こたえなんていらないさ

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【ネタバレあり】刀ミュ 静かの海のパライソ2021 感想その1~鶴丸国永・大倶利伽羅について~

ミュージカル『刀剣乱舞』静かの海のパライソ2021が、去る9月27日にTDCホールにて無事幕を開けました。
今週末で東京凱旋公演が終了予定。このまま行けば、今年こそ最後の宮城公演までの完走が叶いそう…という状況に、何より安堵しています。


既に2回配信もあり初日からだいぶ時間は経ってはおりますが、以下はネタバレ満載の記事になりますので、未見の方はどうぞご注意ください!





パライソのストーリーをごく簡単にかいつまんで書き起こすと、下記のような感じです。


主の命で、島原の地に出陣した鶴丸たち6振り。
敵の狙いは島原の乱か?と思われた到着後早々に、一揆の首謀者のひとりである少年天草四郎が、時間遡行軍によって殺されてしまう事態となる。
歴史の流れを史実どおりのルートに戻そうと、鶴丸一揆を成立させるべくもう一人の首謀者である山田右衛門作を捕えたうえで、日向正宗・浦島虎徹に「天草四郎を演じる」ことを命じ、
島原の民衆たちを集めていくこととする。
そしてその結果として一揆勢は3万7千人となり、原城を奪うまでの勢力に拡大する。つまり、歴史の流れは無事に元に戻りつつある…と言えるのだが―


話の”筋”という意味では、とてつもなくシンプル。
しかし、その上に織りなされる様々な刀剣男士たち、および登場人物の感情の在り方は本当に重厚そのもの。
というか、そもそも題材として「島原の乱」を選んでいる時点で、どうしようもない重たさがあるわけなのですが…

感想として言いたいことを挙げていったら本気で収拾がつかなくなってしまったので、
この記事ではばっさりと割り切って、鶴丸国永・大倶利伽羅のふた振りに関する感想のみをまとめています。
それ以外にもありすぎるほどある感想は、たぶん時間が空きますが後日別記事にてがんばります!


◆冷たい「怒り」を宿し続ける、パライソの鶴丸国永

本作の鶴丸は島原での任務の間中、どこか露悪的というか、わざとらしいほどに説明の足りない様子を見せ、なんだかちょっぴり"嫌な奴"のように振る舞います。
任務の詳細を部隊の皆に伝えないまま出陣し、天草四郎が死んでしまったあとも、あえてあっけらかんとした態度で「天草四郎を演じて、仲間を集めるんだ」「ざっと2万人は必要だな!」とだけ言ってのけます。

仮に人々を集められたとして、その2万人の人々が最終的にどうなってしまうのか…史実を知っていればすぐにわかることなのですが、
恐らくはひと振りだけ詳しい事情を知らない浦島虎徹がそれを悟ることの無いように、「困ったときは、ぱらいそ!って叫べばいい」とまで言って、彼を任務に送り出してしまいます。

結果として今回の刀剣男士たちは、人の命を奪う片棒をかつぐ…どころではない振る舞いをすることになるのですが、鶴丸は確信犯的に黙った上で、それを仲間たちにやらせようとしている。

見ている側がやや戸惑いを覚えなくもないその鶴丸の行動は、複雑に絡み合った「怒り」によるものなのだと思います。


鶴丸のその怒りは、まずわかりやすい形として山田右衛門作に向けられます。
出会った直後から最後まで、一貫して鶴丸は右衛門作につらくあたり続けますが、
その背景には、自分のしていることの重みを本質的には理解しないまま、民衆に火をつけ一揆へと駆り立てた右衛門作の無責任さへの怒りがあるのではないかと思いました。


象徴的だな…と感じたシーンに、原城で板倉内膳正を討ち取ったあとの鶴丸が、背後にいる右衛門作を振り返り、刀で彼を指し示すというものがあります。
鶴丸に刀を向けられた右衛門作は、その場で怯えたように腰を抜かしているのですが、
ここでの鶴丸は右衛門作に「お前が始めた戦は、こういう結果を呼ぶものなんだ、わかってるんだろうな?」「だから、最後まで責任を取れよ?」と告げているように見えました。

