こたえなんていらないさ

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刀ミュ「髭切・膝丸双騎出陣2019」を通して、刀ミュの源氏兄弟について考えた感想

源氏双騎出陣、全17公演、本当にお疲れ様でした…!
キャンセル待ちはもちろん当たらずだったので、現地観劇は7月7日の1回きり、7月14日は自宅で配信を見届けました。
楽の幕が下りた直後に来年の再演も発表されて、めでたい限りですね!


正直、一回見ただけだと詳細を噛み砕いて理解しきることは、とうてい出来なかったです。キャパを超えまくっていた。
なので今回の双騎でなされた「試み」というか、作品の全体像について、ひとまず自分の中に落とし込もう、とした記事だけとりあえず書いてました。
anagmaram.hatenablog.com

でも千秋楽の配信を見たら、改めて言葉にしたい気持ちがふつふつと湧いてきました。間違いなく、そうさせるほどの熱量がある演目だった。
毎度同じことを言って恐縮ですが、歴史や古典芸能の知識に裏打ちされたなにかを語ることは私にはできないので、それは他の方に譲ります!いや、バックグラウンドのある人にとっては、こんなに考察しがいのある構成もなかなかないと思う…。
私はあくまでも「刀ミュをずっと見てきて、刀ミュという作品を愛している立場」から、自分なりに感じたことを書いてみたいと思います。




◆双騎が描き出したのは、”刀ミュ”における源氏の兄弟刀の在り方ではないか

そう、楽の配信を見終えた今、言いたいことはこれなんである。
今回浮かび上がったのって、刀ミュの世界における兄弟刀としての、髭切と膝丸の関係性というか、刀剣男士としての在り方そのものだったのではないかな?っていう気がしたんです。
双騎の一部・二部のふたつの世界を通して、ふた振りの「刀剣男士」としての成り立ち、生き様…みたいなものが、こちらに伝わってきたような気がしていて。
どういうことなのか、なんとか言葉にしてみようと思う。

今回、髭切と膝丸が演じた一萬・十郎と、箱王・五郎のふたりに特徴的だったのは、
「ひとたび道が別れても、同じ想いを持つ兄弟は再びめぐりあう」
「兄弟はお互いを深く愛して信頼しあっている」

ということだったかな、と感じているんです。
そしてそれはすなわち、髭切・膝丸自身の在り方としてオーバーラップするといえるのではないかな、とも思っていて。
以下にそれぞれについて書いていきます。

◆1点目:めぐりあう兄弟

まずこの1点目について痛感したのが、今回の二部で披露された曲「双つの軌跡~となり~」での歌詞の変更でした。
元々はつはもの公演の一部で歌われた曲なんですが、今回おもいっきり新バージョンになっていて…
なんせ歌い出しの歌詞よ!いきなり新しい内容てんこ盛りでしたよね…そこで明確に「ぎょええ~!!!真正面からめぐりあっている~!!!」って大興奮した記憶はあるんですけど、すみません現地1回配信1回じゃ、具体的な歌詞は全てが飛んでます!笑


ただひとつだけ明確に言えることがあって。
この歌、途中で膝丸がソロパートで歌う歌詞が、
「弥久を彷徨いたどり着いたのは 貴方のとなり
になっていました。

これ、7月7日に観劇した時はまじで聞き間違いだと思ってたんです。自分の耳が都合よい解釈でもしたか!?って思って自信がなくて。サイドシート前方だと、正直音のとどく射程範囲外って感じで、初めて聞く歌詞は聞き取るのがけっこう難しかったのもあり…。
だけどフォロワーさんがブログで言及してらしたのを読んで、「き、きのせいじゃなかった…」となり、今日の配信でしっかり聞いて打ちのめされました。


ご存知のとおり、本来の歌詞は「誰かのとなり」なんですよ。ここ。

つはものの劇中で膝丸は、岩融と今剣が歴史上には実在しない刀である件に触れるとき、自分たち自身も「彼らほどではないが、曖昧な存在」だということを、何回か口にします。
源氏の兄弟刀とされる刀は日本に複数現存していると言われていて、来歴が明確になっているわけではない。
だけれどきっと、義経や頼朝の時代に存在していたことは事実といって差し支えないだろう…といった、事実解釈にグラデーションが生じうる中で顕現している刀剣男士だから、彼らにとってたどり着いたのは「誰かのとなり」なんだと思っていたんです。
明確に、兄と弟が、確かなものとして隣り合う、とは決して言い切らない余地を残すといいますか…。
その余白がこの歌において、ものすごく好きなポイントだったんです!つはものの当時。


