刀ミュ新作、花影揺れる砥水。
4月30日にTDCホールで迎えた初日、その客席に私もいた。
先に言います、この先に続くのは残念ながら楽しい文章ではないです。そしてめちゃくちゃに長い。
覚悟はして臨んだものの、脚本の変更により大好きな作品シリーズの様相が変わっていたことに、動揺をどうしても隠せない。
率直に言って悲しんでいる今、少しでも自分のなかでけりをつけたく、こうしてブログに文章を書こうとしている。
これはいわゆる”お気持ち”長文と呼ばれるものになろうが、そこは個人のやっているブログなので当然であると開き直って書かせていただく。すべて個人の感想である。*1
そして今花影を楽しめている人を否定する気はさらさらないことも、当然ですが明確に言っておきたい。私は、あくまでも自分の「好き」に対して正直でいたいだけだ。
他人の感受性にまで責任を持つことはできないし、こちらから干渉しようとも一切思わない。あなたはあなた自身の「好き」を、どうか大切にしてほしい。
いわゆる注意書き的なものを最初に書いておく。
以下の前提のため、この人とは合わないなと思われた場合は注意されたい。
- 今回の刀ミュ花影に対しては明確に「ちょっとこれはどうなんだろう?」と思っている。率直に述べると「面白いとは思えなかった」人間です。
- 刀ミュは2015年のトライアルから現地観劇勢。本シリーズを追っている人間としては、いわゆる古参の部類に入ると思います。現地で見ていないのは厳島と江おんのみ。
- わざわざ”古参”という言葉を遣ってこれを書く理由は「これまでの作品シリーズに対する自分の理解が浅かったとはどうしたって思えない……」と感じている背景を述べるためである。
- 刀ミュの中で好きな刀は、三日月宗近・加州清光・鶴丸国永・肥前忠広。ゲームでもともと好きだったのは、初期刀:加州清光の他に、一期一振とへし切長谷部*2。
- オタクとしての本業はこの10年舞台オタクであり、原作ゲーム及び派生コンテンツそのものへの思い入れは薄め、刀ミュのみを例外的にめちゃくちゃ愛してきた人。舞台オタクかつゲームも当時たまたま遊んでいたことをきっかけに刀ミュに足を運び、いろいろあって今に至る。
脚本は作品の支柱である、その事実の重み
刀ミュの脚本家が変わった。ついに、本公演でも本当に変わってしまった。
それがどういう結果をもたらすのか、覚悟をして臨んだつもりだったけれど、それなりに予想はしていたけれど、やっぱり全然受け止められなかった。
私が愛してきた物語は、もうそこには存在しないことがよくわかる2時間15分だった。
長く刀ミュの脚本をつとめてきた伊藤栄之進さんの書くお話は、とにかく常にひとつの「群像劇」としての在り方が抜群に優れていたと思う。
出陣する6振り(東京心覚だけは例外的に8振り)それぞれについて、スポットのあたる瞬間があり、
彼らが本丸でどういう関係性を育んできたのか/来ていないのか、どういった性格なのか、仲間に見せる顔と一人のときでは何が違うのか、
そういった”人となり”と言うべき点が、舞台上に生き生きと立ち上がっていた。
だからこそ、見終わる頃にはそれまで特に興味のなかった男士のことも含めて「全員大好き!」になってしまうし、
反対にその作品の中に特別に好きな刀剣男士がいる場合はめちゃくちゃのめり込んで見ることができ、その上でそれ以外のメンバーのことももれなく好きになり、誰を見ていてもしっかりと楽しめた。
出陣を経て、何が変化としてもたらされたのか。刀剣男士としてどんな成長があったのか。歴史を守る任務についての捉え方はどう深まったのか。
そういう点が、1部のお芝居の終わりには自然とこちらに溢れんばかりに伝わってきていた。
「歴史」に関する捉え方、つまりは歴史上の人物たちの描かれ方にも、いつも深い愛情が感じられた。
世に語られる歴史上の姿と、実際のその人物とは果たしてどこまで同じであったのか。
よく知られるその実績に隠れて知られていない側面も実はあったのではないか。