右衛門作は、兵を挙げた時点では、まさか自分たちが大名の首を取ることになるとまでは、おそらく考えていなかったのでは…?とも思うのです。
困窮した暮らしについての訴えはあくまでも真っ当なものであり、ある程度の力を示せばお上も考えを改めるのではないか。
もしくは元キリシタン大名の家臣という立場からは、締め付けすぎは抵抗勢力を生み出しかねないと幕府に思い知らせることで、何某かの譲歩を引き出そうとする考えもあったのかもしれません。
しかし兵を挙げたその結果は最終的に「なで斬り」に繋がってしまう。そこまで予め思い至る思慮深さは、右衛門作にはなかったのではないか、と。


大名を殺してしまったことへの衝撃、自分たちが始めてしまったことへの取り返しのつかなさ、そして横から突然現れて死した四郎のフリをしながら凄まじい強さで敵を追い詰めていく、謎めいた鶴丸への怯え。
腰を抜かしている右衛門作からはそういったものが伝わってきました。

鶴丸はこのシーンで右衛門作をそれなりに長い時間見つめ続けているのですが、その表情は本当にひやりとしていて、目には青い炎が宿るようで…内側に燃えたぎる憤りを隠そうともしないその様子に、見ていて心臓がギュッとなりました。


そしてこの鶴丸の苛烈な苛立ちは、右衛門作を通して、自分自身にもはっきりと向かっているのだと思います。
刀である彼がもしも戦そのものを憎むとしたら、その憎しみは必然として、そのまま我が身に降りかかることになります。


たくさんの無力な人たちの命が奪われることへの果てない憤り。
死ななくても良いかもしれなかった、日々の暮らしを全うできたかもしれない3万7千人の命が、むごたらしく消えてしまうことへのやりきれなさ。
しかし自分は刀剣男士として、彼らの無数の命を奪う後押しをしているにほかならない。
いったい自分は、何のために、何をやっているのか。
そうしてまで守る「歴史」とは一体何なのか。
パライソの鶴丸は、刀剣男士という存在である以上深く背負わざるを得ない、矛盾に直面している形なのだと思います。


絶対的な正義も悪もない、ということをわかっていてなお、歴史を守る任務に就くということ。
なぜ憎まれ役を演じる?という大倶利伽羅の問いかけに、
「自分自身を憎めるくらいでなきゃやってられないだろ、こんな戦」と、鶴丸は明確に答えます。


苦境からの脱出に戦という手段を選んでしまった右衛門作、
その中で奪われていく夥しい数の命。
そして何より、任務としてその手助けをせざるを得ない己への矛盾。
自分たちが飛び込んだ渦中の出来事のその全てに、鶴丸はとにかく激しい怒りを覚えているように思いました。

◆「編成を任せて欲しい」という発言の意図

そんな鶴丸が今回の担務に対して取ったアプローチは、おそらく「全てを一人でやる」というもの。
編成を自分にやらせてほしい、と主に依頼した背景がこれじゃないかなと。


次の行き先が島原であると告げられた瞬間から、どう転んでも辛い任務になることがわかっていたから、
鶴丸「しんどいことは全部自分一人でカタをつけようとした」「その上で、障害になりそうな要素は予め省きたかった」から、
編成を自分にやらせて欲しいと言ったのじゃないかな…という気がしています。

本丸を長く支えてきた自身への信頼が既にある程度篤くあり、疑うことなくついてきてくれそうな刀(=浦島)、もしくはまだ馴染みのない刀剣男士(=松井)であっても、本人が信頼している仲間(=豊前)を通じて無理なく指示を聞いてくれそうなメンバー、という感じに、部隊のメンツを決めていった気がするのでした。

言ってしまえば、自分のやることに異を唱えさせないようにしたのではないかなと。

刀ミュにおいては、任務への取り組み方に対して、わりと明確に意見が割れる瞬間が描かれてきたように思います。
ぱっと思いつくだけでも、阿津賀志、幕末天狼傳、つはもの、むすはじいずれにもそういう描写があります。
そのような抜き差しならない局面を、今回の鶴丸は障害であると捉えて、予め意識的に避けようとした節があるんじゃないかなぁと思います。


そして鶴丸の予想の範疇には、天草四郎が敵方に殺される事態もある程度存在していたのではないでしょうか。
敵が歴史改変を狙う以上、それは十分戦略としてありえる話であり、もしそうなった場合にどう立ち回るか?という点にも、思いを巡らせていたような気がします。

