つはものどもがゆめのあと、東京公演が終わってしまいました。は、早い…。
まるで刀ミュじゃないみたいなスケジュール!って何度も思ってしまう。
だって、国内60公演あったのが、今回30ちょっとだもんね!?だけど演じる側の負担を考えると、このくらいの回数が妥当だよなぁとも思います。
東京公演の間、3回観劇してきました。
今回の作品、すでに巷には数々の考察があふれているようにお見受けします。いや~この内容では無理もないよね!笑
わたし考察は別に得意じゃないので、、なんというか、作品を作った側が観客に伝えたかったことを、自分なりに受け止めて、それを言葉にしたい、という抗いがたい謎の欲求にもとづき、いつものごとくまとまらない感想のようなものを書きます!
あと他の方の感想を先に見てしまうと、自分がもともと何を言いたかったのかわからなくなってしまうので、現時点では特に何も見ていません!
なので「そんなんみんなゆっとるやんけー」な内容があって当然ということでよろしくお願いします。もちろんネタバレ前提だよ!あと過去作にも一部触れるのであわせてご注意ください!
といいつつ、三日月の話しかできません今回!彼のことが頭からはなれないよー!えーん!!!!
◆今作における「歴史」のとらえ方について
三日月について深く語る前に、まずここの部分で自分の頭を整理しておきたいなと思います。
つはもののストーリーの中で今回、三日月は「たったひとりで」「何度も同じ時代に行き」「頼朝や藤原泰衡と出会い」「義経が生き残ってしまいそうになるたびに、歴史を軌道修正してきた」という、衝撃的な事実が明かされます。
歴史を守る、というのが、刀剣男士である彼らの使命です。
あくまでも刀剣男士としての在り方に忠実であろうとする小狐丸は、積極的に歴史に介入しているとも受け取れる、そんな三日月の姿勢に強く反発し、ふたりは真正面からぶつかりあいます。
しかし小狐丸とのやり取りの中で三日月は、歴史を守るのが自らの使命だということについて、「全く同じ見解だ」と、異論はない様子を見せます。
ではそんな彼がなぜ、歴史上の人物の前に直接姿を現し、あろうことかその先の未来に起こることを本人にすべて伝えたりなどするのか。
そんなことをしてしまっては、歴史修正主義者と何も変わらないのではないか。
小狐丸と同様に、見ていて私も最初はそういう風に感じたのですが、三日月は途中でこんなセリフを言います。
「小狐丸。お前に一つ教えてやろう。歴史とは、水の流れのようなもの。確かな形など、最初からありはしない。」
この、水、という表現がどういうことを表しているのかを考えてみたんですが、結論は三日月がはっきり言っている。そこに「形」は存在しない、と。
その意味をより深く自分なりに考えてみたんですが、
「時間の流れがたどる道筋や速さには大筋の決まりがあるものの、そこにはある程度の揺らぎが生じることもありえ、最終的に流れ着く先が所定の範囲内におさまっていればよい」ということなのかな…?と思いました。
つまり三日月がやっていることは、その時の歴史がどのように流れていくかを傍で見守り、大きく流れが逸れそうになった時には、邪魔になりそうな石をどけたり、すこし川床を深く掘ったりして、その道筋を誘導してあげているようなものなのかな…?と思ったんです。
だけどやはり、問題になるのは「歴史上の登場人物たちに、直接歴史を明かしてしまう」というところ。
