こたえなんていらないさ

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刀ミュ 幕末天狼傳2020の感想(主に初演との違いについて)

寝かしすぎて、どえらい時間が経ってしまった…!
刀ミュ幕末天狼傳2020が、去る11月23日に公演を終えました。1ヶ月経つんか…なんてこった。
musical-toukenranbu.jp
今回は劇場で3回、配信で1回の観劇となりました。
記事を書くには旬を過ぎて久しすぎる反省点がありまくりですが、感想を書き留めておきたいと思います。

◆「より”ミュージカル”らしく」を目指して再構築された、「ほぼ新作」の再演

今作の印象をひとことで言い表すと、こうなります。
携わったスタッフのかたもキャストのかたも「ほぼ新作」という言葉を使う場面が多かったように思いますが、観ている側の感想としても、全く同じ印象を持ちました。
そのいちばん大きな理由は、やはり「ほぼ全ての歌が新曲に書き換えられたこと」にあると思います。


1部のミュージカルパートで初演から残っていたのは、出陣ソングの「爪と牙」、宴会シーンの「かっぽれ ~天狼星の下/長の背中~」、そしてエンディングに歌われる「ひとひらの風」のみ。M1のメインテーマ「刀剣乱舞」を除くと、なんと合計でたった3曲です。(かっぽれは宴会芸として披露される歌だからまた意味合いが違いますし。)
それ以外の曲はすべてガラッと入れ替わり、そもそもの曲数も大幅に増え(初演:12曲→再演:17曲)、歌を担う刀剣男士の比率も大きく変化しました。
歌だったところをセリフに変えたり、そもそも新しい場面が生まれていたり。
同じく再演されたみほとせでは、歌に関する変化がほぼなかったこともあり、初めて見た時は「エッここまで変わるものなの!?」と、仰天した記憶が強いです。
そしてその変化はすべて、「この物語を、より”ミュージカルらしく”再構成する」というところに、主目的があったように思います。


2019年の「葵咲本紀」以降、刀ミュが模索する作品世界のあり方は、大きくこの「よりミュージカルらしく」の方向にシフトしています。(と言い切りましたが、個人的にそう思うというのと、パンフレットで述べられる茅野さんの言葉を読んでいても、おそらく間違ってはいない受け取り方ではないかと思います。)

葵咲本紀においては、宝塚・グランドミュージカル作品で活躍されている振付師(桜木涼介さん)を新たに迎えたり、刀剣男士以外の歴史的人物への歌の割当を本編に作ったりと、手法においても明確な変化がありました。

もちろん最初の阿津賀志山異聞の頃から、ミュージカルたろうとしている試みは当然あったと思いますが、やはりシリーズの黎明期においては演出として「やりたい表現」が定まっていない側面も、またその内容にカンパニーの総合力が追いついていない側面も、どちらもあったのだと想像します。

しかし、シリーズ立ち上げから4年目を迎えた昨年の葵咲本紀では、刀ミュ的には新人であるキャストが4名もいたのにも関わらず、「やりたかったことが、やっとできる」というような意気込みや充実を観劇していて感じました。
方法論として、これまでとは異なる歌の使い方・演出が可能になったという作り手側の手応えが、観ていてこちらにありありと伝わってくるようでした。
(そしてその変化の系譜は、7公演にて幕を閉じてしまった今年の春上演の新作「静かの海のパライソ」でも、より顕著になっていました。)


それを踏まえての、幕末天狼傳2020。
刀剣男士を演じるキャスト6名のうち、実に5名が4年前からの続投であるため、その演出の変化は本当にありありと感じられました。
物語の骨格は当然4年前と同じはずなのに、不思議なくらい、物語の多面性が増していた印象があります。
個人的な感覚でいうと、初演は主に「沖田くんを思う安定と、虎徹兄弟の確執」、このふたつが物語を貫く大きな柱だったように思うのですが、
再演ではその2つの柱が持つ物語それぞれの色合いが深まっているだけでなく、それを取り巻くその他の刀剣男士の立ち位置や役割、心情が、より色濃く伝わってくるようになっていたと感じます。
それだけでなく、歴史上人物キャストのみで歌唱される曲が加わったことにより、元の主たちサイドの持つ、一過性に過剰な閃光のようなきらめき、若さ、燃え盛る血潮の熱さ…そういったものが、よりリアルに舞台上に立ち上がってきていたように思いました。

