こたえなんていらないさ

主に刀ミュ(ミュージカル『刀剣乱舞』)を愛しながら、舞台まわりをぐるぐるしている人

刀ミュ 歌合 乱舞狂乱2019 公演を見終えての感想その3 ~考察後半:まれびとまだか~

考察、というほどのものでは特にないんですが、感想かと言われると難しいな…と思ったので引き続き「考察もどき」としてお送りします。
前半はこちらです。
anagmaram.hatenablog.com




◆「まれびと」とは何か

桑名江・松井江が顕現するにあたって執り行われた”神事”のような一連の儀式。
獣の披露が終わり、終盤パートに差し掛かるタイミングの一曲目の中に(タイトルは『かみおろし』)、
「のぼる篝火(かがりび) まれびとまだか まれびとまだか」という歌詞がある。
”まれびと”という言葉、そのまま「稀(なる)人」として漢字変換はすぐに頭の中でも可能なわけだが、
具体的にどんな意味を背景に持つのだろうというのが気になって、ここについても辞書を引いた。

まれびと→まろうど

「まれびと」つまり「稀(まれ)に来る人」の意で、いまは「客人、珍客」を意味するだけだが、その伝統は根深いものがある。すでに平安時代の饗宴(きょうえん)習俗でも「主客」を「まれびと」といい、その方式には古代祭祀(さいし)に来臨する「聖なる者」を饗応する伝統が受け継がれていた。饗宴の主客を「まれびと、尊者」といい、その応対の当事者が「あるじ」であり、そのための設営が「あるじもうけ」であった。折口信夫(おりくちしのぶ)は「常世(とこよ)」という聖界の存在を想定して、ときあってそこから来臨する「聖なる者(まれびと)」が俗界に幸福をもたらすことに日本の古代信仰の根源を認め、「まつり」はこうした「まろうど」の饗応方式に源流するとした。(中略)
ともかく日本の異郷人・珍客歓待にはこうした伝統があり、いわゆる「あるじもうけ」の伝統もそこに生じた。『翁(おきな)』など芸能の「祝言演伎(えんぎ)」にもまた「まろうど」来訪の形はその跡をとどめている。
日本大百科全書(ニッポニカ))


思った以上に情報量が多くて、お、おお…?となったのが本音。なんとなくぽんと簡単に選んだ言葉ではなさそうだな、という印象を受ける。
ニッポニカでサマリーになっているその背景をもう少しちゃんと理解してみたいなと思い、折口信夫の思想について書かれた本を2冊ほど読んではみたものの、あまりに茫漠とした知識の世界が広がっていてちょっと手がつけられるあれではなかったので、いったん諦めた。結論としては、辞書にまとめてある内容、さすがに有益。それ以上のものは付け焼き刃ではなかなか…。


ひとまず、上記のような内容について、今回の顕現の儀式を理解する助けにしながら、改めて自分の頭を整理してみた。


まず、当然のこととして「まれびとまだか」と呼称される「まれびと」は、桑名江/松井江のことである。
上記のまとめを前提とするならば、聖界、かどうかはわからないが、ともかく彼らは、鶴丸たち刀剣男士がいる世界とは、また異なった位相から現れてくる、ということになる。


ここで思い出すのが、この顕現パートの直前にある、時間遡行軍がクローズアップされるシーンだ。
センターステージに四方八方からじわじわと集結した時間遡行軍たちは、一斉にメインステージを目指して走り出す。そして再びセンターステージ上にひとかたまりになった彼らは、中心に据えられた祠を取り囲み、それを脅かそうとでもするように不気味な動きを繰り返す。
しかしこのとき、時間遡行軍たちはなにか帯状の力に阻まれて、祠のすぐそばには近寄ることができない様子が描かれる。
実は歌合開演前、主の声によってなされる諸注意事項の中に、「結界を破る行為はお控えください」という内容がアナウンスされている。
初日にこの内容を聞いたときは心底ぎょっとしたものだが、ここでいう「結界」とは、この場面に登場している帯状のものを表しているのだろうと思われた。
そうしてしばらくの間、祠を手中に収めようとするさまを見せる遡行軍たちだが、そうこうするうちにに紛れもないその祠から、耳をつんざくような、人の声ともとれるようなとれないような、とにかくぎょっとするような甲高い悲鳴が上がる。最終的にはその声に悶え苦しむように、時間遡行軍たちは散り散りになって姿を消していく。