流れを正しい位置に戻すためにせよ、そんなことをやってしまって、本当に歴史が変わらないといえるのか?と疑問だったのですが、
今回の行為が可能なのは、もしかすると遡行先が千年以上前という、だいぶ昔の時代だったからなのかな?と思いました。
なぜかというと、序盤のほうに「千年も昔のことなど、誰にも本当のことはわかりはしない」っていうような三日月のセリフがあって。
「どういう意味ですか?」といぶかしげに問う小狐丸に、三日月は答えないまま終わってしまうのですが、例えば今回のように、本丸からの遡行先がそれこそ千年以上も昔の時代にまでいくと、時間が隔たっているぶん、確固たる歴史というものは成立しにくくなっているのかな?と思ったんです。
時代を遡れば遡るほど、事実の特定は難しくなり、歴史解釈の幅が広がる、というのは現実の世界においても、ごく当然のことだと思います。
遡行先の時間との隔たりが大きければ大きいほど、歴史解釈はあいまいなものになり、小さな違いやズレも「今」という時間の終着地にたどり着くころには、あるべきところへ自然と修正されやすくなるのかな?と。
さらにそれを裏付けるかもしれないのが、幕末天狼傳の設定かも、と思ったんです。
幕末天狼傳では、安定が自ら志願して、新選組に潜入し時間遡行軍から新選組を守ることになりますが、歴史への干渉を最小限におさえるために、安定は自らの元の主である沖田総司と、言葉を交わすことを禁じられます。
そして隊長である蜂須賀虎徹は、安定に潜入を許す理由として、「歴史の流れは、大きな川のようなものだ。小さな変化は、のちの世に大きな変化を起こしはしない。残ったとしても、それは歴史解釈のうちにおさまる。そこを突けばいい。」と述べます。
(※初回観劇のあと思い出そうとしたらここのセリフうろ覚えだったので、今スマホからDL版をチラ見しました。ロスで心がしにました。…話をもどします。)
これは友達に言われたんだけど、三日月の感覚では、歴史は「水」だけど、はっちの感覚では歴史はもう「川」になっているんだねって。それを言われて膝を打ちました。
幕末と平安末期とでは、男士たちがいる2205年の「今」との隔たりの大きさが、数百年単位でまったく違います。
幕末天狼傳の時代は、歴史の終着点である「今」により近く、その分解釈が許されうる幅も小さいのではないか。だからこそ安定の潜入は、歴史上の人物への接触を最低限にしなければいけなかったのではないかな、と。
三日月の行為が有効なのは、もしかすると彼が生まれた平安時代あたりまで限定になるのかな、という風に思い、自分なりになんとなくですが納得しました。
いや、三日月が人を惑わす(というか軽く操れる)力を持っているっぽい点を加味すると、それなんでもありやん、ともなるんですけど…笑
三日月のこの力の描写については、わたし正直あんまり掘り下げていなくて!
いや~天下五剣だもんね!長生きしているもんね!彼ならあり得るかもしれん、とつい、思ってしまうので。。神様だし。笑
あと小狐丸も、気を失わせた後の頼朝を「ふん!」って揺り起こして、彼の本心を垣間見ているので、不思議な力をもつのは三日月だけではない疑惑もあり(古い刀達に、もしかしてちょっとずつあったり?)、とりあえずいいかな、、と思うことにしています。なんか、わかんないけど、この理由をゲーム設定の奥に潜んでいそうな怖い部分に求めたりしたくないんだ。という逃げ!
