こたえなんていらないさ

舞台オタクの観劇感想その他もろもろブログです。

私がミュージカル「刀剣乱舞」(刀ミュ)を愛してやまない理由 - 脚本について語ってみた

こんばんは、あなぐまです。
またしても唐突ですが、よくよく考えると、今まで「刀ミュが好きだ!!!」っていうテーマだけに絞って文章を書いたことがなかったな、とふと気が付きまして。
じゃあちょいと構成を考えてみよう、刀ミュが好きな理由を書き出してみよう…と書くに当たって試してみたところ、脚本に関してだけでものすごいボリュームになりそうなことが容易に察せられたので、とりあえずいったん「脚本編」として書いてみることにします!
私が舞台を観る上でおそらく一番重要視している要素、他でもなく「脚本」なんですよね。
なので、特に脚本に対して(時に過剰に)思い入れがちな人間の意見ではありますが、トライアルから観てきた上で、私なりに感じている刀ミュの魅力を語ってみたいと思います。

※話の中身に触れざるを得ないので、以降これまでに公演された作品についてのネタバレを含みます!!!※

◆1.歴史的事実や逸話に多く立脚するが、それを知らなくても楽しめる

まずひとつめは、なんといってもコレ!
刀ミュの脚本は、脚本を担当されている御笠ノさん自身が歴史好きである背景がたっぷりと反映されて、毎回いろんな歴史的事実・逸話がふんだんに織り込まれたものになっています。(いつだったか、御本人が「好きな歴史について存分に仕事でやらせてもらえる場にもなっていてありがたい」的なことをツイッターでつぶやいていらした。)
なので、毎回のように初日が開けると「まさか、マイナーなあの戦いに触れるなんて!」「あの年号が出てくるだけで痺れる!」「この逸話が使われるとは思ってなくて嬉しい…」といった、歴史好きの皆さんからの熱い感想がツイッター上に溢れているイメージがあります。
私の身の回りにも、かなりな歴史好きのフォロワーさんがいて、毎回刀ミュを見るたびに実際に上記のようなリアクションをされているのですが、その人が語る大半の内容を私は知らないので「へえぇ~~そうなんだ!?」と新鮮に思っているような状況。

そうなんです、私はほんと、お恥ずかしいくらいに、このブログでも過去に何度も触れてきているとおり、日本史の知識に超絶疎いんですよ…。
日本史、まじで苦手だったんだよねぇ。。いやぁ、同じ漢字の入った名前の人が沢山でてきて、比較的狭い範囲内でいろんなことが起こるので、さっぱり覚えられなくてね…(←注:世界史と対比しています。カタカナを覚える方が得意なタイプ、なので世界史を選択していました。)
最後に日本史として授業で勉強した知識が残ってるのって、高2のときにやった幕末くらいなんだよねぇ。他の時代も勿論やったけど興味がうすすぎてマジでほぼ何も覚えてなくて…とほほ。
大河ドラマも「新選組!」と「真田丸」だけ唯一真剣に見た…ってそれ、あきらかに脚本家につられとるやーん!って感じです。
こんな私は明らかに「歴史を知らない」層に該当するとは思います。

しかし。そんな具合に歴史に疎い私でも、刀ミュという作品を楽しむ上で、支障を感じたことは一度もありません。
確かに「わたしがもっと歴史に詳しければ、あの場面でより感動が深かったのかな、うーんちょっともったいないなぁ」という風に思うことはあるんだけれど、知識の無さがイコール「理解のできなさ」に繋がるところは、基本的には無いと思っています。歴史的背景に関する知識がなくても、描かれている思いや場面描写についてはきちんと理解ができるように、考え抜かれて構成されていると思う。
歴史的な知識を色々と盛り込む一方で、決して「わかる人にだけわかればいい」というような突き放し方をしないところが、歴史に疎い立場からするととても好きです。
反対に、歴史が好きな人達にとってはおそらく堪えられないほどに「よくぞここにスポットを当ててくださいました!」の諸々が詰まっている…という具合に、歴史好きにも熱く支持される作品作りがされているのではと思います。
こんなふうに、歴史への思い入れや知識の濃度がバラバラなお客さん、それぞれに対してきちんと届き得る作りになっているところが、本当に巧みな脚本だよなぁと毎度思わせられるんです。
知っている人はより楽しめて、知らない人はもっと知りたいと思うことができる、といいますか。
実際、私は「あの戦いって名前しかしらないけど、どういう内容だったんだろう?」といった風に気になることがあれば、観劇の後で調べてみるようにもしてるんだけれど、むしろ、そうやって「知らなかったことに興味をもたせる」ことができるほど、刀ミュの脚本は、ストーリーとして面白くて力のある存在なんだと言えるのではないかな、と感じています。

