こたえなんていらないさ

舞台オタクの観劇感想その他もろもろブログです。

ミュージカル「ジェーン・エア」感想(萌音ジェーン・芳雄ロチェスターを中心に)

身内の激推しを受けて、ミュージカル「ジェーン・エア」を東京芸術劇場プレイハウスにて3月19日マチネ観劇してきました。
キャストの面々から察するに、歌に関しては絶対に間違いがなくて観たいやつ!とは以前から思ってはいたのですが、期待を遥かに超える満足感!本当に行ってよかったです。

ジェーンとロチェスターエドワード)のふたりを中心に、以下に感想をまとめました。

(柱じゃないところのポスターも撮るべきだったなぁ…笑)



上白石萌音さん・井上芳雄さんの組み合わせの良さに脱帽

今更すぎて申し訳ないのですが、なんと相性の良い組み合わせなのでしょうか!?いや、そんなのほんとうに今更だよな!笑
”20も歳が離れている”と劇中で説明されるとおりの年齢差なわけなんですが、
それが申し分ない形で生きてる!?良すぎ!?になって、
「やっぱりダディ・ロング・レッグス*1見たかったわ!」って思ってしまった。それ、今回とおんなじ文脈で絶対に最高のやつだったよね!?

というわけで、私が観たのはWキャストのうち萌音ちゃんのジェーン回。
萌音ちゃんのミュージカル姿を今回初めて観たのですが、とにかくその舞台上での存りようのすべてに心底圧倒されました。

佇まいがごく自然に物語をまとうそのさま、過剰な演出なしに、そこに在るだけで生まれる説得力。
そして何より、ミュージカルにおけるあの歌声の見事さ!

あの小柄な体から「歌」の概念そのものが溢れ出ているようでした。
今そこに心が動くただありのままに、感情が音と言葉になって迸るよう。
滑らかさと透明感が同居していて、あたたかみのあるオカリナみたいな声質が、
時に祈りそのもののように、時に驚くほどドラマティックに、劇場に響き渡る。

一幕、寄宿学校を出て家庭教師の職を得ることを決意したジェーンが歌う旅立ちの一曲。
未来と自由をのびやかに追い求めるその心を高らかに歌い上げる様に、本当に感情が揺さぶられて驚くほどに涙が出てしまいました。
ああgenuineだ、と思わずにいられない歌声そのものだけじゃなく、
ミュージカル的に欲しくなるここぞのボリュームをどん!と出してくれるところ。素晴らしすぎる。
白い襟に真っ黒な飾りのない簡素なドレス姿で、物語の主役をほぼ出ずっぱりで堂々と生ききる萌音ジェーン。あまりにもこの作品に似つかわしい!


そんな萌音ジェーンに対する、井上芳雄さんのロチェスター。(※観ていてどうしても「エドワード」での受け取りが強かったので、一般的じゃないかもですが以下呼称は「エドワード」で書きますね!)
高身長の芳雄さんが小柄な萌音ちゃんと並ぶと、本当にそのお姿が大きくて!
フェアファックス邸の主人たる貴族、どこか風変わりで予測の付かない行動を取る”変人”である「圧」と、
同時になんともいえない子供のような所在なさを湛えていて、一幕のあいだじゅう明かされない謎も相まってその様々な面でのアンバランスさに惹きつけられました。
物語の中における明確な孤児はジェーンのほうなのに、居場所を求めているのは屋敷の主であるはずのエドワードに見えてくる。

そしてお二人が並ぶと、惹かれ合うことにごく自然に納得感が生まれてしまうというか、
熱情ではない、でもとてつもなく運命的な心の通い合いが、ひとりでに立ち上がっていく印象がありました。

「まるでセイレーンみたいに呼ぶから」。そこに宿る真実性に救われた

生きる上で己を苛む不自由さのすべてに倦み疲れていたエドワードにとって、自分の望む心のままにジェーンを求めることは、現実的には絶対に叶わないはずの何か。
それでもジェーンを得たいと願ってしまったことをどう捉えるべきか、道徳的に許される部分とそうでない部分の線引きはどこか、といったことを勿論考えもするのですが、
もうとにかく……「まるでセイレーンみたいに呼ぶから」のあの1フレーズがトータルで描き出したものに、動揺と呼べるほどにやられてしまいました。

このフレーズが登場するのは一幕のラスト、ジェーンとエドワードのデュエット。
舞台の一番奥に立つエドワードと、反対に一番端の位置に立つジェーンが、お互いに呼応するように別々の歌詞に乗せて歌声を重ね合わせて、大きな音の波を作り出す。
嵐や海を思わせる歌詞の中に登場する「セイレーン」という言葉。
そしてそのモチーフは、二幕にこれ以上なくドラマティックに観客を再訪するのです。

