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刀ミュ 歌合 乱舞狂乱2019 公演を見終えての感想その2 ~考察前半:「八つの炎」を巡って~

刀ミュ歌合2019感想記事のふたつめです。
今回は、「作品の骨格や全体像をきちんと理解したいと思っていたら、いつのまにか古事記の解説書を読んでいた」おたくによる、ちょっとした考察もどきです。(結論からいうと、そこはなんていうか…うん、惜しかったね!って感じなんですけど。)
以降本文はテーマとの相性を考えて、言い切りの「である・だ」調で進めます&書いてるうちに終わんねえことに気づいたので、考察シリーズは2分割します!



長野での初日公演を見た後、わたしの頭の中にはひたすら大量の疑問符が湧いていた。

今回の歌合乱舞狂乱のストーリーは、「本丸において刀剣男士が二手にわかれ、歌合と称して競い合い、その力によって最終的に新しい刀剣男士を顕現させるまで」のお話である。

…ごく単純に言い表すとたぶんこんな感じにまとめられなくはないのだが、作品全体がもつ奥行きがとんでもなく深くて、とても一言じゃ説明ができないし、今までの刀ミュ作品の比ではないほど、最初は見ていて頭が混乱した。
本当に「一体何を見せられたんだ?」という困惑が、初見時はとにかくとても強かったのだ。

描いている世界がまったく理解できない、ということではない。
ただ、歌詞やセリフのそこここに散りばめられた言葉に込められた「意味」を読み解かない限り、この「わかるけど、よくわからない」感覚からはたぶん逃れられない。
…そう思って、今回はとにかく自分が意識の中で引っかかりを覚えた単語や場面について、わからないことはひたすら調べまくることにした。
以下は、そうして「知らないことは調べるしかない!」と開き直った、おたくの格闘の記録である。


◆冒頭/終盤で刀剣男士たちが執り行っているもの

皆が纏うあの白い衣装。全員がことごとく無機質な表情で、力強く足を踏み鳴らし、大きく体を宙に舞わせるあの光景は、明らかになにか、己より上位の存在に対して捧げる行為なんだろうな、と見ながら自然と感じていた。
なんでそう思ったのか?というのはもう、DNAが反応するから、みたいな感じ。あの舞台上の色合いや音には、自然と「神聖さ、畏れ」をこちらに感じさせるものがあった。

歌詞にも「神遊び」「神おろし」といった単語があることから、あの刀剣男士が白い衣装を纏った一連の場面は、一種の神事として素直に捉えてよいだろう。と考えた。
つまり刀剣男士たちは、歌合の世界の中で、神事を執り行っている。その目的はもちろん、新たな仲間を本丸に迎えること。

ここで最初に気になった単語が「いみび」だった。長曽祢虎徹が歌う「いみびたやすことなかれ」というパート。
鶴丸は松明をもって現れるのだし、火であることはわかるけど、詳細がわからないのでさっそく聞き取った音で辞書を引く。

いむび【斎火・忌火】
《名》汚れをはらい清めた火。火鑽(ひき)りで起こし、神に供えるものを煮炊きするのに用いるなど、神事に用いられる火。いみび。いんび。いむこ。いんこ。
広辞苑第七版)

忌み火
神聖な火。出産や死など穢のあった家の火を意味する所もあるが、本来は斎火(いむび)と同じく、清浄な火のことである。火は穢れやすいものとされているので、年の始めに神社から神聖な火種をもらったり、逆に火種を他所に出すことを忌む風もある。伊勢神宮では忌火屋殿(いみびやでん)という別電で、錐揉(きりもみ)によって発火させ神聖な火種をつくっている。今日でも出立のとき、火打ち石で発火させ、その火の力によって無事を祈願する切り火の習俗があるが、これも忌み火の一種である。忌み火ということばは、照明の火よりも、食物調理の火の神聖さを強調するとき用いるほうが多い。
日本大百科全書(ニッポニカ))

この内容については、広辞苑よりニッポニカのほうがよりイメージがしやすい。
ひたすらになるほど…と思った。冒頭で鶴丸が掲げてきたあの松明は、ただの火ではなく、聖なる火だったのだ。それも、新たな生命を呼び起こすことを目的とした。


そう、歌合の中には、象徴的に何度も「火」・「炎」が登場する。
松明はもちろんそうだし、途中で歌を読み上げた後、刀剣男士たちはその短冊を火に焚べる。その様子もまた、火に歌を「供えている」ように受け取れる気がしていた。