ここでつい考えてしまうのは、鶴丸が部隊の中に浦島くんを編成した意図。
泰平の世に生まれた刀であるからこそ、戦というもの・刀剣男士の任務について、まだ理解が浅い傾向があるような描写をされている浦島くん。おそらく本丸の中でもかなり心が若いほうなのでは?と思われます。
鶴丸は、その浦島くんの純粋さが必要になる局面があるのではないか…という点まで読んだ上で、編成しているような気がするのですよね。
言ってしまえばその純粋さを、任務の成功にあたって不可欠なものとして利用する気すらあったのではないかな、と。。
更にその結果として、刀剣男士としての成長を、浦島くんに促したかったのではないかと感じました。
そして日向くんは、そんな浦島くんを隣で支えられるだろうパートナーとして選ばれていそうな雰囲気があります。

松井くんに関してはもっとわかりやすい。
出陣の際に告げている言葉通り、かつて刀だった頃に同じ戦を経験した松井くんの記憶が役に立つ場面を想定もしていたでしょう。
その上でこの出陣が、いつかはやってくる「自らの過去に向き合う」ことのきっかけになればいい、いったん向き合ってしまえば後はまぁなんとかなるだろう!というような意識があるように思います。
豊前は勿論、松井くんのサポート役としての選択。


そして大倶利伽羅は、己の相方として、不測の事態が起きたときの自分にとっての拠り所として、編成に加えたのだろう…と思いました。
正面から何を頼るつもりではないのだけれども、内心でなんの遠慮をしなくても良い相手として…。
また、何となくですが、大倶利伽羅の前だと嘘なく「しゃんとしていられる」のじゃないかな?という気もします。
自然と背筋が伸びるというか、伽羅坊の前じゃカッコ悪いところは見せらんねぇからな!みたいな気概が湧いてきていそうに見えて…。


任務遂行のためならばと、ある意味冷徹に過ぎるほどのシビアさで編成を行ったようにも思える鶴丸が、
一方では大倶利伽羅を自らの隣に配置したという事実。
それは、「島原の乱」にまつわる今回の任務が、それほどまでに本質的に過酷なものだった、そうでもしなければ鶴丸をもってしてでも乗り越えられないものだった、ということを表しているように思えました。

◆みほとせ出陣を経た姿としての大倶利伽羅

今回、そんな鶴丸をとにかく隣で支え続けている大倶利伽羅
パライソのからちゃんを見ていて一番強く感じたのは「みほとせ出陣を経たからこその姿」なのだな、ということでした。
あの戦いを経験した結果、からちゃんの中にはおそらくそれ以前にはなかった感情や気づきが沢山生まれている…ということがはっきりとわかる描写が沢山あって。


物語の中盤、夜空の下でひとり鍛錬を積む大倶利伽羅が歌うソロ曲があり、
その歌詞の中には、下記のようなフレーズが登場します(※細かい点は間違ってるかもですが)。

祈りの言葉も
献げる花も
持たぬ俺はただ
白き息を刻み
この身を鍛えるのみ

ここでいう「祈りの言葉」は、明らかに石切丸のことを指しているのだし、
「献げる花」という言葉からは、どうしたって呉兵のことが思い出されます。


石切丸のように、戦で命を落とした人全てに祈りを捧げるようなことは自分にはできない。
失われた命に花を手向けないのは、「全ての戦を終えたらまた来る」という約束をしたから。
そんな自分は、ただ今目の前のやるべきこと、刀剣男士として向き合うべき「戦」のために、己を鍛える。なすべきことはそれしかない。


みほとせの出陣で出会った飲み込み切れない様々な感情を身の内に含みながらも、"今どうあるべきか"を自らに真っ直ぐに問い続け、心に決めたことを淡々とやり抜く。
倶利伽羅のその決意が静かに爆発しているようなこのフレーズに、刀剣男士としての大きな成長と、なにより根底に流れる優しさを感じてしまって…。
過去の作品からの繋がりによって無理なく描き出される刀剣男士たちの進化を見るのが本当に好きなのですが、ここはかなり痺れたポイントでした。


他にも、からちゃんの中には明確に吾兵が生き続けているのだな…と思うシーンがいくつかありました。

島原の地で浦島が仲良くなった兄と幼い弟のきょうだい。
彼らと無邪気に触れ合う浦島くんに対して大倶利伽羅が「あまり深入りするな」という忠告をしてしまうのは、吾兵と交流し、のちに彼を失った自分を重ね合わせてしまったからだと思いますし、
戦いの最中、きょうだいが斬りつけられそうな瞬間を辛くも救うことができた姿には、呉兵に対して出来なかったことを果たしたのかな…と感じられて、胸が詰まりました。。