そりゃ歌が新しくなるのであれば、歌詞も新しく生まれるのだし、言葉から受ける印象は大きいのは当たり前かもしれないんですが、それにしても本当に「これは最早、新作だな…」と言いたくなってしまうほど、初演にどっぷりだった立場からは、あまりにも新鮮に感じられた演出でした。
それだけ「4年経ってふたたび上演する意義」の大きい再演だったのだと思います。
同じものをやるのでは意味がないのだと、今この物語を新しく届けたい理由があるんだと、そんな気概がびしばしと伝わってくるようでした。

シンプルに表現してしまえば、ブラッシュアップされていた…ということになるんだと思うのですが、洗練された、というのとはまた違うような…
「幕末天狼傳という物語の真髄をより研ぎ澄ませて届けるにはどうしたら良いか?」ということが、極限まで追求された結果の、生まれ変わった新演出だったのだと思います。
それこそ感染症対策という予期しない足枷までが加わっていたにも関わらず、あの見ごたえのある、没入感を維持した世界を実現していたことは、本当にすごいです。

◆キャストそれぞれの成長と進化、表情の説得力

その「4年経っての再演の意義」は、キャスト陣の明らかすぎる成長にも、これ以上ないくらい発揮されていました。
4年経ってまったく同じ物語を、ほぼ共通のキャストで演じる機会。2.5次元に限らずに考えてもやはりそうそうないケースだと思いますし、反対に2.5次元に限ると「まず他ではありえない」レベルの珍しい話だと思います。
出身キャストも多いのと同じネルケなので、やはりここはテニミュを引き合いにだして捉えたくなりますが、テニミュだって、主人公チームとして物語を担う青学は、2~3年スパンで卒業していきます。
その2~3年だって決して短くないのです。若手俳優たちにとっての2年、3年という時間の重み。その年齢のあいだ、その役で居続けるということは、同じ役を通して成長を実感していける得難い経験であると同時に、他の選択肢を絶つという側面もあるはずです。
刀ミュに関して言えば、ひとつの大きなシリーズとして続きつつも、本公演に出演する刀剣男士には変動があり、目安として年末に一度、全員(に近いメンバー)が集まる…という形式をとってきているので、その間じゅう他の役ができないわけではもちろんありませんが、だとしても4年経っての再演だなんて…本当に「すごいことをやっているな」という印象があります。
やや話が逸れましたが、そんなレアケースの中において、同じ刀剣男士を通じてキャストの皆が表現するもの。
当たり前なのかもしれないのですが、それは本当に「4年前とは大違い」な、遥かにレベルアップしたものばかりでした。


一番印象に残ったのは、高橋健介くん演じる蜂須賀虎徹の変化です。
刀ミュにおける蜂須賀虎徹は、贋作でありながらも「兄」とされる長曽祢虎徹に反発心を覚え、彼との衝突を繰り返しつつ、仲間との関係性の中において「刀として戦うこと」「元の主という存在」を考え続けて、自らの築いた壁を少しずつ壊して前へ歩もうとする…そんな存在です。
その心情はずばりそのまま「高い壁」というタイトルのソロに表れていたりもして、プライドと同居する、根っこにある育ちの良さから来る葛藤が、初演の頃からとても好きでした。

でも、再演では、そんなはっちが見せる表情のバリエーションが、まじで段違いに増えていたんですよね…。


主に隊長を命じられたあと、長曽祢虎徹が部隊にいると告げられたとき、主に向ける納得のいっていないひんやりとした美しい笑みや、
「俺にはそれもよくわからないんだ」の、堀川に話しかけながらもどこか自分に向かって独り言を言うような密やかな孤独、
兼さんから「あの人は強え。だが、悲しい。」を聞かされたあとの、不意に胸の奥をつかまれたような表情。
そのひとつひとつを見ていて、「うわぁ、もう”佇まい”から、物語を伝えられるようになっている…!」って、本当に勝手に感動しまくってしまった…。