そうして度々登場する火・炎の中でいちばん私にとって謎だったのは、「八つの炎」という言葉だった。

桑名江/松井江が顕現する際、彼らは

我を呼び起こすのは 燃えたぎる八つの炎
我に与えられたのは 肉体と八つの苦悩

と歌う。
つまり彼らの顕現には、八つの炎が必要だった。ただの炎ではなく、八つ。
そして顕現の直前、あのイネイミヒタクク…の謎の歌を3回繰り返した後、刀剣男士たちは声を揃えて、突如「八つ!」と力強く叫ぶ。あの場面は、最初に見たときに本当に鳥肌が立った。


…この「八つの炎」って何のことなんだろう。
ここで、わたしの中には
「歌合の世界における<八つの炎>を理解したい」
という衝動が生まれた。
結果何をしたかというと、やっぱりとりあえず辞書を引いた。笑
日本語を巧みに操る刀ミュの世界において、理解のいちばんの手助けになるのはまずは辞書といっても過言ではないと思う。
2年前に、カシオのEX-wordで大人向けの最上位機種を買ったのだが、日本語だけで広辞苑・ニッポニカ・大シソーラス・旺文社の古語辞典などなど本当に何でも入っている電子辞書で、今回もとても重宝した。
そうして神事まわりの単語について辞書をいろいろと引くうち、そこから「日本の神様、神話といえば…とりあえず古事記なのでは!?」というわかりやすく短絡的な思考に至り、八つの炎について知るべく、まずは古事記について調べることにした。

古事記の中に「八つの炎」を探す試み

さぁ古事記を読もう!と思っても、あまりに馴染みがなくて、いきなり現代語訳を読んで何かをつかめる自信がなかった。ので、今回入門書としてこの2つを読んだ。

どちらもすごくわかりやすくて、面白かった。本当はこれではずみをつけて、最終的に現代語訳にまでたどり着きたかったけど、そんな時間がとりきれるはずもなく、読む前に歌合は終わってしまった…。(後で脚注で触れるけれど、それが惜しすぎたポイント…笑)


読んでいて改めて思ったのが、日本の神様ってものすごく自由だなということ。
何やってんのかその行動原理が正直なところよくわからないし、感情の起伏が急だしすぐに怒るし死んじゃうし。理解を超えた自由さで、でも明確に意志を持って動き回っているのだろうな、という印象を受けた。
魂としての自由さって言ったらいいのか…うまくいえないんだけれど、頼んで言うことを聞いてくれるタイプの相手ではないっていうか、単純な善悪二元論で物事決めたりしてなさそうというか。荒々しさと生命力が溢れているようで、まぁそれは私が日本書紀じゃなくて古事記を選んで読んだせいかもしれないけれど、とにかくそんなふうに感じた。


で、まずは八という数字についてなにが描かれているのか、わからないなりに一生懸命読んでみた。
しかし結論からいうと、そこになにかわかりやすい答えは存在しない。
八という数字は、単なる八という具体的な数を示すものではなく、古代においては「とても多い」という数の多いさまを表すものとして使われる。それこそ「八百万の神」みたいな。
なんだけれど、一方で古事記の中には、ひたすらに八にまつわるエピソードが多く出てくるのだ。
そもそも国生み神話で最初に生まれた島=日本を表す言葉は「大八島(オホヤシマ)」だし、アマテラスとスサノオのウケヒで生まれた神は全部で八人。ヤマタノオロチだっているし、とにかくいたるところ「八」だらけである。
そのことに関しては、どうしても無視できない気持ちになった。特別な数字なのだな、ということを感じざるを得ないというか。


では火についてはどうか。火については、明確に神様がいる。
火の神=カグツチは、生まれるときに自らが火であることにより、母であるイザナミを焼き殺してしまう。それゆえ父神イザナギの怒りに触れ、そのまま父神に斬り殺されている。
火というものは、それほどに力のある存在。命の根源でもあると同時に、命そのものを脅かすこともあると、昔の人が強く感じていた事実が、とても端的に現れているように感じた。
生まれたことにより母を殺してしまい、父に殺されるカグツチ。他にこういう描かれ方の神様っているんだろうか?と思うくらい、飛び抜けて不遇なような気がした。
でもカグツチに限らず、怒った他の神様に切り殺される系の神様。他にもいたなぁ。そしてその後に淡々と別な神様が生まれてきたりするので、秩序なのか無秩序なのか、となる。
古事記の国生み神話、無秩序の中に秩序がもたらされるって説明が多いんだけど、いやその後も結構カオスやんけ!と思うなどしていた。

