こたえなんていらないさ

舞台オタクの観劇感想その他もろもろブログです。

ミュージカル「ロミオ&ジュリエット」ロミジュリ2019 全体の感想その3(マーキューシオについて他)

いつまでヴェローナにおるんじゃ!でしたが、ロミジュリ記事もこれでラストです。

最後なのでまりおくんが演じたマーキューシオについて好きなだけ書きます!
そうなの、マキュといいつつ、ダブルキャストに応援している人がいた場合の宿命で、一人の話しかできません…ごめんなさい…!
とはいえ、おおよそ言いたいことは初日に言い切っている気もしており。いやーちゃんと書いておいた過去のわたしえらい。今の私が褒めてつかわす。
anagmaram.hatenablog.com
この初日後のエントリー同様、”冷静さのかけらもない”スタイルで、ひたすら言いたいことを言います!ひらきなおる!
なのでめちゃくちゃ頭のわるい文章になるしすげえ長いし、構成とかまともに整えずに叫び倒します。ゆるして。ごく真面目な感想については「ロミジュリ」カテゴリですでに数件書いてあるので、よろしければそちらの方をお読みくださいね!(という長い言い訳を置いて走り去る)



まりおくんのマーキューシオ………世界一かっこよかったです!!!
わたしが言いたいことはそれだ!!!
(アッこの記事、ほんとそういうやつなんで!ずっとこうですよ!という予防線)

いや~なんだろう。なんだろうねあのかっこよさ。いやそりゃ、いつもかっこいんだけども…表現のすべてが、とにかく好きすぎました。。なんかもはやどうしたらいいかわからなくって、見に行く度に「世界一かっこよかった!!!」ってツイッターで叫んでいましたね。

▼その様子(ごく一部です)

  • 2月24日(Wキャスト初日)

  • 3月2日(東京公演中盤)

  • 3月10日(東京千秋楽)

  • 4月13日(大阪前楽)


…いや、いくらなんでも言いすぎじゃない?笑
ツイッター検索したら本当に毎回言ってて、自分のブレなさに笑ってしまった。

見たことのないジャンルの推しを見られることの喜びであったり、立っている場の大きさへの感動であったり、いろんなことが幸せすぎて、観劇している期間しにそうになっていました。多幸死。そんな日本語はねえ!
以下、曲/場ごとに区切って好きなだけしゃべります。

◆一幕第1場「ヴェローナ

この冒頭のヴェローナの表情だけでもう!心臓をわしづかみにされるような思いがしてました。初日のあの高揚感を思い出すと今でも動悸がしてきそう!(おちついて)

冒頭にいきなりたくさん出てくると思ってなかったので、本当にびっくりしたんですよね…。このくだりもすでに初日後に書いたね。うん、でもほんと、心の準備できてねえ!ってなった。
身にまとう空気が鋭く尖っていて、何かあったら爆発してしまいそうな危うさがあって。ギラついた目つきと、口元に湛えられた不敵な笑み。
なんだけれど、決して悪くはなりきれないというか、本質的な「悪」の気配はやはり持ち合わせていなくて、心根が優しくていいヤツなことが、透けて見えてしまうといいますか!!!ハー!!!好きすぎてどこかへ走り出してしまう!!!

ベンヴォーリオと二人での「たとえ軍隊が止めに入ったとしても」のところ、体のキレが大好きで~!腕を曲げてガッ!肩のあたりに構えて、足をダンッと勢いよく踏みしめる一連の動きが!ア~がっごいい~!涙
下手端で歌う「傷つけ血を流し 時に命を落とす」は、手のひらを自分の手に握ったナイフで切り裂くんだけど、そこからぼたぼたと流れ落ちる血をただ見つめているだけの時と、それを舐め取っている時とがありまして…どっちも好きだったな…

ヴェローナでのマキュは基本的にずっとティボルトと対峙してるので、その二人のやり取りも見どころのひとつでした!
舞台中央の後方から、両家の若者の間を縫って飛び出してくる二人、低い体勢で蹴りを入れるティボルトを、マーキューシオが挑発的な仕草で跳んでかわしたり。今回ティボルトのお二人どちらも背が高くてガタイがいいので、マキュ(というかまりおくん)の線の細さが際立ったりもしてア~!でした。
あとはなんといっても、上手側での二人のアクロバットですよね!あそこ、ふたりとも体にかなりな負担がかかりそうでドキドキしたりもしたんですが、なんかすごいことやってるよね…?
マーキューシオは倒立の状態から足首を掴まれて、ナイフを振りかざしながら反対側に起き上がる…的な。支える側のティボルトは腰を反らせるから、どっちかっていうとティボルトの方が大変なのかな!?縦に体が反転するので本当にびっくりしたし迫力がすごい。初日は驚いて本気で息を呑んでしまったほどでした。


この「ヴェローナ」は、公演が進むにつれて、表情が変わっていったな、と大きく感じた場面のひとつでした。
東京公演の後半は、すごく怒りの感情が強くって。口元からも笑みが消えて、ずっとイライラしてるというか、身のうちに燃えたぎるものをむりやり抑え込んでるような印象だったんですよね。例えるならば青白い炎みたいな感じ。
なんだけど、梅芸で私が観た最後の2公演(4月12日マチネと4月13日ソワレ、大坂前楽*1)は、東京公演の序盤で見た形に近いというか、不敵そうな「笑み」を常に浮かべてるマーキューシオに戻ってました。

これは超~~~!勝手な私の持論なんですけど、公演の最終盤に、まりおくんの本質が色濃く出てくるように感じることがある、ような気がする。ほんとにごく個人的な感覚ですけどね!
演じてきた役の集大成がラスト数公演にぎゅっと集約されるのは、ごく当たり前のことだとは思うのですけど。まりおくんの場合は、そこに本人が持っている性質が投影されるような気がして。いやこれ、言われて嬉しいことかわからないけど。
なんていうか、彼が持っている本質的な「人のよさ」が、最終的に表出されてくるように思えるんですよね。全く同じ感覚をつはもので抱いていたのを思い出しまして。
4月12日と13日に梅芸で見てて、あぁ、これがまりおくんが最終的にマーキューシオとしてたどり着いた答えなんだなと思ってみてると、なんともいえず感慨深いものがありました。
だって、マーキューシオ、やっぱりすごく、いいヤツだったもの…!(という話は一番最後にまたします)

◆一幕第2場「憎しみ」

この曲がそもそも好き!大好き~!夫人ふたりの歌声が素晴らしい~!
キャピュレット夫人とモンタギュー夫人と死の3人で腕の動きが揃う振り付けも大好き!
…と言いつつ、どうしても下手側の3人ばかりを見てしまった私だったのですが…ナイフで遊ぶマーキューシオ、けっこう回によって表情が違ってたりもして、目が離せなかったんです。
モンタギュー夫人に咎めるような眼差しをされて、ベンヴォーリオと顔を見合わせて慇懃に礼をする仕草とか、でもその直後に手に隠し持っていたナイフをぶらんと顔の前にぶら下げて、全く悪びれてない様子だとか…とにかくその全てを見ていたかったので見ました(報告)
ベンヴォーリオに「お前もうやめとけよ」って感じでたしなめられて首をすくめ、持っていたナイフを渡す…と見せかけてポケットからまだ次々にナイフを取り出す、その悪ーい悪戯っぽさに満ちた表情とか。とにかくつぶさに見てました。
なんであんなに、一挙手一投足を、見ていたくなってしまうんだろうな…(という答えのでない自問自答をしてしまった)

◆一幕第6場 ヴェローナ市街「世界の王」

…ここはもうさんざん書き倒したので!世界の王については自分の過去エントリーに譲る!笑
といいつつ、振り付けの話があんまりできてなかったな。
えっとねぇ、「朝から夜まで」の時計の針→両手を重ねて顔の横に添える”おやすみ”ポーズの、一連の動きが大好き!
「生きてる今感じ愛し合いたい」で肩を抱いて左右に一歩ずつステップを踏むところも好き!
っていうかそもそもここ、マーキューシオがセンターですもんね~!!!(大興奮)
あと「Hoo!」って脚を蹴り上げるときの、あの高さが大好き~!…もう、こんなん言ってたら全部じゃん!ってなりますね。全部好きです。

世界の王は、とにかく歌って踊っているまりおくん自身が本当に心底楽しそうで、マーキューシオとして体中に弾けんばかりの充実感をたたえていたので、見ていて客席での幸福度がMAXになってました。
だって、ロミジュリに出ると知って一番最初に思い浮かんだのが「世界の王を歌っている姿が見られる!?」だったから。…うん、この話ももう何回した?って感じなので以降割愛します。見届けられて悔いはないぜ!

◆一幕第6場 ヴェローナ市街「マブの女王」

ソ、ソロがあった~!って初日に泡を吹いたポイントでした。ソロがあったよ~!涙
しかもなんだその難しそうな旋律は!??音取るの大変すぎない!?ってなって二度びっくり、でもそんな複雑な音程にもかかわらず一切の不安がなく聞けて何よりそこに大感動で三度びっくりしました!ウウ~!
お正月にミニピアノを買って練習したと言っていたので…その甲斐がありまくったね…ってなりました。
本人曰く「音を取るのは得意な方みたいなんだけど、その分なんとなくで歌っちゃうことがあってよくないなと思い、楽譜どおりにちゃんと音をとろう」と意識したそうで。
そのためにミニピアノを買ったんだけど、ピアノの経験がないから鍵盤のドの位置がわからず、「どこがドですか?」と分かる人に教わって鍵盤に「ド」って書いて練習した…というエピソードが大好きなので、ここにも書きました*2
どこがドですか?が、あまりにも好きでしてね…そうやって自分ができる努力を愚直に重ねていくからこそ、その素直さがあるからこそ、成長していけるんだよね!涙
…話がそれましたね。

「マスクつければわからないさ」の高音の張り上げ方には、感動のあまりなんかもう「うわぁ~!!!涙」ってなりました。
聞かせどころと言わんばかりにぐわっと一気に声量を上げてみせるのが、めちゃくちゃにかっこよくて~!まりおくんの声、ハリとなんともいえない透明感があって、好き…。

歌、またうまくなっていたね。。進化が止まらないね。。ミュージカル歌唱という観点からどう評価されるものなのかは私には判断できないんだけれど、にしたって確実にまたレベルアップしていたし、なにより声量もちゃんとあったと思うし!
今後の伸びしろも感じられたのが、すごく嬉しいところだったな…。

◆一幕第7場 舞踏会

仮面舞踏会!!!好きすぎる!!!ここ、衣装もかっこいいんですよね~!キャピュレット家側に潜入しているのでモンタギューの3人も唯一赤を基調とした衣装で!
なんというか…マーキューシオのヤカラ感が全面に出ていて本当にさいこうだった。

このシーンはベンヴォーリオがりょんくんかたつなりくんかで、けっこう印象が変わるポイントでもありました。
特に、たつなりくんの時に溢れ出るふたりの「悪友」感ね。笑 もうね、過去になんていうか身体感覚を共にしたことのある人たち同士*3だから、そうなるのも当然だと思うの…全てにおいて阿吽の呼吸なんですよね…
ティボルトにお辞儀をした後に、バレずに済んで二人で「セーーフ!」って手の動きやったりしてる回もありましたよね。とにかく、やんちゃなんだよ…揃うと悪ガキなんだよぉ!


そして仮面舞踏会はなんといっても、ダンスをしながらキャピュレットの女の子を口説いて捨てる仕草、その一部始終がさいっこうでしたね!
不意に顔に手を添える仕草がイケメンの仕業だった。残酷なまでにその気にさせて、本当に捨てていた!
目の前の女の子を陥落させたと見るや、マキュはケロっとして意気揚々とすぐに舞台セット上部に上がっていっちゃうんだけど(そして下手にいるベンヴォーリオと「そっちはどうだ?」「首尾は上々だぜ!」みたいなジェスチャーをし合っている)、捨てられた側の女の子は「待って!」って切なく手を差し伸べてて。でも気づいてもらえず「何なのよ…!」って感じでさみしげに膨れてるんですよね!それがすごく可愛くて!でもマーキューシオ、それを1ミリも見てない!笑
「最後は…捨てる」っていうマブの女王の歌詞どおりで最高だった。好きすぎて、もっとやって!ってなってた。(どんなアンコールだよ)

舞踏会のシーンは、会場を行き交う人波の中でかなりいろんな出来事が起きてるんですが、正直マーキューシオがどこにいるか見失わないように必死でした。
そのため公演序盤はどこでなにが起きてるか全然わからなくて…いつの間にかロミオとジュリエットが出会っていてびっくりしていた。いやお前、そこが主題だから!
パリス伯爵から逃げ惑うジュリエットがロミオを盾にして隠れようとしていたり、ティボルトに折に触れて手を差し伸べるのにことごとく袖にされるキャピュレット夫人がいたりするんですよね。注目する場所によって全然異なるものが見られるので、舞台を見る醍醐味を感じるシーンでもありました!

◆一幕第10場「綺麗は汚い」

まずは出だしですよね。これもまた、たつなりベンヴォーリオとの組み合わせでの日替わりに笑ってたな…。語弊がありますが、あのふたり、まるで男子小学生のような瞬間がある。好き。笑
せっかくだから覚えてて特に笑ったやつ書いておこ!