パライソのからちゃん、かっこよくて頼れて、なにより優しいのよ…本当に。。
鶴丸の隣にいてくれてありがとう、となんべん思ったことか。ありがとう。。

◆「理想主義者」としての葛藤と悲哀

またしても…という感じですが、本作にもしっかりと、背後に控える存在としての三日月宗近が登場します。
今回は、葵咲本紀や幕末天狼傳再演と異なり、その姿や声こそ現れませんが、むしろその分「この物語において、決して無視できない存在」として浮かび上がってもいるようでもあります。
葵咲本紀での描かれ方に対して、ぐっと深く踏み込んだ形となり、三日月推しとしてはまたあらぬ方向からぐさっと刺されたような思いで、いやほんと…。。


この記事前半で「怒っている」と述べたパライソの鶴丸ですが、
その感情は最終的に全て、三日月へとぶつけられます。

なで斬りによって残酷な幕切れを迎えた島原の乱
戦の最中で命を落とした兄、彼に守られて辛くも生き延びた弟。
まだ息のあるその弟を大倶利伽羅が抱き上げたところで、唐突に"物部"が登場します。
「三日月の手の者だな」と全てを承知したような鶴丸は、彼に「その子を連れていってやってくれ」と頼みます。
承知しました、と弟をその腕に抱いた物部。
そのあとの鶴丸とのやりとりを聞いて、勘弁してよ…となったのですが…

「ああ、三日月宗近さまからのご伝言が…『あまり無理をするな』と。」
「しゃらくせえって伝えてくんな」
「はい。」

いや三日月、おま…なんでそんな逆撫でするようなこという…?(天下五剣だから仕方ないか)(※推しに甘い)になりますし、
鶴丸もそりゃそう返すに決まってるよね…と思うのですが。。
いやほんと…なんでそんなこと言う…。それくらいに、三日月と鶴丸とでは、己が帯びた「役割」に対する物事の捉え方が全く異なるのだろうなと。

刀ミュの三日月は、「歴史の中で悲しい役割を背負わされた者」に心を寄せ、彼らの中の幾人かに物部という役割を与えて、刀剣男士たちの任務の補助を命じています。
その真意や背景は未だ明確にはなされていないわけですが、
パライソで"古くからこの本丸を守ってきた"と称された三日月と鶴丸には、刀剣男士としてのスタンスに目に見えて違いがあることが、今回嫌と言うほどに明確になったなと感じました。


このあと、大倶利伽羅の前で、鶴丸がパライソ作中で唯一感情を剥き出しにするシーンが訪れます。

「3万7千人。ただの数字じゃねぇんだぞ。生きていたんだ。そこに命があったんだ」
「連れて行ってやれよ、静かの海に」
「やれるもんならやってみろ!」

海に向かってひとり激しく咆哮する鶴丸
荒々しく放たれた言葉は、言うまでもなく三日月に向けられたものでした。
その鶴丸の瞳には、ぎりぎりのところで踏みとどまった涙の気配があって…。


鶴丸は、三日月に引き比べるとある種「理想主義者」なのではないのかな?と感じるのですよね。
その理想のもとに、あくまでも刀剣男士としての使命を曲げることなく、正面から果たそうとしているように思えます。
対する三日月はまた少し違っていて…あの人は「刀剣男士として」どうこうの前に、己の意志と体を持つ者として自分が思い定めたことのために、行動しているような気がしています。


パライソの鶴丸の怒りや悲しみは、おそらくこの理想主義者であることに端を発しているのかなと思いました。
鶴丸だとて、理想の果てに生まれる矛盾があることもわかっている。
それが叶うとは限らないとわかっていても、それでも手を伸ばさずにはいられない。

そしてその理想のひとつには、「戦のない世界」があるのではないかな…と、本作を見て思わずにはいられませんでした。


おそらく曲タイトルは「静かの海」だと想像しているのですが、中盤にある鶴丸と大倶利伽羅のデュエット。

クレーターのない月面の大平原である「静かの海」をモチーフとした、シンプルでありながらも静謐で美しいそのメロディ。
二振りのハーモニーがとても見事…という音楽的な局面もさりながら、やはり歌詞が胸に刺さります。*1


