こたえなんていらないさ

ミュージカル『刀剣乱舞』を実家とする舞台オタクのブログです。推しとご贔屓がいます。

ミュージカル「マドモアゼル・モーツァルト」を見た感想(明日海りおさん・華優希さんを中心に)

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10月24日ソワレ公演にて、ミュージカル「マドモアゼル・モーツァルト」を観劇しました。
観劇前は予想していなかったのですが、なんというか持ち重りのするような、ずっしりとした衝撃を受ける作品でした。いい意味で打ちのめされる体験をした。
www.tohostage.com

あらすじは下記の通り(上記公式サイトより引用)。
「作曲家・モーツァルトが実は女性だったら?」という設定のもと、モーツァルトの生涯を描く作品です。

天賦の音楽の才能を持って生まれた少女エリーザは、女性が音楽家になれなかった時代ゆえに、父レオポルトから男の子“ヴォルフガング・アマデウスモーツァルト”として育てられた。モーツァルトは瞬く間に時代の寵児として宮廷でもてはやされるようになる。宮廷作曲家であるサリエリモーツァルトの音楽に否定的だったが、一方で目をそらせない存在でもあった。

モーツァルトが下宿しているウェーバー家の母親は、彼の成功にあやかろうと娘のコンスタンツェと彼を無理矢理結婚させようとするが――。

以下、書き手の偏った思い入れにより、潔いほどに明日海さん・華さんに振り切った感想になっております…!(他キャストの方のファンの皆様、申し訳ありません!)
そして1回のみの観劇ゆえ、セリフの細かな言い回しは不正確かと思いますがご了承ください。

◆性別を偽るモーツァルト。じわじわ真綿で締め付けるように増していく苦しみ

話の筋としては、モーツァルトの才能に嫉妬のような割り切れない思いを抱くサリエリと、
それを全く意に介さず、ただ己の欲するままに音楽を書き続けるモーツァルト…という、過去にもよく描かれてきた関係性がひとつの軸になっていると思います。
本作ではさらにモーツァルトが女性であることにより、その二人の間にほのかに恋愛感情が通い合う、というのが特徴的。

しかしなんといっても、わたしが見ていて打ちのめされたのは、「女性であることを偽っている」という設定によってモーツァルトが帯びる孤独の色合いが、凄まじく強いものになっていたことです。


ただ音楽が好きなだけ。頭の中にとめどなく溢れてくる音楽を、外の世界に放っているだけ。それを自分でも止められない。
音楽の神に”愛されて”しまった存在であるエリーザは、父親の命でその才を捨てずに済むように、男として世に出ていくことを強いられます。

エリーザがそのことについてどのような感情を抱いたのかは、作中では明確には描かれていません。
しかし見ている限りでは、性別を偽って生活していることに、当初はさほど頓着をしていないかのようにも見受けられました。
裏返せば、エリーザにとっては、それほどまでに音楽が己の在り方の中心にあり、作曲ができていればそれで良かったのかもしれない。
おそらく、それがこの物語序盤のモーツァルトの姿です。

押し切られるような形で実現してしまったコンスタンツェとの結婚も、性別を偽っている以上、本来は絶対に避けなければならないはずのことなのに、
「このまま独身でいるほうが作曲生活に差し支えそうだし、まぁ意外となんとかなるかも!?」…くらいの勢いで踏み切ってしまっているようにも感じられました。
ただ愉しげに、明るい光に取り憑かれたように曲を書き続けて聴衆を魅了するモーツァルトの表情は、いつも笑顔を湛えたもので、物語の序盤ではそれが暗く曇ることはありませんでした。


しかし、最初に彼女が苦しみを覚えるのは、コンスタンツェの愛に応えられないことを痛感したとき。
「結婚した夫婦として、男女が同じ部屋にいるのに、なにもないなんてことはないでしょう?」と健気にかつ正面から迫るコンスタンツェ。
彼女のごまかしのない真っ直ぐな愛に対し、自らの素性を隠し続けることができなくなったモーツァルトは、ごめん、傷つけるつもりはなかったんだ…と詫びながら、自らの身体をコンスタンツェのもとに晒します。
しかし当然の帰結として、コンスタンツェはその事実を受け入れることができず、叫びながら寝室を走り出てしまいます。
「自分が女じゃなかったら、こんなことにはならなかったのに」というどうしようもない感情が、一人部屋に取り残されたモーツァルトを苛む。


