こたえなんていらないさ

舞台オタクの観劇感想その他もろもろブログです。

刀ミュ 歌合 乱舞狂乱2019 公演を見終えての感想その4~「和歌」が彩る物語~

気づけばもう3月に!2月中に終えるつもりだったけど終わらなかった!
今回は、作品中で取り上げられた六首の和歌をモチーフとした物語それぞれについての感想をまとめました。



「歌合」というタイトルを裏切らず、真正面から古典文学を客席にぶつけてきた今回の作品づくり、本当に容赦がなくて、侮りがなくて、ただただ「最高!」に尽きた。
以前のエントリーでも少しだけ触れたとおり、作品中に取り上げられた六首は、万葉集および古今和歌集を出典としている。

以降、現代語訳を引いてこれた歌は引用元を脚注に記載、一部は自分で訳している(ので、合っているとは限らないのでご容赦を)。


◆第一首:「天地(あめつち)の 神を祈りて 我(あ)が恋ふる 君い必ず 逢はざらめやも」

碁石が立てるちゃりちゃりという”乾いた石の音”に、どことなく懐かしさを覚え、過去の記憶に当て所を探して思いを馳せる、石切丸の物語。


この場面で歌われる歌についてまず最初に印象に残ったのが、歌詞の内容が、ある種の無常観、諦観のようなものを湛えていたことだった。
歌詞を明確に記憶しきれていないのだが、物語の冒頭に石切丸がひとり口ずさむ歌には、「いつか歩んできた道」「いつか誰かのために叫んだ声」といった過去の経験が「記憶の中に紛れていく」と歌われている。
しかし、その最後は「それでいい」と結ばれるのだ。
とどまることなく過ぎ去っていく時間の中で、全てを覚えてはいられないという事実。
それでもこの身が経験してきた物事は、決してどこかに消えることはなく、自分の中に確かに降り積もっている。
…そのことがわかっているからこそ、石切丸は「それでいい」という肯定の思いと共に、静かに歌を閉じるのだろう。
人と共に長く在り続けてきた石切丸だから、その境地に達することができたのかな…と思わせられて、誰よりも心優しい大太刀がおそらくは頻繁に接するであろう”孤独”にも、勝手に思いをさまよわせてしまったりした。


後半に歌われる『お百度祷歌』にも、似たような控えめさがある。
「幾度幾度祈れば 届くかな届くかな 何度何度願えば 叶うかな叶うかな」
ここに溢れる、祈りの在り方の慎ましさ。
絶対に叶う、願いが届くと、言い切ってしまうことはないのだ。
届くかな、叶うかな、と、あくまでもそっと、ささやかに祈りを託す。
一歩一歩、重ねて一歩。
叶うかどうかはわからないけれど、でも足を踏み出そうとする意志が、確かにそこにある。

天地(あめつち)の 神を祈りて 我(あ)が恋ふる 君い必ず 逢はざらめやも
天地の神に向かって祈りを捧げ私が恋しく思うあなたに、必ずやお会いいたしましょう。
万葉集・第十三巻、3287*1

石切丸の物語にこの歌が当てられていた意味を考えてみたのだが、
彼にとって「祈る」という行為がごく親しい存在であるという事実を、端的に表した歌だからではないか…と思った。
人がなにかに対して思いを馳せるその様子そのものが、おそらくは石切丸を石切丸たらしめてきた核といえる部分もあるだろう。
「君い必ず逢はざらめやも」に溢れる、そうありたい、と願う心の強さが、人々を前へと歩ませてきたことを、石切丸はきっと誰よりもよく知っている。
彼が思い出した「乾いた石の音=玉砂利の音」は、その人々の祈りに直に結びつく象徴のようなものだ。
思いがけず、自らのルーツにつながる音の記憶に巡り会った彼は、短冊を供えながらそっと手刀を切り、目を閉じて微笑んでいた。その充実感に満ちた穏やかな表情は、つばさくんが石切丸を長らく演じてきた今だからこそできるもののように思えて、とても好きだった。