  • 3月10日 東京千秋楽

ベ「おい、アーケードにUFO出現だってよ!?」
マ「あぁ?何いってんだ、バカだなお前そんなことあるわけないだろ」
ベ「はぁー!?…バカって言ったヤツがバカなんだし!?」
マ「…デュクシ!(って言いながらベンヴォーリオに手をぶっ刺す)」

…いや、デュクシって!笑 バカっていったヤツがバカ!って理論…やっぱり男子小学生だよ~!!!笑

刈谷公演のたつなりベンヴォーリオの「バーリアー!からの、かーりやー!」も不意打ちすぎて笑ってしまった。ここの日替わりを考えていたのはたつなりくんだったみたいです。ていうか日替わりにしなくていいところを自主的に日替わりにしてたっぽいです。笑
刈谷トークショーで「始まる前、受けるかなぁ大丈夫かなって心配そうにしてたので、今日のお客さんが笑ってくださってよかったなと思いました」ってまりおくんにバラされてたもんね。可愛いかよ~!

「綺麗は汚い」は、振り付けがめちゃくちゃ可愛いんですよね!でも惜しいことにマーキューシオだけは、それを踊らないんだよなぁ~!
個人的にこの曲で特筆すべきはりょんくんのベンヴォーリオでしたね!「どんな綺麗な女の子でも♪」で、両ほほを指差して首をかしげる振り付けがとくにキュートなんですが、ここを踊ってるとき、もはや愛くるしいって感じでやばかった。だって満面の笑みなんだよ!
あんなんやられたらファンだったら卒倒してしまう!ってなる可愛さだった。マーキューシオでも見てみたかったな~!

◆第二幕1場「街に噂が」

一幕から、ガラリを印象を変えて始まる二幕…。
このときのマーキューシオは、まだ怒りよりも動揺が強いように見えていました。二人の結婚を噂で知っただけの段階だから、ロミオ自身の口から真相を聞かないことには、まだ本当のことはわからない、と思っていたように見える。
なんだけれど、実際に向き合って問い詰めたロミオから返ってくる答えは、きっとマーキューシオが思っていたものとは違っていて。
信じていた親友が、突然すぎる心変わりをした事実を突きつけられてしまうことになる。
「本当ならば もう友達じゃない」って言い切る時の表情は「なんでなんだよ」って、怒りと悲しみがないまぜになった表情で。
その後ロミオに詰め寄る時の「じゃあ自分の喉を刺すんだ」の高音に詰まっている苦しさ。

マーキューシオは、悲しかったし、裏切られた気持ちになったんだろうな…と思う。なんの前触れもなく、敵でしかないキャピュレットの一人娘と結婚するなんて、せめて一言なにか事前に知らせてくれても良かったよな?って絶対に思うよね。
ジュリエットに出会う前のロミオにとっては、一番失いたくないものが「友」であったことが「僕は怖い」の歌詞からわかるなと思っているんですが、それはそのままマーキューシオにも当てはまることだったと思うんですよね。
「もう終わりだ!」って叫んで駆け去っていくマーキューシオ。いきなり突きつけられた理解を超えた現実に、どう折り合いをつけていいのか、わからなくなってしまったんだろうなって思う。
そして、動揺していた彼の内面はそのまま怒りへと収束していく。

◆二幕第3場「決闘」

上手側の舞台セット上部にいるマーキューシオ。なんというか…ものすごいお顔をしていましたね…
ここ、ティボルトに対して「うるせえ!」って怒鳴っていた演技が「しぃー…」って人差し指を立てる演技に途中から変わりましたよね。断然後者のほうが好きでした!
「実のおばとあやしいとかァー!?」って言われたティボルトが同じように「うるせえ!」って怒鳴るので、そことの対比で変更になったのかな?と思ってみてました。

からの、「そんなことより、自分の心配したほうがいいぜ」の顔よ…。あれ、ご覧になりました…?殺気が宿ってるものすごい目つき。あんなお顔今まで見たことなかったよね。。
そのすぐ直後に、勢いよくセット上から飛び降りるんですけど、あれざっくりバスケットゴールくらいの高さだったよね…?3メートル近い高さからジャンプするため、ひえ~足首気をつけて~!ってちょっとドキドキしてた。22回飛び降りたはずなのですが怪我がなくて本当によかった!


そこからの、自分を制御できなくなってしまっているマーキューシオは、見ていてとにかく心がひりひりしました。
もう舞台上で死んでやる!って思って演じてただろうなって思う。あれだけ感情を爆発させる役も珍しいので、一秒たりとも視線が外せませんでした。
ヴェローナ」と同じなんですけど、ロミオへの怒りが、東京千秋楽と大阪前楽で表現がやや変わったりもしてて。東京楽のあたりはやはり怒りの度合いが強くって、ロミオが止めに入ると「なんでお前が止めるんだよ」って顔をするの。あぁ?って噛み付くように食ってかかって、頭狂っちまったんだろ?って感じに、自分の頭を指さして手を広げて見せてる。
でも大阪前楽は、同じような動きをしていても、さらにその奥にある、彼の悲しさとか寂しさみたいなものが透けて見えた気がしました。そう思わせる繊細な表情の移り変わりも、間違いなくまりおくんの持ち味だと思います!


あとはやっぱり「臆病なのはお前だろ!」ってティボルトに言われた瞬間の顔ですよね…忘れられないよ…
露悪的なふるまいで隠していた繊細な内面が、一気に表に出てしまう瞬間っていうか。覆い隠していたものが剥がれ落ちて、むき出しになった心が鋭く悲鳴をあげているようだった。
あの一言が、マーキューシオを「死」の待つほうへ向かってぐっと押し出したというか…。あれがなければ、マキュは死ななかったんじゃないかな?って気がしたりもする。
あそこで度を失ったからこそ、真っ直ぐにナイフの切っ先が待ち受ける結末に向かって飛び込んでいっちゃったのかな…みたいな。
「ティボルト!…ぶち殺してやるよッ!」っていう叫び声も、説明できないほど好きです。。

◆二幕第3場「マーキューシオの死」

「マーキューシオの死」は特に公演後半になるにつれて、どんどん良くなっていったポイントだったと思いました。
「傷は泉ほど深くはないし、教会の門ほど広くもない」っていうセリフが好きすぎて息切れする…なんてシェイクスピア!!!(説明放棄すな)

なんかもう、ここは全編に渡ってまりおくんの面目躍如だと思うのですよ。

「謝るな、謝るのはガキだけだぜ」
「いいかロミオ。…ジュリエットを愛しぬけ」

このふたつのセリフに込められた、途方もない優しさと愛よ…!!!今書きながら思い出したらガチで涙が出ましたね!なんて慈愛に満ちた笑顔をするんだろうか。
うわーん、言語化できない。好きすぎる。もうDVD見てください…(あきらめんな)


ここ、マーキューシオが急に善人ぽくなって死んでいくことに、違和感を持たれてしまう可能性もあるシーンだと思うんですよ。なんだけど、それがまっじで一切ない!あの死に方に、必然性しかない!その事実があまりにも素晴らしい!涙
あんなふうにマーキューシオの今際の際を表現できるのはきっとまりおくんだけだよ~!良さとか魅力が詰まって炸裂してたシーンだったよ~!ってなって転がり苦しみました。
ほんと、いい表現をなさいますでしょ…?ってなってしまい…。ファンからすると「わかる、これは、あまりにもわかる」ってなる場面だったんですが、まりおくんを初めて見た人がどういうふうに感じたのか、感想がとても聞きたくなるシーンでした…。
あんな表現を見せてもらえるなんて、これがファン冥利に尽きるというやつか?となった。

パンフレットのまりおくんのページのリード文は「寂しさを漂わせて」なんです。マーキューシオという役を演じるにあたって導き出すキーワードが「寂しさ」な時点で、あまりにもまりおくんらしいなと思う。
そして今回の彼のアプローチは、稽古場で小池先生にも意外なくらいはまったそうで、「歌とかは勿論難しくでできないこともたくさんあったけど、演技に関しては自分が用意していったものがある程度そのまま通用したことが自信になったし嬉しかった」と後日言っていたのもめちゃくちゃに胸熱案件でした。*4
当たり前なんだけど、俳優って自分が持っているもの全てを武器にして、身一つで向かっていくお仕事なんだよなって。その上でまりおくんがマーキューシオという役を通じて見せてくれた表現は、やっぱり彼にしかできないものだったなぁとファンからは思いますし…感無量ってこういうときに使うべき言葉ですね。



振り返れば振り返るほど、まりおくんが今回ロミジュリに出てくれて本当によかったなぁと感じます。あ~2019上半期の本気ここだわ、と思ってアクセル全開にしたんですけど、その判断間違ってなかったです。
だってさ~カーテンコールであんな後半に出てくるだけでも胸がいっぱいになったよ。「えっまだ出てこない!?」って初日動揺したよ。それだけで泣いたわ。


大阪前楽のカテコで、「純粋にもっと上手くなりたいと思いました」って笑顔で挨拶をしているまりおくんを見て、言葉にならん感慨が溢れました。
新しい世界に打って出て、そこで今の自分ができる精一杯を魅せて。でもそれで終わらないで、上を目指したいと思ったことを、真っ直ぐに言葉にして表明してくれる。
そこで選ぶ言葉が「もっと上手くなりたい」っていう、ごく素直な内容であることも、なんかも~らしすぎて、あまりにも好き。
いや~~~、応援しがいありすぎませんか?ほんと泣ける。ありがとうしかねえ!!!

今回は2011年からトータルで200回を数えた記念の特別公演やカーテンコールがあったりもして、このタイミングでロミジュリを堪能できてすごく幸せでした!
そして公演のDVDですが、ネット予約もちろん可能ですのでご興味ある方はぜひ。12,000円とちょっとお値段はりますけれども!まりおくんはWhiteバージョンで見られるよ!わたしはロミジュリ好きすぎてどっちも買いました!
200回記念のキャスト総出演のスペシャルカーテンコールも、しっかりと収録予定だそうです。
romeo-juliette.com


久しぶりに1万字エントリーを書いてしまった。もはや今はくろステ上演期間なのに脳内でヴェローナに入り浸ってしまいましたが、書いてて楽しかったです!
グランドミュージカルの世界にいるまりおくんを、近い将来絶対に見たいなと願ってますし、次回ロミジュリが再演される時に、まりおくんのお名前がそこにあったら、本当に嬉しいです!

またいつか、ヴェローナに行けることを願って。

*1:Wキャストのためまりおくんにとっての楽はこの大阪前楽です

*2:ニコ生のまりおくんの番組「黒羽麻璃央の僕ん家おいでよ」の2019年2月回で出ていた話だったはず。

*3:ミュージカル「テニスの王子様」2ndシーズン 青学7代目でチームメイトだった同い年のふたりです!涙

*4:ニコ生「黒羽麻璃央の僕ん家おいでよ」2019年4月回

ミュージカル「ロミオ&ジュリエット」ロミジュリ2019 全体の感想その2

ロミジュリの感想記事としては3つ目なんですが、今回は本当に「全体を俯瞰しての感想」を書きました!
書きたいことがありすぎて困ってます!感想を言語化していくこの作業に終わりが見えん!笑

◆ベテランと若手。絶妙なバランスで織りなされる世界

ベテラン中のベテランと、若手の中で着実に経験を積んできたエースと、これから本格ミュージカルに打って出る新人と。ロミジュリ2019のキャストは、三者それぞれの存在感と輝きが、とてもよいバランスで組み合わさって、作品を成熟させていたように思います。(と、グランドミュージカル慣れしていない身ですが勝手にそう思います!)