歴史の中に名を残す人、儚く命を散らす人、長く生き次の時代を作る人、その立場は様々だけれど、
その誰もに、確かにそこに生きた命があったのだと、
その連なりこそが今という時間を作り出し、刀剣男士たちが守るべき「歴史」となっているのだと、そんなメッセージが伝わってくるようだった。
そういった愛情を以て織りなされる物語の中で遣われる言葉は、
徹底的に選ばれ磨き抜かれていて、決して「語りすぎる」ことがなく、
そこに存在する感情は、一体いまどのような色合いなのか、その行く先やありようを観客が自由に想像することができた。
刀剣男士が、ふと仲間に語りかける理由。返事をした相手が、その時に抱いた気持ち。
飲み込んだその言葉の先に何があったのか、どんな感情が渦巻いていたのか、ぐっと彼らの内側に引き込まれるように、夢中になって彼らの生き様を見ることができた。
作家性には、どうしたって代替性なんてない。
書き手が変わればその世界の色使いが変化するのは当然のことで、
先に挙げたような特徴は、伊藤さんが書く物語だからこそ存在しているものだと、もう重々わかっていた。承知の上だった*3。
だからこそ「脚本は変わっているのだ、もうこれまでとは違うのだぞ」と自分に言い聞かせ、ある意味では期待値をぐっと下げてから観に行った花影初日ではあったのだけど、
想像するのと実際の出来事として眼前の出来事を受け止めるのはやはり別問題で、
そうかこういうことになるのか……とちょっと呆然とした思いになっている。
花影を観た私の感想
以下、私が花影を見た結果の感想である。
最初に謝っておく。今作を楽しんだ人は普通に気分を害する可能性が高いので、まず読まないほうがいいと思う。
そしてネタバレしているのでご注意されたい。
- 6振りの刀剣男士それぞれについて、彼らがどんな性格をしているのか、何を考えてその任務に向かっているのか、お互いのことをどう思っているのか、提示された物語の中から掴み取ることは私には難しかった。つまるところ、彼らがどんな人なのか、正直全然わからなかった。君たちのことを、もっと知りたかった。
- 一期一振の影打ちと言われる「カゲ」の存在が出てきた時点で、きっと物語はこう帰着するのだろうな、と容易に想像がついて、果たしてその通りになり、終わった。以上、という感じだった。物語の行く末を息を詰めて見守る、といったことは特に起きなかった。
- 本阿弥光徳の子供時代に聞こえてくる”謎の声”が、彼のその後の人生をマジでそのまま全部言って予言してしまうのには本当にびっくりした。”余白”の消失を最初に感じた瞬間だった。
- 本丸の主、今までも「一期一振を頼みます」までなら言うと思うけど、そのあと間髪入れずに「彼の支えになってあげてください」なんて言う?いや絶対言わんくない?あの人そういう人だったっけ?*4
- 唐橋さんの演技の素晴らしさは否が応でもよくわかり、思わず笑ってしまうし見事だなぁと思うんだけれど、結果としてそこに残ったのは光徳の物語だったと感じた。刀剣男士たちの物語は、どのあたりに見い出せばよかったのだろう。
- 豊臣秀吉がめちゃくちゃ歴史上のステレオタイプ的豊臣秀吉に感じられた。伊藤さんが物語の中の存在として新たな家康像を生み出したのと思わず対比してしまうほどに、彼に対してステレオタイプ以外の要素を見つけることが難しかった。秀吉が携えていた物語が見えなかった。
- 歴史の流れが変わってしまうからと、病から生き延びた鶴松を斬りにいこうとする長谷部と長義を小竜が止めるシーンがあったけれど、二人だって何も「正面から斬りにいく」ほど考えが至らないものだろうか(そこまで浅はかではないのでは)?と思うとかなり違和感があるし、そこへの小竜くんのツッコミの入れ方・対する長谷部と長義のリアクションが、なんだか普通の”いまどきの人”っぽく、付喪神というよりは俗っぽい雰囲気に感じられ……そこにも強めの違和感があった。(特に小竜くん。江水で見ているからこそ余計に。彼ってこういう人でしたっけ???)