だけど今回その歌詞を明確に、「貴方」に変えて歌ってきている。
それはつまり、刀ミュの世界の髭切と膝丸が、「そう在りたい」と思っているからに他ならないのではないかな…って、そんなふうに思ったのです。


今回の双騎出陣は、ふた振りが刀ミュ本丸に顕現してからはだいぶ時間が経ってからの出来事、と捉えていいように思っています。
一方でつはものは、それこそ彼ら兄弟が本丸にやってきた直後の物語。
だからこそ、久方ぶりに相まみえた兄弟にとって、弥久をさまよいたどり着いたのは「誰かのとなり」と捉えるのがおそらくは自然だった。

しかし彼らは、つはもので人の身を得た刀剣男士として、はじめての仲間たちとの出陣をともに経験します。
きっとその後も本丸において同じ時を過ごしてきた髭切と膝丸のなかでは、<兄弟>という存在、お互いにとっての自分/相手を、「どう捉えるか、どう位置づけるか」というところが、徐々に変容していったのではないかなと、そんなことをこの歌詞変更から考えたのです。


お互い、実在した刀としての逸話や来歴は謎に包まれている部分も多いけれど、でも今こうしてともに戦い、同じ任務を背負って歩む刀剣男士として、確かに隣に存在している。
過去の事実がどうであれ、今向き合っているその事実こそを、真ん中に置いていこうと、そんなことをふた振りは考えているのではないか…って。


事実、つはものの劇中には、「もし仮に、今剣のように自分が歴史上に存在しないと知ってしまったらどうする?」といった内容を問いかける膝丸に対して、髭切が下記のように返すシーンがあります。

「どうでもいいことだと思うけど、そんなこと。歴史上に存在していようといまいと、いまここに存在していることは事実だろ?それでいいんじゃないかなぁ」
「…そうなのだろうか」
「まあ細かいことを言い出したらきりがない、大雑把に行こうよ」

この言葉を受けた膝丸は、全く兄者は…とすこし気抜けしたように、やや呆れたように笑いながら返していました。
大雑把にいこうよ、だなんてまとめられてしまったこともあり、生真面目な膝丸は、この時点では髭切が述べた言葉をまるごと受け止めることは、おそらく出来ていなかったのだと思う。
だけどそれから時間が経ち、刀剣男士として様々な経験を積んだ彼は、改めて「双つの軌跡」を歌う今、
”貴方の隣”
という言葉を、選べるようになったのではないかなって。


つはものを観劇していた当時、先に引用した髭切の回答は、おそらくは「刀ミュの世界における刀剣男士」を理解する上で、一つの真実を貫いているように感じていました。
実際、作中で「歴史上に実在しない」と明言されてしまう今剣も、史実上の実在を否定されても壊れてしまうことなく、その事実をしっかりと受け止め切ります。

つはもののラストシーン近辺において、義経の最期の場に駆け寄った今剣は、「今剣ともうします!」と、覚悟を決めて自らの名を名乗ります。
その後に続く「このなまえに、ききおぼえはありませんか?」という、自らの実在を懸けた義経への必死の問いかけは、「いや、初めて聞いた。だが、良い名であるな。あの世にいっても、覚えておこう」と敢え無く返されてしまいます。
あの瞬間の今剣には、途方もない絶望や諦観がきっと訪れてしまったと思う。
でも同時に、<あの世にいっても覚えておこう>という返答により、大好きな敬愛する元の主に、<今ここにいる>自分の存在が間違いなく届いたという大きな救済も、もたらされたと思っているんです。
そしてそんな事実を受け止めねばならない今剣の隣には、同じ気持ちで支えてくれる仲間がいる。
いちばん大切なのは「今ここに存在していること」なんだと、上記のシーンを通して、つはものでは明確に描かれているように思いました。


髭切も膝丸も、過去の歴史の中に、刀としてどこまで確かな存在としていられたのか、今となってはわからない。
そう、それこそ歴史は水の流れのようなものだから…。
なにが正史なのか、数百年時を遡れば、過去の物語は様々に移ろい、色合いを変えていく。
でも、今の自分が、誰の隣に立っているか、それは疑いようもなくわかっている。
それ以上に、今の自分にとって、確かなことはない。
そんな答えを、源氏の兄弟刀が刀ミュの世界で見つけて提示してくれたのかな、と感じました。


そのめぐりあいは、一部の物語では、「武士の道と仏の道に別れた兄弟が、大人になり再会し、誓った仇討ちを果たす」という形で描かれます。
あそこで、明確に「一度は道が別れても、想いを果たすために最後は同じ道を行く」という描写があるところに、私は髭切・膝丸を感じずにはいられなかったのですよね…。
その物語を踏まえた上での「双つの軌跡~となり~」の歌詞変更だったので、叫びそうになりましたし、ものすごく胸が熱くなりました。。

◆2点目:眼差しと背中で支えあう兄弟

私が凛としていられるのはお前の眼差し、私が追いかけたいのは貴方の背中。
一部で一萬と箱王が歌うこの歌詞、本当にやられた…。
兄弟ふたりの、直接伝えはしない、互いへの思いの、この果てしないあたたかさよ。。
この曲のタイトル、綾なす…ナントカって言ってたね!配信後コメントでせっかく教えてくれたのにど忘れしちゃったな~!