◆2.日常的に出会わない日本語がたくさん出てくる

これもまた、くぅ、痺れるな~!渋い!カッコイイ!と個人的に思うポイントなんですが。
私自身、歴史には詳しくない代わり(?)に、比較的、言葉に対する感度は高いほうと言えるかなぁと自分では思っていたんですが…刀ミュを見ていて「いやいや全然、甘いわ~!まだまだだな自分!!」と思うようになりました。
まじで知らない言葉が沢山出てくるよね。

下記、いずれも過去のブログですでに触れた内容になりますが、その例をいくつかあげてみます。

  • 幕末天狼傳「ひとひらの風」より
    • 天霧る(あまぎ-る)とも晴れやかな あなたの笑顔が弾けて

…あまぎる。聞いたことない単語すぎて、当時なんべん劇場で聞いても、まったく聞き取れなかったんですよね!えぇ清光、なんて歌ってるの~!?教えて!?ってなってた。推しのパートなのに意味が取れない単語があるという状況、気になりすぎてはげそうだった思い出です。笑

  • 天霧る
    • 雲、霧などがかかって、空が霞み渡る。空一面にどんよりと曇る。(精選版 日本国語大辞典
    • 雲霧などのために天が曇る。(広辞苑第七版)
  • 三百年の子守唄「瑠璃色の空」より
    • 君の名は竹帛(ちくはく)に垂る

「~にたる」って言ってることは分かるけど、ちくはく、って音がこれまた知らないので、全く聞き取れなくて。聞き取れた後も、ちくはくってなんぞや!?でした。この歌においては、君=徳川家康なので、意味を知って「うぅむなるほど…」すぎました。

  • 竹帛に垂る
    • 文字に書き残す。功名や手柄が書きのこせられて後世にまで伝わる。歴史にのこす。(精選版 日本国語大辞典
    • (竹帛は書物、転じて歴史)名を史上に留めて永く後世に伝える。歴史に残るような功績を立てる。功名を竹帛に垂る。(広辞苑第七版)
  • つはものどもがゆめのあと「散るは火の花」より
    • 朱殷(しゅあん)に染まった結末

音としてはっきり「しゅあん?しゅわん?」って聞き取れこそすれ、はて、その意味は。となり、これまた調べて「うぅむ」と唸った言葉です。

  • (「あん」は「殷」の、赤黒色の意の場合の漢音)黒みがかった赤。黒ずんだ朱色。赤黒色。(精選版 日本国語大辞典
  • (「殷」は黒ずんだ色)あかぐろい色。血の古くなった色。殷紅(あんこう)。(広辞苑第七版)

他に、意味がわかりつつ、その言葉の遣い方にやられる…好き…!ってなるパターンもあって。
わたし、つはものどもがゆめのあとで、頼朝のもとへ平泉から義経が馳せ参じるシーン、兄上に会わせてくだされ!お頼み申します!のところがすごく好きでして…。

頼朝「その者は、どのような風体か?」
家臣「見目麗しい若武者にございます。が、供の者が怪し気で、悪相の荒聖。すぐに大人しくさせますゆえ」

この「あくそうのあらひじり」っていう言葉遣い、最高だよね~!!?って、友達と二人でツボにはまり、観劇している当時、アホみたいに二人してテンションあがりまくった思い出があります。
人相が悪いことを悪相と言い、荒くれ坊主であることを荒聖と表すというそのセンス、なんかもう…その言語感覚に対して「これだから、日本語大好き~!!!」って感じに、文系の血が騒ぐっていうか、気持ちが昂ぶらざるを得ないんですよね…。
このあたりも、御笠ノさんのこだわりが詰まっているポイントなのかなぁと思います。同じことを表現するならば、「顔つきの悪い山伏」とかでも良いわけで。悪相の荒聖…なかなか出てこないのでは!?その言葉選びが好き!!!となってしまう。ハァハァ(興奮)

他には三百年の子守唄の「かざぐるま」の途中にある

幼子はまたたく間に初冠(ういこうぶり)

っていう歌詞。これもしばらくの間は聞き取れなかったんですが、何回か観劇を重ねるうちに「ういこうぶり」っていう単語だとわかった、その瞬間の気持ちよさといったらなかったです。そうか~!!?元服したことを言っていたのね!?となり。

