こたえなんていらないさ

舞台オタクの観劇感想その他もろもろブログです。

ミュージカル「エリザベート」2025-2026 一部キャスト感想(井上/古川/望海/明日海/黒羽)


今季のわたしのエリザ観劇実績は東京2回、博多座2回。その感想をまとめました。
全員に触れることは難しいので自分の言葉で感想を語れると判断した5キャストのみで失礼します!
そして書いていたらなんか途中から人格が変わってしまったんですが、トートに対しては明らかにミーハー寄り(?)、シシィとルキーニに対しては「ガチ」なために、そういう文体になりました……(どういう意味?)

トート / 井上芳雄さん

彼を観ないわけにはいかないのです、なんとか掴んだ東京でのA席×2回。ぴあプレミアムとローチケエルアン先行なのでどちらも有料課金プレガ。無課金でチケットが取れるはずなさすぎる今季本当に厳しかったなぁ。。

23年1月以降、姉の推しであるため芳雄さんの歌声を聞く機会がぐんとふえてかなり馴染みがあるのですが、2025の芳雄トートは今まで聞いたことのない声質をなさっていてのけぞりました。
まごうことなきミュージカル界のトップランナーが、同役を演じて10年目で観客の予想を超えた大幅なジャンプアップをしてみせることなんてありえるの!?だった。芳雄さん、どう考えても伸びしろとかいう言葉を使っていい対象ではなさすぎるけど、つまりは伸びしろがあった、ということになってしまう……恐ろしい!!!
ご本人が連載でもおっしゃっていたけど、この歌声なら芝居を控えめにしても成立する的な仰天のアプローチをなさっている。そんなァ!?離れ業がすぎるぜ!!?
xtrend.nikkei.com

どこから響いて来ているのか?となる、劇場中をその存在感で埋め尽くすような重厚で朗々たる響き。声から意識的に若々しさを引き算しているようなそれは、聞いている者を震え上がらせるような効果を持ち、聞いた瞬間に理屈ではなく「参りました」という感覚に襲われる。平身低頭、どうしたって畏怖の念を抱かざるを得ない。怖かったよぉ。

トートのソロの真骨頂たる「最後のダンス」は本当~に凄まじい威力。これまで色んな最後のダンスを聞いてきたけど間違いなく人生で一番感動した!と11月14日のマチネで大興奮しました。
シシィを音圧で徹底的に征服してのけるその姿は恐ろしいと同時にやっぱり強烈にかっこよくもあり、あんなふうに自在に声を操れるって一体どんな気持ちなんだろう?とお伺いしてみたくなるほど。
芳雄トートの新お衣装は、その声の進化に呼応するかのように重厚でウルトラゴージャス。鈍色の装飾がクラシカルでとっても!お似合いだった。……もうトートやらないなんて、言わないですよねぇッ!?
今年は東京だけやったけど、博多座でまた芳雄トートに会いたかよ~!待っとるけんね~!!!(👈博多弁で同郷のスターを籠絡しようとする浅知恵の様子)

東京楽は姉の家で一緒に配信を観ていたのだけどあの楽のご挨拶で一気に本気のお通夜モードになってしまった。
貴方がいないエリザベートはちょっと考えられないのですが、という気持ちでいっぱいなのでどうか!どうかァ!
でも後進に道を譲りたいと芳雄さんが席を空けたがるのもここ最近の発信を見ているととても理解できてしまって……間をとって、ちょっと休んでまた戻って来るパターンで何卒!!!お願いします!

トート / 古川雄大さん

大好きすぎるゆんトート。博多座で1回しか観られなくて残念に思っていたけど、でもその1回だけでも観劇が叶って本当によかった。
2019年→2022-23年と観てきたゆんトート、初年度は「こーいーしちゃったんだ♪」の喜びに満ち溢れる帝王なりたての若々しさ、二期目はその恋心をどこか偏執的な方向性に育て上げたなんかちょっとやばいヤツ、の印象。
今季はより「人間ではないのだ」と強烈に痛感させられる幽玄の存在感がとても美しくて……!なんか過去と体の使い方がぜんぜん違うというか?
ひたひたといつの間にか影の中からこちらに迫ってくるような、ベールのように周囲を覆い尽くすようなタイプのゆらめく死神。闇と溶け合い、わりと明確に不気味寄り。
だって、ゆんトートがハプスブルクの面々にしてみせるお辞儀、なんかすっごい怖くて!?
体の屈め方が明らかにお辞儀のそれじゃないんだ、体勢を低く落としてこれからジャンプして目の前の対象に襲いかかるための予備動作みたいなポーズで。顔がずっとこっち向いてるんだもん!?
最後のダンスも悪夢もそれで始まるので、なんというか……人間の理屈が通じる存在ではないのだな、と分からされる感覚になった。