◆三日月の心情について
三日月の一連の行為は、主の命ではなく、彼が勝手に自分の判断でやっていることだということも併せて劇中で述べられます。
三日月がなぜそんなことを一人でしているのか、主はこのことを知っているのか、と問い詰める小狐丸に、答えない三日月に変わり、僕なりに導き出した三日月の考えを、僕が彼を演じて答えるよ!という髭切が回答するのですが、その三日月(になりきった髭切)の返事はこのようなものでした。
「歴史を守るためとはいえ、兄弟を争わせ、友と友とを殺し合わせる。そのようなこと、主は知らなくていい。汚れ仕事は、俺が勝手にやればいい。主の心を、かげらせたくはない。」
私の勝手な感覚ですが、たぶん、これは半分くらいはあっていて、残り半分はちょっと違うのかな、という気がしています。
三日月が主のことを思って、自己犠牲でやっていること、というわけでは、100%ないんじゃないのかな…。少なくとも彼には、自己を犠牲にしているつもりはない気がする。
三日月が、敢えて直接頼朝や泰衡に会う道を選び、さらに自分の行為について、主を含め誰にも口を開かないのは、
それが「自分にしかやりようがなく、誰にも理解してもらえないことだ」とわかっているからじゃないのかな。というのが、私が感じた答えです。
「なぜ頼朝や泰衡に本当のことを教えたりしたんだい?なにもそんなことをしなくても…」と髭切に問われて、三日月はこう答えます。
「頼朝や泰衡は、俺と似ていてな。…のちの世に、形が残ったもの。亡骸ともいうがな」
それに対して髭切は「そっかぁ。同じく確かな存在である君は、歴史に残った彼らに、感情移入してしまうんだね。」と返します。
感情移入しているかどうか、ということについて、三日月は否定も肯定もしないのですが…。
千年もの長い時間を、いつかは必ず壊れるはずの「かたちあるもの」である刀が、磨りあげられた過去はあるとはいえ、時代の動乱を越えて残り続けるというのは、奇跡に近いことだと思います。
しかも三日月は、天下五剣一と言われる美しさまで兼ね備えており、誰もが特別だと認める刀です。
そんな彼が人の身を得て見ている世界は、おそらくは主にも思いの及ばない、まったく別なものなんじゃないのかな…。
形をもって残っているということは、目の前を過ぎゆくもの、散っていったものを、誰よりもたくさん見てきたということ。
確かに三日月は、髭切が推理したとおり、自分と同じように歴史上に確かな存在として残った人物たちに、心を寄せている部分もあるのかもしれない。
でも彼らとて、人の身である以上、限りある命。三日月のように、永遠に近い時を生きることはない。
歴史の流れの前では、人ひとりの思いなど、風の前に散る花びらのような儚い存在。
だけどその瞬間、頼朝も義経も泰衡も、彼らの生を、ただひたすらに、懸命に生きている。
歴史における一つの駒のようにも捉えられかねない彼らにも、たった一度きりの人生がある。
三日月は、歴史を守るという役目を果たしつつも、その中でできる限り、ひとりひとりの命の散り際を、少しでも本人の意に添うものにしてあげようとしていたんじゃないかな…って思ったりしました。ある意味では、慈悲をかけるように。
それを、のちの世に長く残ってしまったもののさだめのように捉えて、一人で受け入れているんじゃないのかな…。どちらかというと、主のため、というより、自分自身の納得のため、といいますか。
つなぎ留められない、時間というものの流れの無慈悲さ、その真実を、誰よりもわかっている彼が、「歴史を守る」という使命を帯びたとき、そのアプローチが他の男士とは違うものになるのも、なんだか当然のことのように思えてきました。
最初に、「誰にも理解してもらえないとわかっているから」って、投げやりなようにも聞こえる言葉を使ってしまいましたが、それは、どうせわかってもらえない、っていう意味じゃなくてね。
ある意味そこには、三日月の自負心もあるように思えていて…。
歴史の流れが淀み、意図せざるほうへ行こうとしたとき、その流れをもとある場所へ導きつつ、同時に人々の心に寄り添うことができるのは、自分だけだと。彼ははっきり、そう思っているのではないでしょうか。
だって何度も何度も、だよ。劇中の様子だと、一度や二度じゃなく、三日月は頼朝たちに出会っている様子なのです…。
普通に考えてさ、そんなこと繰り返してたら、精神が持たないような気がするのね?
歴史の流れによっては、今回のように、頼朝を惑わせて義経を殺すように仕向けたりしないといけないん、だよ…?
