こたえなんていらないさ

舞台オタクの観劇感想その他もろもろブログです。

「好き」なんてきっとどうしようもない

おたくにおける「好き」という感情は、往々にして独りよがりなものに分類される気がするし、実際のところ、まぁ真実としてそうなんだろうと思う。

「好き」という感情が悪者にされて語られている場面も、実際のところ少なくない。

ともすると「気持ち悪い、怖い」といった修辞を添えられていることも、割によく見るように思う。

 

でもわたしは、どうしてもそのタイプの言説について「そうなのかなぁ」と納得できない気持ちがする。

好きってそんなに悪感情なんだろうか。そんなことはないんじゃなかろうか。

たぶん、本質はそこではない。

 

 

わたしが個人的に考える範囲ではだけど、「好き」という感情が「怖い」と言われてしまう何かになるかどうかは、その感情の行き先を、相手に押し付けてしまってるかどうかじゃないか、と思う。

わたしはこれが/この人が好きだ、の先に、「だから〜してほしい」「だから〜になってほしい」という条件がついたり、なにかが返ってきて当然というスタンスでの期待値がついて回り始めたとき、初めてその感情は「怖い」と呼ばれる可能性が出てくるのではないだろうか。

自分が発した「好き」の先を、誰かの責任範囲に含めようとしたときが、運命の分かれ目のように思えるのだ。

それはおそらく、いわゆる「見返り」をもとめる態度として表現できる気がしている。

 

 

その対象を選んだのも、好きになったのも、すべて自分の選択によるものだ。

果たしてそこに、見返りがあるのかどうか。

それは正直わからない。あるかもしれないし、ないかもしれない。

それに、見返りという言葉で片付けるには惜しい感情の交換が成立する場面だって、多々ある。例えば愛の詰まった優れた舞台のカーテンコールで、観客として確かにステージ側と愛と感謝の交歓ができた、と感じる瞬間は実体験として何度も存在する。

なので、好きの先に「戻ってくる何か」そのものを否定する訳でも勿論ないのだけど。

 

思い入れはある程度の執着を生む。だから「こんなに好きなんだから」というその先が続くのも、人間として当然のことだと思う。

だけど同時に、そういうあれこれを乗っけないままで、単なる「好き」を「好き」のままでとっておくことだって、やろうと思えばできるのも事実だ。

目の前の眩しい対象を、まるで魅入られたように一心に見つめ、そうして受け取ったきらきらと輝く宝石のような何かを、ぎゅっとひとりで握りしめる。

そうしたときにただそこに残る「好き」という感情って、それだけで誰かに/何かに害をなすものには、あまりなり得ないように思う。

 

 

自分が受け取って得たその「好き」を、「好き」のままにとっておく、もしくは深めて育てていく。そのことだけに集中していられるのが、たぶんわたしにとっての理想。

だからなのか、単に「好きって感情は全然尊くもないしグロテスクだ」という言説をみると、そういうことじゃないのでは?とどうしても反論したくなる。

本質はそこじゃないのでは。それは単に、他者に対する期待値コントロールがうまくいかずに暴走してるだけなのでは、と思うのだった。

 

 

「好き」に向き合うとき、わたしのなかで心象風景はいつだって一人ぼっちだ。

真夜中に、崖の先端でつよい風に髪の毛をなぶられながら、仁王立ちになってよく晴れた一面の星空をひたすら見つめている、そんな感覚。

自分にとってのそれくらいの切実さがあれば、その様子が他人にとってどれだけくだらなくて滑稽に見えても構わない。どう思われようが、そんなことどうだっていい。

 

砕かれたダイヤのような輝きは、夜のひんやりとした空気の中に凛と澄みわたる。

届きようもないその距離に打ちひしがれても、胸を焦がすことを決してやめない。

その覚悟と祈りのような気持ちが、わたしの中で「好き」をかたちづくっている源泉なんだと思う。

 

「好き」なんてきっとどうしようもないけど、わたしは自分にとっての「好き」を守り育てる戦いを、これからも気が済むまで続けたい。

 

 

風邪で具合が悪くて早く寝ようと思いながら、初めてスマホから書いてみた。なんできゅうにこんな文章を書いたのか、自分でもよくわからない。熱はないので熱にはうかされていないです。

わたしはいったいなにと戦ってるんだろう…(答え:己)みたいなテンションで今日も推しが好きだ!と思いました。