いわばいつメンでしかない、新選組に縁のある刀剣男士5振りの中に放り込まれれば、そりゃ誰だって戸惑うでしょうし、ましてや蜂須賀は「武器として使われる代わりに、大事に飾られていた」という、新選組とはあまりにもかけ離れた逸話の持ち主です。
自分とは全く異なる来歴を持つ、馴染みのない価値観で結びついている仲間を、初めての隊長としてまとめなければならないのだし、その中には苦手としている「兄」までいる。
そんな状況に置かれたら、余裕のなさから、元からよく思っていない相手にきつく当たってしまったりすることもあるよね…と、よりすんなりと思わされたといいますか。
しかも再演のはっち、「不愉快だ!」って言い残してみんなの前からいなくなった後に、うっすら自己嫌悪に陥ってそうですらあるんだよ…。
つまり、より複雑性というか、それこそ人間味を増してその場に存在することに成功している。それが再演の蜂須賀虎徹だったと思います。
なんだか急にはっちを激賞してしまったんだけど(たぶん自分で思ってるよりわたしははっちのことが好き笑)、でも本当にびっくりするくらい違ったの。全体に占める虎徹兄弟の歌の比率が下がった分、心情を表現するわかりやすさも減っているはずだけど、むしろ豊かになっていることが、素直にすごいと感じたのでした。

◆変わるけれど、変わらないもの。月のない闇夜を照らす…

最初に触れたとおり、大きく変化のあった演出ですが、もはや執念なのでは?と思うくらいに初演から全く変わらなかったもの…それは「Sirius」という楽曲の役割。
いやーーー…ちょっとここに差し掛かった途端、筆の進みに急ブレーキ!!!
ほんとちょっと、あーーーー!ってなりました。まじで急に日本語能力ががくんと落ちたな…


なんでなのか今でもよくわからないんですけど、初演の幕末天狼傳のアルバムには「サウンドトラック」が収録されていました。歌じゃなくてインストゥルメンタルの、劇中音楽が、タイトル入りでね…。
その後そういう形式でアルバムがでた演目はひとつもないので、いやマジでなんで???って本当にずっと思ってるんですけど、とにかくそこに収録されていて、ウワーとなるような(どんなだよ)主要な場面に流される、ピアノを主旋律とする一度聞いたら忘れられない曲に、「Sirius」というやつがあるんですね。(説明が長い)

シリウス、つまりは天狼星。
劇中で、近藤勇が自分たち新選組の姿を重ね合わせ、そんな近藤から教わった沖田総司が何度も夜空に探し求め、その記憶を受け継ぐ加州清光が「シリウスかぁ」とつぶやいて、その名前を蜂須賀に教えてあげ、「天狼星って、本当は2つあるんだって」と土方組が自分たちの組み合わせをなぞらえて見つめるような、そんな特別な星。物語を象徴する、青白い光を放つ、冬のマイナス一等星…。

初演では、土砂降りの雨模様が刀剣男士たちの背景を占めていましたが、再演のビジュアルは、それが凛とした星空に変わっていました。その真ん中で、刀剣男士たちの背後にひときわ明るく輝く星。シリウスですね…。
あの再演ビジュアルを見た時は、なんとも言えないうめき声が自分から漏れた。。
「そ、そうなのね、どうしても、あの星に向き合わせたいのね…」と、思ってはいたんだけど…

再演で全体を通して、あれだけ音楽をガラリと変えながらも、その星そのものを象徴する楽曲である「Sirius」、および新選組のテーマ曲である「Theme-of Shinsen-gumi」は、一切その役割を、変えていませんでした…。


再演での新曲は主に和田俊輔さんによるものが多かったのですが、YOSHIZUMIさんのこの曲たちが真ん中にどっしり構えていることにより、いい相乗効果がありましたよね絶対。。
Sirius…嗚呼、君が担っている役割の大きさよ…。幕末天狼傳という物語の色を決定づける無くてはならない存在よ…と思いながら、大好きな曲なんだけれど、聞いていてなんだか胸が潰れそうになっていました。
幕末天狼傳の後日譚として描かれた「結びの響、始まりの音」でも、客席で心肺停止するかと思うようなタイミングで流される曲としても有名なんですが、、、