かぐつち-の-かみ【迦具土神
記紀神話で、伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)二尊の子。火をつかさどる神。誕生の際、母を焼死させたため、父に切り殺される。火産霊命(ほむすびのかみ)。
広辞苑第七版)

…で、結局のところ、八つの炎というモチーフや、それと関わる神おろしの神事について、なにか明確な結びつきを見いだせるような情報は、私の手ではとくに見いだせなかったのである*1
ので、ここは頭を切り替えて、「今回の顕現における神事や八つの炎という言葉は、背景に古代神話のモチーフを散りばめた、刀ミュの自由な創作パートと捉えても差し支えなかろう!」と考えた*2
それがイネイミヒタクク…につながっているんだろうな、とも。
ただとにかく、日本の神様を巡って”八”という数字が特別なものとして認識されてきたことは、なんとなく肌感としてわかるようになった。

◆作品の中における「八つの炎」は何になるのか?

上記のとおり、この拙い調査をもとに、
・刀ミュ歌合の世界の中では、新たな戦う命を顕現させるにおいて、「八つの炎」が必要であった
といったんは仮定する。
そう仮定した上で、さらに気になることが出てくる。
それは、
歌合の場面描写の中では、いったいどこの部分が、具体的にその「八つの炎」にあたるのだろうか?
ということだ。


そもそも私が「八つの炎」に引っかかりを覚えたいちばんの理由はとても単純で、
「歌合で披露される歌は、劇中に六首しかない*3からである。
歌をそのまま「八つの炎」と捉えるには、あと2つ足りないのだ。

  • 1つ目:天地の神を祈りて吾が恋ふる君い必ず逢はざらめやも
    • 石切丸が短冊に歌を書きつけて火に焚べる。
  • 2つ目:世のなかは夢かうつつかうつつとも夢とも知らずありてなければ
    • 蜻蛉切が短冊に歌を書きつけて火に焚べる。
  • 3つ目:夏虫の身をいたづらになすこともひとつ思ひによりてなりけり
    • にっかり青江が短冊に歌を書きつけて火に焚べる。
  • 4つ目:梅の花折りてかざせる諸人は今日のあいだは楽しくあるべし
    • 明石国行が短冊に歌を書きつけて火に焚べる。
  • 5つ目:ぬばたまの我が黒髪に降りなづむ天の露霜とれば消につつ
  • 6つ目:ふたつなきものと思ひしを水底に山の端ならで出づる月影
    • 小狐丸が短冊に歌を書きつけて火に焚べる。

上記のとおり、明確に短冊を燃やす演出が入るからこそ、ここが「八つの炎」とまったく無関係とは考えにくくて、すこし考えこんでしまったのだが…
ここでまた気づいたのが、
「歌合の中には、ライブではなくお芝居パートだが、和歌が登場しない箇所がある」
ということ。
それは「巴形薙刀」と「松平信康と永見貞愛=物部」のパート、計2箇所である。


巴形薙刀は「逸話を持たない、物語なき巴形の集合」として顕現した刀剣男士である。
他の刀剣男士たちが、元の主たちと過ごした日々の記憶、多種多様な物語を持って顕現しているのに対し、巴形ははっきりと、自分には物語がないと述べる。

松平信康は、歴史の中では本来家康公の命により、切腹して命を終えた存在だが(=みほとせでの出来事)、その後石切丸に密かに命を助けられ、以後は松平信康の名を捨て掛川の吾兵と名乗り、農民として暮らしていた。そこから更に三日月宗近と出会い、各時代に存在するという刀剣男士の協力者=物部となり、村正たちの任務を助ける(=葵咲本紀での出来事)。
永見貞愛も信康と同様に、三日月から刀剣男士への協力を依頼された存在である。彼自身は、家康のもとに双子として生まれたものの、権力者の元においては双子は忌み嫌われる存在であることから、人知れず養子に出され永見家に育てられている(=葵咲本紀での出来事)。


上述のとおり、巴形薙刀には、明確に「物語がない」とされている。
信康と貞愛には、「歴史の中で悲しい役割を背負わされた存在」という共通点がある。言うなれば、華々しい語るべき物語を、歴史の中には見いだせない存在、ということだ。

つまるところもしかして。
物語を持たない巴だから、表舞台から姿を消した信康と貞愛だから、
彼らの<物語>が描かれるパートには、他の刀剣男士たちとは違い、歌が添えられなかったのではないか…?