- 一期一振が、どうやってカゲを打破し自身を取り戻したのか、そこに至る動機やきっかけがなんだったのかがよくわからなかったけど、長谷部がその時代に実在する刀としての一期一振にめっちゃ話しかけたから、で良いんだろうか。長谷部といち兄の間には事前にそれほどまでに深い本丸の仲間としての絆が、果たしてあったのだろうか。私にはどうしてもそうは見えなくて、「なんで急に戻って来られたの???」になってしまったし、ていうかみんな、いち兄のこと放置しすぎてない?遅くない……?怒鳴りに行くならもうちょっと早くても良くない?となり、ただただ疑問が渦巻いた。(話の都合上、きっかけとなる鶴松の死が出てくる時間軸まであの状態を引っ張らざるを得なかっただけ、に思えた)
- 磨り上げられないゆえ具現化した「カゲ」はいち兄よりも大きかったわけだけど、最後の刀の状態の一期一振って、あれは磨り上げられたの、られてないの?どっち?だとしたら身長は???あれ……??(ってなったんだけど、最早私の集中力がなさすぎたのかもしれない……)
- 長谷部たちがカゲに阻まれて偶然落とすかたちになった毒薬を拾い、それを幼子に飲ませることを以て一期一振が「それが自分にできること」と自分の存在意義を見出すあの流れ、あれは本当にどういうわけなのか???この1点に関しては、私は正直怒りが抑えられない。原作興味はもとから薄いとはいえ、2015年のゲーム開始時点からキャラクターとしては一期一振が大好きな人間としては、ちょっと耐えられないし、理解ができなかった。いや辛いて。自分の存在意義についてそれは一体どういう自覚の仕方なんだよ……いち兄……君の刀剣男士としての役割ってなんなんだ……。
- 焼刃して記憶がないいち兄の取り扱いについて、いや普通にもっとやりようあったくない?となった。刀だった頃の記憶がない彼が交わす、もとの主の豊臣秀吉との会話、それを活用すれば秀吉のことだってもっと人として掘り下げられたのでは……(いち兄が好きだからこんなに怒ってるんだろうな私、と今更ながら気づく)
- 今回の部隊がこの6振りであることへの必然性、納得感を醸成してほしかった。今回、彼らが物語の中であまりにもどこか”記号的”な存在に感じられ、観ていてそれがたまらなく辛かった。都合で動かされる存在ではなくて、彼ら自身の意志と感情、つまりは「心」を持った生き生きとした存在として、彼らに出会いたかった。
- 時間遡行軍との戦い=殺陣の見せ場がここである、というのがこれまでは明確にわかって、刀剣男士ごとに違う曲がついていたりメロディーが同じでも楽器が変わっていたり、といったことにすぐに気づくのがこれまでの常だったのだけれど、どこが殺陣の見せ場だったのかわからないまま終わってしまったのでびっくりした。*5
- 暗転がめちゃくちゃに多いと観劇慣れしてる人間でも気が散るんだな、と知った(これは伊達双騎でも感じたことである)。
別に泣ければいいと思っているわけでは全くないけれど、刀ミュの本公演を見ていて涙が出なかったのは、流石に初めての経験だった。
同じ満開の桜の花の下で歌われる歌なのに、「キミの詩」と伝わってくるものがこんなに違うことがあるんだ……とびっくりした。それくらい、”物語”から、なにも伝わってこなかったのである。
わたしは、この花影という物語からいったい何を受け取ればよかったのだろうか?と、未だに困惑している。
これはもしかして、とにかく「わかりやすさ」に全振りしたのかな?とも感じた。*6
その結果、私には物語が伝えたいことが一体なんなのか、逆に全くわからなくなってしまったわけだが。。
これまで私が刀ミュの物語で愛してきたのは「余白」であり、行間だったんだなと改めて痛感した。*7
余白が徹底的に塗りつぶされたとき、それを前にした人の想像力は行き場を失うし、そもそも駆動するきっかけすら無くしてしまう。
結果、観ている私の心は、自分でも動揺するほどに全く動かなかった。辛い。
これからの刀ミュはどこへ向かうのか?
