こたえなんていらないさ

ミュージカル『刀剣乱舞』を実家とする舞台オタクのブログです。推しとご贔屓がいます。

想像力と一回性と。「舞台の力」をめぐって考えたこと

本、漫画、ドラマ、映画、アニメ。
物語が展開されうるフォーマットは多様多様であり、物語の器としてそのどれもが魅力的なんだけれど、
その中で個人的に一番”替えのきかない”特別なもの、それが舞台である。


そんな大好きな存在である舞台の持つ「力」とはなにか?ということを考えたとき、
ちょっと変わった捉え方になる気はするのだが、わたしの回答は、
観劇後の感想を、とにかくなんとしてでも言葉に書き起こしたくなってしまうこと」である。
それほどまでに大きく感情が動くという事実そのものが、舞台の力なんじゃないかな、と常々思っている。


舞台がもつ様々な魅力、その根幹を成しているのは、「観客側も体ごとその空間に入り込める」という機構ではないかと思う。
目の前で生きた役者が、物語を展開して見せてくれる。そこには人の声によって発せられるセリフがあり、シーンに合わせて空間に流れる音楽があり、ステージじゅうをいっぱいに満たす照明の光がある。
客席にじっと静かに座りながらも、その内面では自分の持てる知覚をフル稼働させて、目で、耳で、ときには肌で受け取る物語の質感。
その情報密度はとてつもなく高くて、わたしは劇場で客席に座っているといつも、ぎゅっと濃縮された「物語」という塊を、勢いよく正面からぶつけられているような感覚になる。

今目の前に”生きている”人による表現には、ごまかしが存在し得ないし、受け取る方がその一瞬を見逃してまえば、どんなに命をかけた表現であっても伝わらない。
届ける側と受け取る側での真剣勝負が常にそこにある気がして、だからわたしはいつも観劇しながら、大げさなようだけれど「あー、今生きてるな」という実感を得ている。

◆舞台上と客席をつなぐ「想像力」

それほどまでに圧倒的な「生」の勢いがありながらも、舞台作品を受け取る上では、観客側にある種の努力が必要でもある。
観客側に求められるその努力とは、「想像力を働かせること」である。


舞台上というすべてがリアルタイムの現場で表現しうる内容には、どうしたって限界がある。
人は空を飛べないし、時間は自由に行ったり来たりできるものじゃない。死んでしまった命は生き返らないし、出発した次の瞬間に目的地に到着したりすることは不可能だ。
でも舞台作品では、その現実では不可能なことを、物語の進行上、どうにかして表現して見せなければならない場面が沢山でてくる。
プロジェクションマッピングなどの映像手法に頼れる部分はあるとはいえ、それにも当然限界がある。
そのときに、観客側には想像力を発揮することが大いに求められることになるのだ。


波の音が聞こえればそこに海を、びゅうと吹きすさぶ風の音がすれば荒々しいだろうその天候を。
主に音や光の効果によって、観客には「今この場面はこうなんですよ」というメッセージが語りかけられる。
その情報量はごく限られているはずなのに、それでも不思議なくらいに、そこにあるべき光景が、ちゃんと舞台上に成立して見えてくる感覚が、観劇しているといつもある。

仮に、舞台上に役者がたったひとりでスポットライトを浴びて立っている状況だとしても、発せられるセリフや音楽によってどんな情景なのかを理解してしまえる。
もはや当たり前のような気がしてしまうこれって、よく考えると実はすごいことなんじゃないかな、と思う。
そんなことが可能になるのは、観客側の想像力が、そこに介在すればこそだ。


どれほど発信する側が腐心して作り込んでも、作り手の思惑通りに行くとは限らないとも言えるこの点、ある意味では表現としてのジレンマを抱えている…といえそうだ。
でも、逆にそこがすごく面白いというか、舞台の大きな魅力になっているように思う。
なぜなら、そのことによってわたしたち観客も、作品世界の構築に「参加している」感覚になれるから。
観客は客席に座って、目の前に繰り広げられるものをただ観ていればよいようにも思えるけれど、そんなことはなくて、
実はけっこうなクリエイティビティを求められている瞬間が、たくさんあるのだ。
そうしてこちら側がごく主体的に表現を受け取りに行く必要があるからこそ、溢れるように次々と感想が湧いてくることになるのかな、という気がしている。