次にモーツァルトの表情に陰りがさすのは、自分の弟子のフランツとコンスタンツェが恋仲になったことを悟ったとき。
一度は家を飛び出していったものの、「他に行くところなんてないもの」と言って戻ってきたコンスタンツェを、モーツァルトは大喜びで出迎えます。
君は何の気兼ねもしなくたっていい、自由なんだ!と、ただ自分の側にいることだけを彼女に頼むのですが、その結果としてフランツと愛し合うようになったコンスタンツェは、彼との間に子供を授かることになります。
ふたりの逢い引きを目撃し、関係を悟って胸を突かれたような表情を浮かべるモーツァルト

ここでも彼女の感情が明確に語られることはありませんが、
同性であれど、やはり”伴侶”として心の支えにしていたコンスタンツェが他の男性に心を委ねたことになのか、
それとも家族として新たな命を宿すという行為は決して実現しない、自分たち二人の歪な関係になのか…
いずれにせよ、モーツァルトの胸中がおだやかならぬものであることが、この場面からは伝わります。


そして最終的に彼女を果てなく苦しめたのは、サリエリの思いに応えられないことを知った瞬間。
父レオポルトの死を知ったモーツァルトは「もうモーツァルトでいる必要はないんだ!」と快哉を叫び、突然女性の格好で演奏会に出かけると言い出して、コンスタンツェを仰天させます。
コンスタンツェの制止も虚しくそうして女性の姿のモーツァルトが出かけて行った先は、サリエリの演奏会だったのですが…あろうことかサリエリは、女性の姿をしているモーツァルトに出会って一目惚れをしてしまうのでした。
その場は「モーツァルトの従姉妹のエリーザです」という説明で無理やり切り抜けはしたものの、その夜サリエリはわざわざ花束を携えて、モーツァルトの家を訪ねて来てしまいます。


後日、モーツァルトは再びエリーザの姿となり、ウィーンを発つのでお別れを言いに…と、サリエリの元を訪ね返します。
そして会話の流れで促されるまま、エリーザはサリエリ自身が作曲した曲をピアノに向かって弾き始めるのですが、やはりその中身はどうしようもないほどに”モーツァルト”。
「素敵な曲。」とうっとりした表情を浮かべた次の瞬間、「…でも、変化が必要ね!」と言ったかと思うと、ものすごい勢いでもとの曲をアレンジし、楽譜を無視して変奏曲に仕立てあげていってしまうのです。
奔流のように輝きながら溢れ出るその旋律に打ちのめされ、更に恐らくはエリーザの正体にうっすらと勘づいたサリエリは「何故、楽譜通りに弾かないんだ!」「出ていってくれ!」と激しく怒鳴り、演奏を止めさせます。
「貴方に喜んでほしくて…」としどろもどろに告げるエリーザ。出て行けとはいったものの、同時に慕う思いを止めることもできず、咄嗟に「行かないでくれ」と縋るサリエリ

…しかしもう、どうしようもなかった。
この場面でエリーザのもとに訪れたのは、「自分が音楽を愛するだけで、目の前にいる大切な人を傷つけてしまった」という事実でした。


どの方向にどう進んでも、がんじがらめになってしまっているようなその状況、見ていて胸が締め付けられるように苦しかったです。
常人の感覚では及ばないような天賦の才を持って生まれただけで、背負う孤独はすでに深い。
それなのに、そこに更に何重にも色合いの異なる、様々な孤独が否応無しに塗り重ねられていく。
その行き場のなさに、客席に座っている間じゅうなんと表現していよいかわからない感情になり、一幕も二幕もあらゆる場面で涙が止められませんでした。