◆第二首:「世のなかは 夢かうつつか うつつとも 夢とも知らず ありてなければ」

一首目からいきなりガラッとトーンを変えたこのパート、本当にお腹が痛くなるほど笑った。笑い死にそうだった。刀ミュを見ていて間違いなく一番笑った時間になった。
ここまでコメディに振り切って描かれることが、刀ミュの中ではこれまでありそうでなかったので、つまりは観客側にもまだそういう免疫がないという状態。いやーすごかった!
…っていうか、一首目との緩急がちょっと極端すぎるよ!ついていけないよ!笑

原作ゲーム内には「根兵糖(こんぺいとう)」と呼ばれる、見た目がこんぺいとうにそっくりな、レベル上げに使えるアイテムがあるのだが、その根兵糖をおやつ代わりに食べたがる本丸の仲間と攻防戦を繰り広げているうち、疲れて見た夢と現実とがごっちゃになってしまう、蜻蛉切の物語である。


夢と現実をごっちゃにしてしまうというシンプルなコメディだけど、だからこそそれぞれの役者の力量がなければ成り立たないパートでもある。
特に、話の中心を担っているspiさんの蜻蛉切の声の出し方や表情の作り方、本当に見事なコメディアンっぷりだった。
「巴形はこんぺいとうの中では意外な方なのだろうか!?」とか、作戦をこんぺいとう語で伝えた後、一瞬の間ののちに全員の賛同を得られたところで「ぅおーしょしよしよし!!!」みたいな言い方でガッツポーズをするところとか。挙げ句の果てに、槍をスタンドマイクに見立てたマイクパフォーマンス、あれは本当にずるい!笑


他に個人的にツボだったのは、しょごたんの堀川くんである。
なんと言ったらいいのか、あの「真顔でやりきるからこその面白さ」みたいな。こんぺいとうソングをかっこよくキメキメで歌い、華麗に踊れば踊るほど、そこに生まれてしまうおかしみ。
絶対にしょごたん本人も「その方が面白い!」って確信犯的にやっていたんだと思うんだけど、本当に憎らしいほど見事にキメてくる。さすがはアミューズ様…!ってなる鮮やかなダンス。しかし歌はこんぺいとう。このおかしさの波状攻撃には終始勝てなかった。
あとは青江の開口一番「やぁこんぺいとう」と、出陣前の「食ったり食われたりしよう」もおなじくらい反則…!だってあらきさん、ほんとにすごい顔してるんだもの!笑

世のなかは 夢かうつつか うつつとも 夢とも知らず ありてなければ
世の中というものは、いったい夢なのだろうか、現実なのだろうか。それは、現実とも夢ともわからない。あってないようなものだから。
古今和歌集 第十八巻 雑歌下:942*2

…見る側を「夢なのかなんなのかわからない」という気持ちにさせた点において、歌の世界を完璧に表現していたんじゃないかなぁと思う。笑
参加する脚本家が複数になることによって、早速こんな引き出しが増えるのか!と驚かされた部分でもあった。

◆第三首:「夏虫の 身をいたづらに なすことも ひとつ思ひに よりてなりけり」

三首目は、にっかり青江による講談パート。
語られるのは「雨月物語」の「菊花の約(ちぎり)」である。(元ネタはこれだよというのは、初日観劇後に友達から教えてもらった。)
ja.wikipedia.org


たった一人でセンターステージに設えられた高座にすわり、釈台を前に語り続ける青江。
冒頭では幽霊を斬った逸話を持つ彼ならではの、人魂との戯れが描かれる。
本当に終始、青江による「語り」と「歌」だけで物語が展開していくのだが、とにかく荒木さんの表現力の凄まじさに圧倒される時間になった。


