3月の観劇ラッシュ3本のうちのもうひとつ、それはもちろん刀ミュでした。
みほとせ2019、結局公演期間中に記事を上げることが叶わずだったんですが…!
1月20日~2月3日の東京公演(銀河劇場)で4回、3月15日~3月24日までの凱旋公演(TDCホール)で3回の、計7公演を見届けてきました。
◆語りたいことが多すぎてとっかかりが難しい、それがみほとせ
みほとせは初演のときからそうなんですが、わたしの中ではこれまでの刀ミュで一番、感想をひとつにまとめることが難しく感じる作品なんですよね…!
その理由は多分、みほとせが刀ミュの中でも群をぬいて「群像劇」の色合いが強い物語だからではないか、と思っています。
登場する6振りの刀剣男士それぞれに、色濃く個別の物語があり、その中の誰に注目して見るかで、全く異なる世界が広がるように感じるんです。
あの丁寧な語りには、観劇のお目当ての推し刀が6振りのうちの誰であっても、間違いなく心を揺さぶられて、満足して帰ってこられるんじゃないかなと思います。まあ刀ミュはいつだってそうなんだけど!
そしてさらにそこに、徳川家の親子の物語が折り重なってくるため、本当に重層的な作りの作品になっていますよね。その厚みに、とにかく圧倒される。
わたしは2017年の初演では、ひたすらに青江だけを見つめていたんですが、再演はせっかくなのでもう少し引いた視点で、色んな角度から物語を捉えなおそう…と思って臨んだところ、やっぱり「何から感想を書けばよいのかわからない」状態に。なにぶん、あの2時間10分+35分のライブから受け取るものが大きすぎて…!
そんなみほとせに関しては、初演の頃にいろいろと考えることがまとまらないまま、結論を放置した記事をひとつ書いたっきりでした。。
anagmaram.hatenablog.com
「その1」ってあるくせに、以降に「その2」が続かない詐欺を働いていた…。そして今読むと、刀ミュの世界観への向き合い方について、まだわたし自身が手探りだった部分があるなって感じます。
今はもう、御笠ノさんが書く物語に全幅の信頼を置いており、もっとリラックスして作品に向き合ってるので、逆にこれと同じ感想は書けないな~とも。そういう意味でも再演って、楽しいし贅沢だな…!
なんていうのかな、たとえば「優しいと見せかけて実は残酷」みたく、世界観が180度転換するタイプの物語もひとしきり流行ったように感じるのですが、刀ミュはそういう路線とは距離を置いていると思うんですよね。
力強く手渡されるその世界の優しさを、信じてそのまま受け取ってよい作品だなと思います。
前置きが長くなりすぎましたが、まずは全体を通しての、初演との違いからくる印象の変化について、書いてみようと思います。各キャストの演技の変化については、また別記事にしたい所存!
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◆ほんの少しの変更なのに、骨格がシャープになった物語
今回のみほとせはあくまでも再演であり、脚本と演出においては、大幅な変更というのは加えられていません。それでも、そのほんの少しの変更点があることにより、物語の在り方がよりシャープになったというか、骨格がくっきりとしたような印象を受けました。
まず脚本に関してですが、いくつかセリフがカット/追加されていました。
セリフがカットされていたのは、石切丸と青江、ゲーム内の神剣回想にまつわるシーンです。
「霊とはいえ、幼子を斬った。」の後に続く、「それがどうかしたのかい?」と尋ね返す青江のセリフがまるごとなくなっていて。
でもその問いかけがなくても、二人の会話が成立するということに、なんだか感動してしまったというか…むしろそこに、以前よりもあたたかみが増しているように感じたんですよね。
青江はあのとき、石切丸が持ち出したその話題についてよりも、自分が初めて知った幼子のぬくもりのことに、意識が向いていたような気がするんです。
それはきっと、その「ぬくもり」から、自分自身の在り方がどこか大きく隔たっているように思えたからなんじゃないかな。
でもそんな青江を隣で見つめる石切丸には、また違うものが見えていて。
あのときの石切丸は、『にっかりさんはそういうふうに自分のことを捉えているかもしれないけれど、そんなことはないと思うよ』っていうような気持ちを込めて、「君は、神の子を助けたんだよ。」って優しく伝えてあげたんじゃないかな、って思いました。
具体的なセリフが無くなることにより、そこに描き出される二人の心の交流が、よりあたたかいものとして舞台上に立ち現れたような気がしました。
このシーンに関しては「引き算の美学」みたいなものを感じたんですが、たぶん今のつばさくんとあらきさんのやりとりならば、表現の要素であるセリフを引いてもきっと本質が伝わるだろうって、御笠ノさんや茅野さんが感じたからこそ実現したことなんじゃないかなぁ、と。
他にセリフ関連で驚いたのは、丸根砦の戦いの途中、眼前に広がる惨状に言葉を失い、呆然と立ち尽くしてしまう石切丸に対し、青江が大声で「石切丸さん!」と怒鳴るように名前を呼ぶところ。
初演時はなかったセリフだったので、初日に聞いたときに本当にびっくりしたシーンでした。
普段おっとりとしている青江が、あれだけの強い調子で叫ぶのはよほどのこと…それくらい、あの瞬間の石切丸は、自分が生きるか死ぬかの戦場にいることを忘れ、目の前の光景に動揺してしまっていたんだなって。。
石切丸については、先述の初演時から放置していた考察まがいの件もあるので、また別記事で書きたいです…今年はちゃんと書くぞ!