◆存在そのものとしての説得力が桁違い。明日海さんのモーツァルト

上記のとおり、常軌を逸したと言いたくなるような孤独を背負ったマドモアゼル・モーツァルト
それを体現する明日海さん、ただとにかく、圧巻でした。

女性であることを隠すゆえ、
コンスタンツェが望むように彼女を愛してあげることができない。
コンスタンツェが自分の弟子との間に心を通わせ、子供までもうけることを決して咎められない。
サリエリに愛を打ち明けられても、応えることができない。

そこに最終的に、
自分が「モーツァルト」であるゆえに、その音楽の才能で、サリエリを傷つけてしまう。

しかし、二重否定のようなその状況を演じる明日海さんの佇まいは、まるであかるく白い光が透けているようなんですよね。
どこまでもピュアで、胸の内にただ美しい旋律を宿し、まさに「神に選ばれた存在」のような、絶対的な存在感を放っていました。

モーツァルトを生きる明日海さんからは、世を憂うようなまなざしも、自分の身を呪うような恨み節も一切感じ取ることはありません。
それゆえ逆説的に、研ぎ澄まされたあまりにも純度の高いその孤独の在り方が、本当に突き刺さるように伝わってきました。
わかりやすく自己憐憫に陥ることもなく、一方でどこか感覚が周囲とはズレ続けているような様子がまた、天才ゆえに周囲とは分かち合えない、自分だけの宇宙の中に生きているから…というようにも感じられて。
その孤独の有り様、真実性が凄まじく強かったのです。

モーツァルトの純粋さに響き合うような、あの明日海さんのなんとも言えない透明感が、物語を受け取る側の辛さに拍車をかけていたと思いますし、役としての説得力をもたらしていたと思います。
その姿が本当にまばゆくて…彼女に焦がれては突き放し、でも丸ごと理解したくなるサリエリの気持ちも、最後まで側を離れられないコンスタンツェの気持ちも、わかるような気がしてしまう。
それくらい、明日海さんのモーツァルトは、とにかく魅力的でした。

◆複雑すぎるコンスタンツェを演じきった華優希さんの芝居力

……華ちゃんさん~~~!!!!!涙
(※急にタガが外れた人)

ここで説明を申し添えますと、わたくしは去年の花組はいからさんが通る」で突然の宝塚落ちを決めており(※犯人:柚香光さん)、れい華を愛してやまない人間なので…華優希さんが!大好きなのです。
思い余った挙げ句、愛を込めて「華ちゃんさん」と呼びならわしております。
anagmaram.hatenablog.com

なのでどうしても胸がいっぱいになりすぎてちょっとなかなか冷静に書けないのですが、、華ちゃんさんのコンスタンツェ、本当に本当に、良かった。。
芝居心でこちらを容赦なく殴ってくるような、まさに華優希さんにしかできないコンスタンツェでした。


モーツァルトに恋をしているとき、さらに結婚して結ばれたのちの、ひたむきに彼を愛してなんとか気を引こうとする健気な様子。
寝室に入ってもまったく手を出してこないモーツァルトに業を煮やして、生脚をネグリジェから控えめに出してみたり、それとなく胸元をアピールする姿勢をとってみたり…という涙ぐましい努力の様子が、ま~~~本当に可愛らしく、何よりコミカルで。
やっぱりコメディエンヌ要素が抜群に!うまかった!好き!!!!
ちょっとした間のとり方やセリフの言い方で、客席をしょっちゅう笑わせていて、「流石なんだよな~~!涙」と嬉しくなっておりました。お前は何目線なんだ。


そもそもなんですけど、出だしのコンスタンツェのあのセリフ!
「触らないで!…お願いです。この部屋から出ていってください。二人きりになりたいの」。もう…。
あれを聞いた瞬間、壊れたように涙がぐあ~!って出ましたから…
華ちゃんさんがまた舞台に立っている!っていう嬉しさと、こちらをのっけからガツン!と殴ってくるような芝居純度100%のその声に、わたしはバカみたいに泣いてしまったのですが、
特段思い入れ無くシンプルに舞台として見に来ている友人が、同じように「このセリフだけで泣けた」と言っていたので、やっぱりその力は本物だな~…と思った次第でした。


