ハムレット、本当に楽しかった!通い倒した集大成としての感想記事なわけですが、
単純に書き手の事情により、今回はたいへん恐縮ながら主演の染五郎さんとれいちゃん・りょうがくんの感想に絞って書かせていただいております(※筆者は以前より柚香光さんと石川凌雅くんのファンをやっています)。
目次
- 嘘偽りのない舞台姿がどこまでも観客を惹きつける / ハムレット・市川染五郎さん
- 複雑で多面的な輝きを生きる王妃 / ガートルード・柚香光さん
- 悲しみの果てに冷たい怒りを孤独に燃やす / レアティーズ・石川凌雅くん
- 総括:今「ハムレット」を上演する意味を、観客に問いかける一本
嘘偽りのない舞台姿がどこまでも観客を惹きつける / ハムレット・市川染五郎さん
硬派の極みである、演出や解釈もシンプルなシェイクスピア作品、それをなぜ私はこんなにも楽しむことができたのか。
それはなんといっても主演のハムレットをつとめた市川染五郎さんの素晴らしさによる。
彼なしにこの作品の成功、魅力を語ることは不可能である。
膨大なセリフを自らの内側から湧き出るものとして掌握し続け、場を支配するその様子は、
「21歳って……ええと、それはいったい何歳なんですか?」と言いたくなるような、凄まじい舞台姿だった。
私はこれまで一度も歌舞伎を観たことがなく、映像作品も含めて彼の姿を自分の目で見るのはこれが初めてだったのだが、
ハムレットを通じて染五郎さんを知ることができて良かったなと思うし、初めて見るハムレットを演じるのが染五郎さんで良かったと思った。
舞台が好きな人間として、目撃できたことをとても幸運に思う巡り合わせだった。
板の上に在り続けることを生業として生きてきた人にしか出せない説得力、それこそ一朝一夕で叶うものではない出力の安定感及び強さに、とにかく圧倒され続けた。
観劇前に戯曲を読んだ時点では、私にはハムレットという人間のことがさっぱりわからなかった。
「なんかずっとウダウダしていて話はいちいち長すぎるし、この人の言うことはちょっと適当に聞き流しておくか……」みたいな気持ちにさせられるくらいだったのに(正直すぎる)、染五郎さんのハムレットを観ているとそんなことは全然思わなくなってしまう。
殿下の言うことに、なぜか自然と耳を傾けずにはいられない。繰り言のようとも言える、ひとり思い悩む彼の独白が、不思議なくらいにこちらの心に届いてしまう。
それを叶えていたのはどれほど鍛えたらこのレベルに?と思わされる発声の確かさ、素晴らしさはもちろん、その内側にある舞台芸術への真摯な思いそのものなのかなと感じた。
我を出して貫いていくのとはちょっとまた違うベクトル。
この作品を今届けることの意味を内側で深く問い続け、役の中にどこまでも潜りながら、でも同時にどこか自由であるようにも思えた。
ハムレットと染五郎さんの間に壁がない感じ、殿下そのものに思える瞬間が多々あって。
祖父と父に続く形で、歌舞伎の高名な家柄の伝統として挑むハムレットという難役、その状況に意味を付け足そうとすればいくらでもつけられてしまうと思うんだけれど、
でもそれに反発するでもなく背負い込みすぎるのでもなくて、真っ向から役と一体となった宿命を受け止め、バリバリと噛み砕いて咀嚼しては、自分の表現として出力する。
そのしなやかな強さはあくまでも表現者としてどう役を生きるか?の深い問いかけにこそ向いていて、ある意味では頑固な職人のようでもあり……惚れ惚れするほどに魅力的だった。
こんな人が真ん中にいたら、そりゃあ座組も強くなると思う。
実際、カーテンコールその他の場面から窺い知れるカンパニーの充実度合い、雰囲気の良さが今回とても素敵だった。
染五郎さんを中心として、毎公演が真剣勝負であることが嘘偽りなく板の上から伝わってくるからこそ、私は硬派なストレートプレイをこんなに楽しく多ステできてしまったんだろうなと思った。
複雑で多面的な輝きを生きる王妃 / ガートルード・柚香光さん