この2箇所を足すと、お芝居のシーンはぴったり八になる。
「八つの炎」が指すものは、もしかするとこの場面を含めての、八つのお芝居・物語だったのではないだろうか。


「人の心に宿る物語をよすがとし この世に生れ出づるのは 歌も我らも同じこと」
と、歌合冒頭で鶴丸は言う。
だからこそ、刀剣男士たちが、桑名江/松井江を顕現させるにあたって供える対象が「歌」なのだと、私はそう理解していた。
歌もまた、ちいさな一つの物語である。その身に固有の物語を宿して生まれてきた刀剣男士たちは、その「歌」を彩る物語を、また新しく、生き生きと表現する。

しかし、今この場で歌い、新たに物語を紡ぐ上で、過去にばかり囚われる必要はないのだ。
これは当然、わたし個人の”願望”を多分に含む理解ではあるけれど、
巴と物部ふたりのパートを含めたらきちんと八になるんじゃないか、と気づいたとき、なんだかすごく嬉しかったのだ。
たとえ自らの物語を歴史の中には持てないとしても、いまここに/かつてそこに、存在していた証は確かにある。その存在の証は、新しい命を生み出すよすがとして、歴史ある物語と同様に機能し得る。そう言われているような気持ちになったから。

葵咲本紀で貞愛が歌う「影は形に従い、響きは音に応じるんだろう」を、ここでもまた思い出した。

◆唐突に思えた二部パートのライブ曲。場面転換まではちょうど「8曲」

歌合でのライブ曲への展開、正直なところ最初は本当に唐突に思えた。
受け付けられないというわけではないんだけど、あまりにも急なので頭がなかなかついていかない。だって、逢はざらめやも…って玉砂利の音に心がしんとした後、こんぺいとう(根兵糖)でしぬほどわらってたら、急にmistakeのイントロが爆音でかかるんだもの、そんなの最初からついていけるほうがおかしいよ!笑

なんだけれど、ライブパートの歌の数を数えていて思ったのだ。
場面が明確に切り替わる=客席降りを始めるまでの間に披露された二部曲も、ぴったり8曲だったのである。
musical-toukenranbu.jp

1首目…あめつちの(石切丸)
2首目…よのなかは(蜻蛉切
・・・・・・・・・・・・・・
1曲目…mitake
2曲目…Impulse
3曲目…Stay with me

・・・・・・・・・・・・・・
3首目…なつむしの(にっかり青江)
4首目…うめのはな(明石国行)
・・・・・・・・・・・・・・
4曲目…Brand New Sky
5曲目…Nameless Fighter
6曲目…約束の空

・・・・・・・・・・・・・・
松平信康/永見貞愛の鯛パート(=前進か死か
・・・・・・・・・・・・・・
巴形薙刀/大和守安定/陸奥守吉行/大倶利伽羅の畑パート
・・・・・・・・・・・・・・
5首目…ぬばたまの(和泉守兼定
・・・・・・・・・・・・・・
7曲目…描いていた未来へ
・・・・・・・・・・・・・・
6首目…ふたつなき(小狐丸)
・・・・・・・・・・・・・・
8曲目…響きあって
・・・・・・・・・・・・・・
(※以降、客席降りと「獣」披露へ)

まあもちろん、客席降りの「百万回のありがとう」も「勝ちに行くぜベイベー」も、同じようにライブ曲なわけだし、そうやってこじつけすぎるのもどうかなと思うんだけれど、
ただなんていうのか…舞台の上から届けるもの、披露するものとしてのライブ曲は、響きあってまでで一区切りだなぁと、見ていてごく自然と感じたのである。


当たり前なんだけれど、二部のライブ曲もまた、「歌」なのだ。
だからなにも、お芝居パートの和歌だけを指して「歌合」と言っていたわけじゃなくって、あの華やかなライブパートの楽曲たちもまた、新たな仲間に会うための「歌合」の大事な要素だったんじゃないだろうか。


「遠くから、歌が、聞こえたんだ。」
桑名くんはそう言って、ほのかに嬉しそうに微笑んでいた。
「遠くから、歌が、聞こえた。」
松井くんは、どこか不思議そうに、これから何かをわかろうとするような表情でそう言った。

彼らの耳に届いていた「歌」は、もしかしたらこのライブパートの曲のことだったのかもしれない。
どこか遠くの方から響いてくる、力強い歌声と歓声と。
それはまさに、8曲目の「響きあって」が表す世界、そのものだったようにも思える。

Oh湧き上がった歓声はやがて波となりうねり出す
全てを伝えたい 解き放ってよCLAP & CALL

響きあって

響きあって

  • 刀剣男士 formation of 三百年
  • J-Pop
  • ¥255
(引用箇所に差し掛かるところで試聴が終わる!無念!)