私はおそらく、刀ミュを好んで見る観客層の中ではこれまでもだいぶ外れ値で、偏ったサンプルなのだと思う。
ゲームや派生コンテンツに思い入れが浅いのに、刀ミュだけが異常に好き、という刺さり方をしている人は多分あまり多くはないはずだ(同じ舞台作品ではあるけれど、自分の好みとは違うという理由で刀ステも基本的には見ていないくらいだし)。
そのため、今回の変更で真っ先に思い浮かんだのは、「自分はこの作品のターゲットから外れたのではないか?」ということだった。
どういう層か具体的に表現するのは難しいけれど、
刀ミュの物語が培ってきた精神性みたいなものがぶっ刺さって好きにならずにはいられない、我々のような層のことはいったんおいておくことになってしまっても、
その代わりにもっとカジュアルに間口を広げて色んな人に気軽に見てもらえるようにしたい。運営にはそういう思惑があるのかなと想像したのだ。
ところが、である。
後からパンフレットを読んでみたところ、別に意識してそうしたわけでもないように思えて……というところで、今は余計に混乱している。(今回某かのもやもやを抱えている人は、いちどパンフレットを読んで見ることをお勧めする。)
今作のパンフレットでの茅野さんと浅井さんの対談には、別に「わかりやすくしたい」というような話は一切なかったし、そもそも冒頭で茅野さんの口からは「栄之進さんに書き続けてもらえればそれが一番良い」とまで語られていて、本当にどうしたらいいかわからなくなった。。
これは一体、なにが起きているのか。
書き手としてのひとりの天才が去ったというその事実がシンプルにめちゃくちゃに重い、しかしそれをどうすることも難しいという、そういう話なんだろうか。。
「わかりやすさ」、それは本質的な意味合いでの価値なのか?
一方で今回の花影について、わかりやすい、しんどくなくて観やすいといった感想が沢山あるらしいと聞く。それもじゅうぶん理解できる。
皮肉のように聞こえてしまうかもしれないが、「結局のところ、この作品を通して何が言いたいのかわからない」というのは今回私が花影に得た感想になるけれど、
これまでの刀ミュの物語にそっくりそのまま同じ感想を得てきた人もきっと沢山いるはずなのだ。
だからこれはもう完全に「好みの問題」になってくるのだと思う。
時間の経過に伴い作品タイトルがどんどん巨大になり、運営体制にも様々な変化が生まれ、結果として自分の好みの方向性ではなくなっていきつつある……という事象が起きているのだとしたら、それは全然理解できる。
マーケティング的に考えてもあり得る話であり、なにかコンテンツが成熟していくときにはむしろ起きて当たり前のことにも思える。
その結果、作品が自分の好みに合わなくなったのならば仕方ない。こちらから離れていくしかないよね、という話だ。*8
私にとっては自分の想像力が働くスペースが物語に存在することこそが魅力を感じる源泉だけど、
もし反対に、解釈を自分で深めなければいけないことそのものがストレスになる人のほうが観客の中に多いのだとしたら、
そちら側に作劇を寄せていく選択をするのも、頷けることだ。
今回の作品の方向性を歓迎する人たちも沢山いるだろうし、それで成功するならその道もコンテンツ存続のためにはありなのだろう。
しかしパンフレットを読む限り、特にそういったメッセージを見つけることはできない、ように思える。
となると、意図して起こした変化ではないということになり……
もしそうであるならば、シンプルに脚本の持つ「物語の強度」については、運営にもう少し再考してもらえたらなと切に感じた。
2015年のトライアルから始まり、2018年には紅白歌合戦への出場も叶えた刀ミュは、
源氏双騎や歌合乱舞狂乱といった、2.5次元としてはかなり挑戦の色合いの強い作品も次々にラインナップし、