華ちゃんさんのコンスタンツェは、なにもわかりやすくモーツァルトを許しているわけではない、というのがポイントな気がします。
恋し、愛したはずの相手に裏切られたという気持ちは明確に抱いていそうですし、その後も例えば「あなたも辛かったのね」みたいなわかりやすい慰めを口にするようなこともなく。
パートナーとして献身的に側にいなければと思ったわけでもなく、あくまでも世間体をとりあえず守っておくことを前提として、妻の役割を担おうとしていたフシがあります。
フランツと恋仲になったときの様子を見ると、モーツァルトに対しては消え失せた男女としての恋愛感情が、明らかにフランツに向いていることが伝わる様子でしたし、その恋路においてはモーツァルトは障害でしかなく…。
父の死を受けて突然女性として振る舞いだそうとするモーツァルトに激昂するシーンでは、「貴方のためになんでわたしはこんなに苦しまなくちゃならないの?わたしがなにか悪いことをした?」と、涙ながらに強い口調でモーツァルトを罵ります。


しかしコンスタンツェは、結局何があってもモーツァルトの側を離れることをしなかった。

愛する男だと思って結婚したけれど、それは偽りだった。
その後に出会った新しい恋は、正当な形で実る機会を、永遠に奪われた。
「君は自由なんだ」と言われながらも、その実、望むものから疎外される原因を作っている相手、それがモーツァルト

でも、それでも。
音楽に全てを捧げ、全身から命を削り出すようにして作曲を続けるその姿に、
その果てに生み出される音楽の素晴らしさに、
コンスタンツェの心の奥底は否応無しに揺さぶられ、ただ隣に居ることを選択し続けたのではないだろうか。と思うのです。


一言では言い表せないような内面の複雑性を持ちながらも、
一方では場面ごとに、その瞬間の感情が嘘のない真実であると、観客に有無を言わせず表現によって伝えられる。
それが華ちゃんさんのコンスタンツェだったな…と思います。
端的に言うとつまり…やっぱりお芝居がうまい!!!涙 大好き!!!
この先も絶対にお芝居を続けてほしい気持ちでいっぱいです。どうか続けてくださいますように!

◆明日海りおさんがモーツァルトを、華優希さんがコンスタンツェを演じた意味

宝塚の元花組男役トップスターである明日海りおさんが、「本当は女性であるが男性として生きる」役を演じ、
かつてコンビを組んだ過去のある、元花組娘役トップスターである華優希さんが、その妻役を演じる。
この状況はちょっと出来すぎている、と言えそうですし、ここまで来るとその背景を取っ払って観劇するのは、知っている側からするとなかなかに至難の業だと思います。

…なんですが。
見ているうちに、そのあたりの「文脈に引っ張られすぎずに、純粋な作品鑑賞がちゃんとできるかしら?」みたいな遠慮のようなもの、本気でどうでもよくなりました。
それくらい、本当にお二人にしかできないモーツァルトとコンスタンツェだったと言わざるを得なくて。
むしろお二人がそれぞれに背負った物語の存在こそが、明日海さん・華ちゃんさんにしか叶えられない表現を生んでいるのだとも見ながら自然と思えたので、
無理して背景を無視しようとする必要もないよな…と感じたんです。


単に「元コンビで、かつ退団直後に夫婦役で出演なんてエモい!」みたく、わかりやすくテンションが上がる部分も当たり前にあるとは思うんですが、
それを超えた先に、もっとずっしりとした実感としての、お二人で演じるからこその唯一無二の味わい、みたいなものが残りました。
話題性がどうとかそういう問題じゃなく、今の明日海さんと華ちゃんさんが共演することに、ちゃんと意味があったと思います。