れいちゃんが演じるからにはきっとこちらの受け取りも大いに複雑なものになるだろう、一体なにを見せてくれるのかな……ととてもワクワクしていたんだけどその期待にたがわず、とにかく表情豊かで奥行きの深い、大変に魅力的なデンマーク王妃だった。
なぜ死んだ夫の弟と結婚したのか、彼女は何を願い何を望み、何を見つめて生きているのか。
解釈の幅が様々にあり得るガートルードという人物像、東京~大阪~愛知と観る中でもその受け取りは様々に変化して、
おそらくは観る人や回によってもその答えは多面的に変わっていくものだったと思う。その魅力はまさに底なし沼のよう。
まばゆいゴールドのドレスに身を包む姿はトロフィーを具象的に表しているようでもあり、クローディアスの王位簒奪の要因の8割くらいは彼女にあったんじゃないか?と思わされるような引力の強い美女。まさしく「女」としての強い芳香を放つ。
しかし同時に、息子ハムレットに注ぐ愛は大海のように果てがなく、愛情深い母であり同時に女である複雑さ、
更にはその役割期待を超えて彼女が「彼女自身である」その様子が、私にはとてもれいちゃんらしい奥行きだと感じられた。
ガートルードが”彼女自身”であるというのは、周囲に向ける眼差しに満ちる愛のことを指している。
家族であるハムレット、クローディアスはもちろん、作中で関わるオフィーリア、レアティーズといった血縁の枠組みの外にある人物にも、その愛は確かに向けられている。
「ねえ、オフィーリア」と語りかけるときの声のあたたかな柔らかさや、オフィーリアの額への愛情あふれる口づけの仕草、
オフィーリア埋葬のシーンで「お願い、こらえてやって」と絞り出すようにレアティーズに叫ぶ声の必死さ。
れいちゃんのガートルードは意志を持って、その時己にできる最良の選択を採り続けようとしていたように見える。
仕方なく運命に流されているのではなく、自分に能う限りの手立てを持って、懸命に、同時に気高く生きている。
女性であるというその事実だけで、選択肢そのものが限られる400年前の戯曲の中での描かれ方。その中で表現することのできる最大値を、どこまでも追求しつづけたようなガートルードだった。
東京ではクローディアスとの結婚はあまり意に沿わないものであり「全てはハムレットのため」という風に見えて、なんならワインの毒にも気づいているように思える時があった。
大阪では打って変わって精神的な幼さが滲むような明るさと若さを生きており、毒入りのワインですべてを悟り息子に事実を伝え死んでいくように見えた。
そして最終地、愛知ではそれまでの歩みのまさに集大成、ガートルードを構成するあらゆる要素のバランスがとても繊細に積み上げられていて、
時に妖艶な女、時に愛を育てすぎた母、時に誇り高い王妃……その場面ごとに見せる顔が移り変わり、その印象はひとところには留められない。
結果「彼女はこのような人間である」とは易易と断じられない生き様で、簡単に答えを出させてもらえないことこそがれいちゃんのガートルードの本質だったのかな……というふうに感じた。
ため息の出るような王妃としての輝く美貌はもちろんのこと、その内側にあふれている芝居心が私はとにかく大好きなので、まさに柚香光ならでは、と思わされるガートルード像が見られてとても幸せだった。
悲しみの果てに冷たい怒りを孤独に燃やす / レアティーズ・石川凌雅くん
周囲から一目置かれる非の打ち所のない紳士とされるレアティーズ、立派な男だとハムレットからも繰り返し言及される彼。
りょうがくんの演じるレアティーズは、なにか”表面的な”名誉を重んじる男なのではなく、その中心にごく深い家族愛があるところが特徴だなと思う。
冒頭の船出の場面につけられているきょうだいの演出がそれを強く印象づけているのは間違いないが、
目に入れても痛くないほどにオフィーリアを可愛がる兄、その愛情の深さはどれほどのものであるか、という事実が観客には否応なしに伝わってくる。
長年宰相を務め、今の王からの信頼も篤い父親のことも敬愛し、強く誇りに思っている彼は、
