もうずっと、なにかに向かう「好き」が過剰な人生を歩んでいるなと思うんだけど、
その好きの置きどころがわからなくなる事象にここ数ヶ月見舞われていて、ひとりでけっこう途方に暮れているので、その話を書く。
最初に断っておくと「途方に暮れている」ため、結論は出ていない。
◆私にとっての「推し」
もうこの説明もいらない気がするけど、私にはめちゃくちゃ応援している人がいて、その人のことが好きだー!とさけびながら夜道を駆け出していきそうなメンタリティで日々生きている。(※あくまでも心象風景であり本当にはやりません)
つまりその人はいわゆる「推し」であり、まぁそれはまりおくんのことなんだけど、この「推しだな!」と思い定めた人に向かって流れる感情の動きって、やっぱり本当に独特だなと感じる。
今日はNHK文化センター横浜ランドマーク教室であった、まりおくんが「表現者として」というタイトルで話をしてくれるという講座に参加してきた。もう、めっちゃ楽しかった…。
www.nhk-cul.co.jp
SNS・ブログでのレポは禁止ですと予め告知があったので詳細は書かないんだけれど、1時間半もの長い間、アナウンサーさんから問いかけられるたくさんの質問について話してくれるまりおくんの言葉をずっと聞いていられたので、そもそもインタビューの類が大好物な私にとっては願ってもない、ハッピーな催しだった。
新しい話がたくさん聞けたというよりは、普段から聞いてきた内容をより深堀りした、っていう印象に近くて、それで余計思ったことなんだけど、まりおくんは本当に「外に向けて発する」と決めた言葉にブレが生じないところが見事だなぁと感じる。
本音を隠しているという意味じゃないのだ。そうじゃなくって、「自分について語るとしたら、どんな色合いの内容がより届くか、自分の言葉で何を伝えるべきか」っていうことを、ある種すごく戦略的に考えて紡ぎ出しているような気がする。
発せられる言葉たちは、丁寧に選びぬかれている。どちらかというと本能的にぱっと動くタイプのような気もするまりおくんだけど、人前に立つ自分だから話すべき言葉、というところには、ものすごく注意を払っているように見えるな、とわたしは前から感じている。
前も書いたことだけど、それが雑誌やWEBのインタビューであっても、個人イベントで直接話す内容であっても、変わることがない。
そのブレのなさ、一貫性にふれるたびに、なんともいえない安心感が湧いてくる。
この人を応援しようと思った理由、好きだなと思った理由が、強固に裏付けされていくような感覚になる。
そんな感じなので、わたしはまりおくんについては、しみじみと「推しだな…」と実感する。自分はこの人を応援してるなっていう自覚が、ぽこぽことあたたかに内側に湧く。
心の中に、明確な「推し」という場所があって、そこにすっぽりと収めて、大事にしまってある感じがするのだ。
また全然別な話で、言葉に対して責任を取れる状態でいたいから、応援について「ずっと」っていう単語はもう使わないと心に決めているんだけど、まぁそうであっても、揺らぎのなさみたいなものを内面に感じるし、心の実家だなぁという安心感がただそこにある。
◆新しい「好き」の置きどころ
…で、である。冒頭の話題に戻る。
推しとは違う、全く別種の新しい「好き」が、豪速球で飛び込んでくることが、おたくをやっているとどうやら数年にいっぺんくらい起こるらしい。
説明するまでもないんだけど、わたしにとってのそれは、今年の夏~秋にかけて起こってしまった。
…鶴丸かっこいい国永さんである。
いや、刀ミュにおける刀剣男士としての鶴丸にはもう完全降伏してるのでそれはいいのだ(いいのか?)。
問題は、中の人なんである…。
これは周りの友人知人とも100%意見が合う部分なんだけど、テニミュを出自とした舞台おたく、どうしたって中の人にフォーカスしてしまいがちな傾向にある。
もうある種文化として、キャストは公演を通じて成長していくものだ、っていう文脈が当たり前に念頭にあるというか。その努力をつぶさに見守り、「こんなに大きくなって!こんなこともできるようになって!あのときはああだったのに!」…っていうふうに感極まってしまう機能をもう数年前に心に実装済みなので、そこには絶対に抗うことができない。
そんなこんなで、中の人に注目してしまう派のわたし。
鶴丸かっこいい国永さんに心臓を撃ち抜かれた以上、演じているくるむくんさんに注目しないでいることはまずできない。
そこで自分なりにこの数ヶ月、めちゃくちゃ真剣に悩んでいる。
お前は推しを増やす気があるのか?と。
だが、ここについての答えは、まだ出ていない。
なぜなら、
好きは増やせる、でも甲斐性=ズバリ財布は、増やせない!