講談の本物を見たことが私にはないのだけど、ちょっとやそっとで真似できるものではまずないように思える。…のだが、荒木さんの青江はそれを完璧に我がものにしていたように思う。(ご本人はきっとそんなことは全くないと言うのだろうけど…少なくとも見ている側にはそう届いていた。どちらかというと、演じる対象を”憑依”させるタイプの役者に感じるのだが、そんな荒木さんだからこその見せ場になっていたように思う。)
左門と宗右衛門、二人の声色を使い分け、表情も変えて、迫力たっぷりに哀しい物語を語る青江。
最後の「約束を果たしに来たんだ。…風に乗ってね。」のところには、本当に鳥肌が立った。
びゅうと吹きすさぶ風の音につられるようにふと上をみやって、そこからポツリとこぼされる「…風に乗ってね。」の迫力。宗右衛門がもうこの世のものではないことが十二分に伝わってくる、影を宿したわずかな微笑み。思い出してもゾクリとする。


今回の歌合、わたしは長野→福岡→埼玉→東京の4箇所で観劇したのだが、3箇所目となったたまアリで、500レベル、つまり最上階から観た回があった。
もちろん舞台からはものすごく遠い位置なわけなのだが、ここから見た景色が忘れられないのだ。
センターステージに座す青江に向かって、メインステージ側の前方から、細く真っ直ぐに差し込むスポットライト。その明かりに一箇所だけがぼうっとまあるく照らし出されて、周りの客席は、静寂と闇の中にしんと沈んでいる。その光景は圧巻だった。
たまアリという巨大すぎる空間を、あの時間青江は、確かにたった一人で掌握していた。彼の息遣いに、観客たちが固唾を飲んで引き込まれていることが、果てしなく上の500レベルにいてもわかるのだ。演じる力の凄まじさに、本当に痺れるように感動した。

『菊花輪舞』のメロディを歌う声。荒木さんの声は、微かなゆらぎも含めて本当に美しい…。哀切に満ちた歌声に乗って、暗闇の中にライトで描き出される菊の花。壁を伝ってくるくるとまわるその光も含め、一分の隙もないほどに完璧な世界が、そこに構築されていた。
にっかり青江というとらえどころの難しいキャラクターを2.5次元の現場にあそこまでリアルに息づかせることができるのは、絶対に荒木さんだけだと、刀ミュに青江がやってきて3年目だけれど、改めて痛感した。本当に良いものを見たな…!

夏虫の 身をいたづらに なすことも ひとつ思ひに よりてなりけり
夏の虫は、火に飛び込んでわれとわが身を焼き滅ぼしてしまう。それというのも、恋の火にわが身を焼きさいなんでいる私と、そっくりそのままの身の上だからだ。
古今和歌集 第十一巻 恋歌一:544*3

刀として振るわれるばかりで僕は交わりを知らない、と冒頭に語る青江。しかし彼が詠み上げる歌は、恋の激情に身を焦がすさまを歌ったものなのがまた、ある種の矛盾をはらんでいてぐっと来る。矛盾を抱えるのもまた、刀剣男士、心を持つもの所以なのだ。

◆第四首:「梅の花 折りてかざせる 諸人は 今日の間は 楽しくあるべし」

四首目は、梅の花香る陽気に誘われて、誰もいない本丸の庭先に現れた明石によって「戯れにしゃべくりでもしてみまひょか」と披露される、落語のパートだ。


主が大事にしていた梅の枝を誤って折ってしまった…と明石によって思い込まされた今剣と小狐丸が、明石の口車に乗って最終的には「枝が折れたことをなかったことにする」ために、梅の木そのものを切り倒してしまう、というお話。
そもそもの発端は明石自身が枝を折ってしまったことであり、それをごまかそうとくくりつけた手ぬぐいを取ってくれるように今剣に頼むところから、この騒動は始まっている。

…正直に言うと、この話だけは最初見ていて、とにかくハラハラした。何にハラハラしたかというと、刀剣男士の描かれ方についてである。
最後はもちろん「明石が暇つぶしに考えた作り話」だったという種明かしがされるのだけど、そして見ながらもそうあってほしいと願ってはいたものの、はっきりと作り話だと明かされたときは、ものすごくホッとした。
二人を騙して木を切らせてしまう明石も、明石に乗せられて主の大切な木を切り倒してしまう今剣も小狐丸も、けっこう見ていて心がひやっとする描写ではあったな、と思うのだ。わりとギリギリなラインを攻めたなぁという印象。