大野くんがカーテンコールの挨拶で「大人の皆さんがしっかりと作品を支えてくださるからこそ、僕たち若手が自由にのびのびとやらせてもらえて…」といった意味のことを何度か言っていたんですが、本当にそのとおりだな、と見ていて感じました。
石井さん、岸さん、春野さん、シルビアさん他、カンパニーの中でも”大人の皆さん”と呼ばれていたベテラン組のキャストの方々は、舞台上に本当にどっしりとした土台と、なによりも「奥行き」を作ってらっしゃいました。
歌にせよ演技にせよ、経験に裏打ちされたその重厚感のある表現が、ちょっとやそっとのことでは揺らがない、その世界観の中における説得力みたいなものを生んでいたと思う。
そもそも、ロミジュリの物語には「古くからの家同士の因縁に囚われた大人たちと、それを破って新しい世界へ進もうとする若者たち」という対比もあります。そのために、ベテラン組の方々が圧倒的な実力を持って重々しく存在してくださること自体が、ロミオたちの葛藤を裏付けるものとして作用する点も、とても大きかったなと感じます。


そしてその土台の上で、のびのびと表現の翼をひろげていた若手キャストの中にも、すでに多数のグランドミュージカルの舞台を踏んで明確な地位を築いた、もしくは築きつつある人から、今回のロミジュリがグランドミュージカルのデビューである人までの経験のグラデーションがあったことが、また特徴的でした。
そうして経験値には濃淡が存在しつつも、歳や俳優としてのキャリアにはきっと近い部分もあって。今回共演する中で、若手同士としてもお互いに刺激を受けあう面が、とても大きかったのではないかな、と思います。
そもそも、これだけの規模のミュージカルで、若手キャストにここまであらゆる面で比重が寄る演目も、そうそう多くないと思うんです。ダブル・トリプルで組むキャストにはみなソロがあり、明確な見せ場を多数担っている。だからこそ、小池先生がパンフレットで言うように、ここ数年はロミジュリが本格ミュージカルにおける「若手の登竜門」と呼ばれたりもするのかなと思うんですが、この作品への出演は、実際にとても大きな意味を持つだろうということが、見ていてひしひしと伝わってきました。

だって本当に、そこには全てがある。歌もダンスも物語も、ミュージカルという世界の中で表現されなければならない要素が満遍なく揃っている中に、目標となるような偉大な先輩と、ライバルになる同世代とがいて。そして演出面で作品を導くのは小池先生。…こんなに恵まれた環境って、きっとなかなかないのでは?という気がしました。
今回、そんな理想的といえるような形で、応援してるまりおくんがグランドミュージカルデビューをしてくれたことが、私は本当に言葉に尽くしがたいくらいに、嬉しかったんです…。初日見たあとに散々書いたけど!心底嬉しかった!まだおめでとうって言いたい。


そして、総勢24名もいらっしゃるR&Jダンサーの皆さん!彼らが驚異的な身体能力によって繰り出す美しい動きの数々によって、舞台上には常に見応えと迫力とが生みだされていました。
冒頭の一幕第1場「ヴェローナ」なんかは、センターブロックの前方席で見ていると、ステージ奥からこちらに向かってくるダンサーさんが発する圧に、飲み込まれてしまいそうな感覚がしました。あの動きを言語化できないんだけど、低い体勢で体を横に回転させながらにじり寄る感じで前進してくる男性ダンサーさんたちが、本当にかっこよすぎた!
どの舞台を見ていても思うことだけど、アンサンブルと呼ばれるダンサーの皆さんの能力の高さには、毎度驚嘆させられます。踊るだけじゃなくて、アクロバットであったり、そもそも歌もしっかりと担当しなければいけなくて、ものすごくハードなことは見て取れるのに、そんなそぶりは全く見せない皆さん。舞台上のどこを見ても楽しめてしまう豪華さがあったのは、ダンサーさんの表現力があってこそだなぁと感じました。
群舞の中でも好きなところがたくさんあるんだけど、選ぶならやっぱり「ヴェローナ」と「今日こそその日」かなぁ。特に「今日こそその日」は、ペアになった男女のダンサーさんがそれぞれ全然違う動きをしてるんだけど、不思議なくらいひとつの世界感にまとまっていて。そうして周囲を取り巻かれることにより、その中でひとり憎しみに満ちた決意をするティボルトの悲しさが際立っていたのが、とても印象に残っています。

◆(言うまでもないけれど)楽曲が素晴らしい

とにかく名曲揃いですよね…。ロミジュリの曲の魅力、あらゆる人によりさんざん言われている自明すぎることだと思うので、何を今さら?っていう感じなんですが、もう本当に曲が素晴らしい。こんなの全部好きに決まってる…!ってなります。
今回はDVDが出るので逆にCDは出ないことが残念に思えたりもしちゃうんですが(贅沢ですね)、好きすぎて毎日聞きたくなってしまう。過去の上演時のCDを探して買ってしまいそう。


その中でも、どれが一番好き?と聞かれると「え、選べない…」ってなるんですが、そうはいってもやっぱりぶっちぎりで思い入れてしまうのは「世界の王」なんですよねぇ。
あの曲はずるいよ~、かっこよすぎるよ。…ずるい!笑
「この地上のヒーローは ここにいる俺たちだ!」が好きすぎる。。あの時、ロミオもベンヴォーリオもマーキューシオも、全員が心から楽しそうな笑顔なんですよね。周りの仲間たちと肩を並べて、「何者にも負けやしない、自分たちの人生、世界を統べるのは他の誰でもなく、自分たち自身なんだ」ってことを、胸をはって高らかに宣言している。
そこには、たぶん若さゆえの無謀さや傲慢さもあって。だからこそ、その感覚に永続性がないことも、見ている側からは逆説的にはわかってしまうというか。この瞬間の強烈な生の輝きがあるからこそ、急転直下の二幕の悲劇性が際立つんだろうなぁとも…。
だけどその瞬間の充実こそは誰にも奪えないんだよなぁ。そんなことを考えながら見ていると、どうしたって胸がぎゅっと締め付けられるようで、その景色の眩しさに泣きたくなるような気持ちで聞いていた曲でした。
フォーラムCで2月24日に見た光景も、梅芸メインホールで4月13日にみた光景も、ぜったいずっと忘れません。この曲を歌うまりおくんが見られて、本当に心の底から幸せでした!


ロミオとジュリエット二人の恋に関してだと、「バルコニー」も「エメ」も、どちらも甲乙つけがたく好きでした!
「バルコニー」は、二人がお互いの思いを初めて正面から認め合う、恋愛の成就の瞬間の歌ですよね。自分が好きになった人が、自分のことを好きになってくれた!っていう、信じられないような幸せの中に身を浸している、喜びの爆発に泣かされてしまう。
「エメ」は恋が愛へとひとつ成長を遂げていく段階の曲だなと思っていました。困難に立ち向かう覚悟を胸に、共に歩むことを決意した二人が、しっかりと正面からお互いを見つめ合い、君だけを/あなただけを愛している、とはっきりと歌う。
その背景に重なる、神父と乳母のコーラスがまた素晴らしくて。。序盤で乳母が涙をぬぐう仕草をするのにつられて泣いてたな…。シルビアさんも実際に泣いてらしたし。
この宇宙が終わろうと、二人の魂だけは引き裂けない。…本当にそのとおりの結末を迎えることになってしまうとはまだ露程も知らない二人が、無垢なままに手を取り合う。でもその背後にふと落ちる影にはっとなって見上げると、そこには”死”が現れていて、二人に向かって手を伸ばしている…というあの演出!初めて気づいた時「うわーーっ」って鳥肌が立ちました。
セットの上部から、実際に物理的な「影」を落とす死の存在により、二人にとっての幸せの象徴である結婚こそが、この先の悲劇の幕開けになってしまう事実が、とても端的に表されていて。好きだなぁ…。

◆圧倒的な「死」の存在感

そうなんです、ロミジュリを語るにおいて「死」に触れないわけにはいかない!ここまで全然「死のダンサー」について書けてなかったことに今更ながら気づき!
宮尾さんが大阪公演だけのご出演だったので、わたしは限られた回数しか見られませんでしたが、大貫さんも宮尾さんも、本当に本当に素晴らしかったです。身体能力が、すごすぎる…。
作品の本当に一番の冒頭、ヴェローナが始まる前の「序曲」で、死が体を回転させ、腕を大きく動かして舞うことによって、それにつられるようにモンタギューとキャピュレット双方の若者たちが立ち上がっていく演出、めっちゃくちゃ好きでした!死の影がぴったりと彼らに寄り添っている世界なことが、それだけで明確に打ち出されますよね。

あと死のダンサー、基本的に、客席に見える形では全然、まばたきしないですよね…!?最初私の気のせい?とも思ったんですけど、いや気のせいじゃないよね!?
公演序盤、死が醸し出す、この言葉にし難い独特の不気味さはなんだろう…って考えながら見ていて、「あっ、まばたきしないからだ」って気づいて。気づいた瞬間、これにも鳥肌が立った。
この世ならざるものであることが、この違和感によって強く裏打ちされているなぁって思いました。だって、見ていてじわじわと怖かったもの…!

他にも、死による対象の見つめ方がすごく好きで!
死が組んで踊るのはロミオだけなので、視線の行き先という意味では対ロミオがわかりやすいので例に出すんですが、死はロミオの背後や隣からひたひたと視線を注ぎ続けるんだけれど、二人の視線が合わさることはないんですよね。なぜなら、ロミオと死はまだ同じ位相にはいないから。だからロミオは死の予感に怯えこそすれ、他でもない自分自身が死に見つめられていることにはまだ気がつかない。

だけどそれが…二幕第10場の「ロミオの嘆き」で初めて、正面からバシッと二人の視線が合うことになります…。なぜならそれは、ロミオが死を希求した瞬間だったから。
ジュリエットが死んでしまったことを聞かされ、生きる意味を見失ったロミオが、死ぬための毒薬を薬売り(であるところの死)に売ってくれと頼む。その時ついに、ロミオは生から死へと掛かる橋に、自らの足を乗せてしまうのです。その事実が、初めて合わさった二人の視線という形で表現されていて、なんてことだ…と思いながら見ていました。ふたつの世界がつながってしまい、取り返しのつかない段階に進んでしまったということが、見る側に明確に伝わってくる瞬間でした。
そうして薬の瓶をロミオに渡し、彼から手を離したあとの死の動きがもう、見ていて「あぁ、喜んでる…」っていいたくなるような表現だったのも忘れられない。ロミオをついに死のもとに手繰り寄せたことへの快哉を叫ぶような、体の動きであったり表情であるように、わたしには見えてました。うーん、思い返していても本当に好きなシーンだ!


この「死」という存在が舞台上に常に在ることが、端的に「愛か、死か」という主題を表しているなと思います。まさにメメントモリですよね。
愛、すなわち生。生きることと死ぬことは常に表裏一体であり、ロミオとジュリエットはこの世での生を儚く散らしたけれど、二人の愛は永遠に続く。そんな彼らの生きた姿が、残された者たちに、生きる意味、愛することとは何なのかを問い直させる。
でも「生きた」という意味では、もちろんティボルトとマーキューシオのことも忘れないであげてほしい…!だって彼らの中にもそれぞれの形で「愛」があったのだから。
余談ですが、キリスト教でしかもカトリックの世界となると、死んでしまったロミオたちの中で明確に天国にいける可能性があるのって実はマーキューシオだけなのでは…って思ってしまったりもしました。
人を殺してしまったティボルトとロミオ、自死を選んだジュリエット…ロミオに至っては最後に自殺もあってもう二重にアウトやん!ってなるんですけど、せめて死んだあとの彼らが、穏やかに同じ場所で笑っていてくれたらいいのになぁ、みたいなことをぼんやり考えたりもしたのでした。そうして平和になったはずのヴェローナを、肩を並べて見下ろしてくれていたらいいのにな。



ロミジュリについてこれで書き尽くせたか?と言われるとなんか全然そんなこともなくて、も~このさきどうしようって感じです!笑
いつまで引っ張るんだ!と思いつつ、たぶんまだ続く気がします!気が向いたらおつきあいください!笑

ミュージカル「ロミオ&ジュリエット」ロミジュリ2019 全体の感想その1(ロミオ役・ジュリエット役について)

長いようでなんだかあっという間に感じたロミジュリ2019、4月14日に全公演が終了しました。私の見納めは4月13日ソワレの前楽でした。
今回は一度したはずの我慢をひっくり返して、けっきょく東京・刈谷・大阪の全都市に足を運ぶ形になったんですが(おい)、でもそうやって予定をふっとばしたくなるほどにロミジュリの世界が素晴らしくて、本当に大好きな作品になりました。このタイミングで観られたこと、そしてそこに応援しているまりおくんが出演していたこと、全てがとにかく幸せだった!

まずはメインキャストの皆さんとその役について書いてみたいと思います。この記事では主役のロミオ、ジュリエットについて!




◆ロミオ

大野くんのロミオを実際に見てみて、彼にとっての「はまり役」といわれていることに心底納得。とても心のあたたかい、素敵な好青年でした。
なんといっても、あの笑顔の柔らかさ。大野くんのロミオ、お日さまみたいなあたたかい笑い方をしますよね。
ちょっと朴訥としたところというか、ゆってしまえば夢見がちなところのあるおぼっちゃんな様子が、ものすごくしっくりくるというか。ロミオを演じるべくしてミュージカル界にいらっしゃった俳優さんだ!と勝手に思ってしまうほど、本当に似合っていらした。
「バルコニー」の後、後ろ髪をひかれながら部屋に帰っていくジュリエットに、デレデレしながら「うん…うん…」ってうなずいているところとか、お茶目ですごく可愛いところもある、憎めない王子様でした。

大野くんのロミオは、なんというかいい意味での「ふつうの好青年」っぽさがあるからこそ、二幕の悲劇性がものすごく引き立っていたように思います。
わたしがすごく好きだったのが、マーキューシオが死んでしまった直後の「ああ 友よもう二度と声を聞けないのか」のところでして…歌の最後に、マーキューシオの傍らに落ちたナイフを見つめながら「ああ…」って高音をロングトーンで張り上げるところ。
あの声を聞いた瞬間に、ロミオがふいに”別な位相”に飛んでしまったことがわかる気がするんです。死に招かれて足を踏み入れてしまった、あちら側の世界から響いてくる声…みたいな感じがして、前後でのその声の変わりようには、毎回ぞくぞくしていました。

もののはずみで、衝動的に彼が一番やりそうにない「人を殺す」という行為をしてしまうロミオ。その事実がもたらす濃く深い影によって、あれほど朗らかだった一幕とはがらりと表情を変える様子、凄みがありました。その前後の振り幅というかギャップが、見どころのひとつだったなぁと思います!
その絶望の淵に立つ表現が、作品全体を通して、公演が重なるごとにどんどん深くなっていったように感じもして。
大野くんのロミオ、もしかしたら次回の再演でも見られるかな…!?って勝手に期待しているので、また会えたら嬉しい!