演出の変更点で大きかったかなと思ったのは、家康の最期に姿をあらわす信康が、若者ではなく年老いた姿になっていたことでした。
あのシーンの信康は、「信康を死に追いやったことを後悔し続けていた家康の心を、慰め救うため」に現れた信康の魂なんだと、初演の頃から思って見てきました。
家康から「信康…?」と問いかけられた信康は、静かに首を振ります。そして、「その名は捨てました。…今は掛川の百姓で、吾兵と申すものです」と穏やかな表情で答えます。
それを聞いた家康は、どこか安堵したような柔らかい笑顔で「…吾兵?…そうか、そうか」とつぶやくのですが。
…このシーンの信康が年齢を重ねた姿で登場したことにより、「信康の魂は、彼自身が望む人生を生き、全うすることができた」というメッセージが、より明確に家康に伝わるようになったんじゃないかな、というふうに思いました。
それが事実かどうか、ということではなくて、あの場に現れた信康の心が、家康にそう伝えたかった、そういうことだと思っています。
望むようには生きさせてやれず、若くして亡くなってしまった息子のことを思い続けてきた家康にとって、自分だけが誰よりも長く生き延びてしまったという事実は、それだけでどこか責め苦のような部分があるんじゃないかなと感じるんです。
そんな彼の前に、自分と同じように年を経た息子の姿が現れてくれたなら、それはとても大きな心の救済になるのではないかな…と。
凱旋公演で下手よりの席に座ったとき、家康の足元に膝をつく信康の表情がとても見えやすい位置だったことがあったんですが、家康が息を引き取るその瞬間の彼は、本当に言葉で表現できない、素晴らしいお顔をしていた…。あぁ、ついに、といったふうに微かに顔を上げて、どこまでも穏やかに、ほんの少し切なそうな微笑を浮かべていて。
そこに重なる物吉くんの「よく、生きられましたね。…おやすみなさい」のセリフ。思い出しても泣けてきてしまうよ…。本当に、なんて物語を作り上げたんだろう、と思ってしまう。
同じように見た目が変わっていた部分としては、吾兵の衣装がよりみすぼらしくなっていたことがありました。
桶狭間の戦いを前に、野武士たちに馬鹿にされながらも、刀のないまま戦に打って出ようとする吾兵。
着古したぼろぼろのその衣服と、野武士たちに罵られるとおりに「土にまみれた」肌の薄汚れた様子が、あくまでも吾兵は本来戦場にいるべきではない、市井のいち百姓だったのだということを、よりクリアに伝えてくるように思いました。
吾兵は懸命に「生きよう」としていた。生きるために、彼は刀を握ることを選んだ。でもその選択は、彼の命の終わりを予期せぬ形で早めることになってしまう。
信康と吾兵は、やはり対になる存在だと思うのですが、再演はその対比がより鮮やかに描き出されているように思いました。
◆新しくなった出陣ソング
一部パートの歌に関しては、「勝利の凱歌」に当たるM2の出陣ソングが新曲になってましたね!
これも初日にめちゃくちゃびっくりしたポイントでした。勝利の凱歌はシングルCDとしてリリースされた歌でもあり、みほとせの一部パートを代表する曲のひとつだなと思っていたので、まさか変わるとは!
…でもこの新曲も、やっぱりすごくかっこよくって!
4振りの勇ましさがビシバシと伝わってくる、戦場に赴く気概を溢れさせた曲ですよね。
しかも勝利の凱歌よりも曲としての難易度は上がっていそう。AメロもBメロも音のとり方が複雑で!
…なんだけど、チームみほとせの、歌唱力もまた、上がっているんだ~!!!(感涙)
歌がもともとうますぎる村正派のおふたりはともかくとして(相変わらずの歌唱力ですよもう!)、物吉くんと石切丸さんが、ほんと~に上達なされましたよね…!涙
声量もあがっているし、音程も安定したし!再演ってこういう変化に出会えるところもあるから良いものだな~ってしみじみと思いました。
「渾身一撃!」で終わるサビ前のBメロも好きだし、そこから始まるサビのメロディもツボだったよう!みんなかっこいいよう…!