◆同じ公演は二度とない

そうして自分の持てる限りのあらゆる感覚を発揮して、客席で受け取ったその日の公演。
同じ演目だからといって、今日観た公演と同じ瞬間が訪れることは、この先に二度とない。それが舞台作品の宿命である。
舞台はこの絶対的な「一回性」を、常にまとっている存在だ。

たとえ同じ演目に対して複数回観劇できる予定があったとしても、今日の表現と明日の表現は、また別のものだ。
それは、”生きていればそもそも同じ一日は二度と訪れない”という動かしがたい事実の、ミニチュア版のようにも思える。
当たり前すぎて普段は意識から遠ざかっているその事実を、わたしたちは観劇を通して、たびたび突きつけられることがある。

あのシーンのあの表情、素晴らしかったな、あの歌声をもう一度聞きたい。…終わりを迎えた演目に、過去どれほどそうして胸を焦がしてきたことだろう。
ロングランの演目であろうと、永遠に終わらない作品は存在しない。
いつかは必ず、どの作品ともお別れする日がやって来る。
どれだけ恋しく願ってみても、終わってしまった演目を二度と生では観られないその事実は変わらなくて、
「あぁ、もうこの目で大好きなあの場面を観ることはないのだな」と、痛みをもって終わりを噛みしめるしかなくなるのだ。


でもだからこそ、舞台を介して、心はこれほどまでに大きく動く。
今しかないその輝きを全力で受け取りたくて、夢中になってしまうのだと思う。

そしてわたしの場合は、その様子の一部始終をなんとかして言葉に置き換えて、感想として書いておきたくなってしまう。
自分が受け取った表現のきらめきを、暴れるように動いた感情の軌跡を、しがみつくように書き残しておきたくなるのだ。


それは、どうしても「忘れたくない」から。
すべてを忘れずにいることはできないとしても、たしかにそこに在った、かけがえのない表現に対する思いや受け取ったものを、せめてなにか形にしたい。
その一心で、わたしはいつも自分の気の済むまで、観劇の感想を書き残している。


でも、どれほど言葉を尽くしても言い表せないことはいつだってたくさんあるし、書けば書くほど、本来書きたかったはずの内容から遠ざかるような気持ちに、正直なところいつもなる。
それなのにどうしても、面白かった・感動した・楽しかった・驚かされた…次々に湧いてくるその気持ちのかたまりをぜんぶ、ひとまず文章にしてみようとせずにはいられない。

言ってみれば”理由はわからないけれど、なぜかそうせざるを得ない”状態にされてしまう感覚がある。
それは、自分の内側で、感情がそれほどまでに豊かに動き続けていることの証なんじゃないだろうか。
これが、私が感じているいちばんの「舞台の力」の在り方だ。



今はまだ、とにかくいろんなことが難しくて、”日常”と呼ばれるものは、かつてのそれとは大きく姿を変えたままだ。

ごく当たり前だった観劇体験を取り戻せる日が来るまでには、まだおそらく相当に長い道のりがある。
失ったものの大きさを思うと、途端に文字を打つ手が止まってしまう。この事態に対するあれこれを、未だにうまく言葉にすることができない。


でも、それでも。
今できる様々な工夫を凝らして、いろんな形で、舞台の幕が上がり始めている。
止まらずにこの世に在り続けようとするその姿と、ひとりの観客として、引き続き一緒にいられたらいいなと思う。
以前と形は違ってくるのかもしれないけれど、発信されるその表現に心動かされる限り、わたしは「舞台の力」を感じ続けていたい。



以上、雑誌「Sparkle」vol.41での「舞台の力をテーマに投稿してください!」というキャンペーンに応募したくて書きました。
(裏表紙+巻末12ページインタビューのまりおくんには、感無量のひとことでした…!)

Sparkle Vol.41 (メディアボーイMOOK)

Sparkle Vol.41 (メディアボーイMOOK)

  • 発売日: 2020/06/24
  • メディア: ムック