その場面について説明するため、以下に二幕のあらすじをざっとまとめます。

ジェーンと結婚しようとした当日、エドワードが実は既婚者であることが明るみに出ます。
ごく若い時分に、持参金目当てでエドワードの父と兄が勝手に決めた結婚でしたが、結婚後すぐに彼女は精神を病み、エドワードはそんな妻の存在を屋敷の上の階に隠して暮らしてきたのでした。
その衝撃的な事実を知らされたジェーンは悩み抜き、どれだけ自分が願おうと、既婚者である事実を知ってもなお彼を愛し側にいることはできない、(宗教的に)その罪は犯せないと決め、エドワードのもとを去ってしまいます。

衝動的に屋敷を出た彼女は一文無しとなってしまい困窮し、路頭を彷徨った末に倒れたところを通りかかった牧師のシンジュンに助けられるのですが、
彼が自分の住まいとして彼女を招き入れたのは、かつてジェーン自身が子供時代を過ごした叔母のミセス・リードの家でした。
そうして数奇な運命のもとに、病におかされていたミセス・リードの最期に立ち会うことになったジェーンは、
過去の諸々に囚われて苛まれるミセス・リードに、幼い頃の自分が友人のヘレンから伝えられた”赦し"を送り、彼女を看取ります。

ミセス・リードの死後のある日、シンジュンは宣教師としてインドに渡るつもりであることをジェーンに告げるのですが、
彼はジェーンに自分の妻となってインドへ共に来るようにと、強引とも取れる態度で結婚を申し込むのです。(あらすじここまで)


以下は超・個人的な感想なのですが、ここのシンジュン、無理すぎポイントに触れまくりで本当に拒否反応MAXになってしまいましてね。。
めちゃくちゃに高圧的に感じられて……結婚に関しても申し込むというより「申し渡す」といった印象だし。
時代背景柄、相手の存在をナチュラルに下に見ているモラハラがすごすぎて一気にしんどさがこみ上げました。
ジェーンの存在について「君は愛のために生まれてきたのではない」の一言なんか、突然の一方的な存在否定が投げつけられていて恐ろしすぎる。
時代背景など鑑みると、非力であり立場のない女性は男性に従うのが当然で、とくに器量が良いわけでもない敬虔なジェーンには宣教師の妻という立場はこれ以上なくうってつけのものだとか、そういうことが言いたいのだと思うんですが、
心の底から「無理!!!インドへは一人で行って、どうぞ!!?」になってしまいまして。
愛されているわけでもないのに、彼は何故自分に妻になれと言うのかと戸惑うジェーンも、
それが運命ならばといった感じで一瞬受け入れそうになるので、「だめ、ぜったい、だめー!!!」って叫びたくなったところで、なのですよ。
そこに届いたのは。

「ジェーン……ジェーン……」

遠い彼方からの呼び声のような、どこから聞こえてくるものなのかわからない、幻のような美しい歌声が、空間にゆらりとたなびいて。
それはまごうことなき、芳雄エドワードのものなわけです。
その声を聞いた途端、はっと我に返ったように、「エドワード!」と声の限りに叫ぶジェーン。

もうこの演出に本ッ当にゾクゾクさせられましたし、何よりも観ていてこちらまで”救われた”気分になってしまった……。
まるで自分を放棄するかのように、愛されなくて当然だ、その価値などないのだからとでも言わんばかりの選択をしかけたジェーンを我に返らせて救ったのは、
現実的にはどうしようもないとわかりながらも、それでも「魂の理解者」として、本心から自分を求めていたエドワードの声。

「まるでセイレーンみたいに呼ぶから」を、あんなふうに二幕で具現化なさいますか???井上芳雄さん!!!になってしまった。
というか呼んでるのは貴方の方だったの……!みたいな。。

そもそも一幕のいちばん冒頭、登場人物たち全員が集まってくる場面で、
エドワードはセット奥の上手、後ろ姿で木の下に佇んで「ジェーン……ジェーン……」と歌っているんですよね。(そしてすぐ姿を消す。)
その場面では「わぁ、そんないきなりカゲソロ*2みたく贅沢に芳雄さんの歌声を使うなんてー!」って思っていたんですが、その存在がまるごと作品の中でリフレインとして効いてくるとは。。
とにかく演出の素晴らしさに唸らされた場面でした。
姿が見えなくても、心どうしがただ必死に呼び合っている。
ジェーンとエドワードの精神的な結びつきが、安っぽくならずに痛いほどの切実さをもって描き出されていて、本当に見事でした。