「このように在りたい」と目指す姿であったり、己が守らんとするその名誉の根っこに、家族への強い愛を抱いていたのだと思う。
だからこそ、その全てを奪われたとき、彼は全てを振り捨てて一直線に復讐へと飛び込んでいく。
二幕後半に登場してからはまさにジェットコースターのような浮き沈み、激しい感情の起伏を生きることになるレアティーズ。
父を殺された事実とその顛末への激しい怒り、その父の死によって狂わされた妹の姿への驚愕、そこに更に追い打ちをかけるような時を待たずしての突然の妹の死。
……ちょっとズタボロになりすぎである。ひどい仕打ち。どう考えてもレアティーズ・オフィーリアのきょうだいふたり、あまりにも可哀想すぎる。
父王の復讐に揺れ、惑い続けるハムレットとは対象的に、烈火のごとく怒りの炎を燃やすレアティーズは、真っ直ぐに復讐へと吸い込まれていく。
埋葬のシーンでのハムレットとのぶつかり合い。レアティーズにとっては、あそこが一番苦しみを感じている場面だったように思う。
ハムレットによる「なぜ僕をこんな目にあわせるんだ?」については、いくら悲しみに溺れようとも名誉ある立派な男がそのように振る舞うべきではない、という指摘なのだろうと思うが(※「どの口が言う」100%前提として)、
そうはいっても彼も”人の子”なのだ。自然の情には勝てないからこそ、心からの嘆きはどこまでも深くなるのであり、その悲しみには出口が見えない。
内側に猛り狂う怒り、絶望、悲哀、苦しみの数々を、レアティーズ自身が持て余し自問自答するような表情は、本当に見ていてこちらまで苦しくなった。
そしてその身のうちに巻きおこる激しい感情の全てを、彼は復讐心へと冷静に収斂させる。
泣きぬれた悲しみの果てに彼がたどり着くのは、たったひとりきりの、冷え切った怒りの世界。
ハムレットとの試合前。その場に立つ彼は、一切の迷いを生じさせることそのものを固く己に禁じているような頑なさを身に纏う。
復讐相手に向かって手を差し出したそのとき、「…決して不当なことはいたしません」の一瞬の間。この一拍、明確な空白に、ハムレットを討ち果たすという強い覚悟が滲む。
一方で「その言葉、素直に受けよう」とレアティーズの手をとるハムレットは、握った手をなかなか離そうとせずじっと彼を見つめるので、本来は潔白でありたいはずのレアティーズの心は、恐らくは少しずつ乱れていく。
しかしそれでも。どれだけ卑怯な真似をしようとしているのかをこれ以上なく自覚していようとも、
愛する家族を奪われたその復讐の手を緩めることを、レアティーズは決して己に許さない。
毒の切っ先を見つめる目の色の濃さ。ハムレットに向かっていく全身からは、刺し違えてでも奴をあの世に連れて行くという気概が爆発するように溢れていた。
自らの命が果てる前に、王と己の企みのすべてをハムレットに伝える彼は、自分の何を取り繕うでもなくありのままに真実を打ち明ける。
確固たる愛ゆえの名誉心を、本来は望まないはずの形で全うしてしまったレアティーズ。
形が違えば、ハムレットとはきっと良い理解者同士、友人になれたのにと思わずにはいられなかった。
多くはない出番の中で喜怒哀楽の全てをぶちまけるように疾走する姿。そのさなかで、その心情がいかに本物であるか、ということを場面ごとに強く感じさせてくれたりょうがくんのレアティーズとしての生き様が、私はとてもとても好きだった。
ラストのハムレットとの試合のシーンの見事さはファンとして誇らしいとしか言えないもの。
アクションによって成り立つ場面として捉えたときの迫力が本当に申し分なく、とてつもなく決まっていて二人の姿のいちいちが絵画のように美しかった。
大楽の三本目の見ごたえといったら言葉にできないほどで、王宮で試合を見ている観客になってうっかり拍手してしまいたくなるほどだった。
今回のこの座組に名を連ねてくれたことが、いちファンとしては本当にたとえようもなく幸せで、存外の喜びを感じました。
総括:今「ハムレット」を上演する意味を、観客に問いかける一本
とても原作戯曲に忠実に展開されていたと思われる今回のハムレット、しかしラストだけが180度異なっている。