からだ。
応援には、いつだって取捨選択が生じる。わたしはもともと、全部の現場に通うおたくではないし、自分ができる範囲、あくまで自分がみたいものについてだけ、全力投球のスタイルをとっている。
なのでそれこそ予算&有給の都合で、見送る現場は現時点でたくさんある。
そうなったとき、まとめて二人を本気で真剣に応援できるだけの覚悟が自分にあるのか!?というところ…どうやっても答えが出せないでいる。
だって、なんかそんな中途半端なことを、一生懸命にがんばっている若者に対して向けては、そんなのバチが当たってしまう、と思うのだ(※うまれつき、むだに真面目な性格なんです…)。申し訳なくて、そういう意味で天秤にかけるような行為をやりたくない、と思ってしまう。
だって、向こうは覚悟を持って人前に立っているのだ。そんな人を応援する時には、どうしたってこちらからも、同等の覚悟を差し出したくなる。…なんで趣味にこんなに「覚悟」というワードが頻出してしまうのかはわからないんだけど、とにかくわたしは本気でそう思ってしまう。
鶴丸かっこいい国永さんの中の人であるところのくるむくんさんは(※説明が長いよ)、
どうしたってわたしにとっての「好き」をめちゃくちゃ大量に取り揃えなすっているお方で、正直「なんでこんなことに?」と思っている。
狙い撃ちってこういう時につかうのか?と言いたくなる。ちょっとわけがわからないくらい、わたしにとっての好きな要素しかお持ちでらっしゃらない。
比較的小柄でコンパクトな身長の中でスタイルがよく、運動神経が良い。お人柄はとても素直で真面目、純朴な長野から出てきた青年で、地元が大好き。そもそも「これは…わたしの…好きなタイプのお顔…」とうちのめされるように言いたくなるお顔立ち。わたしはああいうお顔が好きなんだ!お歌を歌えば意味がわからないくらいうまく、とにかく全方位伸びしろしかない。
そしてとどめ。「文章がうまい」。
さすがにこの要素は今まで若手俳優を見ていて出会ったことがないので、一番やられたのは正直ここだ。ここは予想してなさすぎて、10月30日に刀ミュプレミアム会員サイトで更新されたキャストブログを読んだ時、受け身がとれなくて動揺したし、文章がよすぎてめちゃくちゃに泣いた。(その後AOXのファンサイトに有料登録しに行き、新しい情報を取りに行ったところ、その好きな要素がガンガンに積み増されて11月のわたしは息も絶え絶えになった。)
上記のとおり、どこを向いてもオールビンゴなこの状況、さながら差し向けられた刺客である。まじでびっくりする。
とりあえず、そこに対して「好き」へのあらがいをすることはやめることに決めた。だって逆らっても無駄だもの。好きなもんはそりゃあ好きだわ。
やめたんだけど、その先については、わたしは自分の甲斐性にまったく自信が持てない…。
(※お察しのとおり、エリザのS席がいちまいおいくらまんえんか、という点が主な理由である)
稼ぎは有限、財布を2倍にすることはこの先も絶対にできない以上、自分にできることがなんなのか、一番後悔しない選択はなんなのか、悩み抜いていくしかないような気がする。せめてそれが自分に実現できる真摯さなのかもしれない、と思った。
◆「推し」は「好き」の先にあって、もはや生活である
で、ずっとこのテーマについて夏以来悩み続けた結果、最近になって
「推し」はあくまでも「好き」の先に訪れるもので、もはや生活そのものになっていくんだな、と感じた。
推しとは、自分の毎日を自然と彩ってくれる存在。がんばってるからがんばろう、と思わせてくれる存在。
直接はなんのつながりも無いような毎日の時間も、自分の中での些細な努力も、どこかで少しずつ推しに支えられていて、自分も自分らしくいようと前を向く勇気をもらえたりする。
寄っかかるのとも違って、自分の中に一本芯を通すような感覚。
それくらいに、自分にとってはよそからは不可侵で大切なものだから、やっぱり向き合う上では覚悟を備えていたいし、真剣さだけで勝負していたいな、と思う。…ほんとうにこのメンタリティはどこからくるのか、自分でもよくわからない。
ぴかぴか眩しく光りながら飛んできた「好き」を、無視することは私にはできなかった。
でもそれと同じくらい、いま自分の中にある「推し」の居場所はものすごく特別で大事。
このさきに新しい「推し」が果たして本当に訪れるのかどうかは、もう少ししつこく、ひとりで悩み続けていようと思う。もうそれしかできないから、それでいいや。ひとりで受け身をとろうしてとり損ねては、暴れてゴロゴロ転がっていようと思う…。
答えが出るかもしれない頃には、きっともう、次の夏がやってきている気がする。