人の身をもつ刀剣男士たちには「心」があるって、阿津賀志山異聞から一貫して、触れられてきています。なので彼らの心も人と同じように揺れ動き、悲しみを負ったり傷ついたりするものだという点は、間違いないでしょう。
だけど三日月は、そんな柔らかな「心」を持つ存在になっても、自らを見失わずに、何度も同じ歴史を見守っては、時を渡って帰ってくることが、できている…。今のところは。
それができるのは、本丸の中でおそらく自分だけだろうって、思っている部分も三日月には絶対にあると思う。
このような苦しい役目など、とうてい若い皆には任せられまい。という、三日月の思いが見えるような気がするんです。
長い時を経てなお、確かな存在として今ここに残っていること。その存在が揺らいだことなど一度もなく、しかも人々に称賛される類稀なる美しさまで備えたまま、こうして今生きている。
そんな自分なればこそ、できることもあるのだろうと、三日月は一人で静かに決意しているのではないかな、と感じました。
そしてその行為の根底にあるのは、何より「圧倒的なやさしさ」なんじゃないかなって思います。
やさしさを感じる描写は、本当にたくさんあって…。
三日月が泰衡と語り合い、彼にその先の歴史を話して聞かせるシーンが、終盤に出てきます。
義経が生き残る歴史はそれこそ地獄である、義経を死に追いやることで、戦乱の世は防がれ、歴史は守られると説かれた泰衡は、その事実に当然のことながら耐えきれない様子で「なぜ私にすべてを教えてくれたのです?三日月殿の力なら…」と言うのですが、三日月はそれには答えず「蓮の花が、うつくしいなぁ」と、ただゆったりと笑んでみせます。
「何度目だろうか。泰衡。そなたとこうして、蓮の花を愛でるのは」
もちろんそのことを覚えているわけのない泰衡ですが、彼は「覚えていなくて、申し訳ない」と三日月にすまなそうに頭を下げます。
それに対して三日月はぐっと目じりをさげて「そういうところ、よっ!」とおどけた調子で、返すんです。
ここのシーンで、あぁ、三日月は、生きている人間のことが、大好きなんだな…って思いました。
だって、これから何度目かになるかわからないお別れを、泰衡ともすることになるというのに。
おぬしのそういうところ、変わらぬなぁ、といった調子で破顔する、その奥にあるもの。
それをやさしさ以外のなんと表現したらよいのか、私はわからないよ…。
そしてやり取りの中で心を打たれた泰衡は、
「わたしは、わたしの役割を果たしましょう。三日月殿も、三日月殿の役割を果たしてくだされ」と覚悟を決めて、最後にこう言います。
「もしわたしの亡骸に出会うことがあったら、蓮の花を手向けてくださらんか。」
三日月は答えます。
「約束しよう。」と。
ここで、記憶を前のシーンにさかのぼらせて…泰衡に最初に会った時の描写では、三日月は彼に「友よ」と呼びかけ、蓮の花を手元にかかげて歌い始めます。
「貴様のような友などおらぬ。曲者が!」と斬りかかる泰衡ですが、三日月は彼の刃をひらりとかわしながら、蓮の花を差し出します。
「お前にやろう」と言って。
この、最初の出会いのシーンで、三日月が泰衡に蓮の花を渡しているその意味。
もしかしたら、その“前”の回に出会った時の、泰衡との約束の一部を果たす行為、なのかもしれないなって…。2回目の観劇で思い、心臓が止まりそうになりました。
もちろんこのときの泰衡は生きていて、亡骸ではないのだけれど…。
泰衡と最期の別れをして、一人になった後の三日月のつぶやきは、
「約束は守る。年寄りだからなぁ。」
というものでした。
彼はやっぱり、長く生きている自分にしかできないことをやっている、という、確固たる信念が、あるのだと思う…。
なんというか、そこにやはり、天下五剣としての自負心も、私は感じてしまいます。
劇中でものすごく好きなセリフがあるんですけど(なのにこの記事最初に書いたとき入れ忘れてどんだけポンコツかと思ったんだけど)、
