日記の方のサブブログに書くべきなテーマな気はする。
標題の通りなんですけど、便利にならない自由ってあると思うんですよねという話。
目次
仕事におけるAI活用の話
昨今、自分の仕事ではとにかく、AI活用の是非が常に隣にいる感じです。選択肢として取れるなら、それを選ぶのはもはや義務。
それってある意味では自分の仕事上の領域をAIに開け渡すところもあるのかもしれず、そこに関するそれとない不安や居心地の悪さを感じながらも絶対に向き合わなければならない、効率化というお題目。
でもねこれはね、お金をもらっていることなので全然いいんです。やりますし、正直やれます。という気持ち。
へーこんなこともできんのか!とびっくりさせられることしかない、とにかく日進月歩すぎてクラクラする。AIをサービス・製品に組み込んでいる企業はものすごくしんどいことが多くね?と思うくらい、Googleやアンソロピックといった大手の提供する汎用的なAIでできることが増えすぎていて正直わけがわからない。
そんな中でびっくりしながらも曲がりなりに「なるほどこういう部分は自分でやらないでAIに任せるのがいいんだな」という気づきを得たり、こういうこともできるかも?の発見ができるのは、確かに新しくて面白い。なんとなくわかってくると活用ってこういうこと?の端緒は見えてはくる。
そしてこのAI活用という分野を避けて通ることで自分の社会人人材としての価値はきっと目減りしていくに違いないため、むしろ歯を食い縛ってでもくらいつかねばならないポイントだと思っている。仕事だから、それはそれで良い。
プライベートにおけるAI活用の話
でね!?!こっからが本題なんだけど、
じゃあそれをプライベートでもやりたいかって言われると、
もうねぇ、ぜんっっぜん、やりたくねえ!!!!!
効率化とかマジで興味ない!!!👈あれよ
もともとわたしが「仕事脳とそうじゃない時の人格、流石に違いすぎない?」みたいな極端な人間なのもデカいのですが、
仕事で効率化を考えすぎて、それっぽいなんか賢いふるまいが私生活ではマジでできないし、やりたくない。理由は、ものすごく疲れるからです!
狂気のひとりアドベントカレンダー25日間の運用に効率を追求していたのは私の中ではかなりなレアケースである。狂気について詳しくはこちら。
私が日常でAIを使う局面って、Geminiにスキンケアの相談をしたりレシピの相談をしたりするくらいで、週に1〜2回使うかどうかって感じです。
この間は血糖値スパイクを防ぐ食事を相談してみた(が、そもそも健康・お金にまつわるような内容は鵜呑みにせず自分で判断せよという話がある)。
AIを使わない自由、便利にならない自由も本当に、あると思うの〜〜人間だもの〜〜。
「なんでそんなに便利にならなきゃいけないんだよ〜〜いいじゃん多少不便でも!まどろっこしくても!遠回りでも!!!」みたいな気持ちになる。
何のために「便利になる」のか
便利になったその先に何を求めるの?って話だと思うんですよね。要は目的が大事で。。
普段からとても困っていることがあり、それがAIに限らず技術で解決されるなら全然やったらよくて喜ばしい側面もたくさんあると思う。テクノロジーってそういうものだ。
一方で「なんかよくわからないけど、やらなければならないから」のAI活用って、やはり切実な動機がないためわりと苦痛なケースが多いのだろうな〜と思います。
そういうパターンの悩みに職場で直面している人もきっと多いのだろうな……。
わたしは仕事でやらざるを得ない状況にしっかり追い込まれたため腹を括ったというか、切実な動機はなくともやらないといけないことはもう割り切れたというか、
ある程度はこのあたりのAI活用に関する苦手意識も克服できましたが(どう使ってんの?の具体は控えますが別にそんな大したことはしていない)、
やはり人間として、「生き物」としての自分が、そこまで研ぎ澄まされた効率性に溢れた世界を望むか?と言われると……全然NOだなって思う。
資本主義の中に生きていると、仕事において便利にならない・効率化を求めないことは悪なので、もうそれは受け入れるのですが!
そこでお金を稼いでいるので文句はないのです、が!
生き物としてはなんか「ヤダ〜〜〜!」って思いながら暮らしている。なんの反骨精神だろうか。笑
不便を選ぶ愚行権、みたいな話になっていくんですかね……。これももう程度問題なんだろうか。
一定のところまでいくと、気づいた時には当たり前のレベルがもう想像できないくらいに上がっていて自分の生き方がいつの間にか超・前時代的で化石みたいなものになっているのかも。
そうなる速度が昔とは比べ物にならないくらいに上がっているのかも……とかを考えると、怖くてちょっと身震いする。
創造的な活動におけるAI活用について
文章にしろイラストにしろ、人が何かを生み出すプロセスでAIが可能性を拡張してくれる局面はとても多くて、それはうまく活用してできることが増える人が沢山いたらいいと思うんだけど、
自分が文章を書きたい欲はこういうつらつらしたただの日記であったりあとはなにかの感想をまとめたいという動機によるものなので、そこに関してはまだAIを使う必要性は感じていないのですが、これもまぁ忌避感があるゆえだと思います。
便利になりたくない・代替性がないと思っている、からかなと。
やってみたら創造的で面白いこともきっとあるのだと理解しつつ、私の中では明確にあらがっている部分。
例えば誤字脱字とか言い回しの重複チェックは便利かもね、とは思う。あとは構成の壁打ちとか。って考えるとアリな気はしてきたけどな。
でもさ、ごにゃごにゃと考えなくても死なないことを好きに考えて、その挙句ひとつの記事に5時間とかかけて1万字書くこととかが、わたしは嫌いじゃないわけよ。つまりやりたくて苦しんでるんだよね〜って思うから、つまりそこに「困ってはない」ってことなんでしょうね。しんどくはあるが……👈どっちだよ
今後本格的にやべえ!もう無理だ!と困ったらその時は遠慮なく使います。笑
結論:非効率の極みだからこそ生のライブパフォーマンスっていいよね
みたいな話をずっと考えていると、
この世の中においてはきっと非効率の極みである「演劇」という表現手法が、わたしはやっぱり好きですねぇ……と結局このあたりに結論が行き着くのであった。着地点の見出し方、強引か?笑
受け取るにも届けるにも、その場にいる人同士でなければならないという時間的・空間的な制約のもとにしか成り立たない、大変に非効率かつ刹那的な表現。
演劇に限らず、リアルタイム性を伴うライブパフォーマンスの価値はむしろ、この便利さの先に何を求めるんだ的な世界においては今後高まっていくんじゃないかなとはずっと思ってて、是非ともそうなって欲しいな。
チケット代の値上がりも相まって界隈の券売に厳しい局面を感じることも増えてはいるので、これもまた楽観的にすぎる願望だとは思うのですが……
思うのは「自分が何かを見て、どう感じたか」という内容こそが、AIによる代替可能性が絶対にないものだと言えるということ。
仮にAIに答えを聞いたとしても、明確に何の意味も得られないジャンル。
その人が得た感情、感想にはどんなにAIが発達したとてその人がその人である以上は絶対に代替性がなくて、唯一無二のものだ。
時間的・金銭的なコストを払って手に入れる観客としてのその体験価値って、やっぱり大事にしていきたいよね!と普段の自分の行動をちゃっかり全肯定して、この話を終わります。

