このシーンを見ているときに感じたのは、なんとも表現しがたい、背筋がぞうっとするような恐ろしさだった。
実際に時間遡行軍たちがあの祠を我がものにしてしまったら、いったい何が起こるのだろう、そう思わずにはいられなかったのである。
この場面から私が結論として受け取ったのは、
「今あの祠の中にいるものは、あちら側にもこちら側にもなりうる、まだ未分化の存在なのではないか」というものだった。
時間遡行軍たちは、今ならまだあの存在を、自分たちの側に引き入れることができると考えたが故に、ああして襲いに来たのではないだろうか。
それをギリギリのところで阻んだのが、本丸の刀剣男士(もしかすると主)によって施された”結界”だったのではないだろうか。


この描写には、巴形薙刀がむすはじで見せた、犬・猫・蝸牛の時間遡行軍へのある種共感とも言える眼差しや、こいつらは価値のないものだから壊しても良い、そういう理論かと篭手切江に詰め寄った葵咲本紀での明石国行のことが自然と思い出された。
やはり刀ミュが描いているものは、単純な善悪二元論などではないのだ。
刀剣男士の存在自体が絶対の正義で、時間遡行軍は必ず倒されなければならない悪、その2つは決して交わることのない異なる存在…というわけでは決してない。
そう単純に切り分けることのできない世界だからこそ、彼らは自分たちの使命に時に悩み、迷いながら、それでも前へ進もうと試み続けることになる。


「まれびと」とは、どこか遠くから来た存在。だがそれはまだ、刀剣男士たちとまったく等しい立場のものではなく、ともすればあちら側へ引きずり込まれかねないような、まだどこか危うい存在なのかもしれない。
そのことは次に続く描写により、さらに裏付けられる。

◆顕現に見える「意志」

いよいよ大詰め、顕現の場面について。
時間遡行軍による侵略の危機に晒されながらも、祠はなんとか守り抜かれる。再び白い装束を身にまとってその前に集まった刀剣男士たちは、「最後の大仕上げ」として全員で歌い、舞い踊る。
そして最後の「八つ!」の呼び声のあとに続けて鶴丸が歌うのは、「今こそ呱呱の声をあげたまえ」という言葉。
何回聞いても「ここのこえ」に聞こえるけれど、やっぱり知らない言葉だなと思い、聞き取った音からまたしても辞書を引いた。

呱呱(ここ)
乳呑子(ちのみご)の泣き声。

呱呱の声をあげる
産声(うぶごえ)を上げる。転じて、物事が新しく生まれる。
(いずれも広辞苑第七版)


これもまた、びっくらこいた…。そんな日本語があるのだなぁ。
鶴丸は、要は「生まれろ!」って言ってたことになるのねと…(そう書くとちょっと違うか…)

それを受けて祠の前には、新しい人らしき存在がついに姿を表す。しかしその顔は面で隠され、見ることはかなわない。
そして彼は、命を持ってこの世に現れたことに、どこか怒りを覚えているかのような、今自分が置かれている状況そのものを拒むかのような姿勢を見せ、こう歌う。

五蘊盛苦
この身に宿る痛み 苦しみ 悩み
何故我を呼び覚ましたのか

それに対して刀剣男士たちは、こう返す。

共に戦うため
使命果たすため
その力を貸し給え 貸し給え 貸し給え

最初に見たときに、わたしはここにも少しばかりの違和感を覚えた。
なぜなら「給ふ(う)」は、尊敬語である。自分よりも、身分が上の相手に対して使う言葉である。
これから仲間になるだろう存在であり、あくまでも刀剣男士と彼とは、対等な立場なのではないのか?それなのになぜ刀剣男士たちはあえて尊敬語を使うのだろう…というふうに思えてしまったのだけど、
つまりはそういうことなのだとしたら。その言葉遣いこそが事実なのだとしたら、どうだろう。


つまり、「かみおろし」と歌われたとおり、面をつけて祠の前に現れた段階では、おそらくまだあの存在は「神」そのものなのである。

刀剣男士は「モノでありヒトである」。付喪神のようなもの、と自分たちのことを呼称するけれど、実態としては彼らはやはりどこまでも「ヒト」に近い。
刀剣男士たちは「心」を持つ。彼らはその心を持っているがゆえに、己の過去に向き合って苦しんだり、仲間との軋轢に悩んだり、役割を果たさんと腐心したりと、とても”人間らしい”様子を見せる。