物語のラストで二人は婚姻関係として正式に結ばれるわけですが、
この二人の関係性は単純なラブロマンスというよりも、孤独な魂の双子同士の呼応、のような描かれ方に思えました。
恋愛感情としての愛というより、人間愛に近い印象*3
二人はお互いの本質の中に、自分自身と響き合うそっくりな部分を見つけた、ゆえに惹かれ合ったように感じました。

エドワードもだいぶ身勝手にジェーンに救いを求めたように受け取られかねないところ、そこまでの都合の良さは感じなかったというか、
行動の中身を見ると正直めちゃくちゃな部分も大きいのだけれど、それでも彼をいい加減な奴として糾弾する気にはなりませんでした。
舞台上に紡がれていたのは、ごく危ういバランスの中に奇跡的に成り立っている”純粋な何か”だったように思えて。
それをまとめあげた演出の力も、芝居と歌で魅せきったお二人も、本当にすごいなとしみじみ嘆息しました。

描きたかったのはきっと、「自分として、善く生きる」こと

原作は未読です。事前に芳雄さんのインタビューを読んでいて、キリスト教的信仰心、特に”許し”が背景として大きく横たわっていることを知り、
現代日本に生きる自分にとって果たして素直に受け取りが可能な物語なのか、正直観る前は若干の不安がありました。

実際、序盤の寄宿学校でのシーンでひどい仕打ちを受ける幼いジェーンに対し、
唯一の友人であるヘレンが諭すように歌う「赦すの」という言葉には、まったく頷くことができず。。
「いや、そんなん無理やろ!」としか思えなくて。
信仰心があればそこまで達観することができるの?その全てで、いま手元にある現世の苦しみが本当に救われるの?とどうしても思ってしまったんですよね。

でも、二幕で死の床にいるミセス・リードにジェーンが語りかけた「赦すの」には、
それまでジェーンが自分の人生を通じて得てきた真実の重みがしっかりと乗っていて、ジェーンがそう言うのだから……という気持ちに自然とさせられました。
それは、ジェーンの信仰心が盲目的ななにかなのではなく、自我を以て生きることを追い求める切実さに裏打ちされたものだからなのかな、と。

彼女がまず信じていたのは、自分自身に他ならない。
生きている限り、自分の信じる心の自由を、生の在り方を希求して良いのだと、萌音ジェーンから語りかけられたような感覚になる、そんな作品でした。
ジェーンが与えた過去への赦しもまた、彼女自身の心が決めたことなのだ。


19世紀半ばに紡がれた古式ゆかしい海外の小説を、ここまで現代性をもった物語として異国で届けられるのは、ある種快挙なんじゃないかなと思います。
篤い信仰心と、現代人が当たり前に持つエゴイズムってときに真逆に位置するもののようにも感じられるんですが、
萌音ちゃんのジェーンは現代につながる女性像をその内面に明確に持ちながらも、時代背景を背負う作品の中で矛盾なく生きられている。そのバランス感覚が素晴らしかったです。
ジョン・ケアードさんはテーマとして「その人がその人自身で在ることの尊さ」を真摯に描き出したかったのかなと、そんなふうに感じています。
ジェーンは自分が自分であることを諦めずに他者とかかわり、より善く生きることを懸命に目指した。その道筋の中で、彼女は赦しや愛をその手のうちにあたたかに掴み取っていくのです。

セットと呼べるものはほぼないといえるほどに簡素で、舞台上には荒野を思わせる木々と草花のセット、その他には最低限の机やベッドが時折登場するだけ。
ごく限られた情報量なのに、だからこそ総体として伝わってくるものが大きくなっているように感じました。
二階席から見ていたのですが、床に落ちる照明がどれも大変うつくしかった。
緊張感をもってとても緻密に織り上げられた作品世界に、安心して身を委ねて楽しむことができました。



他のキャストの皆さんも素晴らしかったのですが文章で触れきる体力が……!生でゆきちゃん(仙名彩世さん)の歌声を聞けたのがなにげに初な気がしてびっくり&嬉しかったー!
観に行けてよかったなぁ!と心から幸せなため息をつける作品に出会えた時の喜びよ。
4月1日・2日には配信も決定しているそうなので興味のある方はぜひ。
janeeyre.jp

*1:そもそもなんですけど演出と音楽が今作とおなじなんよ!笑 そんなのますます見たかったわ! https://www.tohostage.com/ashinaga/

*2:これ宝塚用語ですかね?他で聞かないのですが便利なので使ってしまった。カゲソロ=姿を見せずに舞台袖などで歌声だけをソロで届ける演出なんですけど、この時エドワードの後ろ姿は見えているので厳密には違います。ややこしいな!

*3:もしかしたら、原作的にはそれは信仰心がベースになったものなのかもしれないのですが。