  • 初冠(ういこうぶり)
    • 成年に達した男子が元服して初めて冠をつけること。ういかがふり。(広辞苑第七版)

こういう、日常的にはおよそ使われ得ない言語表現がたくさん詰まっているところも、刀ミュの作品ベースを一つ高く引き上げている原因になっているんじゃないかな、という風に思っているんです。

上記、1と2であげたポイントは、そのまま、刀ミュという作品が「お客さんを侮っていない」ことの現れだと思っていて。

「こんな難しい背景を組み込んだって、観に来るお客さんには若い子が沢山いるんだし、きっと伝わらないよ。もっとわかりやすくしよう」
「意味が多少薄くなっても、キャラクターが舞台に上がってキラキラしてりゃ、お客さんは十分満足するでしょ」

もし仮に、刀ミュがこういう感覚のもとに作られていたとしたら、今とは全く異なった作品になっているだろうことが、容易に想像がつきます。
むしろ、作り手の意識としてはその反対で。御笠ノさんがインタビューやツイッターで「こちらが思っているよりもお客さんは作品を理解してくれる。むしろお客さんの方が作品をわかってくれていると感じることの方が多い」といった趣旨のことを何回も言ってくださってるのですが、そういうポリシーで作品を作ってくださってること、ひとりの観客として、本当に心の底からありがたいなぁ…と思っています。

2.5次元というジャンル、数年前に比べれば断然知名度は上がってきたとはいえ、恐らく界隈の外から見たらまだまだ「低く」見られてしまうところがあると思うんです。
やはりビジュアルの再現度の高さは、2.5次元作品を成立させる上で避けては通れない大事な要素ではあるため、どうしてもそちらのイメージに引っ張られがちですよね。見た目がキャラクターそっくりなイケメンたちが沢山でてくるキラキラした「だけの」舞台、というように思われがちなところ、正直まだ沢山あると思うし、説明する側としても、訴求しやすいポイントではあるから、特徴の一つとしてビジュアル面を挙げてしまうことが多いようにも思う。
刀ミュに関して言うと、キャラクタービジュアルのクオリティの高さは、正直2.5次元作品の中でも群を抜いているというか、突き抜けて素晴らしいと思っているので、勿論そこは譲れない作品の魅力の一つでは当然あるわけなんですが…じゃあ、それだけがあれば満足なの?と言われたら、やっぱり見る側としては「NO!」と言いたいわけなんですよね。
私達には、2.5次元である前に、ちゃんとひとつの「舞台」として、その作品を楽しみたいという欲求がある。
それを余すことなく叶えてくれる、易きに流れない、おもねらないで観客を信頼してくれる刀ミュの脚本作りが、私はほんっとうに大好きです!
むしろ、知らないこと、気になることがあったら、自分でも調べてみようと思わせてくれる、知的好奇心を駆り立てられるひとつの機会すら、刀ミュは提供してくれているなぁと感じます!

…中盤ですでに熱く語ってしまいましたが、続きに参ります!

◆3.過去作とのつながりを大事にしてくれる

これがあるからこそ、やはりシリーズとしてファンになってしまうんだよなぁ~!!!と思うんです。
例えば、二作目である幕末天狼傳では、第一部隊の隊長の任を解かれたことを伝えられ、最初は動揺していた清光が、主から「蜂須賀を支えてあげてほしいのです」と言われ、
阿津賀志山の戦いでみんなと得たもの、生かしてみせるよ!」
と言ってみせるシーンがあります。
このひとことが、当時、まさに聞きたかったやつすぎて。阿津賀志山異聞を経た存在として、いま幕末天狼傳という世界の中に、改めて清光が立っている…ということが明確にわかるセリフが、とても嬉しかったんです。team三条with加州清光という、刀ミュの始まり方をきちんと踏襲してくれたことを感じて、初回観劇の時にいたく感動したものでした。

そしてシリーズを構成する作品の数が増えていけば行くほど、その要素は当然強くなっていきます。
「つはものどもがゆめのあと」では、阿津賀志山異聞で岩融が歌っていた「名残月」を今剣が歌ってみせたり、阿津賀志山の戦いを経たいまの俺たちに、越えられぬものなどない!といったセリフをはっきりと岩融が言ったりするなど、明確に話が続いていることを実感させられる描写が多く出てきます。