そんな彼らに対して、あの場面に現れた面をつけた存在は、まだ純粋に「ひとあらざるもの」なのだろう。
だからこそ、刀剣男士たちは「力を貸し給え」と、あくまでも尊敬語をもって、仲間になってほしいと呼びかけるのではないだろうか。

それを受けて、面をつけた存在ははっきりとこう歌う。

生まれた意味は問い続けよう
この身が語る物語を紡ごう

…ここに溢れる意志の表明。
あぁなんて刀ミュらしい世界なんだろう、と思った。

そも、最初に出てくる「五蘊盛苦」は「生きているだけで苦しみが次から次へと湧き上がってくること」を指しているそうだ。
ja.wikipedia.org

命を持つということは、その命ある限り、苦しみを引き受けることでもある。
命を授けられたその瞬間から、すでに彼自身もそのことをわかっている。だからこそ抗いを見せるけれど、力を貸し給えという呼び声に「応じて」、自分の意志で決めるのだ。
この身が語る物語を紡ごう、と。
そうして己の意志を高らかに告げたとき、彼らのもとに、「刀剣男士」としての名前―桑名江/松井江が授けられるのだ。


「物が語る故、物語」の世界がまた、ここにもひとつ新しく始まっていく。
命の元に集うのは、やはり物語なのだ。

◆まぶしいほどの生命賛歌

主による「来たれ、新たなる刀剣男士」の声に続き、ついに桑名江/松井江は華々しくその姿を光のもとに晒す。
堂々と顕現のセリフを述べた彼らの背後には、どうっという勢いとともに、薄紅色の花びらが激しく舞い上がり、それまでとはがらっと雰囲気を異にする歌が始まる。
晴れやかに虹色の光が差し込んでくるような、遠くまで、まろやかに響き渡っていくような、祝福の色合いに満ちた歌が。
ここでの急激な場面展開、最初は本当に驚いたけれど、そうして新しい仲間、新しい命を全力で喜び祝うさまもまた、ものすごく刀ミュらしいものだと感じた。


この曲のタイトルは『あなめでたや』なのだが(タイトルからして、なんて伸びやかなのだろう…!)、それまでの不穏さとはまた違った色合いでの「和」を感じさせるメロディである。
それこそヨナ抜き音階*1に近いような気がする…と思ってFinger Pianoで音をとって弾いてみたら、少なくともサビはヨナ抜きであっているようだった。
「あなめでたや めでたや ふくふくふく → ソミレレソミ レレソミ レミレドラソミ」なので、見事なまでにファとシがない=ヨナ抜きになっている模様…!(これはきっと和田さん、絶対わざとだと思う…!)
儀式の場面の重々しさとはがらりと印象を変えては見せつつも、引き続き「和」の世界観は貫かれている。だからこそ急すぎると言えそうな転換にも、観客側がすっと入っていけたように思う。


桑名江/松井江の背後にぶわっと吹き上がったピンク色の花びら、その中にすっくと立つ二人の立ち姿。それに重なる刀剣男士みなの温かなコーラス。
あの場面に溢れていたのは、紛れもなく「生命賛歌」、生きることへの喜びそのものだったように思う。
眩しくて直視できないほどの、見ているだけで勝手に涙が出てくるような、爆発的な生のエネルギーに、本当に心の底から圧倒された。
仲間を無事に迎えられたことを喜んで晴れやかな表情で歌い踊る刀剣男士たちも、どこかまだあっけに取られているような、これから世界をわかっていこうとする無垢さをたたえたような桑名江/松井江の佇まいも、私には等しく眩しかった。目の前に広がる光景が、あまりにも美しかった。


―共に戦うため、使命果たすため。
そう呼びかけた彼ら刀剣男士たちは、その使命と同時に、「命あること」の素晴らしさ、すなわち生きる喜びを、一足先に知っている。
だからこそ、一緒に生きよう、こちら側に来てほしいと、まだ名を知らない「まれびと」に、まっすぐに呼びかけることができたのだろう。


「生きること、そこに在ること」を、まず最初に肯定するその力強さは、刀ミュの過去作にも連綿と見られたものだと個人的には感じているけれど、
その力強さが、これまでにないほどに純度の高い形で表出していたのが、歌合のあのラストシーンだったように思う。



2月ももう終わってしまう!パライソに追いつかれないうちは、しつこくほそぼそと歌合記事を更新します!

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