そして、その次に控えている全員でのM3が、変わらない「刀剣乱舞」っていうところに、またしびれてしまうんですよ!涙
「無事に揃ったところで、励むとしようか!」という雄々しい石切丸の声に続いて始まる、あの聞き馴染んだイントロ。
もう~このカタルシスは一体なんなんだろ~!?ってなって、客席でただ涙を流してしまう…
みほとせ初演のときは、M1が村正のソロである「脱いで魅せまショウ」、M2が「勝利の凱歌」だったので、そうか刀剣乱舞はもう歌わないのかな…?って思い始めていたところにM3でバーン!ドヤァ!と歌われたので、「やっぱり!これがないと!始まらないよねええ!」っていう感動でめっちゃ泣いた思い出があります。
これからの刀ミュ、なにがどうなるかわからないけど、新作も控えているけど、できれば「刀剣乱舞」を歌う伝統はやめないでほしーです!涙 大好きなんだ…。
◆再演することの意義
てっきり新作公演が来るのだと思っていた次回作が「みほとせの再演」だと知ったとき、真っ先に「なんで?」って不思議に思ったことを覚えています。
阿津賀志巴里は、ジャパンエキスポの一貫ということもあり、新作ではなく既存の作品を持っていくということに納得感があったし、それがteam三条with加州清光に託されるということもよくわかった。そしてタイトルも若干変更になっているとおり、純粋な再演ではないよなということも、察しはついていました。
でもみほとせはそれとは異なり、明らかな「再演」。
今の時期の刀ミュ運営が「再演」という手段を選んだ理由、そしてその作品にみほとせを選んだ理由はなんなのか、思わず考え込んでしまいました。
その意図を正確に推し量ることはできないから、当然わかりようがないんだけど、その時わたしがなんとなく思ったのは、
「刀ミュの知名度がより広がった今、ついて来られない新規のお客さんをなるべく減らせるようにする作戦のひとつ」なのかな、ということでした。
2015年のトライアルから数えると丸3年が経過し、その頃から長く追っているお客さんもいれば、最近刀ミュを知ったばかりのお客さんもいる。その中で人気は時間の経過とともに増す一方で、正直なところチケット争奪戦はどんどんと苛烈を極めている。
結果として、新規のファンにとっては気軽に近寄れるとは言い難い作品にもなってしまった側面が、若干あるような気がしています。
そのために、紅白を終え、知名度をより深めたいまの時期に、新作ではなくて再演を選んだのには、その状況をひとつ打開する狙いもあったのではないかな?って思ったんですよね。
「初演のころはまだ刀ミュを知らなかった、知っていたら見に行ったのに」と思っていた人たちにも、みほとせを実際に現地で観られる機会を提供することができる。
長いファンと新しいファンの間にあるギャップを埋めるような、そんな目的もあったんじゃないかな?と。
…とまぁ、そんな予想が果たして正しいのかどうかはわからないですが、その側面に限らずに、純粋に作品としてのみほとせは「今再演される意義が間違いなくあった」と、実際に観劇して深く思いました。
若手キャストはとにかく初演から比べると、歌も演技もダンスも、すべての要素において目覚ましいばかりの成長を見せてくれました。
一方のベテランキャストは、もともと十分に高かったクオリティを、更に自分の目指す方向に向かって引き上げ続けようとする、高みを目指した終わりのない努力を重ねていて、その様子に圧倒されました。
そしてひとりだけ新規加入となった牧島くんは、いかほどのプレッシャーだったかと思うのですが、新しい大倶利伽羅として、彼らしい息吹を吹き込んでいました。
同じ作品だからこそ、こうして色んな面で初演と再演の色合いの違いを楽しむことができて、本当に贅沢な観劇体験をさせてもらったな…と、しみじみと思っております!
2017年のみほとせ初演は、その後の刀ミュの可能性というか、伸びしろを大きく広げてくれた作品だったと思うんですよね。
がむしゃらに走り抜けた若者たちの物語でもあった幕末天狼傳から、キャスト面でも脚本面でも、大人の物語の色合いが強いみほとせへのバトンタッチ。
そうして幕末天狼傳の次にみほとせが語られたことにより、刀ミュはより一層、その世界観の中に深みを増すことができた気がしていて。
そこから約2年という時間を経た今。刀ミュが実際に色んな面で大きく飛躍を遂げた後の世界で、新しい魅力を携えて戻ってきてくれたみほとせにまた出会うことができて、すごく嬉しかったんです。だってわたしは、刀ミュが好きなんだ…!
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再演の概観についてまずは書いてみたんですが、それでもけっこうなボリュームに。。よくそんなに書くことがあるよね!?(他人事)
みほとせの話はまだまだしたいので、また書きます!読んでくださってありがとうございましたー!