ゆうたさんのロミオは2013年版でいちど拝見していたのですが、そこから約5年半ほどが経った今、押しも押されもせぬミュージカル界のトップスターになられましたよね!その輝きがまぶしい…!

わたしがロミジュリ2013以降に見たゆうたさんは、2015・2016年のエリザと、2016年の黒執事くらいなので、お姿を見るのがけっこう久しぶりだったんですが、その間にあらゆる面でものすごくパワーアップしてらっしゃったことを実感しました。そりゃ帝劇センターにお立ちになられるわけだ…ってめちゃくちゃ納得した。
ゆうたさんの声、独特のゆらぎ方をするなと思っているんですが、あの麗しいビブラートのかかり方、大好きです。なんだか楽器みたいな特殊な艶のある響き。それでいて発音はものすごくしっかりしていて、一音一音、ひとつひとつの言葉がとても明快に届く。
そしてダンス…う、美しい。。美しすぎて打ちのめされてしまう。キレがありながらも、ひとつひとつの動きがとにかく流れるようになめらかなんですよね!
あととにかく、スタイルの良さが尋常ではない。いやほんと、何事?って思う。お顔のサイズ、なにがどうなったらああなるの!?美という概念の具現化か?なりました。
大通路前の下手側の席で見ていた日があったんですが*1、まじの目の前に登場した古川ロミオの美しさにびびり倒した。驚きすぎて目をまんまるにしてあほみたいな顔で見つめることしかできなかった…。間違いなく美の化身だった、いいものを見ました。

あとは今回見てみて、自分の中でなんとなくイメージしていたより、数段朗らかなロミオだったのが意外でした。少年の雰囲気がすごく強いというか、若々しかった。ベンヴォーリオへの返事の「まだ見ぬ恋人なんだ~」とか、言い方がすごく可愛らしくて。
…なのですが、やはり、ゆうたさんのロミオ…どうしたって「死」に愛される、死の方から惹きつけられるような、そういう得も言われぬ陰がありますよね…!その陰があるからこそ生まれる独特の美しさは、絶対に彼にしか出せない、唯一無二の魅力だと思う。
特に「僕は怖い」が、本当に国宝指定してほしいような素晴らしさだった。歌声も、”死”とのダンスの掛け合いも、どれをとっても文句のつけようがなくて、うわ~んこんなの何度でも見たい…!ってなりました。後半、上手側で死に体を支えられてふわりと宙を漂うように一回転するところとか、まるで重力を感じないみたいな身軽さで。最後に座り込んで歌う高音も圧巻でした。
たぶんゆうたさんがロミオを演じるのは絶対に最後だったと思うから、今年見られて本当に良かったです!

  • 正統派王子と、運命を背負った王子

大野くんのロミオは、本来であれば幸せに生きていけるはずだった、まっとうな王子様という感じがします。だけれど思いもよらない形で、本当にボタンの掛け違いみたいな形で、悲劇の只中に真っ逆さまに落ちていくことになる。
一方でゆうたさんのロミオは、どこかで最初から悲劇が運命づけられているような気がするんです。時間が経つにつれ、徐々にその道筋が収束していき、定められた通りまっすぐに、死が彩る物語の中へと吸い込まれていく…そんな感じがしました。
大野くんのロミオは二幕でがらりと色合いが変わるんだけど、ゆうたさんのロミオは一幕の時点から既に、ぴったりと死が寄り添ってきているといいますか。
そのアプローチは全然異なっているのに、それぞれがロミオとしての説得力をしっかりと携えていて、ダブルキャストの醍醐味を感じました!どちらも正解なんだなって思うし、二人とものことが本当に好きでした。このダブルキャストの組み合わせは、今年で最後だったろうな…!涙

◆ジュリエット
  • 木下晴香さん

晴香ちゃんのジュリエットは、とにかく芯の強い、しっかりとした女性だったなと感じます。
3人の中で一番大人びて感じた。パンフレットによると「大人びている」というのは2017年から言われていたことだったようですが、実際に見た結果として、本当にそう思う。
なんていうか、盲目的に恋するのではなくて、自分の人生を自分で切り開いていきたい!っていう、強い意思を感じるジュリエットだったように思います。
親に逆らわずにいい子を保って生きてきたジュリエットが、初めて絶対に譲れないものに出会った。それはロミオとの恋であり、その愛を貫くために、彼女はものすごいエネルギーを見せる。
決して状況に流されてるわけじゃない。ひとつひとつ、自分の考えを持って選んでいっている、そんなジュリエット像が、晴香ちゃんの姿から浮かび上がってきていました。

歌はもー、すっごかった。聞き応えが半端ない…!そしてまだ20歳と知ってひっくり返りました。
高音になっても決して揺らがない、ハリのある美しい響き。「芯の強い」ジュリエットと感じるのは、この歌声によるところも大きいのかも。(ジャスミン役も、本当におめでとうございます!)
東京序盤は、歌うことと演じることでいくと、歌にどうしても比重がよっているところがあるのかな?って見ていて感じたんですけど、大阪公演の終盤で見たときはその印象が大きく変わりました。
感情の揺れ動きが、よりダイレクトに歌声に乗るようになっていて。2回目のジュリエットであり、公演もラストに差し掛かるっていうタイミングでもまだまだ進化していくんだな…!っていうところに、若さの底力を見ました!

いくちゃんのジュリエット、今回とても出演回数が限られていたので、もしかしたら1回も見れないかも!?って思っていたんですが、運良く2回観劇することができました。
彼女が出ている他のミュージカルを見たことがなかったので、アイドルとしての限られたイメージしか持っていなかったんですけど、実際に見てみて本当に驚かされた。
あの華奢な体から、あんなに強い声が出るなんて!?ってびっくりしたよ。声質をどういう単語で表現しよう?と思うと「強い」って言いたくなる。なんかねぇ…明るく響きながら周りの空気を弾き飛ばすような、不思議な強さがあるんですよ!ビブラートの抑揚がとても大きいですね。

いくちゃんのジュリエットに特徴的だったのは、恋する乙女らしい可憐さだったかなぁって思っています。3人の中で、一番無邪気に恋そのものを信じていたような気がする。
恋を純粋に夢見ているからこそのエネルギーが、溢れんばかりに感じられました。「陽」のオーラをまとっているなぁという印象です。
バルコニーでの表現も、「二人の出会いを祝うかのように」のあとの息の飲み方が、溢れ出てくる喜びを押さえられない!っていう感じで。顔中に笑顔が広がって、恋の喜びが爆発していた。
ロミオからの「君の携帯教えて!」に対する「持ってないの」の言い方もすごくあっけらかんとしてて。総合的に見て、一番あどけなさが残るジュリエットだったなぁと思います。
テレビや雑誌でお見かけする印象からは、そのお人形のように整ったお顔立ちから、大人びた雰囲気で演じるのかなってなんとなく勝手に想像していたのですが、むしろ逆のアプローチ、朗らかな恋する少女らしさの表現がメインだったのでそこも意外でした!
アイドル活動との両立はどう考えてもものすごく大変だと思うんだけど、その中であれほど堂々とした立ち居振る舞いが出来るの、本当にすごいことだなと。
あといくちゃんの東京千秋楽になった3月3日、カテコの世界の王でセンターで踊るところも見られて嬉しかったです!ちょっと照れながらも楽しそうな笑顔でパーフェクトに振り付けを踊ってて、とにかくめっちゃ可愛かった!

わたしが一番回数を見たのはわかなちゃんのジュリエットだったはず!
ミュージカル初出演とは思えない上手さに、若いのにさすがのキャリアを積んだ女優さんなだけある…!と感動しました。
歌、ものすごくうまかったです!いい意味でまだ荒削りというか、ミュージカル歌唱とはまたちょっと違う、とても生っぽい歌声なところがあるんだけど、でもそれがまた恋をしたてのジュリエットの少女性にしっくり来ている気がしました。でも音域はバッチリだったし、ほんとにすごくたくさん努力して、レッスンを重ねてきたんだろうなと思った。声質がとても柔らかいですよね。まろやかで、包み込むような歌声だった。

あとわかなちゃんに特徴的なのは、やっぱりお芝居の上に自然に歌が乗ってくることじゃないかな?と思いました。まず最初に感情を表現するお芝居があって、その上に歌声がある、という感じ。土台がとてもしっかりしていて、歌うことに集中してお芝居がないがしろ、ということが絶対にない感じ。表情がとにかく豊かなんですよね。

わたしが特に好きだったのは、「結婚のすすめ」で乳母の歌を聞いているときの表情の変化。
「死んだ亭主は浮気ばかり」に対しては「ええっ!?」って驚いて口元に手を当てたり、その後うんうん…と上目遣いで注意深く乳母の言葉を聞いたり、「愛してなければ傷つかない」と言われると、「そんなぁ!」とちょっぴりふくれっ面のような表情をしたり。一連のその移り変わりが、とてもチャーミングでした。
あとは二幕の「明日には式を」の怒りの表現!両親に対して「あなたたちにはわからないでしょう」と言い募るところ、震える声にこもった怒りの強さが、客席にも鋭く伝わってきて、すごく好きでした。
「ジュリエットの死」で最期を迎える時は、おなじ「ロミオ、ロミオ」という呼びかけなのに、ロミオが生きていると思っている時と、死んでしまったことがわかった後で、本当に全然声が違う。
この深い表現力が絶対に強みだなぁと思ったので、また別なミュージカルでも姿を見てみたいです!

  • 「誰が一番好き?」…なんて選べないジュリエットたち

年齢もごく近い3人なんだけど、本当に三者三様に素晴らしかった、という一言に尽きます!
みんな可愛くて歌がうまくて…!も~、全員だいすき!!!

ジュリエットは、演じることの出来る期間がロミオ以上に短い、とても特殊な役のように思います。
特に、2017からの続投となったいくちゃんは今回のパンフレットで「もうジュリエットを演じられることはないと思っていた」と言っていたんだけど、その理由が見てみたらすごくよくわかった。
ジュリエットって、成熟した女性ではなく、あくまでも「少女」なんですよね。
どこかわがままだったり、世間知らずなところだったり…お嬢様育ちゆえのちょっぴり厄介かもしれない側面を持ってはいるけれど、でもその胸の内には、とても強い愛の力を秘めている。
この人と決めた相手への恋心だけを抱いて走り出したが最後、決して後ろを振り返らないというか、むしろ振り返ることをまだ知らない、というのに近いような。
自分たちを取り巻く政治的な状況などには一切目もくれずに、ジュリエットはただ一目散に、ロミオへ向かって駆け出していく。
ある点ではとても向こう見ずな部分があったり、人としてのアンバランスさがある、若さゆえの未熟さをもつキャラクターだからこそ、年齢を重ねてから演じることは、どうしても難しいんだろうなと思いました。
その意味で行くと、やはり続投組の晴香ちゃん・いくちゃんのジュリエットはこれがラストっぽいかなぁと思ったし、逆に今回がデビューだったわかなちゃんはまだ次回も出演がありえるんじゃないかな?とも。繰り返し再演が続いている演目とはいえ、このキャスティングはきっと今年限りと思うと、いろんな組合わせで観られたことがすごく贅沢だったなと感じます。

そして、今回の個性がバラバラなジュリエットたちに共通していたのは、なによりも「品があること」だったんじゃないかなと思います。
なんて表現したらしっくり来るかな…って考えたんだけど、上品さ、なんだよね。若いだけじゃだめで、やはり名家の一人娘に相応しい姿が求められるような気がするんだけど、3人ともそこが自然と備わっていて、凛とした佇まいがとても素晴らしかった。
このあたりって作ろうとして出せるようなものでもないと思うから、あの自然な上品さ、間違いなくジュリエットとして選ばれた方々なんだな…ってことを実感したりしました。
もっかい言ってしまうけど、やっぱり3人ともが大好きだったよ~!可愛かったし、歌がうまかった…こうして思い返すと、どうしたってロスになる!涙



主役のみなさんについてはこんな感じ!と無理やりまとめて終わります。書けば書くほどロミジュリが好きだ~!ってなってしまう。…好きなんだよう!
あとはせめてティボルトとベンヴォーリオと、なによりマーキューシオの話が当然ながらしたいです。
公演期間にタイムリーに更新できないのって、需要という意味では文章としての価値が下がるしいかんなぁとは思うんですが、でもだからって書かないと何も残らないから!しつこく書いていくぞー!

*1:ロミオは客席から登場するのでした。劇場によって位置は微妙に変わるけど、下手側の横の大通路から現れてそのまま下手側の通路を歩いて舞台に上がります

日清旅するエスニック「ここにあるよ」が最高すぎたのでブログを書きました(行き先はタイではなく、スーパーの袋めんコーナーだった)

「…いったい何の話?」ってなると思うんですけど、ブログでも書かないとちょっとやっていられないので、笑い疲れて痛いお腹をかかえながら今この記事を書いてます!
タイトルどおりのお話をするよ!