「俺は三日月宗近。…たかが三日月、ほんの小さな光でも、ないよりは、あるほうがましだと思わないか?」
公式のアンケートにも、印象に残ったセリフとして力を込めて書いたよね…。
誰よりも自分の存在感や、周りへの影響力を、自覚しているはずの彼が。
敢えて自分のことを「たかが」と表現する、その逆説的な部分が、かなり心にきます…。
この言葉をうけて、髭切は「うん、そう思うよ。」って穏やかな声で返すんだけど。
きっと三日月の周りの誰もが、たかがなんて思っちゃいないんだよ…。
同じように好きだったセリフで、髭切の「見えない部分も、月だったよ。」っていう一言も、ほんとーーーーに!!!もう!!涙
三日月が誰にも知られないところで心を砕いているその様を、自分なりに受け取った髭切のやさしさが…そうだね…見えない部分でも、彼は三日月として、とこしえの闇の中に、ひとり光を放っているんだ;;
強く圧倒的な存在感を持つものは、その面でも孤独を得ざるを得ないんだなと思うと、三日月の在り方に涙せずにはおれません。。
そして泰衡と別れたあとに始まる「しくしくくれくれ…」という歌い出しの三日月ソロが、とてつもなく、悲しい…!そしてまりおくんの歌唱力に圧倒されます。。
今回の開演前のオルゴール曲が、これなんですよね。。なんかもそれだけで「ウッ」となってしまっていたなぁ。。
歌といえば、三日月が最初の泰衡との出会いの場で歌う歌は「この花のように」というそうなのですが(ゲネプロレポで知った)、その歌詞がとんでもなくってね。。
「この花のように清く咲く その下には 濁る泥水」
っていう箇所があるんですよ。
ねえ、今なんて言った…?
その「濁る泥水」って、あなた、自分のこと言ってるでしょ…!?涙
となり、やはり話を理解してから見た2回目の観劇で、オペラグラス掲げたまま大号泣しました。。ちょっとこんなの、耐えられない!!!!!
あと「ぽん ぽん 聞こえるか」っていうのは、三日月にとっては、花はイコール命、つまりこれは命が生まれては消えていく音なのかなぁ、とか…思ってみたり…しました。つらい。とてもつらい。
花を愛でる三日月は、それはそのまま命あるもの、限りあるものを愛でている姿なのかなと。。
あとここ、まりおくんの声が本当に本当に、心底美しい…。元からお歌うまかったけど、つはもの、さらに腕をあげてきなさってて!
高音まで美しく透き通り、そして何よりも孤独がにじみ出ているような歌声です。思い出しても泣けてきそう。素晴らしいです。。
そして三日月のやさしさは、本丸の男士たちにも向けられています。
三日月の行為に関する描写とは別に今回衝撃的なのが、岩融と今剣がこの世に存在したことのない刀である、と明確に述べられる点なんですが、
三日月はこの「存在したことのない」彼らにも、自分なりのやさしさを向けていると思います。
自らが義経のもとにいた事実はないということを、今剣が知ってしまったらどれだけ傷つくかと不安を抱く岩融は、「ぼくは、そんざいしないのですか?」と尋ねてきた今剣に対し、「そんなこと、あるわけがないだろう!」と、明確に嘘の回答をします。
それを見ていた三日月は、岩融をともなって安宅の関へと向かいます。
「やさしさにも、いろいろある。」と言って。
そこで繰り広げられていたのは、まさに「勧進帳」で演じられる場面でした。
機転を利かせて白紙の勧進帳を見事に読み上げた弁慶により、一度は関を通ることを許される義経と弁慶ですが、役人に「その者、九郎判官殿に似てはいないか」と義経の顔を見咎められ、再び足止めを食らいます。
疑いを晴らすために、お前が義経公に似ているせいで、どれほど迷惑しているか!と吠えながら、一心に義経を打ち据える弁慶の姿を見て、岩融は「これを俺に、見せたかったのか…。」と呆然とした様子でつぶやきます。
