劇中楽曲を聞いたことはあったけど、なんだかんだで観そびれていた作品を初観劇。
再演を重ね22年目、とうに評価の定まっている(?)名作なので今更という気持ちもしつつ、なんだか意外な手触りだったので、自分の感想を簡単に書き残したいという試み。
でも実際に書いてみたら"モーツァルト"という題材がいつも以上に個人的な走り書きに近いものを生み出してしまったため……少なくともキャストへの感想を期待している方には不向きな文章かと思います!
(ちなみに、キャストの組み合わせはゆんと涼風さんです。末尾に〆としてほんのちょっぴりですがキャスト毎の感想も書きました。)
目次
- 大人気作……なのに、意外なくらいに「わかりやすさ」を拒む作品
- へっぽこピアノ弾きとして出会った”モーツァルト”について
- 「モーツァルト!」が描こうとしているものは
- 的確に涙腺に襲いかかるリーヴァイ節
- 駆け足で、キャスト陣についてひとこと感想
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大人気作……なのに、意外なくらいに「わかりやすさ」を拒む作品
観終えた第一声としては、なんだかすごく……不思議な作品だった。わかりやすかったり、手放しで爽快に「面白かった!」という感情になるものでは決してなく、
かといってじゃあもう観なくていいやと思うかというと全然そんなこともなく、帰途につきながら「もう一度観に行きたいな」と、なぜかじわじわと思わされるような。
大作ミュージカルに違いはないんだけれど、ばん!と明快な作品世界が提示されるものでもなく、”キャッチーな”大ナンバーの連続というわけでもない。
これだけ長く続く人気作がこんなに変わった味わいだとはあまり思っていなかったので、ちょっと面食らった。
観ていて強く思ったのは、ヴォルフガングは幾重にも呪われているんだなということ。父、姉、妻、雇い主、そして才能、つまりは自分自身から。
彼自身のありようは、冒頭も冒頭すぎてびっくりするくらいのタイミングに登場する「僕こそ音楽」に、すべてが集約されている。作品におけるいちばん有名な曲が始まって15分以内?で歌われるとは思っておらずびっくりした。(一幕なのは知ってたけど「私だけに」くらいのタイミングかなってなんとなく勝手に思っていたところがある。)
”音楽”とともにある運命、類まれなる旋律を生み出すその天賦の才から、彼自身は常に不可分であり、だからこそ命果てるそのときまで、その傍らにはアマデがいる。
ヴォルフガングを取り巻く人々は皆それぞれに利己的な側面を持つので、物語を追っていてもヴォルフガング一人が目立って自分勝手だという印象はあまり受けない。
彼の周囲では皆それぞれがそれぞれの思うところに従って、自分の要求をヴォルフガングに対して浴びせる。
かといって、その要求の数々にヴォルフガングが苛まれ苦しんでいるようなストレートな描写があるかというと実はあまりそういう印象もなく、
わかりやすく「天才の孤独」を描くアプローチはしていないんだな、という印象を受けた。
あくまでもそこに生きている"ひとりの人間"を描き出すことに主眼を置いているからなのか、
才能があることも、ヴォルフガングという人間を構成するひとつの要素に過ぎないのだ、という描き出され方にも思えた。
仮に、ヴォルフガングの苦悩がもっとわかりやすく表現されていたら(それこそ台詞を使うなどして)、きっと作品としては何倍もわかりやすくなるのだと思うけど、でもおそらくそうなった途端にどうしようもなく安っぽくなってしまうと思う。
歪さがあるのに、なぜかすごく絶妙に取られたバランスの上に成立している作品な気がする。
そして、どんな場面でもずっと無表情のまま、羽根ペンを走らせ続けるアマデ。
ぴったりと吸い付くような存在感でそこに居るその姿こそが、台詞で説明されることのないヴォルフガングの生きる上での様々な困難を、雄弁に語っている。
ヴォルフガングも周囲と同じただのひとりの人間なのだという事実と、彼の持つ失うことのできない音楽の才能=背負う運命の在り方は、アマデを介して常に並行して描かれることになる。
周りの物語の進行を一切無視して、アマデの真っ白な羽根ペンが一定のリズムで宙に跳ねるように動き続ける様子には、なんと表現したら良いかわからない凄みがあった。
他の何にも決して染まらない、独立した意志と運命。
へっぽこピアノ弾きとして出会った”モーツァルト”について
ここからが、あまりにも個人的な走り書きのパート。
以降はむかしそれなりに熱心にピアノを習っていてクラシックを日常的に聴きながら育った人間の感覚を、解釈にちょっと挟む。*1
とはいえ別に音大受験者でもないし、特に専門知識があるわけではないため、あくまで個人の感覚の話である点はどうかご了承いただきたい。
モーツァルトの楽曲に対して私が受ける印象は、その場に最初から完成形として存在していたんじゃないかな、みたいなもの。