ただ、ここで狙って描き出されていたのは、おそらくはその見ていて「ハラハラする」部分だったのではないか、と思うのだ。
たぶん、刀剣男士が内包する「人間くささ」みたいなものを、敢えて表に出そうとしたパートだったのではないだろうか。(M2の『神遊び』に”炙り出される本性”という歌詞があったことを、ここでちらりと思い出す。)


明石国行は、初登場となった本公演「葵咲本紀」での描写において、いろんな謎が残されている刀剣男士である。
篭手切江に詰め寄るときの彼は、時間遡行軍について(おそらくは本質を捉えた)独自の解釈を持っている様子を見せるし、
出陣先の時代に生きる人間を協力者に仕立てる三日月のやり方には「ありえへんで」と真っ向から反発しながらも「いや…まだや。まだ終わってない。じっくり見届けさせてもらいましょ」と、含みをもたせた言葉を残している。
現時点では、刀ミュの観客にとってもどこかまだ掴みどころのない明石というキャラクターが、少しこちらの心をひやりとさせるような描写をぶつけてくることには、なんとも言えない納得感があるような気がしたのだ。

人と同じように心を持つ刀剣男士たちが、常に清く正しくあるとは、もちろん限らないのだ。
彼らが本質的に誤った道に陥ることは、しっかりしたあの本丸のことだからきっとないのだろうけれど、それでも彼らが心を持つゆえに、どこか自分勝手な行動に走ることがあったとしても、さほど不思議ではないのである。
この梅の花の物語は、そんな事実をこちらに向かって、ぽんと無造作に投げてきたような気がする。

梅の花 折りてかざせる 諸人は 今日の間は 楽しくあるべし
梅の花咲く枝を折って髪にかざして飾る人びとは、今日のあいだはみな、楽しくすごすことでしょう。
万葉集 第五巻:832*4

「どうですか。もしかするとこれもまた、ひとつの現実なんですよ。ちょっとドキッとしたでしょう。でもひとまず今のところは、この美しい梅の花を愛でて楽しもうじゃありませんか。」
…投げかけられたのは、そんなふうにどこかちょっぴり毒のある、ビターなメッセージだったのかもしれない。刀ミュにしてはかなり珍しいかつ、新しい試みだったな、と思う。

◆第五首:「ぬばたまの 我が黒髪に 降りなづむ 天(あま)の露霜 とれば消につつ」

兼さん・青江・はっち3振りの軽装お披露目となったパート。
とくにはっちに関しては、軽装が発表になったのが、原作ゲームのサービス開始五周年であった1月14日だった。
その時点で歌合は全9都市のうちすでに7都市での公演が終わっていたのだが、それでもしっかりラスト2箇所にはっちの軽装を間に合わせてきたところに、刀ミュの本気度が表れていた。(それまでの公演では、ひとりだけ見慣れた内番姿だったので、軽装で初登場したときの悲鳴や歓声が高橋くんはすごく嬉しかったらしい。笑*5
初日、まず最初に兼さんが軽装で登場したときの、会場に響き渡ったたくさんの悲鳴。その後に続けて表れた青江についても同様で、まさかこの目で見られるなんて…!?と言葉を失った人が多数だったと思う。


このエピソードは、とても穏やかな優しさに満ちていた。
髪の長いもの同士、風呂上がりに一緒になることが多いなと和やかに語り合い、日常の手入れ方法について話に花を咲かせる3人。
その話の途中で、同じく髪の長い刀剣男士仲間である千子村正からもらった椿油を手に、「願掛けだよ」と言って青江が微笑む。
青江は一足先に任務での役割を終えて本丸に戻ってきているのだが、戻ってきた後も、引き続き出陣先で長い戦いを続けている村正と蜻蛉切の無事を祈って、願掛けと称してその椿油を使い続けていたのだ。
つまりこれは「葵咲本紀」とイコールの時間軸なわけで、そんな風に新しく、優しい時間を描き出してくれたことが、すごく嬉しかった。


