述べたとおり、彼が「補充戦力」たる所以なのだろうと思ったんです。
2.補充戦力の役目、とは
では、実際のところ、逸話を持たない巴が補充戦力となる理由とはいったいなんなのでしょうか。
ここでもう一度、時間遡行軍が「逸話を持たない刀たちの成れの果て」だという前提に立ち返ります。
逸話を持たない刀、の特徴をとらえているのではないかと感じたのが、今回の劇中の巴のソロでした。
あらゆる時 あらゆるところに 逸話を持たぬ刀 薙刀
っていう歌詞があるんです。
そのあとが5回見てなおうろ覚えなんですけど「行くべき場所もなく(このあと忘れた)彷徨い ただよい 溶け合うだけ」だったと思う…。明日確認してこよう…笑(←しました)
この巴のソロからヒントを得ると、名もなき刀・逸話なき刀、については
- おそらく日本の過去の歴史の中には、何百万をくだらない数、本当に大量の名もなき刀が存在したはず。
- 日本刀は武器として形が完成された奈良末期・平安初期~江戸時代の終わりまで、約1000年の長きにわたり存在し続けた。
- (日本の中だけで見ると)おそらく全国、どの土地にもあまねく存在していた。
という風にとらえることができそうです。
そう、日本刀が存在した時代に限って言えば、ほんとうにいつ、どこにいっても、おびただしい数の刀が存在したはず。
そこでふと思ったのですが、つまり、刀という存在に先に着目したのは、歴史修正主義者だったんじゃないでしょうか…?
「いつ/どこにでも存在しうる」「名もなき刀」を、そのまま戦力として取り込むことができたなら、それは数の上ではものすごく有利なんじゃないかなって。雨後の筍のごとくいくらでも湧き出しうる、無限に補充できる戦力なのではないかなと…。
そこに着目して、歴史修正主義者は名もなき刀たちを時間遡行軍に変えていったのではないでしょうか。
そしてそれに対抗するために、審神者の霊力で「強固な逸話を持つ」刀が、刀剣男士として顕現させられたのではないでしょうか?
さらに、逸話を持たない刀たちは、おそらく「今の歴史に名を残さなかった」から、ある意味逆説的にですが「今の歴史に執着しない」という特徴があるといえるのでは、とも考えました。
彼らはそうした「操りやすい」という意味でも、歴史修正主義者から見たときに、歴史改変の戦力になりうる存在なのではないでしょうか。
そして時間遡行軍は自身の意思を持たないからこそ、外から束ねられやすくもあり、また一個体としての力は決して強いものとは言えないのではないか、という風にも考えました。つまり、使い捨てられる、数の理論でもって戦力とされている存在かな、と。
一方で、刀剣男士には、それぞれの元の主たちとの思い出=逸話=守るべき歴史があります。
今の主である審神者の命はさることながら、自らの意志でもって、元の主たちの道筋をあるべき姿にとどめよう、守ろうとする、そのモチベーションが彼らにはある。
それがそのまま、戦力としてみたときの、彼らの強さの源泉にもなっているのかと思ったんです。
…文章でうまく説明ができなくなってきたのでパワポにまとめた。突然。
今までがこんな感じだったのかなって。
しかし、そこに新たな勢力(と言っていいほどの数がいるかは不明ですが)が台頭します。
今回の「名もなき刀たちの成れの果て」発言と同じように劇中でかなり衝撃的だった展開、
そう、土方歳三の元へ、人間になりすまして潜入してきた時間遡行軍、三振りの存在です。
彼らは入隊志願者として会津までやってきた後、実際に入隊を許され、以降、土方さんの傍で忠実に仕えます。
かっぽれのシーンではお酒を勧められるがままに飲み、結果お代わりを所望したり、ほかの隊士たちと一緒になって踊ったり、函館戦争では土方さんを守って自らの身を投げ出して銃に撃たれるなど、およそこれまでの時間遡行軍とは趣の違った存在である様子がうかがえます。
なぜ時間遡行軍たちが、わざわざ人間のふりなどして土方歳三に近づくのか、という疑問に端を発し、
今回の歴史修正主義者の目的が「土方歳三を殺すことではなく、生かすことだ」と気づいた刀剣男士たちは、みな一様に動揺します。
とくに安定は、幕末天狼傳の際に自身が新選組に人間のふりをして潜入したことが、今回の事態の引き金になったのではないかと危惧したりもします。