そこからもう何も足したり引いたりできない。崩しようのない完璧なかたち。
私が弾いたことがあるのは簡単なソナチネの他はピアノソナタに限られるが、楽曲の展開自体は明瞭できちんと始まってきちんと終わっていくのでとても親切な譜面だなと思うし、
個人の感情の昂ぶりによって生み出された旋律というより、セオリーに則った中での”美しさ”の可能性が追求された結果である、というような印象になる。(これは西洋音楽史的にもそういうことであっているんだと思っている、モーツァルトが生きた時代的に。)
でもモーツァルトの曲はたとえ譜面的には全く難しくないものだとしても、聴きでのある演奏することが、びっくりするくらい難しい。
超絶技巧な時代の人でもないので余計にそうなんだと思う。
全くごまかしが効かないというか、単に楽譜通りに弾くのでは駄目で、その奥にある「どんな音を出すのか?」にものすごく繊細に向き合わないと、曲として聞けるものには全くならなかった。
もちろん音に向き合う行為自体、それは作曲家問わず何を弾いても当たり前に必要なものになるわけなんだけど、モーツァルトはとくにうまくいかないときの「かっこのつかなさ」が段違い、というのが個人的な感覚だった。出だしの数小節目に出てくるトリルの付け方ひとつ失敗するだけで、その曲がもう台無しになる。
だからこそ、ごくごく稀に上手く弾けると、ものすごく気持ちがよかったのを覚えている。
それは自分が弾きたいように弾いているのだけど、でもどちらかというと「ここに置くべき」と定められている場所に、しっかりと間違いなくピースを嵌めに行くような感覚が近かった。
かといって演奏において自由度が低くて窮屈か?というとそういうことはなくて、その音の正解の形はわかっているから、じゃあどうやってそこに到達するか?みたいな、それを追求する過程そのものに果てしない奥行きがある……そんな世界だったように思う。
演奏体験の中で出会った私にとってのモーツァルトは、それだけ完成されきった、完璧な調和のとれた音楽をつくる人。
「モーツァルト!」が描こうとしているものは
その一方で。
「モーツァルト!」の物語の中の出来事はある意味では不協和音に満ちている。観劇している間じゅう、観客としての心地良さは実はほとんど与えてもらえない。
観ていてそもそもの感情の置きどころが難しいし、主人公であるヴォルフガングに対しても、不愉快な言動や行動を取る登場人物はわんさか出てくる。
でも、それもすべてわざとなんだろうな、と思ったのだ。
あれだけ美しいハーモニーに満ちた音楽を生み出す天才のことを、反対にそうではない世界の中で、描き出したかったのかなと。
そこにこそ彼がひとりの生きた人間である証があるんだと、そういうメッセージが込められていたのかな……と感じた。
アマデがずっと携えている小箱の中に詰まっている煌めく旋律の数々。箱をひらくとたちまちに光がこぼれ、神からの贈り物のような奇跡のような音が流れ出す。
今と比べ物にならないくらい個人が「どう生きるか」に自由などなかった時代、その世界の中に授かった才能は、一体ヴォルフガングに何をもたらしたのか。
複雑な不協和音の中に、美そのもののメロディーを生み出した人の姿を描く。
綺麗なものばかりじゃない、だけど嫌なことだけでもない。明るい昼もあれば暗い夜もある。愛や依存が救いになることも、枷になることもある。
善と悪、愛と憎しみ、非凡と平凡、世界を分かつ要素は様々にある。
でもそれらを一緒くたに束ねたり、ときには超越したりもできてしまう、それこそが"音楽"の力なのかもしれない。
そしてそんな奇跡を生み出せるのは、生きた人間の力に他ならない。
モーツァルト!が描こうとしているもの、その答えとして私がたどり着いた結論はこれだった。
的確に涙腺に襲いかかるリーヴァイ節
観客としての心地良さはほとんど与えてもらえない、と書いたとおりに猥雑にがちゃついているこの作品世界。
しかしその中に流れ星のようにきらめいて瞬間的に飛び込んでくる、あり得ないほど美しい旋律がある。
「僕こそ音楽」はあまりにも有名だけど、実は「星から降る金」のことを私は認識していなくて、客席で初めて聴いて本当に衝撃を受けた。なんだこの曲!?と思った。
私が観た回は涼風真世さんが男爵夫人を演じていたのだけど、まばゆいばかりのドレス姿でヴォルフガングやレオポルドに対し歌声を”降らせる”涼風さんは、本当に神々しかった。
おとぎ話の中に語られる、成長ゆえの親子の別離。痛みがともなっても自分の足で歩みださねばならないというメッセージがもの哀しさを帯びた旋律に溶けて、聴いている間じゅうぼたぼたに泣けて仕方なかった。
その歌が内包する世界観の美しさに、本当にびっくりした……。そして同時に、そうして男爵夫人が届けようとしたメッセージは、父レオポルドには全く伝わらないという悲しさも。