ここで3振りによって歌われる『夕涼み 時つ風』で、刀ミュ史上前代未聞の大事件が起こる。
伴奏に達者なアコースティックギターの音色が聞こえてきた…と思ったら、まさかの演奏者が、堀川国広その人だったのである…!
メインステージでギターを華麗にかき鳴らして微笑む堀川くんがライトアップされた瞬間、客席からは動揺した悲鳴と同じくらいのボリュームで、笑い声が上がっていた。
…いやだって、意外がすぎるでしょ!!!笑
そんな、内番姿でアコギを弾いちゃう堀川くんって…現実世界に存在していいのかよ!?ってなるよね!?刀ミュの堀川くん、ギターで兼さんに寄り添える系国広さんだった…!?
と、そうやってこっちは全力で混乱してるのに、こんぺいとうパートと同じで、あまりにもしょごたん演じる堀川くんのギターがうますぎて、その完璧さに逆に笑いが出てしまう…といった状況になっていたように思う。
しょごたん…ギターがうますぎるよ!さすがのアーティスト活動の賜物だよ!かっこよすぎるよ!気のせいかもしれないけど、公演の終盤で若干アレンジ増やしたりしてなかったですか!?笑
演出の自由度の高さに本当に度肝を抜かれたし、そんな意外な演出にも全力で「…あり!これは、ありよりのあり!!!」ってなっている客席と刀ミュとの信頼関係も、すごく楽しかった。

ぬばたまの 我が黒髪に 降りなづむ 天(あま)の露霜 とれば消につつ
わたしの黒い髪に天から降りてきた露霜を、取るとそのまま消えていった。
万葉集 第七巻:1116*6

馬に乗れればすぐに髪が乾くと言い張る兼さんが足をガッと開きすぎて、ちょっと!もも引き見えてるよ!状態になってたり、切なくて美しいのにおかしさもところどころに滲んでいて、すごく楽しいパートだったな。
軽装の青江のヘアスタイルの優雅さったらなかったよね…。はっちは相変わらず天女のような美しさだった。
刀ミュがおたくたちの想像をまたしても軽々と超えてきた歴史的な1ページだったと思う。

◆第六首:「ふたつなき ものとおもひしを 水底に 山の端ならで 出づる月影」

今回の六首の中で、わたしが一番好きだったのはこれ…!
なんて粋なことをするんだろうというか、今だからできる表現だったなというか…。

この物語の主人公は小狐丸。
見事な満月を庭で眺める小狐丸と明石。小狐丸は、庭の池に映ったもうひとつの満月を見て、明石がやってくる前に本丸で起きたという、ちょっと不思議な話を語り聞かせる。


長曽祢虎徹御手杵堀川国広の3振りが、立て続けに「ついさっき、別な場所で小狐丸の姿を見た」と言う場面から回想は始まる。
そこへ「面白そうな話をしているじゃないか」と賑やかしにやってきた鶴丸国永。
見に覚えのない自分の目撃情報を次々に口にする仲間に対し、自分はずっとここにおり、厨にいったりもしていないし、油揚げを食べたりもしていないと反論する小狐丸。
そうして「小狐丸が二振り、か…」と考え込む面々に、鶴丸は「狐にでも化かされてるんじゃないのか?」とおかしそうに言うのだが、それを受けた小狐丸ははっと何かに気づいた様子になり、突然刀を抜く。
「あなたがた全員、いつもと何かが違う。…足りないのですよ、刀が。」
小狐丸がそう言い放つと、4振りはさっと姿をかき消し、次の瞬間、それぞれが狐の面をつけた状態で再び現れる。
狐にゃ表と裏がある、と歌い踊る彼らの最後に姿を表したのは、もう一振りの、やはり面をつけた小狐丸だった。