性別の垣根を行き来する中で、同時にこれ以上ない孤独な立場を経験されたであろう明日海さんだからこそ演じられるモーツァルトだったと思いますし、
「男性を演じる女性」を絶対的な相手役として過ごしてきた華ちゃんさんだからこそ、モーツァルトを男性として見たらいいのか、女性として見たらいいのか、複雑に混乱しているコンスタンツェに説得力をもたせられた部分があるのだと思います。


物語の終盤に、モーツァルトとコンスタンツェがデュエットで歌うシーン。あの場面にこみ上げた感情については、どう表現したらよいのかわかりません。

ろくに食事も睡眠も取らず、魂を乗っ取られたかのような勢いでオペラ「魔笛」を書き続けるモーツァルトに、お願いだから少し休んで!と懇願するコンスタンツェ。
それでもその筆を止めることは誰にも、モーツァルト自身にもできないのだと悟った彼女は、ただ隣で見守ることしかできなくなるのですが、
ついにオペラを書き上げて「できた…」と零したモーツァルトの声を聞きつけて、そのもとに駆け寄ります。

「よかった、本当によかった」と一緒になって涙を流し、オペラの完成を喜ぶ彼女に、モーツァルトは「ありがとう…君がいてくれなかったら、僕は作曲を続けることはできなかった」と告げます。
そして、それを受けたコンスタンツェは、「わたし、あなたの音楽、大好き!」と声高らかに叫ぶのです。


単なる自己犠牲の精神でもなく、相手への憐れみの情でもなく、
「自分でもなぜかよくわからないけど、でもこの人のことを放っておけないから、側にいよう」というようなその結論の果てに、
コンスタンツェがモーツァルトに手渡した「あなたの音楽、大好き!」という言葉。

それはモーツァルトにとっては、己の存在の全肯定に等しいものだったのではないかな…と思いました。


形がこじれていなければ、男女として結ばれていた未来もあったかもしれないサリエリを、モーツァルトは音楽そのものによって傷つけてしまっている。
しかし一方で、自分が性別を偽ったゆえに手ひどく傷つけたはずのコンスタンツェが、今度はその”音楽”を通じて、モーツァルトの存在そのものを最後に全肯定する。

いわゆる”赦し”ともまた違っているようなそれは、
魂の響き合いがもたらした、本質的な連帯だったのではないかな、と思います。


その場面を演じるお二人は、本当にしっかりと横並びの存在に見えました。
肩を並べ、どこか子供のような無垢さを漂わせて一緒に歌うその姿は、
過去に経験されてきたはずの、ある種絶対的に過ぎた関係性の在り方を、明確に乗り越えたものだったと思います。
いま、このお二人の組み合わせでこの物語を観劇できたこと、本当に幸せに思いました。



わかりやすい華やかさや美しさより、もっと観念的・概念的な要素を表現する方向へと振り切っている舞台美術も、
モーツァルトの著名な楽曲をベースとしながらも強いグルーブ感をもって自由自在にうねるような音楽も、
時にはモーツァルトの音楽に魅了される聴衆を、時には奏でられる音楽そのものを溢れる躍動感で表現するアンサンブルキャストの皆さんも、
全てが確固たる世界観の中に集約されていて、ものすごい集中力をもって見ることができました。
どこか不気味な空気感があるというか、なにかちょっとした悪夢のようでもあり…。
根底にほのかな怖ろしさを感じる側面があって、ただ美しいだけではない世界な点が、本当によかった。


最後に。
凄まじい孤独を背負いながらも、モーツァルト自身が不自由であったわけでは決して無くて、
その人がどのように幸福だったのか、もしくはそうではなかったのかは、きっと本人にしか決められない。

性別という括りを超えて、ただその人がその人らしくあるということ。
その「自己決定権」こそが、きっと生きる上における真の意味での自由なのであり、魂のきらめき、喜びの根源であるのだと感じます。


わたしがマドモアゼル・モーツァルトから受け取ったのは、そんなメッセージでした。
「良すぎてしんどい」というだいぶ珍しい感想を抱いた、忘れられない観劇体験になりました。
見られてよかったです。