曽我物語は、兄弟による、仇討ちの物語です。
知っている人にとっては当たり前の知識になっているような、著名な古典作品だと思うのですが、私自身は「聞いたことが言われてみれば、高校の頃にあったかもしれないような、気のせいのような…」といった感じで、全く知識がありませんでした。恥ずかしながら。いや、多分なんらかの形で確実に習ってるだろうな…。笑
その前提で見ていたので、当然ながら大きな違和感を得ることはなかったのですが、今回の曽我物語の結末って、それこそwikiで読めるものとはそもそも異なっています。
歴史上の史実がどうだったのかも含め、物語成立の時代は武士の世のはじまりにまで遡るからこそ、曖昧な部分はおそらくあるだろうな、としか思っていなかったのですが、もっと厳密なたぐいのものだったみたい。どうやら。兄弟がどうやって命を落としたのかは、ある程度明確ではあるみたいだ。
実際、手元の「精選版 日本国語大辞典」で「曾我兄弟」を引いてみたけど、二人の最期については、

母の再嫁によって曾我氏を称した兄弟は、建久四年(1193年)富士野の狩場で父の仇を討ち取ったが、兄は仁田忠常に打たれ、弟は五郎丸に生け捕りにされ殺された。

とありました。


でも、今回演じて見せられた曽我物語の結末では、二人は名実ともに力を合わせて父の仇を正面から討ち果たし、よくやったと泣き笑いの表情でしっかりと抱き合います。
あの日、家族で見上げた夕焼け空の思い出が蘇るように、再び聞こえてくるかりがねを耳にしながら、お互いの体に身をもたせかけ、あたたかい微笑みのなかで命を終えていくのです。

…そう、そこにあったのは、「兄弟愛」以外の何物でもなかったんですよね。


ここでつはもののセリフを再び引用しますが、頼朝に鎌倉入りを拒絶されて嘆く義経を見た後、兄弟同士で仲違いをするのを見るのはやはりつらいな、といった旨のことを言った膝丸に、

「どうかな?兄弟同士で骨肉の争いなんて、歴史の常だと思うけど?」

と、ごく飄々とした様子で、髭切が答えるシーンがあります。
確かに、現に義経と頼朝は仲違いをした悲劇の兄弟にほかならず、それ以降も刀として長い時を経てきた彼らにとって、兄弟=仲睦まじいもの、という単純な図式を結ぶことは、きっと簡単ではないと思うのです。


だけど、今回「髭切・膝丸が刀剣男士として曽我物語を演じる」ことになったとき、ふた振りが見せてくれたのは、家族と兄弟への愛に満ちた、哀しくもあたたかい物語でした。
これもまた、今刀剣男士としてここに在る彼ら自身が選んだ、兄弟としての在り方を巡る、ひとつの答えなのではないかと思うのです。
つまり、髭切と膝丸のふた振りにとって、兄弟による仇討ちは、ああいった色合いで語られるべきものだったんだと。

史実として明確にどうであったか、ということよりも、物語を通して彼らが届けたかったのは、命を落とした敬愛する父の無念を、愛する母を一人残す哀しみを負ってなお、お互いに手と手を取り合って晴らそうとした、兄弟の姿だったのではないかな、と。

髭切・膝丸がそのようにあたたかな兄弟愛を演じてみせたことについては、源氏推しのフォロワーさんがとても素晴らしい考察を書いてらして、許可頂いたのでリンク貼ります、是非~!
正直わたしはこちらを読んで満足してしまった部分があるほど、源氏を好きな人にしか書けないな!と唸らされる素敵な文章でした。
sfractal.blog77.fc2.com



刀剣男士は、刀であると同時に人である。モノナリヤ、ヒトナリヤ、の存在。

今回の源氏双騎出陣は、「意志を持ち、体を持つ」刀剣男士として、髭切と膝丸が自らの在り方を見つめ直し、それを外部に提示するそんな機会になっていたのではないでしょうか。


「物が語る故、物語」であるそんな新しい作品を、見せてもらえたことの興奮が未だ醒めません。
書けば書くほど、まとめたいことがたくさん出てきて…!余裕あったらまだ書くかもしれません!