観劇趣味を持ち始めてからこの2019年で7年目に突入してるんですが、自分自身について、明らかに昔にくらべて「刹那的になったな」と思う。これは絶対にそう。
もはや<舞台>というエンタメが持つ以下のような特性が、おたくをそう変化させていかざるを得ないところがある。
その日その回の公演は、本物の一期一会、たった一度きりしか出会えない世界。
どんなに公演数が多い演目だって、それでもいつかは千秋楽を迎える。
終わってしまった舞台は、たとえ映像に残ろうと、直に生で見ることは二度と叶わなくなる。
再演される日が来たとしても、キャストが一人も変更になっていない、なんてことはまずあり得ないし、仮に全員が同じ布陣だとしても、初演時に比べて経過した時間分の変化が、彼らには訪れている。
…このように、あらゆる意味において、舞台作品って「その時にしか会えない」要素が、とにかく多いんです。そりゃあ、刹那的にもなるよね。
またいつか、は二度と訪れないかもしれないし、次はもうないかもしれない。
その現実と常に隣り合わせになりながら、私たち舞台おたくは、目の前の舞台上で繰り広げられる一瞬の輝きを見つめることに、命をかけているんだと思う。
この「今は今しかない」という動かしがたい事実は、火事場の馬鹿力みたいなエネルギーを生み出すことがあります。
本当に見たいものに出会った時に、突如として自分の中に湧いてくる、あのわけのわからんほどの馬力。
あとになってから「なんであんなことができたんだろう」って自分でも感じるんだけど、でもそのときはただ必死だから、びっくりするような力が生まれて、なんだかなんでもできてしまうことがある。
あの時無茶だと思いながらも動いてよかった、って思う経験が、がむしゃらに走り抜けた先に出会えた忘れられない景色が、実際のところ私にはたくさんあります。
例えば、幕末天狼傳の上海公演だとか。土日マチソワ4公演を積み重ねた阿津賀志巴里だとか。翌日新幹線でエクストリーム出社したらぶフェス2018の宮城公演だとか。
「これはなかなか正気じゃねえな」というスケジュールで動いたとしても、結果それなりの疲労を溜めてしまったとしても、その先で得た充足には、何物にも代え難い価値がありました。
でも一方で。じゃあ悔いが残らなければなんだっていいのか?というと、そういう問題でもないんですよね。
というのも、何回も同じことを言っているけど、私は「思いを残すな」VS「持続可能性」という、見事なほどに相反するふたつの言葉を、自分の観劇ライフの標語にしているからです。
行きたいだけ、見たいだけ好きな舞台を見られたら、そりゃあ幸せだろうなと思います。しかし現実はそんなに甘くなくて、お金と時間、さらに言うと有給というリソースはどうしたって有限のもの。
その有限のリソースを一気に食いつぶす勢いで、一瞬の感情の振れ幅に身をまかせて動いていいのか?っていうと、そんなこともなくて。
思いを残さないようにいようと突っ走ると、持続可能性が潰える結果に繋がりかねない。別な素晴らしい何かを見れたかもしれない未来を、今のために全て手放していいの?ってなるわけです。
でもかといって、「やっぱりあの時行っておけば良かった」って後悔をいつまでも引きずり続けることになるのもしんどいし、可能な限りそうなるのは避けたい。いや~、この話本当に難しいよな。
…じゃあ結局、どうしたらいいんだよ?って問いへの答えは、とにかく「真剣に考えぬく」以外にはないんじゃないかな、と私は思っています。
本気で悩んで、本気で選んでいくしかないんだよね。
周りを基準に相対評価で決めるんじゃなくて、自分に対してだけ、とことんシビアになって向き合って、その上でどう動くかを、絶対評価で決めていくしかないような気がしている。
そういうふうにスタンスを定めていても、それでも苦しい瞬間はやっぱりあるし、一筋縄ではいかないんだけど。それでも、自分の力で選びとっていった内容の積み重ねは、長い目で見ると、ある種の自己肯定感にも、多分つながっていくんじゃないでしょうか。
…ここまで書いて「趣味に向き合う態度がなんでそんなに重たい感じになるの!?」ってどん引かれる可能性に思い至ったんですが、いやほんとよね!笑 その点に関しては、何も言えねえ!自己に対して修行を挑みがちな謎の性質をもった人間なんですよね!
いやー、ほんとに難しいです。とくに「推しを推す」という面に関しては、やっぱり今より大事な時間なんてないんだよなぁ。それは真実。
推しは推せるときに推せ。生きてる誰かを追いかけてる人は絶対に心にとめておいたほうがいい言葉だと思う。
でもそうはいっても、きたるべき未来に自由に動いていられる自分を守るのも、今の自分の選択なんだよな。
…というわけで、結局は全部が「選択」のお話なんだろうなって思っています。もはや生き方の指向性にもつながる話かもしれないですね。
繰り返しになりますが、別にこんな修行僧みたいな態度で、趣味に向き合う必要性は特に無いと思う。笑
ただ、自己の中で楽しさを維持して、明るいムードを醸成する上では、この「選択する」力は、とても有用に働くのではないでしょうか。わからんけど。
今回このエントリーを書いたのは、くろステの千秋楽に行くかどうか数ヶ月悩んで、結局我慢して行かない選択をした、という事情があったからでした。
たまたまだけど千秋楽、地元福岡だし。当然のように行きたかったんだけど、諸々の状況を鑑みた結果、そうなりました。
休みの事情とか体力とかももちろんあるけど、一番の理由はこの2月~4月、ロミジュリに通い倒したからです。当然それなりの金額が、お財布から出ていったので…エヘヘ…。笑
でもどうしたってあれは通わないとダメやなつだったので!この選択には満足してて、本当に通ってよかった!って思えています。むしろ通ってなかったら後悔してのたうち回ってたと思う。
でもだからこそ、メリハリつけないといけないよねと決めて、今回は珍しくちゃんと我慢という選択をしてみたわけです。
行く予定だった福岡公演を諦めた結果、今回は東京での3公演のみの観劇になりました。正直なところ、当社比で少ない回数しか見られないことがつらすぎて、行く前は情緒不安定になりかけたりもしたけど(しっかりして)、でも観に行って本当~によかった!素晴らしかった。あ、感想ちゃんと書きたいけど千秋楽の配信をみた後にしようかとおもっています!
良質な舞台は心の栄養だし、その中で輝いている推しを見られる喜びって他じゃ叶えられない特別なものだなって実感した。
我慢がつらい瞬間もあるにはあったんだけど、でも結果的にはちゃんと「本当に楽しかった、いい舞台だった」って充実感でいっぱいになって帰ってこられたので、自分の中で納得しながらひとつずつ決めていくことは、やっぱり大事だなぁと思った次第です。
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事実として、全てを追うことはできないからこそ、劇場の客席に座っている時間は、舞台上の出来事を100%受け取れる自分でいたいし、見たいように見られないからといって、その演目を酸っぱいブドウ*1にしてしまうことのないようにいたいな、と改めて思いました。
今より大事な時間なんてない、ような気は確かにしてる。でも、それだけじゃ、やっぱり趣味は楽しく続けられないんだよな。
趣味だからこそ楽しくいたい。でもそうして楽しくい続けるためには必要な努力があり、それは主に「選択」という形として訪れるなぁ、と考えたお話でした。