―小狐丸が二振り。
この表現だけで、言葉にするにはあまりある感情が湧く人は、きっととても多い。

2018年の夏に上演された「阿津賀志山異聞2018巴里」において、小狐丸を演じる北園涼くんはパリ公演の本番直前に思いがけず網膜剥離と診断され、出演することができなくなってしまう。そしてパリ公演の1ヶ月後の東京公演の千秋楽まで、彼が小狐丸として舞台に戻ってくることは、その夏の間じゅう叶わなかった。
その時に小狐丸の代役を務めていたのが、刀ミュのトライアル公演からアンサンブルとして参加し続けている岩崎大輔さんである。


歌合の舞台上で、面をつけたもう一振りの小狐丸と、涼くん演じる小狐丸とが正面から相対した様子を目撃したとき、息を呑むような思いになった。
顔はもちろん見えないのだけれど、もう一振りの小狐丸を演じているのが岩崎さんであることは、その姿ですぐにわかる。
青年館で、皆が言葉にできないたくさんの感情を抱いて駆け抜けた夏が一気にフラッシュバックして、ただただ言葉を失った。


そうして己とそっくりなもうひと振りと並び立って向かい合いながら小狐丸が歌うのは、「ひとつはわたし ひとつもわたし」という歌詞なのだ。どちらも自分自身なのだと、分離した心に呼びかける歌。
歌は最後、さらに「ヒトナリヤ モノナリヤ」と続けられる。これは言うまでもなく、らぶフェス2016の流れを汲んだ歌詞。

この「ふたつなきものをおもひしを」の物語は、これまでの偶発的な、決して幸運とは呼べなかった歩みも含めて、その全てがかけがえのない時間なのだと、正面から「今」を肯定するようなものだったと思うのだ。
あの夏に残してきた思いと、それを支え続けた人の存在、そのどちらにも等しく光があたっていて。
どう言い表しても陳腐になってしまいそうだし、二人の築き上げたものを尊ぶには足りないので、わたしにはこれ以上の言葉が使えない。
刀ミュが歩んできた道の確かさと、その場に結ばれてきた様々なかたちの信頼関係が、ありありとそこに浮かんできているように思えた。
千秋楽のあとに、二人で並んだ写真を更新してくれたこと、本当に嬉しかったな。

ふたつなき ものとおもひしを 水底に 山の端ならで 出づる月影
まさか二つはないものだと思っていたが、いまこの池の水底に、山の端からではなくて見事な月が昇ってきた。
古今和歌集 第十七巻 雑歌上:881*7

何が本当に起きたことなのか、結局は結論を煙に巻いてみせたような、答えを出しきらずに不思議な余地を残して閉じた語り口も、三条派らしさが溢れていてものすごく好きだった。



しつこく書いてきた歌合振り返り記事もたぶん次回でラスト。
最後は気が済むまで鶴丸かっこいい国永さんの話をします!

▼歌合について書いた過去記事はこちら
anagmaram.hatenablog.com

anagmaram.hatenablog.com

anagmaram.hatenablog.com

*1:万葉集に関してはこちらのサイト( https://art-tags.net/manyo/thirteen/home.html )を参考にさせていただいた。上の句については、”天地の神を祈るように”あなたを恋しく思うことが日常的であるということなのかな…と解釈した。うまく訳に落とせなかったけど。「やも」は反語の係助詞であるので、=必ずあなたにお会いしましょう、という意味でとれるかと思い、そのように訳してある。

*2:奥村恆哉『新潮日本古典集成 古今和歌集』(2017)新潮社

*3:現代語訳出典は注2と同様。

*4:https://art-tags.net/manyo/five/m0832.html 訳は自分でつけてみた。シンプルな歌で万葉集らしいなと感じた。

*5:ミュージカル刀剣乱舞2.5ラジオ第44回 2020年2月8日放送回より。https://youtu.be/Sl-LvVHx72g

*6:https://art-tags.net/manyo/seven/m1116.html 訳は自分でつけてみた。これも四首目同様、万葉集だなぁと感じる素朴さ。

*7:現代語訳出典は注2と同様。