ふだんブログを読んでくださってる方には周知の事実なことを繰り返し書きますが、わたくしただいま俳優の黒羽麻璃央くんのファンをしています!
今回このブログを書くに至った出来事の発端は、そのまりおくんが昨日つぶやいた、1件のこんなツイートでした。

推しのツイート通知をONにしているので「お、なにかつぶやいたな」というのがわかって仕事中に何気なくスマホを見た瞬間、もうめちゃくちゃにざわついた。だって、読めないけどわかるよ!?そこに書いてあるのが「タイ語」だってことくらいは…!
「…え、何?タイ?タイ語?タイでお仕事?なに?どういうこと!?!?」ってなりました。

そしてこの画像でお顔こそ見えないんだけど、ツイート内でタグ付けされているのが、なんと崎山つばさくん。…エッつまり、まりつばちゃんじゃん!??
二人はミュージカル刀剣乱舞での共演をきっかけに仲良くなった俳優仲間という関係性なのですが、TVKテレビ神奈川)で一緒のお仕事が多く、仲良しコンビとして広くファンには認知されています。まりおとつばさ、二人の名前をくっつけた「まりつば」というコンビ名が本人たち公認になっているほどの仲良し。直近での一緒のお仕事だと「広告会社、男子寮のおかずくん」や「俺旅」があります。
www.tvk-yokohama.com

そしてちょっと時間があいてから、今度はつばさくんも同じようなツイートを。もちろん、そこにはまりおくんをタグ付け。


…いやいやいや、ちょっと、なんなの!!??すごい&やばいタイの何か…って、何!?
考えても全然わからないよ!二人が着てるのは、なんだか衣装っぽいよね!?え、じゃあ映画!?はたまた、まさか…現地で舞台公演でもやるの…!!?


ここまで考えたとき、わたしの脳内に浮かんだのは「もしかすると、近々タイに行くことになるかもしれない…」ってことでした。そうか来たか、久々の海外遠征。
まぁ、そうなるとまずは旅費を調べるところからだよね!よーしExpediaで検索だ!ふむ、ANAJALは流石に高いけど、おっ、キャセイとか中国東方航空ならわりと安く羽田からの直行便でいけるぞ!
タイの通信事情ってどうなんだろ、やっぱり格安SIM差し替えかな?…ふむふむ、日本国内でも買えるSIMがあるんだね~へ~便利!キャリア端末の場合はSIMロック解除が事前に必要なのね了解!
現地はタクシー移動多くなりそうだけど、Uberって普及してるのかな…おっ、東南アジアは違う配車アプリ使用が主要なのか、なるほどこれは便利そうだ!
…ってな具合に、個別具体的に情報を集めて、ちゃくちゃくと遠征計画を立て始めていました。

先の画像内に日付は「4/18」とあるとおり、つまり翌日には詳細が明らかになることはわかってはいたんですけど、なんかもう居ても立ってもいられず、ひたすらにタイに飛ぶ妄想ばかりしてた。いやほら、心の準備は早いほうがいいと思って。
のみならず、お友達を「もしほんとにタイに行くことになったら、一緒に行きませんか!?」って誘うことまでしていたりもした。…正気か?(そして「行きましょう…」という返事をもらうなどしていた)
きのう一日で、たぶん20回くらいは「タイ」って呟いたと思う。それくらい脳内がタイ一色に染められていました。


…しかし!その答えは意外なほどに、明後日の方向からやってきた!!!

…ねえ、どういうことなの!!!!!

ってなったし、真っ先に「あ、タイに行かなくてよくなった」って思った。

(※勝手に旅費を発生させ、勝手にそれを浮かせる結果になった)


…というわけで、改めて動画リンク貼るので、まずはこれを見てみていただきたいです!
まだ見てないまりつばちゃんが好きな人、まじで今すぐ見てくれ~たのむ!!!笑
ほんとうに何事かと思いました。わらいじんだ。もう7回くらいは観たんですけど、まだ笑えます。まりおくんはトムヤムクンの妖精(左)で、つばさくんはグリーンカレーの妖精(右)だそうです。自分でも何をいってるのかよくわからないんですが、そうらしいです。

「あ~こりゃ日清だな~!!!!」って感じの、ここ数年のCMがいくつか思い浮かぶような、おなじみな感じのテイストではあるんですけど、あの、ほんと、それにしたって、
クオリティ高いし、本当に意味がわからない
いったいなんなの!?ってなります。いやなるよ。なるでしょ!!!
手がけたクリエイターさんの本気を感じました、ほんとうにひどい。(※ほめてる)
きょうの午前中に解禁になったので、職場の昼休みにイヤホンつけて再生しようと試みたんですけど、歌い出しの
「たーびーすーるーエスニーーック♪」
だけですでに笑って沈没してしまったので、早々に見るのを諦めました。いくら会社で全力でオタバレしているとはいえ、デスクに突っ伏しかけたのでちょっとあまりにも不審者だった。
で、家に帰って腰を落ち着けて再生したんですけど、本当にわらいすぎてしぬかと思った…。

いったい何を考えたらこんなミュージックビデオが出来るんだ!?ってなるし、そもそも再生前に3分38秒というしっかりした長さがあることに動揺した。だってスポット30秒とかじゃなくいきなりの3分半超えって、本気がすぎるだろ!世界観作り込みすぎだろ!
このMV、「突然ですが、ご褒美、欲しくない?」っていうトムヤムクン妖精さんの一言から始まるんだけど、おう、本当に心底突然だな!って思いました!ご褒美はいつだってほしいですが!
そこからギュイイイン!って勢いよくギターのイントロが鳴り始めるんですけど、その音を背景に映し出されるお二人の美しいキレッキレのお顔(ただし髪はピンクと緑)…と一緒に映りこむ、パクチーの葉っぱやらエビやらココナッツの飾り…待って!?冒頭から情報過多だよ!?…かと思ったら今度は「もう一度言うよ 旅するエスニック」のキメ顔が美しすぎてびっくりしたよ!!!一口でYouは…楽園までTrip…?(※どうしたらいいのかわからない顔)


はー。ほんとうに、何回みても、意味がわからないですwww!
こういう大人の本気の悪ふざけっていうか、「有無を言わさない勢いで殴ってくる」みたいな面白がらせ方、本っ当に心から好きなんですよね!なので、推しがこんなCM担ってくれたことが、いまめっちゃ嬉しいです!笑
そしてこんなトンチキな扮装(としか言えねえ)をしてもなお、まりつばちゃんはふたりとも、心底格好がよろしい。こんなに面白いのにかっこいいって、ほんとどういうことよ???ってなる。
…なんだけど、キメキメであればあるほど面白くって、やっぱりエンドレスに笑ってしまう。いや~~~ふたりとも、この撮影さぞや楽しかっただろうな!?…って思ってたら、ほんとうにたいそう楽しそうな様子がわかるメイキングまで用意されていて、福利厚生に泡を吹いて卒倒した。

それにしても、お二人ともとにかく、歌がうまいですね…。まりおくんは本格ミュージカルで、つばさくんはアーティスト活動で鍛えたところの歌唱力が存分に発揮されていて「うたがうまいwww」って笑いながら聞いています。もうね、トータルとして最高です!!!


あと個人的に面白すぎて耐えられないのが、企画側にわれわれ刀ミュおたくの文脈を理解されすぎているってことでした。
…あのねぇ、ちょいちょい、観てるこっちの脳内に刀ミュがよぎるんですよ!爆笑

比較用として、刀ミュのMVも貼っておきます。わたしはどうしてもこの「BE IN SIGHT」を思い浮かべずにはおれなかった…!もちろん、曲調はまったくちがうけども!笑

だってさぁ、「ここにあるよ」の冒頭にある目元がアップになるところとかさ、背景が暗闇の中に落ちてるところとかさぁ、ぜっっったいに意識したし、わざとなぞったでしょ!???ってなる。そしてその意図は「面白がらせようとしてる」に尽きるだろ!?ってなる。
あと、まりおくんが割り箸(笑)を手にしているんですが、それを華麗に振り回す身のこなしに、どうしたって三日月が見えてしまうし、それも絶対に企画側の意図どおりでしょ、狙ったやつでしょ~!?って思う!じっさい、メイキングでまりおくん「刀とは長さも違うし重いので…」って言ってるし!こんなのずるい!!!笑


まりおくんとつばさくんは、所属事務所も違うので、本当に単なる「刀ミュきっかけで出会った、気の合う俳優仲間」なんですよね。その二人がこうして揃って超大手の食品メーカーのCMに出演している…っていうことが、そもそもすごいと思うし、ファンとしてはめちゃくちゃ嬉しいです!!!
そしてつまり、購買層というか、二人を起用することで<話題にしてほしい層>としてターゲットになってるのって…どう考えても、明らかに「私達しかおらんやんけ」と思ったので、そこへのアンサー的な意味も勝手にこめて笑、このブログを書きました。…もー、ほんと、最高でした!!!
ていうか、二人にバズる要素がある、コンテンツとしての力があるって思われてこそ、今回のお仕事がきてるわけだよね、って考えると、まずそこが本当に嬉しい!嬉しいにきまってる!と思いました。
日清食品さん、まりつばのお二人を起用してくれて本当にありがとうございます!
「ここにあるよ」ミュージックビデオ、意味わかんないのにかっこよくて面白くてめっちゃ大好きです!!!今すぐ旅するエスニックが食べたいです~!!!まとめ買いしたいよ~!!!!!


…って思ってね、今日の仕事帰りにはもちろんスーパーに寄ったんですけど、最寄りのスーパーには旅するエスニック…なんと売ってなかったんです!笑
エーン、ちゃんと関東エリアのど真ん中なんだけどな~!(※旅するエスニック、静岡と関東限定発売なんですって)
まさしく「でもそこになかったら~ないですね~」状態だった。なのでしかたなく、無念の思いでカップヌードルトムヤムクンヌードルを買って帰りました(←発売以来大好きでしょっちゅう食べている)。


というわけで、「私が行かなければならないのはタイではなくて、スーパーの袋めんコーナーだったよ!」っていうお話でした。笑
いま振り返ると、お前どんだけ本気で&勝手にタイ行きを決意してたの?ってなって、自分に軽く引きました。でも仕方ないんだ、おたくの初速は、いつだってびっくりするほど前のめりなんだ…!
勝手に覚悟していた遠征がなくなったエネルギーをそのままこの記事にぶつけたんですが、とりあえず明日は、旅するエスニックを求める旅に出ようと思います!
上段?下段?中断付近!!!(振り付けをおどりながら)

おしまい

推しに対して「なにかできると思わなくていいし、実際なにもできないけど、でも”なにもできない”ってことはない」という話

…なんだこの唐突なうえにまわりくどいタイトルは!

これは「応援している対象に対して、いちファンの立場から、わたし個人がしょっちゅう感じてしまうこと」について言語化したものです。誰かを応援する上での一種のスタンスとも呼べるかもしれないです。
同じ内容をツイッターでも繰り返してつぶやいてるんですけど、なんでそういう結論に達してるのか、すこしまとまった文章にしてみようと思い立ったのでなんとなく書いています!



応援している相手、説明しやすいので端的に「推し」と呼びますが、推しの人を見ていると本当に「すごいな!!!」と思うことが日々とても多いです。

わたしにとってはそれはまりおくん(俳優の黒羽麻璃央くん*1)なわけなので、以下でまずまりおくんを「すごい」と感じる理由を述べたいと思います!つまり、いきなり推しをめっちゃ褒めます!笑(※こいつ、それがやりたいだけなのでは説)

◆推しは「すごい」

まずまりおくんは、そもそも毎日ほんとうに大量のお仕事をこなしている。めちゃくちゃ働く。いやまじで、びっくりするくらい働くなぁと思う。前に比べたら働き詰めの印象が薄れたような気がするのは絶対に気のせいで、見えてないお仕事が増えてるだけだと思っています!ヒー!!!(勝手に忙しさを妄想して勝手に怯えるおたくの図)

どう働いてるかって言うと、舞台に出演し、雑誌やWeb媒体やいろんなメディアの取材をうけ、さらにテレビその他映像のお仕事のロケにいったり収録にいったりしている。他にもイベントにゲスト出演したり、もちろん目に見えないところで次のお仕事の準備をしていたりも沢山していることと思われます。
仕事量が多い上にそれが多様なジャンルに渡っているという点、意識の切り替えも必要だろうし求められるスキルだって当然違うわけで、物理的にもメンタル面でも、まじで忙しいだろうなぁと思いながら見ています。
だけど、それをこちらに見える範囲では「やりきっている」ところが本当にすごい。しんどいこともあるに決まってるだろうけど、そういうきつかったことについてを本人が口に出して言うのは、だいぶ時間が経ってからのことが多い気がする。基本的に自分のコントロール内において、折れずに努力を続けようとしている様子がうかがい知れるなぁ、と感じます。そこがまず、あまりにもえらくてすごい…!ってなる。