重厚で奥行きのある世界をこの7年半、こつこつ積み上げて作ってきた、と思っている。
私は、刀ミュがお客さんを決して侮らないところが好きだった。
舞台作品として、物語に絶対的な奥行きがあり、見る人によって受け取り方の変わる多面性があったからこそ、
原作のゲームが好きな人、個別のキャラクターが好きな人、日本の歴史が好きな人、私のように舞台がもともと好きな人、
様々な層にアプローチが出来、その裾野を広げていけたのではないだろうか。
解釈に残されていた"余地"の部分があるからこそいろんな立場の人にとって求心力があったし、私たちはその余地に対して想像力をかきたてられ、魅力を感じることが出来ていたんじゃないだろうか。
超人気タイトルの脚本を一人で背負うのは過酷だろうし、さまざまな制約もあるに決まっていて、だからこそチーム制のような方向を模索しているのだろうな、という動きも2019年あたりから見受けられていた。
その前提があったから、メインライターとしては離れることがあっても、監修のようなスーパーバイザー的立場で伊藤さんは残ってくださるのかなと当初想像していたんだけど……
興行としては当然のこととしてコロナの打撃も相当に深いのだと思うし、伊藤さん自身がこの作品から離れることを強く望んだのかもしれないことも、なんとなく想像できてしまう。
でも仮にそうなのだとしても、脚本という作品の支柱であるその精神性は、やはり絶対的に欠いてはならないものだったんじゃないだろうか。
この先どうなっていくのか、どうしても私には不安に思えてしまう。
複雑性を廃した物語は、いったいどこに行き着くのだろう。
「キラキラしている」だけではない、と言い続けるために必要なのは
私は以前から、あくまでも骨太な1部のお芝居があってこその、2部のライブの良さがあると思っている。
2部のことも大好きだけど、それをメインで楽しむ場は真剣乱舞祭として明確に別に設けられているし、
刀剣男士たちの現代での戦いを”ライブ”と捉えた、ある意味では突拍子もない設定を勢いでねじ伏せているこの1部2部構成は、
1部に重厚な演劇を成立させて初めて、説得力をもって届けられるものじゃないかなと思うのだ。
でも、物語の強度が以前に比べ損なわれたと感じられる今の状態で、後に続く2部はこれまでどおりの綺羅びやかなライブステージをやっていくんだとしたら、
それではまるで、1部が2部のおまけみたいになってしまう事態に陥りはしないだろうか。
今私が抱いている最大の懸念はここだ。
アイドルそのものを題材にした2.5次元作品だって当たり前に存在するわけで、そうではなくて刀剣男士たちがライブパートを成立させるところに妙があるのに、
そのための前提となる屋台骨=刀剣男士としての彼らを語る物語がスカスカになってしまうのは、あまりにも危険なことに思える。
その先に待ち受けているのは、「単なるイケメンキラキラコンテンツ」に変化して簡単に消費されていく、そんな望まぬ未来に思えてならないし、
それこそが、今まで刀ミュが絶対そうならないように頑張って避けてきた姿なんじゃないだろうか。
これまでの刀ミュは、2.5次元だからと軽く見られらすいような状況にはめちゃくちゃに意志をもって抗ってきたと思っていて(そうじゃなきゃ生まれないだろと思う作品ばかりである)、
見ている立場から私は自信をもって「たしかにキラキラして見えるかもしれないし、実際キラキラはしてるんだけれど、でもそれだけじゃない作品なんです!」って、胸を張って言うことができていた。
でもこの方向性がこの先続いていくとするならば、もう私は同じことを言えなくなると思う。
もし花影しか知らない人に「刀ミュが好きなんですね!」と話しかけられたら、なんと答えていいかわからない気持ちになってしまう。