一部の重厚な物語の骨格を携えたお芝居と、二部のキラキラした現代的なライブとが、奇跡のようにひとつの世界にまとまっているのが、刀ミュの大きな魅力のひとつである。
お芝居を中心に据えた試みになる、という触れ込みだった今回の歌合だけれど、もし上記の考察が当てはまるのだとしたら、
お芝居の世界の中に、ライブ曲までを抱き込んで、今までとはまた違う形で作品世界が融合していることになる。
なんていうかそれもまた、すごく刀ミュらしい表現といえるんじゃないかな…と感じた。

◆考察前半の最後に:なぜ「炎」なのか

ここに関しては、そんなに難しく考えることもなかったのでは…?と、あとになってから気づいた。
なぜなら、刀剣男士=刀は、火によって生み出される存在だと言えるからである。
日本刀の制作過程において、火が切っても切り離せないことはどう考えても明白であり、刀剣男士が新たな仲間の誕生において祈りを捧げる相手が火の神であったとして、何ら不思議はないのである。


明確に聞き取ることはできなかったのだが、
「いかばかりよきわざしてか あまてるや」の鶴丸のあとに、石切丸と小狐丸は
「火産みの神 しばしとどめん しばしとどめん」
と歌っているような気がする。
”~の神”の内容には10回見た今でもどうしても確信が持てないのだけど(ひぶみ、とかひるみ、とかそういう音にも聞こえる気がして)、
カグツチ火産霊命(ほむすびのかみ)とも呼ばれるから、そのことを何らかの形で指す歌詞だったのではないか…?と今はとりあえず理解している。



考察もどき前半は以上です!
なんであんなに熱心に「古事記を読まなくちゃ!」と思ったのか、自分でも今となってはよくわからない情熱に突き動かされていたし、その割に戦果うすっ!って感じなんですけど(そうでもないか?イネイミヒタククの真実に肉薄して終わってしまった無念さはある)、
自ら興味を持って調べたことにより、理解の奥行きがものすごく広がったことを感じました。それはとてつもない財産だったなと。久しぶりに図書館にいったもの…
そっくりそのままの答えが見つかることを期待しているのとも少し違って、自分が作品を受け取る感度を高めるための知識を得たい、みたいな気持ちなんですけど、それにはちゃんと意味があるなぁと思えたし、何より知識が増えるのは楽しかったです。

考察記事後半では、たぶん「まれびとまだか」についてをメインで書きます!
ちまちまとですが歌合の話はまだ続けるので、よければお付き合いください~。


▼その他の歌合感想記事

  • 千秋楽の後に書き始めたシリーズ

anagmaram.hatenablog.com

  • 初日後にネタバレしない印象だけ叫んだ記事

anagmaram.hatenablog.com

*1:知りたい気持ちが募りすぎて、東京都立図書館のメールでできるレファレンスサービスにも申し込ませていただいたけれど、やはり明確な文献は見当たりませんでしたという回答をいただいた。図書館の方、ご対応ありがとうございました…!

*2:実は、このカグツチを鍵として、例の「イネイミヒタクク」の謎を解明していた方がなんとTwitterにいました。 あの歌の謎解きははなから諦めてたんだけど、でもこんなに近くをウロウロしていて気づかない私って…!?となりました…。笑 自分で見つけたわけではないのでここに答えを書くのは遠慮するけれど、検索したら出てくると思うので気になる人は検索してみてください。カグツチwikipediaを見るだけでも、何かしらがわかると思います!https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B0%E3%83%84%E3%83%81

*3:この歌についても、本歌取りなのかそれともそのままなのか?と気になって調べたら、6首とも古典歌集に収録されている和歌でした。万葉集から3つ、古今和歌集から3つずつ。歌についての詳細はそのまま物語パートへの感想につながるので、別記事にすべてまとめます!