「結びの響、始まりの音」では、もう繋がっている…などと言ってはいられないくらいに、幕末天狼傳と地続きの世界であることがわかる要素が、沢山散りばめられていて。
例えば、沖田くんを救いたいあまりに、幕末天狼傳では暴走一歩手前のところまで追い詰められていた安定。彼は「結びの響、始まりの音」の世界では、元の主が死んでしまったことに対して、胸にぽっかり穴が空いたような感覚になる、今でもその穴は埋まらない…と、ごく冷静な視点を持って、自分の思いを客観的に語れるまでに成長した姿を見せます。
土方さんを始めとする新選組の面子とのかっぽれのシーンは、幕末天狼傳を愛してやまない私にとっては、もうなんと表現していいかわからないやつでした…。きっと心の内で、元の主たちとの記憶を懐かしむように、本丸で宴をやっていたのだろう新選組の刀たちが、今度は実際に元の主と一緒にかっぽれを踊ることになる…というその流れに、言葉にならない感情が溢れ、見ていてぎゃんぎゃん泣いてしまいました。

この夏の「阿津賀志山異聞2018巴里」では、石切丸が清光に対して「似顔絵を描こうと思ってね」と言い、ニコニコしながら帳面を取り出します。それは「三百年の子守唄」で、此度の出陣で何があったかを書き残しておこうと思うんだ、それには挿絵があった方が読みやすいだろうと思ってね、と穏やかに語っていた、石切丸の姿をなぞるものでした。

他にも、過去作と同じセリフがさりげなく発せられたりするなど、数えればきりがないほどに、作品同士の繋がりを体感する場面は沢山あると思うんですが。
あくまでもひとつのシリーズとして、刀ミュという世界、本丸のことをまるごと大切に描こうとしてくれるからこそ、見る側がこうして追いかけて、長く楽しめているんだなぁと感じます。
新作を見る中で、大好きだった作品の息吹をまた感じることができたり、過去作の世界を踏まえた上で成長した刀剣男士に再会したりできる喜びは、やはりシリーズとして確固たる世界観が構築されていてこそだなと。
しかし歴史の知識の話とおんなじで、過去作を観ていなければ楽しめない、ということも全く無くて、その点でもとにかくバランスに優れているんだなと感じます。

◆4.出てくる六振りそれぞれにきちんとスポットがあたる

その他に、刀ミュの脚本に関しては、優れた「群像劇」としての一面もあるなと思うんです。
毎回、刀ミュの本公演に出陣する刀は、ゲーム編成どおりの六振りに限定されていますが、六人というその少ない人数だからこそ、きちんと一人ひとりのことが丁寧に描かれているのかな、という風に感じます。
もちろん、どの作品にもそれぞれ、話の中心軸となる男士は出てくるわけですが、そうじゃない子達のことがおざなりにされるかというと、全くそんなことはなくって。

例えば幕末天狼傳では、元の主である沖田くんのことを強く追い求めてしまう安定と、贋作と真作との間でわかりあえずにいる虎徹兄弟、計3人が主に話のメインでした。しかしそれ以外の3人にもそれぞれ、どんな思いでその場に居るのかがきちんと語られているなと感じるシーンが沢山あって。
同じく沖田くんの持ち刀だった清光は、直接自分の思いをセリフで吐露するシーンこそないけれど、「選ばれぬ者」の中で
「今でも思い出す 今でも忘れられない あの人の血の迸る熱 こんな思いは俺だけで十分だ」
とはっきりと歌う。
兼さんと堀川くんは、ぶつかってしまう虎徹兄弟を見守りながら、時に助け舟を出したり、背中を押したり、本丸の仲間として傍でできるサポートをさりげなくやってあげていました。そしてその二人の間には、土方歳三という元の主を介した、唯一無二の強固な結びつきが存在していることも、とても丁寧に描写されます。天狼星を見上げた二人による、差し向かう心は清き水鏡…のラストシーン。最後に「ううん、なんでも」って兼さんに向かって笑み零す堀川くんの晴れやかな表情に、何度泣かされたことだろう。