2.5次元が侮られやすい現状に風穴開けるような気骨と気概がかっこよかったのに、だからこそ出来たことが沢山あったはずなのに。その結果もついてきていたはずなのに。
本当に、大好きだったから
2016年、幕末天狼傳にぶん殴られたことがきっかけで私はこのブログを立ち上げた。
そこから刀ミュにまつわる記事はなんとトータルで70件以上、書いてきたらしい。
anagmaram.hatenablog.com
この7年半で、本公演+各ライブ演目の現地観劇回数はとっくに100を超えた。
そうさせる力が、間違いなくそこにあった。
得た感動をなんとかして言葉にして書き残したい、抗えないその欲求がいつも、刀ミュ作品を観たあとの私を駆り立ててきた。
でも、そういうことも多分この先は起きなくなるのだろう(現に花影で起きていない)ことを思うと、今は本当に身を切られるように寂しく、心から辛い。
私の感情が呼応していたのは、伊藤さんが書く物語に対してだったんだなと、ひしひしと痛感している。
最後に、2019年の「歌合乱舞狂乱」に向けたでじたろうさんと松田さんのCUT対談を引用する*9。
今あらためて読んでいたら泣けてしまった。
松田 「『刀ミュ』って、他の作品なら10年かけてやるようなことを2年くらいでやっているわけですよ。ものすごい巻き(笑)。マラソンなのにダッシュしてるみたいなスピードで走ってて『平気?』って思っている人たち、まあまあたくさんいると思うんですけど――」
小坂 「僕はこれしか知らないからな……そうなんですね」
松田 「そう、これ、めっちゃ速いペースで走ってるんです。でも、できれば僕はそのペースのままマラソンを走り続けたい。何も振り落とさずにね。だからそれができるようになるためには知恵もいるし、人の助けもいるし、アイディアも必要だし。ただ闇雲に走っていたら絶対に息切れして苦しくなるから、まだまだこれからです。支え合いながら、ぜひみんなで一緒に走りましょう」
「何も振り落とさずに」。「みんなで一緒に」。
そうさせなかったのはやはり、コロナ禍なんだろうなと思う。
誰が悪いという話じゃなく、正直なところ、明らかに全てはコロナが悪いんだろうな……と感じた。
そこまで思考がたどり着くと、残るのはどうしようもない無力感である。
松田さんがまだネルケにいらしたら、もしかするとなにか違う部分もあったのかな、などと余計な邪推までせずにいられないほどだ。
当然、見えないところでなにが起きているのかは我々にはわからないけれど。
製作委員会の中にはもしかしたらいらっしゃるのかもしれないが、目に見える形としてクレジットに松田さんのお名前も伊藤さんのお名前もない。それが今の刀ミュなんだ。
パンフレットを読む限り、観劇直後の私が当初想定したような「わかりやすくして間口を広げたい」といったような動きは特に起きていないのだとしたら、
余計にどうして?という気持ちが募ってしまう。
抜け落ちた物語の存在感、かつてあったその強度がより強烈に思われて、とても辛い気持ちになる。
私は本当に、ミュージカル『刀剣乱舞』が大好きでした。
もらってきたものは、それこそ両腕に抱えきれないほどに沢山あります。応援したいと思う俳優さんにも、みんな刀ミュを通じて出会ってきた。
その思いの源は、やはりそこで描かれてきた物語の力強さにありました。
これからも刀ミュのことは好きでいたいし、10年続くコンテンツになってほしいって今でも変わらずに思っている。
でも物語から受け取るものがこれほどまでに目減りしてしまうのであれば、今までみたいに心躍らせて劇場に足を運ぶことは、もうどうしたって難しくなるだろう。
同じような感覚の人がどれくらいいるのかはわからないけれど、このままでいい、とは到底思えないし、思いたくはない。