それだけじゃなく、お仕事に対する姿勢がめちゃくちゃかっこよくてすごい。
わかりやすい例としてWeb上で読めるインタビューをもってきました。
mdpr.jp
タイトルにあるとおりなんだけど、「いばらの道」と捉えた上でそこに向かっていくのがびっくりするくらいかっこいい。舞台も映像もどっちも妥協せずにやることについては、まりおくんは繰り返し色んな場所で明言してるのですが、それが決して楽じゃないことをわかったうえで「でも絶対にやる!」って言い切って、ある意味では退路を絶って臨んでる感じがする。その姿勢というか覚悟の様子があまりにもかっこいいし、若いのに本当にえらいなぁと思う。…すごい!!!ってなります。


そしてそもそも、彼をはたから眺めていると「その身に携えている才能~!!!!魅力~!!!なんかもはや、その全部がすげ~~!!!」…みたいな気持ちにもなります。持って生まれたものの揃い方がやばい。
どこからどう見ても「美しい」としか言えないたいへん整ったお顔立ちに、180センチのすらっと細いスタイル、抜群の運動神経、さらには歌唱力も、メキメキと音がしそうな勢いで伸びていらっしゃる昨今。まじでビビるほど歌の力が、伸びている。
そして大前提として、とてもとても素敵なお芝居をなさる…!あれだけかっこいいと「イケメンだな」って思われて終わってしまう懸念があるというか、むしろ損することもあるのでは!?って思うくらいだなんけど、そこで自身の印象を終わらせないしっかりとした表現を、見る側に届けられる確かな力を持っているし、それもまたぐんぐんと進化している最中で。…はぁ~すごい!!!涙

さらにそこに「気立ての良さ~!素直さ~!人柄~!!!」っていう最大の訴求ポイントもあって、推しのすごさがもう大変!です。「恵まれたものをもっているのみならず、それを持って活躍していけるのは君の気立てが素晴らしいからだよ~!涙」ってなる。(※最大といいつつ、ここについてしゃべるとキリがないので、お人柄については詳細を割愛しました)

◆そのすごさを見ていて感じること、それは

こんな調子で、推しを日々応援していると、ひとりでに「すごい!!!」がどんどんと連なっていってしまうんですね。
そうすると最終的には、なぜだか「何かできることがあればいいのに!!?」みたいな気持ちが、わたしの場合はどうしても湧いてくるんです。推しがすごすぎて。…説明になってねぇな。

ええと、
「こんなに努力を重ねていて頑張っている推しから、楽しい時間その他を、こちらはいろいろともらうばっかりで!?そんなのなんか申し訳なくて、本当にこれでいいのか!?お返しに何かできることがあればいいのに!?」
っていう感じの心情になる、という意味です。


でもね、思うわけです。なにかできることなんて、当たり前のようにあるわけがないんですよ。
だってこちらはただのファンなので。ファンはファンでしかない。ザッツオールです。

というのも、応援する側とされる側は永遠の平行線だし、それでいいんじゃないかな~って思ってるんですよね。なぜなら、お互いが立っている世界線が違うからです。

うーんそうだなぁ、わかりやすく言うと、こちらと向こうとで、人生が交わることは絶対にないじゃないですか。イベントとかでわりと頻繁にお会いできる機会、会話ができる機会こそあれ、それは異なる世界線が出会う特殊なアクセスポイントみたいなものかなと。アクセスポイントが終われば、再びお互いの平行世界にもどっていく。
そういう意味で、応援してる相手に対してファンができることって別に「なにもないよな」と思うわけです。だって違う世界の相手だもん。
なんだけど、あまりに推しがすごいので「なにか後押しさせてくれ!」の気持ちはどうしたって湧いてしまうんですよね。しかし、だからといってこちらからなにかできるって思うのもある意味では過分なふるまいだよね、みたいな気持ちになります。


…だがしかし!
本当にファンはなにもできないのか?っていうと、そんなことはない、とも思います。話がややこしい。

いやできるのかできないのかどっちなんだよ、具体的にはじゃあ何ができるんだよ!?ってことなんですが、まず、「その活躍を見に行きたい」という自分の意思に基づいて買ったチケットで、ひとつ座席が埋まりますよね。一番わかりやすい点でいうと、できることとしてはこれがそもそもあるなと思う。ある意味ファンはそこで役目を終えてるとも言える気がするくらい、その行為には価値があるものだと思います。もらうものに対しての、対価をきちんと払っているという点において。


そして、私は応援される側の立場の経験がないから実際のところはわからないけど、
「自分のことを応援してて、好きで、見たいと思ってくれてる人がいる」
という事実そのものが、応援される側の力にならないわけがない、と思うのでした。

ある意味で「概念」に近いかたちですが、ファンというひとたち(集合体と思ってもらってよいです)に存在意義がないかっていわれると、んなこた~ないだろうな、と素直に思える気がします。というか、そこで「意義などない」って言い張るほうが、よっぽど不自然かなと思うの。笑
だって、彼らは人前に立つ仕事を選んでいるんだもん。
その前提に立った上で、自分を見てくれる人がいることが、嬉しくないはずがないよなぁと。そら、好きになって見てくれる人がおらんより、おったほうがいいに決まっとるやろ!って思うんですよね。
だから、そういう意味ではなにもできないなりに、心の中で握りこぶしをつくっていっしょうけんめい応援することはできるな、そこに意味はあるよな!というふうに思うわけです。


なので、
「推しに対してなにかできると思わなくていいし、実際なにもできないけど、でも”なにもできない”ってことはない」
っていう、タイトルに書いた結論に達するのでした。めちゃくちゃまどろっこしいけど!


確かに、ファンは具体的に助けてあげられるようなことはなにもできない。それが真実なんだろうなと思う。できないけど、でもそこについて過剰に悲観的になるのも違うと思うし、それはある種の不遜な勘違いにもつながりかねない気がする。だけど、応援することならめっちゃできるよね!と思います。

◆大事なのは「自分で選ぶ」ことと、それを「楽しく感じる」ままでいること

ではその<応援>とはなにを指すのか…?って考え出すと、わたしのなかではもはや禅問答みたいな様相を呈し始めてしまい、いったいお前は何がしたいんだ?となってくるので…掘り下げると出口がなくなっていくので、これ以上は紐解きません。笑

たとえば、どこからの何が<応援>に該当するのか?って明確に定義することはできないし、それこそ人によって考え方が違う部分かと思うんですよね。だから自分なりの応援の気持ちでいいんじゃないかなと思うんです。人と比べてどうこう判断するたぐいの内容ではないよね、と。

むしろ大事なのは、

  • その応援のベースには「推しの姿を見たい」という自分の自由意志に基づく選択があり、
  • その選択の結果を「楽しい!」って感じるシンプルな感情があること、

上記2点のような気がします。

応援したいからしてるというより、自分にとっての楽しさが応援につながっている、ということ。見に行かなきゃ、ではなくて、見たいから見に行く、そのことが楽しさを生む、ということ。そこがすごく大事なのかなぁという気持ちでいます。
いやもちろん、見てるうちに応援したさが募る点もめちゃくちゃあるんだけどね!魅力的なものに触れると後押ししたくなるもので。

上に挙げた「自分で選んだこと」が「楽しい」、というポイントがブレないでいられたら、one of themである、ファンという概念のなかのひとりとして、できることもたぶんあるんだろうなぁ、というふうに思っています。少なくとも、わたしにとっては、ですが!
応援すること、すきでいることは義務ではないし、誰かと競うものでもない。ただそこに楽しさだけがあり続けていたらいいなぁ、と思う。



以上、定期的に発作のように訪れる「なにかできることがあればいいのにね!なにもないよね!でも、応援してるよね~!」…という感情について、勢いだけでわーっと書いてみました。

なんでこんな文章をわざわざ書いた?っていう理由はとくにないんですが、、だって~ほんとに応援してて楽しいんだもん!推しがすごくて好きなんだもん!…っていうテンションを叩きつけたかっただけでした!あっ、あと推しの人、まじでかっこいいです!!!(わかったよ)

おしまい

刀ミュ 三百年の子守唄2019 みほとせ再演の感想 その2(石切丸と「力」について)

みほとせ再演感想、その2です!

前回の記事でも触れたのですが、2017年の初演時に、感想をまとめながらも結論を出さずに放り出してしまったことがありました。
それは「石切丸が、自身が握った刀の力に翻弄されるような表現があること」について、でした。
今年書いたその1の記事にも全く同じリンク貼ったんですが、前フリだけ書いてその後本論は書かないまま放置した2年前の前段はこちらです。
anagmaram.hatenablog.com


初演のとき、どうしても石切丸と力にまつわる描写について、明確な答えを自分の中で出せず、いろいろ考えていたらあっという間に時は流れ…って感じで、そのままになってしまっていました。
そこに今年の再演で改めて向き合ってみた結果を、どうにかこうにかまとめてみました。なので感想というよりは、珍しく考察に近い内容かもしれないです。
あくまでもわたしが観劇した結果としての、一個人の考えに基づく文章なので、その点どうぞご了承(?)くださいねー!



まずは前提の整理として、みほとせにおいて石切丸がおかれていた状況、そしてそこから察することができる彼の心情についてまとめてみます。

◆みほとせにおける石切丸の特徴
  • ①果てしなく強い責任感

まず、みほとせの世界では、石切丸は部隊の隊長として、他の5振りを率いる立場を担っています。
「殺されてしまった徳川の家臣に成り代わって家康を助け、江戸幕府の成立に貢献する」という、ある意味途方もない作戦を発案したのも、石切丸本人。
6振りそれぞれに抱えている思いや立場の違いはありますが、その全体をまとめ、ひとつの方向に導いているのは、名実ともに彼であると言えると思います。


そんな彼が担っている「作戦を成功に導く」という責務が、そもそもとても重たい。
なぜなら、みほとせにおける作戦の成功とは、史実どおりに徳川家康の人生が進んでいくことを手助けし、彼が人生を全う出来るように、傍で支え続けることだから。
本当に長期も長期、人ひとりの人生に寄り添い続けるという、無謀ともいえるような内容です。
史実から外れないように、丁寧に着実に、ひとつひとつの要素を積み上げていくことが求められるわけで、その重責たるや相当なものです。
その上で、石切丸はそもそもの始まりの時点から、将来的に信康を斬る役割を担うことになる服部半蔵役に名乗りをあげている、という側面もあります。最初から、自分が隊長として果たさねばならない役割を、ある種苛烈なほど冷静に見つめているところがあるといえるのではないでしょうか。
それは途中青江に「ちょっと、一人で背負いすぎなんじゃないかな」と言われるほどに、孤独さを帯びたものでもありました。


  • ②「人」へのあたたかな眼差し

そんな責任感に満ちた石切丸が任務の中で最初に取り組むのは、まだ幼子である家康、竹千代君を育てること。
そう、今回石切丸が担っている役割には、「人を育てる」という、命を育む要素までもが含まれているのです。
生まれたばかりの赤子である家康の子育てに始まり、そしてその対象はやがて家康の息子、信康へと移り変わります。風は季節を巡らせる…腕の中には新たな生命…。涙

おそらくみほとせの作戦期間は、刀剣男士全員にとって、顕現して以来、最も「人」と近くで触れ合った時間になったに違いありません。というか、どう考えてもそうだと思う。。
普段刀剣男士たちが接する人間って、ほぼ本丸の主だけだと思われるんですよね。
出陣先の各時代において、必要以上に史実上の人物たちと接触することは、おそらく避けられているのではないか?と、これまでの刀ミュの作品を見ていても思います。


そんな彼らが、自らも「人」となり、生きている人々の生活の真ん中に入り、隣で一緒に日々を送る。
その時間が石切丸という刀にもたらしたものは、一体なんだっただろうか。


石切丸は、みほとせの任務を回想する冒頭で「思えば、かつての私は、いつも民と共にあったのだ」「懐かしい感覚だった」と語ります。
その言葉が表すように、かつての彼は刀として神社に在り、病気治癒などを願う人々の祈りを聞き届ける務めを持っていました。

そんな過去を持つ石切丸は、この「人と共にある」という、ある種特殊な任務内の生活において、自らの存在の<本質>を改めて見出したのではないか、というように思えたんですよね。
人の幸せを、健やかな日々を祈ること。争い事のない、穏やかな時間を願うこと。
それが彼にとってのアイデンティティの根幹といえるのではと思いますし、特に「懐かしい感覚だった」という言葉に、彼自身がそのことを改めて自覚している様子が表れている、そんなふうに感じました。

  • ③戦を忌避する思い

最後に石切丸の特徴として挙げられるのは、やはりここ。
青江から「この世から戦を無くそうとしている」と評されるその在り方は、彼自身を孤独に追い詰めていく部分があるように思えました。
石切丸自身も、自分が刀、つまりは武器であり、人の命を奪う存在であることは、じゅうぶんに自覚しているはず。それは阿津賀志山異聞で歌われる「矛盾という名の蕾」からも明らかです。

しかし、いくらそれをわかっていても、石切丸はどうしても戦場において、心を揺らすことを止められない。
目の前で人が傷つき、死んでいくその様子に、都度心を痛め苦しんでいる様子が、いろんな場面からひしひしと伝わってきます。