つはものどもがゆめのあとでは、どの刀剣男士に感情移入するかで、同じ作品であっても、きっと全く違う世界が見えていたんじゃないかなぁと思います。
主や他の男士に黙ったまま、ある意味では行き過ぎたとも取れる単独行動をする中で、移りゆく時の流れの中に生きる「友」にひとり心を寄せる三日月宗近
主の命にひたすらに真っ直ぐであろうとするあまり、誰よりも親しい仲間であるはずの三日月のことを理解できなくなって苦しむ小狐丸。
おっとりとしていてマイペースであるばかりのように見えて、その実穏やかかつ冷静に、三日月のことを見守っている髭切。
兄に翻弄されながら、武士の刀たる所以の勇ましさや強さを、顕現したての身であっても存分に発揮しようと意気込む一方、主からの密命の中身に触れて、今剣をそっと思いやる膝丸。
あの頃の僕とは違うと言い、実のところ阿津賀志山異聞からは明らかに成長した姿で、再び愛してやまない義経に出会うことになるも、今度は自身の「存在」について、過酷な疑問を突きつけられることになった今剣。
いち早く自身と今剣が歴史的に存在しなかったことに気が付き、その事実からどう今剣の心を守りぬくか、優しさ故に迷い、苦悩を続ける岩融
つはものは、恐らく刀ミュの中では今までで一番、構成としては複雑だったと思うのですが、話の軸になっていた三日月だけでなく、上記のとおり六振りそれぞれに、全く違う物語がありました。しかしそのひとつひとつがばらけることなく、最終的には丁寧に重なりあって、つはものどもがゆめのあと、という重厚な作品を形作っていたと思います。
私はその中でもとにかく三日月に感情移入しまくってつはものを観ていて、三日月推しの観点から本当に大好きな作品になったのですが、今剣と岩融の主従ペアが好きな人も、源氏兄弟の二振りが好きな人も、三条太刀としての組み合わせが好きな人も、みんなそれぞれが深く感じ入って楽しむことができる作品だったと、間違いなく言えるのではないかな、と思っています。

上記のとおり、作品を観に行くにあたって、どの男士に思い入れるかというのは、それこそお客さんによって当然バラバラだと思うんです。
私がいつも刀ミュを見ていてすごいなあと思うのは、そんな風にお目当ての刀がバラバラなお客さんたちが集まっているのに、それぞれがいろんな方向できちんと作品に満足して帰ってこられるというところです。
あれだけキャラクター数の多い原作ゲームだから、ものすごく人気のある刀剣男士となると、やっぱり上位層は固定メンツになっているところは当然正直あると思います。だけれど、その一般的な人気の多寡には特に左右されることなく、刀ミュという作品の中においては、どの男士も丁寧かつ平等に、時間を割かれて描きぬかれているなぁと感じます。
単に話を構成するための要素・道具として登場させられている、といった扱いの刀剣男士は、ひとりとしていないんです。
だからこそ、出陣している六振りの中に仮に推し刀がいるのなら、見に行けば絶対楽しめるんじゃないかな、という風に思います。
彼らは全員がちゃんと、物語の中において、存在意義をもち、自分だけの役割を担わされている。
推しにそうして丁寧にスポットが当てられている作品に出会えるのって、原作キャラクターが好きな人にとってはものすごく幸せなことですよね…!

ひとまず「刀ミュの脚本」がいかに好きか!ということを、全力で言葉にしてみました。
しかし読み返してみたところ、どうしても幕末天狼傳への言及が多くなっていることには笑いました。さすがは幕末天狼傳ロスおばけの私!
そして言うまでもく、勿論脚本以外の要素も含めて!刀ミュが!大好きです!!!演出も衣装も美術も音楽も振り付けも、もちろんキャストの皆さんも。
その中でも特に、私にとって一番クリティカルにヒットした要素である「脚本」について、まずは書いてみた次第です。


新作公演が1本のみだった2018年、らぶフェスの千秋楽ではいったいどんな発表が待ち受けているのか、今からすでに楽しみ半分恐怖半分、って感じです。笑 あの楽サプライズには毎度具合が悪くなるよね!
刀ミュ、シリーズとしてはもしかして今年でひとつの区切りを迎えるかな、とはずっと思っていたんですが、どうやら来年以降にも、現メンバーが引き続き出陣する未来は有り得そうで、ちょっとますます読めないなと思っています。今後がどんな展開になっていくのか、今はまだ全くわかりませんが、刀ミュが現在の制作布陣で続いていく限りは、やっぱり追いかけてしまうんだろうなぁ、と思っている次第です。
だって、ここまでシリーズとして好きだなって思える作品に出会えることって、この先そうそうないと思うもの…!
好きなものを追いかけられるというのは、それだけでもう、ものすごく幸せなことです。作品が上演されるタイミングが、自分が追いかけられるタイミングと重なる時点で、ある種の奇跡だと思わないといけないんだと、数年の舞台おたく生活でもう私は嫌というほど学んできているのだった。

これからも、変わらずにみんなに愛される刀ミュの世界に、引き続き出会うことができますようにー!

おしまい