ほかにも「終わりのない音楽」や「何故愛せないの?」あたりで、自分でもよくわからない涙がたくさん流れた。
感情移入して泣くのではなくて、歌に乗って届くその作品世界全体の空気みたいなものに揺さぶられて泣いているとき、あぁミュージカルを観てるんだな……と実感する。
ごちゃついて混沌とした世界の中に、不意に流し込まれる正面から心を揺さぶるメロディー。
聞いた瞬間にうわっと一気に持っていかれて、してやられた感がこっちに湧くのがリーヴァイ節!って感じがした。
結論として、モーツァルト!は、私にとっては観ながら感情が間違いなく「動く」タイプの作品であると思った。
ファーストコンタクトとしてはなんだか不思議な作品だな!?というのが真っ先に浮かんだ感想だったけれど、間違いなく観てよかったし、もう一度観たいなと思った。
この複雑さをもって長年上演され、愛され続けてきたというところに、作品としての底力みたいなものを感じる。
強いて言うなら、作曲の才についてモーツァルトがどう”天才”なのかについては、もうちょっと観客に伝わりやすい描き方もあるのでは?とは思わなくはないんだけど、
自国の著名に過ぎる作曲家を描くとき、わざわざ具体的なエピソードを添えるほうが野暮になるのも頷けるかなとも。
駆け足で、キャスト陣についてひとこと感想
最後にほんの少しだけキャストさんについて。
- 古川雄大さんのヴォルフガング。3回目とのことで、一言でいうともう貫禄がすごい。大役と難曲のすべてを我が物にしているなぁと思った。コンサートで聴いた「僕こそ音楽」と劇中で歌唱されるそれはアプローチや表現が全く違って、溢れる芝居心にめちゃめちゃに泣かされた。二幕後半のネイビーのシンプルなシャツ姿が一番好きだったな。
- 真彩希帆さんのコンスタンツェ。なんといっても「ダンスはやめられない」の歌唱に度肝抜かれた。きいちゃんの声って今どっから出た!?って思う瞬間があってほんとうにびっくりさせられる。元来の持ち味の愛らしさやヴォルフガングに向ける必死さが強いので、二幕の「あのままのあなた」が本当に悲しかった……。(そしてよく考えたらLUPINと同じカップルなのね。)
- 大塚千弘さんのナンネール。女だから才能があっても叶えられない夢、父が弟しか顧みない事実を、ストレートに恨むのとはまた違う、切々とした複雑な何かを滲ませて表現していて、とても穏やかなのに同時に凄みがあった。「終わりのない音楽」の語りかけるような歌い方が見事だった。
- 涼風真世さんのヴァルトシュテッテン男爵夫人。さきほど「星から降る金」については書いたとおりなんだけど本当に歌唱に泣いた。舞台で役として拝見したのはポーの一族とエリザベートのみなので、全然違った魅力に出会ってびっくりした。
- 山口祐一郎さんのコロレド大司教。いや~ちょっと、夢中になってしまった。なんかもう、舞台に出てくると目が離せない。冒頭のマントなんかあれ2メートルくらいあったと思う。あの威圧感というか、なんだか最早化け物じみた存在感(※当然褒めています)って他の人には絶対出せないものだと思う。「神よ、何故許される」でファルセットで歌った次の瞬間に地を這うようなバリトンボイスに秒で切り替わったのを聴いて本当に顔が「!?」になった。喉、一体どうなってらっしゃるのか……?
- 市村正親さんのレオポルド。愛に溢れていて同時に頑迷な父親、何故愛せないの?と息子から問われてしまうような行動原理、理解できないけれど嫌いにもなれないという複雑さにものすごい説得力があった。レオポルドの苦しみもまた、彼自身が生きた証なんだなと思う。演奏会のところとか、仮に自分がもっと若いときにこの作品を観ていたら多分「なんだよこの父親!」ってキレてただろうなと思う。あそこひどいよなぁ~。
- 若杉葉奈さんのアマデ。すんばらしかった……!アマデがあんなに出ずっぱりな役だとは知らなくて、なんちゅう難しいことを小4の子がやっているのか!?と本当に驚いた。。ニコリともしない無の表情でのあのペンの走らせ方は見事すぎる。カテコで緞帳が降りるタイミング、全身で弾け飛ぶようにはしゃいでいてほっこりしていたんだけど、トリプルになってヴォルフ&アマデで花道に出てきてくれたとき、しゃがんだゆんヴォルフのマイクを借りての「本日はご観劇ほんとうにありがとうございました!」……あまりの可愛さに崩れ落ちた。そっかぁ~そんな声してたのねぇ~!どうか健やかであってほしい。
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帝劇ではもう観劇予定がないけれど、両親が観たいというので11月に帰省を兼ねて博多座で2回目を予定。
ヴォルフガングはおなじくゆん、次は香寿たつきさんの男爵夫人なのでこちらも楽しみ!
3000字くらいでコンパクトに書いてみたかったのに結局6000字over書いてしまった……なぜなの?おしまい。