そんでもって、美ィ!えげつない美!まじで美だった。そのように美しいからこそ貴方は死神なのですね、という納得感がとても深い。
やっぱりゆんの歌声大好きです……。「愛と死の輪舞」ではいつだって100%泣かされる。なんなんだろうな本当に!?
あの歌声に詰まっている魅力は歌唱力が明確に進化なさってもそのまま真ん中に生き続けていて。個人的な感覚ですが、ゆんの声の持ち味がエリザベートの楽曲の中で一番輝くのが「愛と死の輪舞」のように思う。
「最後のダンス」では歌い終わりに一切ショーストップをせず、ぱっと瞬時に踵を返してスタスタ立ち去ってしまうのが「シシィにしか興味がない」ことの表れに感じられて、すごく印象に残りました。
言葉を選ばずに言えば、なんかこう……過去に比べて嗜虐性がほんのりというよりは、わりとくっきり目に感じられるようなトートだったように思います。ゾクゾクする。
でもそれも彼が人間とは違う位相に居ればこそというか。人ではないので、人の感情や機微などを彼が考慮にいれてくれるはずはないのである。
過去に特徴的に感じられた甘やかさよりも人外ゆえの冷酷さが引き立つようになった進化版ゆんトート、本当に素晴らしかったです。

エリザベート / 望海風斗さん

歌のうまさは重々存じ上げてはいるが観る前はどんなシシィになるのか全く想像がつかなかった望海さんのシシィ。
実際に観てみるとあまりに新鮮なアプローチに本当に驚かされて、間違いなく望海さんのシシィはまったく新しいエリザベート像を築き上げたのだと思う。

これまで私の中にあったシシィのイメージが打ち砕かれるような、きっとこのように着地するに違いない……と勝手に観客が想像するポイントが、尽く裏切られていく感覚。
彼女のシシィはとにかくリアリティの追求がテーマだったのではないか?と感じた。
おとぎ話の中にいるのではない、ひとりの意志を持った人間としてシシィという女性像を描き直してみせる。
そのどこまでも自分のために在らんとする生き様を観ていると、正直どこか居心地の悪さを感じさせられるレベル。なぜなら望海シシィを見ていると「これまで私は"理想のプリンセス像"を劇中のシシィに無意識に押し付けてきたのではないか?」と不意に己に対しての強い疑問を抱いてしまったから。
シシィは「嫌よ おとなしい人形なんて」と歌っているのにもかかわらず、私は彼女をそのように見ていやしなかったか?とはっとさせられた。


過去の観劇で自分の中に確固たるシシィのイメージを作り上げてきた観客ほど強く動揺するであろう「リアルさ、人間臭さ」に振り切ったシシィを立ち上げることができたのは、望海さんのあの圧倒的な歌唱力があってこそのように思う。
歌で絶対に観客を取りこぼさない、言葉を選ばずに言えば”文句を言わせない”というやりきれる確信があるからこそ、ぶつけることのできる揺さぶり。

望海シシィは、本来なら皇室になど入るべきではない少女だったと強く思わせられる存在。
彼女が歌う「私だけに」は、追い詰められた結果、本来望まなかった形での自我を無理矢理に、しかし力強く体得してしまうそれで、「嫌よ 人目にさらされるなど」の「嫌よ」の眼差しの鋭さ、それまでとの顔つきの変わりようは豹変とも言えるものでぎょっとさせられるほどだった。
博多座で観た時はもう少し印象が変わって「こうすれば良いのね!」という理解の獲得にも見えたのだけど、でもそれが彼女自信の本質とはかけ離れているところが望海シシィの悲劇なのだと思う。
「私だけに」のあとにルキーニが歌う「エリザベートは自我に目覚めた」がこれほどまでに腑に落ちるシシィは私は初めてだった。コルフ島であそこまでに本心から泣きじゃくりボロボロになっているシシィも。

彼女が少女の頃のあのまま、鹿を追い掛けてのびのび振る舞い続けることができたなら。
運命のいたずらで皇后になった彼女は、歪に進化させた逞しい自我でその先の人生をあてもなく彷徨っていく。
最期の時にトートと対面し、真っ白いシンプルなドレスで「連れて行って 闇の彼方遠く」と歌い出したその晴れやかな笑顔こそが、本来彼女が内側に抱いてきた本質だったのだと思うと痛ましさすら感じる。
理想のお姫様なんかどこにもいない、現実を生きた一人の女性がいただけだ。という事実を容赦なくタイトルロールとして舞台上に突き立てるその確かな実力、とにかく天晴れだと思いました。