何度考えても、これは単なるこちらの勝手な思い入れだけではないように思うのだ。
そんな一方的なもので、この作品がここまで大きくなれたはずがないから。
作品の奥行きの中に自分の感受性を自由に解き放ち、想像力を働かせ、そこで動いた心のありようをスケッチするように、気の済むまで言葉を遣って感想を紡ぐ。
そんな贅沢な時間の過ごし方を数え切れないほどに味わわせてくれた、かけがえのない作品。
言葉にできないほどの「好き」が、そこには本当に沢山詰まっている。
伊藤栄之進(御笠ノ忠次)さん、長きにわたり素敵な物語をたくさん届けてくださって、本当にありがとうございました。心から感謝しています。
あなたの筆致は私にとって、まるで奇跡のように心に宿る光でした。
生み出される言葉たちに、心尽くしの物語に、本当にいろんなところへ連れて行ってもらいました。
刀ミュの三日月宗近の結末は、どうしてもあなたの本で観たいです。
それだけでも叶う可能性はないのかと、正直まだ諦めきれません……。
戻ってきてくださる未来は、絶対にないのでしょうか。
*1:インターネット上の人格としては顕名で、ある意味ではリスクをとって本音を書いているわけだけど、これは大好きなものに対して私が示せる誠実さの形だと思っている。なので言いたいことは、自分で言いましょう……私は誰かの代弁者になるつもりはないとだけ、強めに意思表示をしておきます。
*2:今まで全く気配もなかったふた振りが同時に出てくることへの動揺と、たぶん伊藤さんならいち兄は書かないだろうなという納得と、この形でならふた振りに正直出会えなくてもよかったと思ってしまう悲しみと。
*3:伊達双騎は現地で観て、この違和感はやはり脚本が違うからなのかなと戸惑いながらも敢えて深掘りはしなかった。その後に青江単騎を観て「これこそが私の愛する物語だ!」と衝撃すら覚える涙を流した。しかしその1ヶ月後に脚本から伊藤さんが離れられることを知り、絶望。「脚本が違うし、本公演じゃないならひとまず観なくてもよいかな」と思い、江おんは刀ミュで初めて現地で観ない=チケットを申し込まない選択をした。全ては本公演を観てからの判断だ。その結果が、今。
*4:アンケートで「本丸の主が言葉足らずだから刀剣男士が苦しむことになるんだ、もっとちゃんと指示を出せ!」的な批判があったんかなとすら思いました正直。……いやさ、描かれてないから指示も出してない、とは限らなくない???????
*5:脚本云々は抜きにして、今回全体的な完成度がいつもの水準に達していないように感じられたのもめちゃくちゃ不思議だった。過去作のバクステの長い稽古期間・厳しい指導の様子を見ているので余計に……本当にどうして?茅野さんらしくない……
*6:幕が上がる前、ステージの上にモチーフですらないどでかい日本刀そのものがでんと構えているのを見て本当にびっくりした。わかりやすくしたいのだとしても、そんな極端な具象に走るのか!?という衝撃。そこまでせんでも流石にお客さんみんな話わかるやろ……刀ミュらしからぬセンスだと思った。つはもののあの幽玄なセットが懐かしくなった。
*7:最低限の言葉で語りに余地を残す伊藤さんの本に、エッセンスとなるワードを明確に散りばめた浅井さんの歌詞の組み合わせが、やはり最強だったんだと思う。塩梅というか、情報量としてのバランスが。お二人の言葉の相互作用は美しいまでに完璧だったなと思う。
*8:それくらいドライに割り切れるほど簡単な「好き」ではなかったんですよ、こちとら、と言う気持ち。頭では理解するが感情が追いつかない
*9:出典:CUT No.415 DECEMBER 2019「原案ゲームとミュージカル、それぞれの生みの親が『刀剣乱舞』への愛と夢を語り合うプロデューサー対談! 小坂崇氣 × 松田誠」