いやでもね。再演における一番の問題はね。そんなとんでもない曲を、
元の主たちに二部で歌わせたことだよね…。

9月の初見時、劇場で、
「ほんと、何考えてんのーーーー!!????(声にならない悲鳴)」でした。
違うんです、嫌とか怒ってるとかじゃなくて…。
なんていうか…情緒が受け止められるキャパシティを遥かに超えている所業なので…ちょっと…。まじでぶったまげた。
歌わせるなよ!!!!!!!!だった。なんでそんな怖いこと思いつくの…??????
(繰り返しますが、嫌なわけじゃなくて、なんかもう「無理」ってやつです)


旋律だけで十分すぎるくらい、もう既に特濃の意味を持ってるのに、それを歌うって。元の主が歌うって。本当にまじでどういうことやねん感はんぱない。
タイトルはそのまま「天狼」だそうです。…バカヤロー!!!!!!(叫んで逃げ出す)
9月に見たときは劇場でフリーズしたし、11月に劇場で見る前に細部を思い出したい…と思って自宅で配信を見たときも、キャパオーバーゆえ存在自体をすっかり忘れていて、またイチから新しくフリーズしました。

しかもそのあとに来るのが「ユメひとつ」ですよ。。。いやマジ、かやのさん何考えてんの…?(リピートアフターミー)
丁寧にとどめを刺されてるな~~~!!!ってなって、ペンライト振れてたんかな…覚えてないな…になってます。
この流れ、たぶん本当にキャパを超えていて、、2部めちゃくちゃ楽しいのに、このあたりで記憶が強制フェードアウト…。いやぁ…あの…ほんと…
変えるところ・変えないところのメリハリが、本当に嫌というほどばっきばきに決まっている演出、ということだと思うんですが、初演に人生を狂わされた組としては、なんかちょっとすごい目に遭った、という感想でした、ええ。おっかない。
なるべく冷静に書こうとしていても、幕末天狼傳に関してはどうしてもこうなってしまうの、ほんとなんでなんだろうな。。。
曲に間違いがないかを思い出したくて初演のサントラ聞き始めたのもあって、なんかもう最終的にヘトヘトになってしまった…。





今回、どうしてもこの記事を書き始めることが出来なくて、それがなんでなのか自分でもよくわからなくいまま、気づけば1ヶ月が経ってしまってました。
ちょっといろいろな、あまりにも多種多様な感情が、わたしの中で乗っかりすぎてしまったんだと思います。
(ほぼ書き上げて読み返したら、寝かしすぎたせいで一番書きたい内容に一切触れられていないことに気づいて笑っております…更新、リベンジできるかしら…。)


刀ミュというシリーズを語るにあたり、思い入れという点で、4年前の初演は避けて通れない存在。
そもそもわたしは幕末天狼傳の再演を予期していなかったため、再演の事実をどう受け止めてよいのかわからないところからスタートしました。
嬉しくないとかではなく「どうしたらいいのかよくわからない」という状況でした。

しかし再演が発表されたこの2020年は、ご存知のとおり、舞台を取り巻く物事の様相が、変わり果てた世界でもあり…
チケットがひと席ずつあけて発売され、立ち見の販売もなくなった結果、幕開けとなる東京公演の会場・天王洲銀河劇場では、入場できるキャパがおそらくは400人を切っていました。刀ミュの公演を打つ規模としては、どう考えたってありえない少なさです。
そんな中でなんとか手に入れたチケットで、9月の公演を、劇場で見ることが辛くも叶いました。

でもその翌日に、公演の中止が発表になりました。


それ以来、わたしは自分の中から、幕末天狼傳再演について語りたい言葉を取り出すことが、どうしてもできなくなってしまってました。
言い表すことの難しい重石が、ずしりと乗ったようで。
2ヶ月近くの空白の期間を経て、11月に再開の叶った凱旋公演。本来の3分の1までに、減ってしまった公演数。

彼らが改めてそこに賭けた思いを、わたしはちゃんと客席で受け取れていただろうか。せめて、そうであるといい。


「ゼッタイ諦めはしないと 強く胸に誓うのさ」

どうしたって、やっぱり客席にいると、彼らからはもらうものばっかりだなと思います。
この年の秋を、一緒に過ごさせてくれて、本当にありがとう。
また会えて、本当に嬉しかったよ、幕末天狼傳。

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2020年9月22日、天王洲銀河劇場にて。