エリザベート / 明日海りおさん

望海シシィとは反対に、たぶんきっとこんな感じ……?とイメージをすることができたみりおさんのシシィは、ところがどっこい、その想像よりも数千倍は愛らしく美しく……存在の眩しさに存分に焼かれた。
「パパみたいに」からもう泣けてしまって仕方なかった。見つめていると自然とこちらの目尻が下がってしまうような、周囲から愛されるであろう魅力と、なによりも生命力に満ち溢れた可憐な少女。

「愛と死の輪舞」での、死と生、夢とうつつを揺蕩うような全身の使い方と表情があまりにも素晴らしくて夢中になってしまった。
みりシシィ+トートダンサーが織りなす空間のすべてが本当に美しくって。
その場に流れる時間がふわっと柔らかく宙にほどけていく。今は現実のどこにも存在しないひととき、だからこそシシィとトートは出会ったのだ。
「そりゃあこんなの大好きになっちゃうよ、黄泉の帝王もどこまでも追い掛けていっちゃうよ~~~!!!」の気持ちで泣いていた。

「不幸の始まり」の結婚式では、そこに居るこの世ならざるもの=トートの気配を確かに感じ、視界の端にその姿をぎりぎり認めるかのような視線の残し方がとても美しかった。
周囲の空気まで含めて自分のものにして演じるみりおさんのアプローチ、本当に見事だし理屈ではなく「好き!」と思った。


みりシシィの「私だけに」は、どんな困難な状況に置かれても自分が自分を信じて生き抜いてみせるのだという、己の内側にあるエネルギーに目を見開かされていくセルフエンパワメント。
あの高らかな「自由に生きるの」からの終盤、彼女はぐっと両のこぶしに力を込めながら瞳を閉じ、その口元にははっきりと微笑みを湛えている。
その姿から私は、自己への信頼を感じたのだ。その力は眩しく全身から光となって放たれて、内側から彼女自身の意志で強く輝いてみせている。そのことに感動で胸が打ち震えた。

しかし二幕では様相がガラリと変わり、本当に瞳から一切の色が消え失せる。その落差もまた凄まじかった。
苛烈なほど、火花を散らすほどに力強い「私が踊る時」を終えたあとは、身にまとう光のトーンが数段階落ちてゆき、明らかに彼女は生きる目的を見失っている。
コルフ島でノートを抱きしめて歌う姿は、焦点は定まっているけれどその感情がどこにあるのか見えないがらんどうの空虚。
ルドルフの手を振りほどく「政治の話ね」は、開くかに見えた心の扉がルドルフの眼の前で容赦なく閉ざされる様子が痛ましく……「ママは自分を守るため」の後悔もその分鋭く深い。

みりシシィはその見目麗しさを力に変えてどこまでも勝利を獲得していけそうに見える。が、決してそうはならない。
内に灯った強烈な生命の火こそが同時に彼女の脆さでもあったのだ、と伝わってくる点で望海さんとはまた別なタイプのリアリティがあった。

思いがけずオーストリー皇后になった、うまくいかないかと思われた皇室での人生さえも自分の思うままにするほどの力を得た、そのように一度は順風満帆に歩めてしまった彼女自身の強靭さ、「私だけに」で世に生み出された覚醒の後日譚が、結果的にシシィを苦しめていったのではないか……というように感じた。
そのように戦い続けなくていい世界を目指し、現世のくびきから勢いよく逃れ去るみりシシィの「愛のテーマ」。彼女はその身を焼き尽くしてきた自らの命の炎を、最後にもう一度眩しく煌めかせる。自らの意志でトートに口づけて本当の自由を手に入れた彼女は、ひとつの悔いもなく晴れやかにこの世を飛び立っていくのだ。鳥のように解き放たれて。

ルイジ・ルキーニ / 黒羽麻璃央くん

過去に解像度を上げきってから迎えたわりに観劇回数が少ない今シーズン、東京では私がオーブ3階と喧嘩しすぎてうまく受け取れず撃沈。ルキーニは基本的に帽子を被っているので、3階からだと顔が、よく見えないんですねぇ。。でも博多座でようやく理解を深められて安堵。

まりルキが舞台上にいても普通は注目されないタイミング、主にハプスブルク家の面々を無言で見つめているときのお芝居が本当~~~に好きで。
彼の顔の上を、様々な表情が巡っていく。憤り、嘲り、諦観、時折なにもない虚無も通過する。