丸根砦での戦いでは、自らが戦いの最中にいることを思わず忘れ、眼前に繰り広げられる戦場の有り様に呆然と立ち尽くす石切丸の姿が見られます。
青江から「石切丸さん!」と名前を叫ばれるその直前、石切丸はじっと自分の手に握った刀を見つめているのです。
おそらくその瞬間、彼は「人の幸せを願っているはずの自分が武器である」ことへの矛盾を、改めて突きつけられたような思いになっていたのではないでしょうか。

その戦いの直後、戦のあっけなさを感じたものだったのか、思わず「こんなものか」と漏らした大倶利伽羅のことを、石切丸は厳しく聞き咎めます。「こんなもの…?こんなものといったね」と。
石切丸にとっては、戦が「こんなもの」で片付けられるはずなどなかったのです。だってそこではどうあがいても、沢山の人が命を落として死んでいくのだから。



ではそんな石切丸に、「力」を巡っていったい何が起きたのか。それを具体的にみていきます。
まず、力に翻弄された姿に関しての一連の描写を、時間軸に沿ってなるべく簡潔にまとめました。

◆石切丸に起きたこと
  • ①力の獲得

・石切丸が信康を斬ることを諦めた瞬間、閃光と共にその場に検非違使が現れる。検非違使とは「歴史の異物を排除するもの」。歴史の流れに反して信康が生き残っている事実により、その場に呼び起こされたものであった。
・その姿を表すが早いが、検非違使は信康を斬りつけ、それを庇った石切丸のことも容赦なく斬ったかと思うと、周囲に現れた時間遡行軍のことも圧倒的な強さで蹴散らす。倒そうと向かっていく刀剣男士たちも全員検非違使の強さに刃が立たず、傷ついてその場に次々と倒れ伏していく。
・その中で石切丸は「ここで折れても、貴様を倒す!」と荒々しい声で叫び、一人で検非違使に斬りかかっていく。その姿は、直前までとは打って変わった強さを突然に得たかのようで、石切丸は凄まじい力で検非違使に確実にダメージを与えていく。

  • ②異変

・しかしその力の源泉は石切丸本人のものというより、その手に握る刀によって生じたもののようであった。その石切丸の様子から、刀剣男士たちははっきりと異変を感じ取る。
・「すごい…」「しかし、この力、危険だ!」というその彼らの言葉どおり、石切丸は徐々に力の制御を失っていく。刀を両手で抑え込もうとするが、ひとりでに動き出そうとでもするかのように、彼の手の中で刀は激しく暴れ、石切丸は体を持っていかれそうな形になる。と同時に、あたりには地を這うような、不気味な咆哮が響く。
・石切丸は苦しげな表情で頭を押さえ、呻き、最終的には気を失うように、その場に力なくへたりこんでしまう。

  • ③意識の再獲得

・くずおれた石切丸の背後に斬りかかろうと近づいてくる時間遡行軍。しかしその刃から、信康が自らの身体を投げ出して石切丸を庇う。
・「はん…ぞ…」と自分の名を呼ぶ声で我に返った石切丸は、はっと目を見開いて振り向き、倒れ込む信康を抱きとめる。
・動揺した声で「信康様、信康様…!」と叫ぶ石切丸に、苦しげな表情ながらも微笑んだ信康は「あまり無理をするな、半蔵」とだけ告げ、そのまま静かに息を引き取る。
・信康の体を抱きしめ、深くうなだれる石切丸。その背後で、何度も立ち上がっては、検非違使に返り討ちにあい、ボロボロに傷ついて倒れることを繰り返す刀剣男士たち。
検非違使が再びその狙いを石切丸に定めた瞬間、取り落としていた刀を掴んだ石切丸は、力強くその刃を受け止め返し「死んでいった者の痛みは、こんなものじゃない!」と叫ぶ。
・そこから立ち上がった石切丸は、他の5振りと共に力を振り絞り、最終的に検非違使に打ち勝つ。(※明確に検非違使を倒す表現は見られないが、劇中の展開を見るに、そう解釈して差し支えないものと思われる)


上記でざっとまとめてみたとおり、石切丸は

  • 圧倒的な力を得て検非違使を追い込むが、その力そのものに翻弄され、屈しそうになる
  • しかし再び自我を取り戻し、目の前の敵に打ち勝つ

という変化をたどります。


この石切丸の一連の変化は、一体それぞれ何を原因とするものなのでしょうか。
わたしはその原因が、「心という存在そのもの」にあるのではないか、と考えました。


具体的にはどういうことか、<心>を捉える上で鍵となると考えた3つの劇中の言葉をもとに、考えたことを以下でさらに説明してみます。

◆心を読み解く鍵その1:「底知れぬ強さ」

戦いのさなか、時間遡行軍に襲われて命を落としてしまった吾兵。その墓へと歩み寄りながら石切丸が歌う歌は、「力があれば…」というタイトルです。
その途中には「力があれば…底知れぬ強さが」という歌詞があるのですが、この「底知れぬ強さ」という単語が、その後の石切丸を襲う変化を読み解くひとつめの鍵になっているように思いました。

というのも、底知れぬ、という表現、どう考えても穏やかではないからです。

この時の石切丸は、「任務を成功に導きたい」と思うと同時に、「もう誰の命も奪われる瞬間を見たくない」という思いの間で、板挟みになり苦しんでいるように思えました。
そしてそこから脱却するため、そのどちらをも叶えようと願うあまりに、ある種の巨大な力を希求するようになったのではないか、と。


なぜなら、石切丸の目の前にある命は「いくら祈ってもこぼれ落ちてゆく」のです。救えそうに思えて手を伸ばしても、その「指の隙間から」。
そうさせないために、解決の手段として、石切丸は強い力を望んだ。


しかし石切丸は、本来であれば戦や争いを嫌い、生きとし生けるもの全てへの深い愛を持つ、そんな心やさしい刀です。
そんな彼が、他を圧倒するような力を願うということ自体が、石切丸自身の本質からは大きく逸脱するものではないかと思います。

そしてその「力を望んだ」という事実そのものが、石切丸がそれほどまでに内面で深く追い詰められていたことの証左と考えられます。

その追い詰められ方の説明となると考えたのが、次に述べる2点目の鍵です。

◆心を読み解く鍵その2:「あまり無理をすると、壊れてしまうんだって」

検非違使との戦いの直前、信康を斬りに行くと告げた石切丸に、物吉くんが激しい調子で食ってかかるシーンがあります。
家康の愛刀であった物吉くん自身も、信康が死ぬ運命であることを、当然知ってはいるし、歴史上それが避けられない事実だということは十分理解をしています。しかしどうしてもそのことを受け入れることができず、「おかしいなぁ…」と涙を流す彼に、青江が次のような言葉を投げかけます。

「おかしくはないと思うよ。…心のこと。手に入れてしまったものは、なくすことはできないから」
「あまり無理をすると、壊れてしまうんだって」

信康の命日をむかえたその時、石切丸の心は、まさにこの「あまり無理をすると壊れてしまう」状態にあったのではないか、と思うのです。


歴史を守ろう、任務を成し遂げようとするあまり、石切丸は自身の本心を、ある意味では切り捨てて突き進んできたところがあるように思えます。
石切丸の本質を考えれば、彼が信康の命を奪うことなど、本来出来るはずがない。それなのに「それが徳川家康の歴史じゃないか」と、石切丸はその任務の遂行に邁進しようとする。その様子は、物吉くんが言葉を失うほどに冷徹ですらあります。

信康を斬ろうと彼の元へ歩み寄っていたあの瞬間、石切丸の心は、もしかしたら「壊れてしまう」寸前にまで追い詰められていたのではないでしょうか。



その1とその2の鍵についてここまで書いたことを結論としてまとめると、

  • 石切丸は任務への重責と自分の本心との間で板挟みになり、苦しんでいた
  • その苦しみは、彼の心にあまりに過大な負荷をかけるものだった
  • その状況が、彼の本質には本来そぐわない、強大な力を望ませた
  • 最終的にそうして石切丸は敵を圧倒する力を得たが、その在り方が彼の心の有り様とは大きくかけ離れていたため、力そのものが石切丸の自我を離れ、暴走しかけた

…ということが言えるのではないか、と思いました。


刀剣男士は心を持つからこそ、その内面をないがしろにしてしまうと、それこそ人間と同じように、そこに亀裂が生じ得る。石切丸の一連の変化は、そのことを表していた描写ではないかと思うのです。

自分の本来の気持ちを押し殺すあまりに、石切丸は自身の本質を手放しかけると同時に、本来不要なはずの力を望んだ。
そのひずみが、意図しない禍々しさをも感じさせるような、制御不能な力の発露にいたったのではないでしょうか。
そして、刀剣男士が手にした力が「刀」に宿る形で強大化し、暴走するという描写は、刀剣男士は武器=戦うための力である「刀」から顕現した存在であるという背景を考えると、十分に頷けるものでもあるかと思います。



そして、最後に石切丸に訪れた変化。それは意識の再獲得、いわば「自我の復活」でした。
石切丸はどうしてその後、力に飲み込まれることなく、自分を取り戻すことができたのか。
そうさせたのは、3つ目にあげる、信康の言葉に他ならないと感じました。

◆心を読み解く鍵その3:「あまり無理をするな、半蔵」

亡くなる直前に、石切丸に手を差し伸べながら信康が告げるその言葉。
それはまさしく、青江が言っていたとおりの言葉の裏返しなんですよね。


無理をすると、壊れてしまうから。だから、あまり無理をするな、と。


信康には、幼い頃から自分を大切に育ててきてくれた石切丸(半蔵)が深く苦しんでいることが、明確に伝わっていたのではないでしょうか。その背景にあるものや、理由が何なのかまではわからないまでも、なにかに心を痛め苦しんでいるという事実は、きっと手に取るようにわかってしまっていたのではないか、そんな気がします。
なぜなら、石切丸が仲間とともに懸命に育てた信康こそが、花を愛するやさしい心の持ち主だったから。


そんな信康から、最期にそっと投げ出された「あまり無理をするな、半蔵」というそのいたわりの言葉には、瞬時に石切丸をもとのあるべき姿へと引き戻す力があったのではないか、と思うのです。
いつも誰か他人のことを慮っている石切丸。周囲へと広い視点で目配りをする中で、おそらくどこか、自分を後回しにする瞬間も多々あったことでしょう。
でもそんな彼が、大切にしてきた信康本人から最期に手渡されたのは、自分への思いやりを端的に告げる言葉でした。
そしてその言葉だけを残して、信康は命の灯火を消してしまいます。


歴史の流れの中で消えていかなければならなかったその命。
信康が思いを傾けてくれた自分は、いったい何者なのか。
自分が今、なさねばならないことは何なのか。


愛し、守り育ててきた信康の存在は、苦しみの中で本来の道筋を外れかけた石切丸のことを、最期の瞬間に光となって照らした。
彼の残した言葉は、石切丸の心の本質を刺し貫いて、混迷の淵から強く救ったんじゃないかなと、そんなふうに思うのです。

そしてそれが可能だったのも、石切丸が、刀剣男士として「心ある」存在だから、ではないでしょうか。



以上が、わたしがみほとせの石切丸の描写を見て考えたことのすべてです。
かなりがんばってはみたものの、、まとめるのがあまりにも難しく。何を言いたいのかちゃんと伝わる日本語になっているのかについては不安しかない…!順番入れ替えたり削ったりしまくったんですけど、伝わりましたかね~!?涙
読んだけどこいつなにいってんのかわかんねぇ!だとしたら完璧にわたしの筆力不足じゃ~!


そしてこれは蛇足なんですが、初演を見た時、当時のわたしが石切丸と力の描写にどうしても答えを出しきれなかったのは、刀ミュのみほとせ前の2作(阿津賀志山異聞・幕末天狼傳)で、似たような描写が元の主たちに対してなされていたから、ということにも今回気が付きました。
本当はそこについての説明も書いてたんだけど、あまりにも長くなりすぎたし本筋ではなかったので、いったんぜんぶ割愛しています。もしかするとこの記事の補記、みたいな感じで後日別途アップするかもしれません~!


とりあえず、2年前に放り出した宿題をようやく回収できたかな…!?という気持ちです。
読んでくださってありがとうございました!

刀ミュ 三百年の子守唄2019 みほとせ再演の感想 その1(主に演出面での初演との違い)

3月の観劇ラッシュ3本のうちのもうひとつ、それはもちろん刀ミュでした。

みほとせ2019、結局公演期間中に記事を上げることが叶わずだったんですが…!
1月20日~2月3日の東京公演(銀河劇場)で4回、3月15日~3月24日までの凱旋公演(TDCホール)で3回の、計7公演を見届けてきました。

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3月24日の大千秋楽、TDCホールにて(同日のマチネはレキシアターにいたという事実が観劇ラッシュを物語る)

◆語りたいことが多すぎてとっかかりが難しい、それがみほとせ

みほとせは初演のときからそうなんですが、わたしの中ではこれまでの刀ミュで一番、感想をひとつにまとめることが難しく感じる作品なんですよね…!
その理由は多分、みほとせが刀ミュの中でも群をぬいて「群像劇」の色合いが強い物語だからではないか、と思っています。

登場する6振りの刀剣男士それぞれに、色濃く個別の物語があり、その中の誰に注目して見るかで、全く異なる世界が広がるように感じるんです。
あの丁寧な語りには、観劇のお目当ての推し刀が6振りのうちの誰であっても、間違いなく心を揺さぶられて、満足して帰ってこられるんじゃないかなと思います。まあ刀ミュはいつだってそうなんだけど!
そしてさらにそこに、徳川家の親子の物語が折り重なってくるため、本当に重層的な作りの作品になっていますよね。その厚みに、とにかく圧倒される。

わたしは2017年の初演では、ひたすらに青江だけを見つめていたんですが、再演はせっかくなのでもう少し引いた視点で、色んな角度から物語を捉えなおそう…と思って臨んだところ、やっぱり「何から感想を書けばよいのかわからない」状態に。なにぶん、あの2時間10分+35分のライブから受け取るものが大きすぎて…!