フォーティンブラスのラストのセリフが「兵士たちに命じて弔砲を打たせるのだ」から「兵士たちに命じて射殺しろ」になっているという衝撃。
今の世に上演することを考えたために結果としてそのように変更したのだという演出のルヴォーさんの思い。
実際に目にした観客としても、その変更に違和感を覚えられない……という現実の在り方には、やはり恐ろしさを感じざるを得ない。
あのエンディングの迎え方では、デンマークはきっと続いていかずに滅びてしまうことになるのだろう。
「射殺しろ」というフォーティンブラスの声に反応するように突如燃え上がる舞台上のピアノ。
絶命したハムレットを抱き呆然とするホレイショーのシルエットは波濤に飲み込まれ、背景のLEDパネルの映像はブラウン管のようにぶつっと白いノイズ線を走らせて消え、唐突に幕となる。
フォーティンブラスを含め、最後に銃を構えて立つ兵士たちを演じるのは全員が女性キャストであることには、複合的に「今」を表すことを意図した演出なのかなと感じた。
旧態依然としたものはいずれ滅びる、新しい力*1がそれを乗り越えるように訪れるだろうというプラスの面と、
そうして立っている今この時がどれほど確かで過ちのないものなのかは結局はわからないというマイナスの面、
その両面が2026年の現代を象徴するような幕引き。
呆気にとられたまま急に現実に放り出されるような感覚のラストは、
「ハムレットという戯曲を今解釈して演じるとはどういうことか?」という問いかけを強く観客に向けてくる。
それまではどちらかというと傍観者としての感覚を強く得ながら物語を観ていたのに、最終的に事態の当事者として作品を突きつけられる、ある意味では容赦ない後味の悪さ。
この巻き込み方もまた演劇にしかできない表現そのものであり、こういった体験をいつのまにかしてしまうというのも、観劇趣味の醍醐味のような気がする。
東京公演の終わりかけの頃、自分なりにもっと作品理解を深めたくて手に取った「謎解き『ハムレット』 名作のあかし」(河合祥一郎著・ちくま文芸文庫)で、
最終的に「ハムレットは単なる復讐譚ではなくアイデンティティの物語である」という解説がされていたのだが、
観劇前に戯曲を読んだときに「この作品の主題って一体なんなんだろう」とまさに思っていたので、ものすごくスッキリした。
Xでも何度か紹介したけれど、今作の補助線としては完璧といっていい、私にとっては最適な一冊だった。が、すでに手に入りにくい本なので、読むならば同じ著者による100分de名著のほうがおすすめ。
以下で「はじめに」と「第1章」の全文が特別公開されているそうです。
mag.nhk-book.co.jp
戯曲の読書→実際の観劇→それを経ての副読本の読書→改めての観劇、といった流れで、自分の中でのめり込むようにこの作品に向き合えた約2ヶ月はとても充実していて、
単に「推しが出ている舞台」としての捉え方以上の*2、本質的な演劇作品に触れる観客としての喜び、みたいなものをたっぷりと味わうことができた。古典作品をどう楽しむか?という意味で充実感の最大値を記録できた気がしている。
とにかく、板の上の充実感が素晴らしい作品だった。そういう作品を目撃できることの幸せ。
この作品を届けてくれた座組の誰しもが「今その瞬間を役として生きる」ことにとても真摯だったからこそ、私はいち観客としてこれほどまでにこの一筋縄ではいかない戯曲を楽しめてしまったのだと思う。
予定調和のセリフなのではなく、その場で内側から自然と発するように聞こえてくるシェイクスピアのセリフは、最終的にはどこか音楽のようでもあって、
流れるような日本語の美しさを存分に味わいながら、同時に物語そのものの解釈を探求する過程をじっくりと楽しむことができた。
初めて観客として触れる「ハムレット」が今回の染ハム殿下を中心とするハムレットだったことを、心底幸せに思う。
類まれなる充実感を観客として与えてもらったこの初夏の客席での思い出を、これからも大切にとっておきたい。