「お前たちが、勧進帳の稽古をしていることは、知っておったのでな。」という三日月に、岩融は自分の今剣への行為が、独りよがりなものだったのかもしれない、と感じ始めます。
そんな岩融に、三日月は次のような言葉をかけます。
「敬愛する主を打った弁慶も、その弁慶を信じて打たれ続けた義経も、そしてその姿に心打たれて二人を逃がしたあの者も、皆、やさしい。」
「俺は、あの芝居が好きだなぁ。」
このとき、三日月が本当に穏やかな表情で、微笑んでいまして。。
君は…人が誰かにやさしい気持ちをかたむけているその姿が、好きなんだね…
そんな君が誰よりもめちゃくちゃ、やさしいんじゃないかな…って、思いました…。
またこの三日月の心配りをまっすぐ受け止める岩融も、また潔くって。
刀ミュ本丸の男士同士の関係性が、やっぱり私はとても好きです。泣ける。
そして、今剣へ示されたやさしさは、最後のシーンに結実していると思います。
今回のラストシーンで、義経は歴史上では死んだことになる一方で、ひっそりと逃げ延び、命を長らえることになります。
「義経、逃げろ。そなたは今歴史上で確かに死んだ。だが、命までくれてやることはない。」と言う三日月に、もちろん男士たちはみな驚き、「それではれきしがかわってしまいます!」と今剣も切羽詰まったように叫ぶのですが、
三日月は「安心しろ今剣。これも歴史のひとつだ。」と答えるのです。
今回のように、義経が命を落とさずに身を潜めて生きていく歴史の流れも、三日月は経験済みだった、ということだと思うんですが。
ここに至る上で、私の中ではあるシーンがよぎっていて…
これも序盤のほうなのですが、月夜にひとり「名残月」を歌っている今剣のもとへ、三日月がやってくるシーンがあります。
その歌声を聞いて、今剣が歌う名残月は、岩融のそれとはちがう。あらわれているのは苦悩ではなく、思慕、憧憬の念といったところかな、というふうに解説をする三日月なのですが、ふと表情を変えて、今剣にこんな言葉をかけるのです。
「今剣よ。もしまた、義経とあいまみえることができたら…」
でも今剣はそれを遮るように「いいんです。」と殊勝な言葉を返します。
「僕がまた義経公にお会いできるとしたら、それは歴史が変えられそうになっている時ですから。そんな時は、来ないほうがいいんです。」と、自らに言い聞かせるように答える今剣に、三日月は「そうだな」とだけ返すのです、が…。
もしかしたらですが、三日月はこの時に、もし次にまた平安末期に時間遡行することがあったら、義経が死なずにすむパターンの歴史展開に、できるだけ誘導しよう、って決意したんじゃないのかな?って思うんです。。
最後、平泉で討たれそうになっている義経のもとへ、時間遡行軍が押し寄せてくるシーン。
三日月は今剣に「義経の元へ行け」と、その場を離れて義経を追うように言います。
「でも…」と逡巡する今剣に、三日月がかけるのは、
「思いを残すな。」
という言葉。
かつての主のもとにいた事実はなかったけれど、まっすぐに義経を愛し、憧れを心に抱いている今剣が、自分の存在の有無についても、ちゃんと向き合える日が来るように。
思いを残すな、っていうのは、単に元の主の最後に立ち会ってこい、という意味じゃなくって、お前は義経に、なにか確かめたいことがあるのではないか?というふうにも取れるなと思えて。
全てをわかっている三日月だから、今剣が前に進めるための機会を、自分にできる範囲で作ってあげたんじゃないのかな、って思いました…。
考えすぎかもしれないんだけどね…
あと、この「思いを残すな」のまりちかさまの言い方が!もう…!!!!涙
三日月に関しては、こんなセリフの言い方がなぜできるか!の連発だったんですけど…
ここも号泣してしまうシーンの一つでした…。
「義経…行け!」も本当に涙腺がダメになる。
そこに覆いかぶさる鳥の羽音と、ピアノのイントロですよ…!