しかし、時間遡行軍と同じく物語を持たぬ者である巴は、単なる作戦上の都合で、彼ら三振りが土方さんのもとへやってきたわけではないことに、最終的に気づくのでした。
この特殊な三振りのこと、説明しづらいので劇中にならって以下「犬・猫・蝸牛」と呼びますね。
土方歳三の命日であるその日、函館の地で犬・猫・蝸牛に相対した巴は、彼らに引導を渡す役割を担います。
「ずっと、考えていた。なぜお前たちが、土方歳三を選んだのか。…だが、ようやくわかった。俺も、物語なき者だからな」
「刀の時代の終わりを背負った彼の傍で共に生き、共に死にたい、そう願ったからではなかったか」
巴は彼らにそう告げながら、ある種残酷なまでに、正確無比に彼らを倒してゆきます。
そして最後にどこか優しいともいえる仕草で、命を終えた三振りをひとところに寄り添わせ、「良かったな。…物語に出会えて」と言い、その場を立ち去るのです。
犬・猫・蝸牛は、「命の使い道」を探していた土方さんと共に、自分たちも同じように散るという願いを果たし、物語を手に入れることが出来たのでした…。
ここで、背景に流れている音楽がですね。あろうことか!幕末天狼傳のサントラをお持ちの方はわかるとおり「Theme of Shinsen-gumi」なんですよ…!
土方さん本人のラストのシーンではなく、土方さんと共に生きたいと願った時間遡行軍の最期にこの曲を合わせてくるっていうのが、なんかもう…
これ、はなむけの意味もあったのかなって思ったんですよ。。
あまりにも歴史上に強固な物語を残した「新選組」という存在、それを刀ミュの世界の中で象徴している曲でもって、この時間遡行軍の終わりを描くっていうのが、ある意味ものすごく粋なはからいといいますか…。このシーン、何度見ていても曲のせいでめちゃくちゃに泣かされてしまいます…
だって巴が立ち去る直前のところなんてさ、さらにピアノバージョンのTheme of Shinsen-gumiになってまして…咳き込む沖田くんを見てうつむく安定に手を差し伸べようとして清光がやめるときのあのメロディーなんですよ、そんなの無理~~!
…ってまた話がロスおばけの暴走にとびそうなので、この話はいったんここで終えて。
話を戻しまして、巴が補充戦力たるゆえんは、こういうことかなって。
逸話を持たない薙刀の集合体として、巴が顕現できたのは、それはひとえに審神者の霊力によるものなのかと思われます。
逸話を持たない刀にも、力を与えることができるのが審神者で、それができないのが歴史修正主義者なのかな、という理解です。
今回の戦いに限っていえば、犬・猫・蝸牛を倒すことは、戦力的には巴抜きでも可能だったことでしょう。この三振りが、飛びぬけて強い様子は、戦闘シーンを見ていてもとくにうかがえませんでしたし。
しかし、巴が自身で述べるように、物語を持たない巴でなければ気づけない部分が、おそらく今後の戦いの中で出てくる、という示唆だったのではないかと思います。
なので巴のことはどちらかというと、今後の刀剣男士たちの戦いの、精神面の在り方を支える存在なのかな?という風にとらえています。
また、物語を持ちたいと願う時間遡行軍はおそらく変異種のようなもので、多数ではないとも想像しています。
土方歳三を生かすことで歴史改変を行おうというのは、今回の歴史修正主義者側の作戦としてはおそらく元々あったもので、その内容に触発されて、犬・猫・蝸牛は土方さんの元へ行きたいと願うようになったのかなと。
彼らのような変化が、時間の経過によるものなのか、理由は具体的にはわかりませんが、
時間遡行軍にも命や心がある、おそらく刀剣男士とは根を同一にした存在であるということ、その事実に刀剣男士たちが気づけなければ、この先の戦いがより厳しいものになってしまう、という意味での「補充戦力」が巴なのではないかな、と今は結論づけています。
うまく言えないんだけど、相手も一枚岩ではないかもしれない、こちらが予想し得ない行動原理で動いている敵が現れるかもしれない、というときに、
それを察知して対抗できる存在、という意味での補充戦力。
そしてさっきは時間遡行軍について「意思を持たない」って敢えて書いたけど、実はそうじゃないかもよってことも、今回のストーリーで明らかにされたのかな、と思いました。
そうなるとね、刀剣男士と時間遡行軍の相似性、ってところに今後の話が向かっていかざるを得ないような気がするんだけど、ほんとどうなんでしょう…!