しかし今季そうして彼の表情をつぶさに見ていると、こちらが不意に「可哀想」という感情を抱いてしまう瞬間があり、そのことにとても混乱した。
なぜなら過去に照らすと予想し得ないものだったので。
その色合いは2022-23には絶対になかったもので、彼の中でルキーニ像に対しての変化があったのだろうなと思う。
明確に被害者ぶっているのとも違うのだ。なんだろうな……彼こそがエリザベート皇后を殺した張本人に違いないのだが、彼女に突き立てたヤスリのその背景には、彼だけに責めを負わせられない何かがずっしりと乗っているように思えて。
劇中、何度も自分の首をさわったり縄で首を括る動作を繰り返す様子にも、見ていてとてもヒヤリとしたものを感じた。
その繰り返しこそが「何度も同じ質問ばかり100年間も」あの死後の世界で裁判に囚われ続けている、彼の魂の行き場のなさを表しているようで。


前回のまりルキは、ウングランデアモーレのせい、と言いたくなるような存在で、彼が本当に「死の偉大なる愛」を信じておりそれに導かれるようにシシィに死を与えたように感じられていた。
今回のまりルキは、暗殺者としての存在感や奥行きが確かに増している。
でも今年は同じようにその暗殺という行為の背景に何某かの力を見出すとしても、それは明らかにトートのものではないように思うのだ。
言ってしまえばそれは、変化を求め蠢いていく時代の力そのものなのかもしれない。*1
ハプスブルクの落日。決して終わることなどないと思われた強大な帝国は急速に翳りをみせ、その終末を迎えていく。ルキーニが手に握りしめたヤスリはかつての美貌の皇后の死を以て、その絶対的な権力構造に引導を渡す。
一介の一市民が皇族を手にかけて死に追いやることが出来る、その事実こそが「帝国の滅亡」を表しているとも言えるだろう。


自分の観劇の解釈になにか明確な答えが出てしまうのが怖くて、kotobaでのルキーニキャスト2名×ルイジ・ルキーニ回顧録翻訳家の鼎談は買うだけ買って実は未だに読んでいないのだけど、今シーズンの演技プランの変化はまりおくんがルイジ・ルキーニ回顧録を読んだことがやはり影響しているのだろうなと感じる。

11月2日に観た時は「偉そうな奴なら誰でも良かったんだ!」を吠え立てるように怒鳴っていたのが、東京楽ではボソリと静かにこぼすように言うに留めていて、絶対にそのお芝居のほうが好きッ!!と配信を観て大興奮していたのだけど、
博多座で観た2回ともそれと同じアプローチで演じていて、今回はこれで定まったのだなと思った。すごく良い。だって「誰でも良かった」のだから。
ルキーニが殺したシシィは、彼とは全く交わらない世界の、おそらくは現実に生きていることすら実感できないような雲の上の存在。
その彼女が本来はどんな”人間”であるかなんて、きっとルキーニにとってはどうでもいいことだ。
博多座で聞いた、少し下卑たような「偉そうな奴なら誰でも良かったんだ」その笑い混じりの一言には、行き場を失った理不尽で凶暴な怒りと恐らくは無自覚な哀しみが、同居して滲み出ていた。

ルキーニを見ているこちらが不意に「可哀想」と差し込まれるように感じてしまうその繊細な芝居の奥底には、シシィをその凶刃で手に掛けるに至った彼の生い立ち、ルキーニもまた確かに生きていた一人の人間であるという事実が重たく横たわっている。
フィクションにおける狂言回しとしてだけではない、その役割を超えた先にある見えない真実を見透そうとしたアプローチ、それが今年のまりおルキーニの持ち味だったのかなと思う。


歌声はさらにのびやかに磨きがかかって抜群の安定感、芝居は時折うるさいほどに賑やかで細かくて(「計画通り」の視覚的なやかましさがレベルアップしていて笑った)、ストーリーテラーとして観客をぐいぐいと力強く引っ張り続ける耳目をひく華やかさと、その根底にある確かな”ひとりの人間”としての実在感を打ち出す、複雑な芝居心。
そのすべてをもって「申し分ない」と観客が心から満足できる素晴らしいルキーニを演じられるのって、本当にすごいこと。
どうか次回もルキーニを演ってくれ!と願わずにはおれない。まりおくんのルキーニは天下一品。まだしばらくどの後輩にも譲らないでいてくださいね!!!



なんか取り組んだら急に書けてしまった。観劇回数、前回が14回に対して今回はたった4回という情報差分がデカすぎたし、オーブの1階に座れなかった凹みで「もうオワリ!エリザ引退!」と思って拗ねてたんだけど(拗ねんなや)、やはりどうしたって大好きな演目なのだなと思った。
自分の文責でしっかり書けると思ったのがこの5名のみのため中途半端ですみません!

*1:こうは書いたけど、トートの存在を王や皇帝が君臨する時代の終わりのメタファーとして捉えるならば、やっぱり背後にある力は「トートのもの」でも良いことになりますね。