この歌は「退屈な場所さ」というフレーズで終わるのですが、
ここを歌う鶴丸の声と表情が、忘れられません。

顔に浮かんでいるのは「憧憬」と評したくなるような切なげな色合い。
夜空に浮かぶ見事な月を真っ直ぐに見上げながら、透き通ったその表情に宿すのは、どうしようもない優しさと哀しさ。


歌い終えて、「いつか、行ってみたいな!」と笑顔で大倶利伽羅に言う鶴丸
それに対して「そうだな」と正面から肯定の意を返す大倶利伽羅


ここでいう「退屈な場所」とは、おそらくは争いや戦のない世界の比喩表現であり、
それを「退屈」と評することで、逆説的に平和に対する鶴丸の切望を表しているんじゃないかな…と感じたのです。

そして、かつて吾兵の墓の前で「全ての戦を終えたらまた来る。それまでは、花は供えないぞ」という誓いを立てた大倶利伽羅だからこそ、
行ってみたいな、というその鶴丸の問いかけに対して「そうだな」という返事をできたのかな、と思うのでした。


戦のない世界の訪れなど、決して叶うことはないとわかっている。
戦の道具である自分達は、"間違いの道具"なのかもしれない。
しかし、そうなのだとしても。
あり得ないその世界を希求する思いが、否定されるものでもない。


大海原への大絶叫のあと、帰ろうぜ、と言った直後に足をもつれさせガクッとよろめいた鶴丸を、大倶利伽羅はすかさず受け止めて立て直します。
そしてぽつりと、しかしはっきりと言うのは「お前は、崩れるな」という一言。
それを受けて、どこかすっきりとした顔でからりと笑い、
「ありがとな、伽羅坊」と、肩をぽんと叩いて彼に背を向ける鶴丸


明確にお互いが思っている本質を口に出し合ったわけではないけれど、彼らはきっと同じ方向を見て、なによりも同じように「命」に思いを傾けている。
理想主義者として自覚を持ってもがき苦しむ鶴丸と、その鶴丸の悲哀をはっきりと共有している大倶利伽羅

それこそ"馴れ合って"いるわけでもなく、ただ隣に在ることで通じ合い、時には肩を貸すその立ち姿…。
この類の関係性の描き方、刀ミュの脚本は本当にいつ見ても見事だと思います。やっぱり大好きだなぁ。。
過不足がなくて、ベタベタしてもおらず、ただ「仲間として隣にいる」ことの嘘のなさというか。これだから刀ミュが好きなんだな、と改めて感じる伊達の二振りでした。*2


パライソのラストシーン。
日向くんの漬けたしょっぱすぎる梅干を食べて賑やかに笑い騒ぐ6振り。そしてその背後に現れる、「あり得たかもしれない」幻の島原の光景。

本来の敵味方、支配する側と武器を取った側が区別なく入り混じり、誰もが快活に笑い、
そしてその手には、ずっしりと持ち重りのしそうな握り飯がある。
互いに傷つけ合うことも、飢えに苦しむこともなく、美しい景色を前にして生き生きと笑い合うその様子こそが、
まさしく「パライソ」なのだな…と思えて、見ていてどうしても涙が止まりませんでした。


鶴丸をはじめとした刀剣男士たちが見たかったもの。決してあり得ない、でもあり得たかもしれないと、願いたくなる景色。
眼前にしたその光景の眩しさに、ダメ押しのように最後の涙を持って行かれて、終演後は毎度抜け殻のようになりました。
言葉にできないものが確かに残る、ただ「重たい」とか「しんどい」では到底片付けられないものを受け取る、間違いなく大好きな作品、それが私にとっての「静かの海のパライソ」でした。



駆け足でほんとうに無理矢理まとめたので粗いんですが、とりあえず1記事目はここまで!
書きたいことはたくさんあるので、また頑張ってまとめますー!

まずは宮城までの全公演完走を、心から祈っております。
全員揃った笑顔での大千秋楽が、どうか今年こそ叶いますように!

*1:かつての足跡が消えることのない…という歌い出しは、アポロ11号の月面着陸のことを指していて、そうか彼らがいるのは2205年!ということを新鮮に思い出したりもしました。

*2:もともと伊達属性のない私ですらこれほどまでに感じ入ったのだから、推しているひとたちはいかほど…お察しします!