検非違使のこともあるしなぁ…。
でも、時間遡行軍にも「命がある」っていうのは今回むっちゃんのセリフだったことを考えると、
スタンスによっては、そのあたりになんとなく気づいている男士もいるってことなのかな…と思ったりしつつ…いやむっちゃんはあくまでも命の有無に着目しただけなのかな~!?
むっちゃんのキャラクターへの理解が足りなさ過ぎて、わたしは彼が時間遡行軍にとどめをささない理由がうまく自分の言葉でまだ語れないんだよね…。
そのあたりはむっちゃん推しの方の理解を聞いてみたいところです。
成り立ちに着目すると、ともすれば危うい存在にもなりえる巴ですが、そこに対する心配は解消されて物語は終わりを迎えます。
巴は、今回のキーになっている「時間遡行軍。あれは、物語を持たない刀たちの成れの果てなのではないか。だとしたら…」のセリフの最後、自らの腕をさすっているんですよね。
なので彼は自らの在り方に、最初は多少なりとも不安を抱えていたのかなとも思うのですが、
出陣を終えたあとは穏やかな様子で、自身の刀剣男士としての成長を実感しているように見えました。
巴は「自分には物語が欠けていると思っていた。その思いは今もどこかに残っている。だが、欠けているのは俺だけではない、皆どこかが欠けている。…大切なのは、欠けていることをわかったうえで、その先へ一歩を踏み出そうとすることだ。…それを彼らから学んだ」と言い、
「物語なきも、また物語なり。主、これからもよろしく頼む」と、自信にあふれた落ち着いた物腰で告げて、主の元を辞していきます。
物語なきもまた、物語。って巴が言い切ることができたのは、今回の出陣の中で、いろんな形でぶつかったり迷ったりを繰り返しながらも、前に進む仲間たちとともに時間を過ごすことが出来たから。
物であった刀剣男士たちが、人の身と同時に得た「心」という存在を、丁寧に育んであげられるかどうかが、おそらく本丸の運営上は非常に重要な鍵になっているんだろうなと…
ミュ審神者はときに荒療治がすぎるけど(みほとせ参照)、このあたりがものすごく得意なんだろうな、と思ったりしました。
なんていうのかな、仲間同士の信頼をとても大事にしている気がする。
仲良しこよししなくったって敵とは戦えらぁ!なんだけど、彼らはちゃんと、お互いを信頼し合うことはできるんだよね。
だから見ていてミュのストーリーにはいつも引き込まれるんだと個人的には思っています。
こうして書いてみると、別になんちゃないというか、まぁそりゃそうだよねというか。。目新しい考察ではとくにないんだろうなとは思うのですが、
ミュの展開としてここまで踏み込んで来たからには、こちらの理解もそこまで追い付かせないとな!と思い、自分の今の考えをまとめてみた次第です。
あとは、今後の展開という意味でいくと「ミュにおける極実装」問題もあるよね…!
らぶフェスは置いておいて、修行に旅立った刀剣男士が今後仮に公演本編に出てくることがあるとしたら、それはもう極の姿を覚悟してね、ってことですよね…。
まさか一気に四振り行っちゃうとは思わなかったしなぁ。。
そして清光とはっちが冒頭で本丸を不在にしている理由が、単なる長期遠征なのか…それとも初期刀だけど、実は先に修行に行ってるんだとしたら…等のいろんな疑問が沸き上がってしまいます。
なんとなく、集大成のような位置づけで今作が描かれたような気もしていて。。
刀ミュ、扱ってきた時代としては、5作品でまだ3つしかないんですよね。源平合戦の時代を2回、幕末を2回。
1年に2つの新作を上演するというペースが今年も変わらないとすると、
もしや次は、みほとせにつながるお話のターンなのかな!?って思うんですけど…どうなんだろう!?
それも明日の楽サプライズで明らかになりますかね…。毎度恒例心臓に悪いアレですが。。何を予想してもこちらの想像なんて超えてくるのが刀ミュくんなので、もう諦めて受け入れるしかないんだと思いつつ。笑
最後に余計なぼやきも書いちゃいましたが、ひとまずこの記事はここでおしまいにします。あと今更ですけどセリフそのほかの間違いは大目にみてください!(なんせ観ながらずっと泣いているので…笑)
読んでくださってありがとうございました!
明日はラスト観劇楽しんできます~!