「後に残るものは 何か しるし」という歌い出し…
…なんて演出をするんだ…!天才なのか!??
そしてこの三日月のやさしさは、もちろん「強さ」に裏打ちされたものだと思うんだけど、それを思うと、どうしても。
幕末天狼傳で、兼さんが長曽祢さんについてはっちに語るときのセリフを思い出してしまいます。
「あの人は強ぇ。だが、悲しい。」
三日月についても、これが当てはまるなって…。
誰もが認める圧倒的な存在だからこそ、抱え込まなければならない孤独。
それとただ一人向き合って、誰にも理解をもとめることなく、淡々と歴史を何度も遡り、その行く末を見守っている…って、あまりにも、つらすぎない!!?なんでそんなことするか!!って悲しくなる!
だけど!私が刀ミュのことが本当にすきだな!と思うのが!ここで三日月が闇落ち描写されたりしないこと、そして、安易な解決に頼らずとも、物語の最後に光明を見せてくれるところ、です…。
ひとり途方もない孤独と戦っている三日月、彼はそれを誰かと共有しようとは、おそらく思っていないけど。
小狐丸は最後のシーンで「貴方のやり方が正しいとは思いません。でも、間違っているとも思わないことにしました。」と自ら出した結論を伝えます。
それぞれが正しいと思うやり方で、これからもぬしさまのために、できることをやっていけばいい、と。
それを聞いた三日月は「小狐丸殿…どうかな。茶菓子をひとつ。」と声をかけ、
小狐丸は「いただきましょう。」といつものようにおっとりと返します。
最後の戦闘シーンで、小狐丸は「三日月殿。…踊りますか!」と声をかけているので、和解というか雪解けというか…はすでに果たされているのだけど、平和な本丸で、こうして朗らかに談笑する二人をみると、やはりこちらの心もほどけます。
三日月は、やっぱり一人なんかじゃないのです。
彼の歴史介入の行為がこの先どうなっていくのかは分からないけれど、彼の周りには、ちゃんと正面からぶつかってくれたり、自分なりの考えを話して聞かせてくれる「仲間」がいます。
たとえば三日月が小狐丸の思いに打たれて「俺が間違っていた、こんなことはもうしない」…っていうような単純なお話では全くなく、
理解しえない考え方の違いもお互いしっかり抱えているけど、でもこれからも一緒に仲間としてやっていこうよ、っていうこの歩み寄りと信頼の姿勢が…!私の中での刀ミュ大好きポイントです;;!!!
今回つはものを見てから、三日月のことが頭から離れなくなっております…。
彼の描かれ方が、思ってもみない方向に進んでいったので、本当に今でも驚いてるんですが、だけどその描写にいやなところはひとつもなくて、よくぞこんな物語を織り上げてくれた。。という感慨で胸がいっぱいになってしまってます!
なんていうか、とにかく三日月にはしあわせになってほしい…心からの安らぎを得てほしい…やっぱり幕末組とかっぽれ温泉旅行してきてほしい…飲みましょう!!発動だよ!!!!
だけど変わらずに気高くつよい、食えないおじいちゃんでもあってほしい!えーーーん!!!!涙(まとまらない上に感情がぐちゃぐちゃ…)
ほかにも作品全体について言いたいこと、たくさんたくさんあるんだけど!とりあえず三日月についての思いを外に出さないとしんでしまいそうだったので、まとまってないですが、言いたいことをわーっと書いてみました。
最初に言ったけど考察ではなくて、自分なりの納得と感想の記録であり、最終的には三日月モンペになり果てたゆえの長文です。。そしてやっぱり、こんな風に思いを巡らせる機会を与えてくれる刀ミュがわたしはだいすきだ!!!
お付き合いいただきありがとうございました!