そんなみほとせに関しては、初演の頃にいろいろと考えることがまとまらないまま、結論を放置した記事をひとつ書いたっきりでした。。
anagmaram.hatenablog.com
「その1」ってあるくせに、以降に「その2」が続かない詐欺を働いていた…。そして今読むと、刀ミュの世界観への向き合い方について、まだわたし自身が手探りだった部分があるなって感じます。
今はもう、御笠ノさんが書く物語に全幅の信頼を置いており、もっとリラックスして作品に向き合ってるので、逆にこれと同じ感想は書けないな~とも。そういう意味でも再演って、楽しいし贅沢だな…!
なんていうのかな、たとえば「優しいと見せかけて実は残酷」みたく、世界観が180度転換するタイプの物語もひとしきり流行ったように感じるのですが、刀ミュはそういう路線とは距離を置いていると思うんですよね。
力強く手渡されるその世界の優しさを、信じてそのまま受け取ってよい作品だなと思います。


前置きが長くなりすぎましたが、まずは全体を通しての、初演との違いからくる印象の変化について、書いてみようと思います。各キャストの演技の変化については、また別記事にしたい所存!




◆ほんの少しの変更なのに、骨格がシャープになった物語

今回のみほとせはあくまでも再演であり、脚本と演出においては、大幅な変更というのは加えられていません。それでも、そのほんの少しの変更点があることにより、物語の在り方がよりシャープになったというか、骨格がくっきりとしたような印象を受けました。


まず脚本に関してですが、いくつかセリフがカット/追加されていました。
セリフがカットされていたのは、石切丸と青江、ゲーム内の神剣回想にまつわるシーンです。
「霊とはいえ、幼子を斬った。」の後に続く、「それがどうかしたのかい?」と尋ね返す青江のセリフがまるごとなくなっていて。
でもその問いかけがなくても、二人の会話が成立するということに、なんだか感動してしまったというか…むしろそこに、以前よりもあたたかみが増しているように感じたんですよね。

青江はあのとき、石切丸が持ち出したその話題についてよりも、自分が初めて知った幼子のぬくもりのことに、意識が向いていたような気がするんです。
それはきっと、その「ぬくもり」から、自分自身の在り方がどこか大きく隔たっているように思えたからなんじゃないかな。

でもそんな青江を隣で見つめる石切丸には、また違うものが見えていて。
あのときの石切丸は、『にっかりさんはそういうふうに自分のことを捉えているかもしれないけれど、そんなことはないと思うよ』っていうような気持ちを込めて、「君は、神の子を助けたんだよ。」って優しく伝えてあげたんじゃないかな、って思いました。
具体的なセリフが無くなることにより、そこに描き出される二人の心の交流が、よりあたたかいものとして舞台上に立ち現れたような気がしました。
このシーンに関しては「引き算の美学」みたいなものを感じたんですが、たぶん今のつばさくんとあらきさんのやりとりならば、表現の要素であるセリフを引いてもきっと本質が伝わるだろうって、御笠ノさんや茅野さんが感じたからこそ実現したことなんじゃないかなぁ、と。


他にセリフ関連で驚いたのは、丸根砦の戦いの途中、眼前に広がる惨状に言葉を失い、呆然と立ち尽くしてしまう石切丸に対し、青江が大声で「石切丸さん!」と怒鳴るように名前を呼ぶところ。
初演時はなかったセリフだったので、初日に聞いたときに本当にびっくりしたシーンでした。
普段おっとりとしている青江が、あれだけの強い調子で叫ぶのはよほどのこと…それくらい、あの瞬間の石切丸は、自分が生きるか死ぬかの戦場にいることを忘れ、目の前の光景に動揺してしまっていたんだなって。。
石切丸については、先述の初演時から放置していた考察まがいの件もあるので、また別記事で書きたいです…今年はちゃんと書くぞ!


演出の変更点で大きかったかなと思ったのは、家康の最期に姿をあらわす信康が、若者ではなく年老いた姿になっていたことでした。
あのシーンの信康は、「信康を死に追いやったことを後悔し続けていた家康の心を、慰め救うため」に現れた信康の魂なんだと、初演の頃から思って見てきました。


家康から「信康…?」と問いかけられた信康は、静かに首を振ります。そして、「その名は捨てました。…今は掛川の百姓で、吾兵と申すものです」と穏やかな表情で答えます。
それを聞いた家康は、どこか安堵したような柔らかい笑顔で「…吾兵?…そうか、そうか」とつぶやくのですが。
…このシーンの信康が年齢を重ねた姿で登場したことにより、「信康の魂は、彼自身が望む人生を生き、全うすることができた」というメッセージが、より明確に家康に伝わるようになったんじゃないかな、というふうに思いました。
それが事実かどうか、ということではなくて、あの場に現れた信康の心が、家康にそう伝えたかった、そういうことだと思っています。

望むようには生きさせてやれず、若くして亡くなってしまった息子のことを思い続けてきた家康にとって、自分だけが誰よりも長く生き延びてしまったという事実は、それだけでどこか責め苦のような部分があるんじゃないかなと感じるんです。
そんな彼の前に、自分と同じように年を経た息子の姿が現れてくれたなら、それはとても大きな心の救済になるのではないかな…と。

凱旋公演で下手よりの席に座ったとき、家康の足元に膝をつく信康の表情がとても見えやすい位置だったことがあったんですが、家康が息を引き取るその瞬間の彼は、本当に言葉で表現できない、素晴らしいお顔をしていた…。あぁ、ついに、といったふうに微かに顔を上げて、どこまでも穏やかに、ほんの少し切なそうな微笑を浮かべていて。
そこに重なる物吉くんの「よく、生きられましたね。…おやすみなさい」のセリフ。思い出しても泣けてきてしまうよ…。本当に、なんて物語を作り上げたんだろう、と思ってしまう。


同じように見た目が変わっていた部分としては、吾兵の衣装がよりみすぼらしくなっていたことがありました。
桶狭間の戦いを前に、野武士たちに馬鹿にされながらも、刀のないまま戦に打って出ようとする吾兵。
着古したぼろぼろのその衣服と、野武士たちに罵られるとおりに「土にまみれた」肌の薄汚れた様子が、あくまでも吾兵は本来戦場にいるべきではない、市井のいち百姓だったのだということを、よりクリアに伝えてくるように思いました。
吾兵は懸命に「生きよう」としていた。生きるために、彼は刀を握ることを選んだ。でもその選択は、彼の命の終わりを予期せぬ形で早めることになってしまう。
信康と吾兵は、やはり対になる存在だと思うのですが、再演はその対比がより鮮やかに描き出されているように思いました。

◆新しくなった出陣ソング

一部パートの歌に関しては、「勝利の凱歌」に当たるM2の出陣ソングが新曲になってましたね!
これも初日にめちゃくちゃびっくりしたポイントでした。勝利の凱歌はシングルCDとしてリリースされた歌でもあり、みほとせの一部パートを代表する曲のひとつだなと思っていたので、まさか変わるとは!
…でもこの新曲も、やっぱりすごくかっこよくって!
4振りの勇ましさがビシバシと伝わってくる、戦場に赴く気概を溢れさせた曲ですよね。
しかも勝利の凱歌よりも曲としての難易度は上がっていそう。AメロもBメロも音のとり方が複雑で!
…なんだけど、チームみほとせの、歌唱力もまた、上がっているんだ~!!!(感涙)

歌がもともとうますぎる村正派のおふたりはともかくとして(相変わらずの歌唱力ですよもう!)、物吉くんと石切丸さんが、ほんと~に上達なされましたよね…!涙
声量もあがっているし、音程も安定したし!再演ってこういう変化に出会えるところもあるから良いものだな~ってしみじみと思いました。
「渾身一撃!」で終わるサビ前のBメロも好きだし、そこから始まるサビのメロディもツボだったよう!みんなかっこいいよう…!


そして、その次に控えている全員でのM3が、変わらない「刀剣乱舞」っていうところに、またしびれてしまうんですよ!涙
「無事に揃ったところで、励むとしようか!」という雄々しい石切丸の声に続いて始まる、あの聞き馴染んだイントロ。
もう~このカタルシスは一体なんなんだろ~!?ってなって、客席でただ涙を流してしまう…

みほとせ初演のときは、M1が村正のソロである「脱いで魅せまショウ」、M2が「勝利の凱歌」だったので、そうか刀剣乱舞はもう歌わないのかな…?って思い始めていたところにM3でバーン!ドヤァ!と歌われたので、「やっぱり!これがないと!始まらないよねええ!」っていう感動でめっちゃ泣いた思い出があります。
これからの刀ミュ、なにがどうなるかわからないけど、新作も控えているけど、できれば「刀剣乱舞」を歌う伝統はやめないでほしーです!涙 大好きなんだ…。

◆再演することの意義

てっきり新作公演が来るのだと思っていた次回作が「みほとせの再演」だと知ったとき、真っ先に「なんで?」って不思議に思ったことを覚えています。
阿津賀志巴里は、ジャパンエキスポの一貫ということもあり、新作ではなく既存の作品を持っていくということに納得感があったし、それがteam三条with加州清光に託されるということもよくわかった。そしてタイトルも若干変更になっているとおり、純粋な再演ではないよなということも、察しはついていました。
でもみほとせはそれとは異なり、明らかな「再演」。
今の時期の刀ミュ運営が「再演」という手段を選んだ理由、そしてその作品にみほとせを選んだ理由はなんなのか、思わず考え込んでしまいました。


その意図を正確に推し量ることはできないから、当然わかりようがないんだけど、その時わたしがなんとなく思ったのは、
「刀ミュの知名度がより広がった今、ついて来られない新規のお客さんをなるべく減らせるようにする作戦のひとつ」なのかな、ということでした。

2015年のトライアルから数えると丸3年が経過し、その頃から長く追っているお客さんもいれば、最近刀ミュを知ったばかりのお客さんもいる。その中で人気は時間の経過とともに増す一方で、正直なところチケット争奪戦はどんどんと苛烈を極めている。
結果として、新規のファンにとっては気軽に近寄れるとは言い難い作品にもなってしまった側面が、若干あるような気がしています。
そのために、紅白を終え、知名度をより深めたいまの時期に、新作ではなくて再演を選んだのには、その状況をひとつ打開する狙いもあったのではないかな?って思ったんですよね。

「初演のころはまだ刀ミュを知らなかった、知っていたら見に行ったのに」と思っていた人たちにも、みほとせを実際に現地で観られる機会を提供することができる。
長いファンと新しいファンの間にあるギャップを埋めるような、そんな目的もあったんじゃないかな?と。


…とまぁ、そんな予想が果たして正しいのかどうかはわからないですが、その側面に限らずに、純粋に作品としてのみほとせは「今再演される意義が間違いなくあった」と、実際に観劇して深く思いました。

若手キャストはとにかく初演から比べると、歌も演技もダンスも、すべての要素において目覚ましいばかりの成長を見せてくれました。
一方のベテランキャストは、もともと十分に高かったクオリティを、更に自分の目指す方向に向かって引き上げ続けようとする、高みを目指した終わりのない努力を重ねていて、その様子に圧倒されました。
そしてひとりだけ新規加入となった牧島くんは、いかほどのプレッシャーだったかと思うのですが、新しい大倶利伽羅として、彼らしい息吹を吹き込んでいました。


同じ作品だからこそ、こうして色んな面で初演と再演の色合いの違いを楽しむことができて、本当に贅沢な観劇体験をさせてもらったな…と、しみじみと思っております!

2017年のみほとせ初演は、その後の刀ミュの可能性というか、伸びしろを大きく広げてくれた作品だったと思うんですよね。
がむしゃらに走り抜けた若者たちの物語でもあった幕末天狼傳から、キャスト面でも脚本面でも、大人の物語の色合いが強いみほとせへのバトンタッチ。
そうして幕末天狼傳の次にみほとせが語られたことにより、刀ミュはより一層、その世界観の中に深みを増すことができた気がしていて。
そこから約2年という時間を経た今。刀ミュが実際に色んな面で大きく飛躍を遂げた後の世界で、新しい魅力を携えて戻ってきてくれたみほとせにまた出会うことができて、すごく嬉しかったんです。だってわたしは、刀ミュが好きなんだ…!


再演の概観についてまずは書いてみたんですが、それでもけっこうなボリュームに。。よくそんなに書くことがあるよね!?(他人事)

みほとせの話はまだまだしたいので、また書きます!読んでくださってありがとうございましたー!