こたえなんていらないさ

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ミュージカル「エリザベート」2022年公演の感想① / 黒羽麻璃央くんのルキーニについて

エリザの話がどうしても書けないままで、気づけばこんなタイミングまで引きずってしまいました!
あのう、もう23年の3月なんですよ。初日はいつだったとお思いで!?
2022年10月9日ですね。5ヶ月前て。。

書けなかった背景だとか演目への思い入れとかそういう周辺の話をしだすと、いつまで経っても本筋まで絶対にたどり着けない!のでそこはばっさりカットしました。
なるべく冷静(?)に、演目を観た上での純然たる感想として、最初にまりおくんのルキーニについてだけ書きます。
(以下なんとなく、文末がですますからである・だに変わります。そういう気分)

2022年10月9日、初日開演前の帝劇前にて




エリザベート」の解釈が変わった年

私にとって、2022年-2023年のエリザベートは「これまで抱いてきたエリザという作品そのものの印象が大きく変わった」エポックメイキングな公演になった。
これまではひたすらシシィの一代記として、あくまでもタイトルロールである彼女の存在そのものに注目して見てきた自覚があるのだけれど、
逆に言うと「シシィの存在に惹きつけられるあまりに、その他の要素や解釈に意識が及びにくい」という側面も自分のなかにあったように思う。

エリザの一幕は、構成としてわかりやすいし、ドラマの起伏が明確で非常に観やすい。
命を落とすはずだった少女時代のシシィが黄泉の世界でトートに見初められ「返してやろうその命を」と、再び現世に送り出される。
その後思いがけない”番狂わせ”により、オーストリー皇帝フランツ・ヨーゼフの妻、つまりは皇后となった彼女は、
古いしきたりや規律に支配された宮廷の中で必死にもがきながら、持ち前の意志の強さで自我を確立してゆく。

一幕のラスト、鏡の間であの有名な肖像画の”星のドレス”を身にまとい、神々しいと表現したくなるほどの美しさで「私が命委ねるそれは 私だけに」と高らかに歌い上げる、あの途方もないカタルシス
そしてシシィは勢いよく扇をかざして自分の顔を覆い隠し、途端に暗転。
何度見てもあの演出には「参りました!」とひれ伏したい気持ちになってしまう。

一方の二幕では、打って変わってシシィが徐々に夢破れていく様子が描かれる。
彼女が溌剌としていたのは冒頭の「私が踊る時」まで。
それ以降は自身の立場の虚しさや、夫の女性関係の裏切りに直面し、失望し、結果的に宮殿に寄り付かなくなっていき、
そのまま”老い”という動かしがたい運命からも逃れようかとするように、ヨーロッパ中を彷徨う。
息子ルドルフを失った後はより深い絶望の中に在り続け、皇帝との間に夫婦の愛を再び分かち合うようなこともなく、ルイジ・ルキーニの凶刃に倒れるまで彼女の放浪は続く。


正直、2019年までの観劇では、私のテンションのピークは明らかに一幕にあった。
シシィの描かれ方と呼応しているので当然なのかもしれないが、二幕は言ってしまえば暗いムードに覆われていて、心が浮き立つような描写がほぼ存在しない。
現世の全てのくびきからシシィが解放され、愛のテーマをトートと共に歌い上げるラストには、一幕とはまた違うカタルシスが当然あるのだけれど、
一方でどうしてもそのラストに向かうまでの感情が見ていてもうまく作れなくて、「あれ、なんか急に終わった……?」というやや置いてけぼりをくらったような印象が、実はずっと拭えずにいた。


でもその印象は、推しであるところの黒羽麻璃央くん演じるルイジ・ルキーニに注目して観ていた2022-2023のエリザで、本当に大きく変わった。
それくらい、ルキーニという役はとてつもなく大きく、物語の受け取り方を観客に提示する重要な役割を担っているのだと、今回改めて気付かされた。

狂言回しという役割の意味と大きさ。役者としての「華やかさ」は、それを演じる上で武器になる

初めて意識的にルキーニを主軸として見たエリザベートは、これまでとは違う、未知の新しい色合いに満ち溢れていた。
最初は「エリザが上演されている」現実に追いつくので精一杯で正直それどころではなかったのだけど、
数回観たあたりで、過去感じていた二幕のわかりにくさとか唐突さがまったく感じられないことに気づき、本当に驚いてしまった。
二幕のラストまでの全体像を一本の軸が通ったものとして、びっくりするほどにすんなりと受け入れることができたのだ。
それは2019年までの観劇では全く得られなかった感覚で、あれ、私はなにをわかりにくいと思っていたんだっけ?となるくらい、その印象の変化は鮮烈だった。
正直なところ、「つまりこれまでの私は、ルキーニの話をちゃんと聞いてなかったのでは……?」と若干反省したほど。笑

ただ、観ている私の意識のポイントが変わるだけでは、ここまで明確に作品全体の印象が変わることもあるまいと思う。
それはあくまでも、役者としてのまりおくんの力の為せるものだったのではないかなと。


初日、SCENE1で第一の尋問~我ら息絶えし者どもが始まった時、そのルキーニとしての立ち姿に本当に目が釘付けになった。
まりおくんには、生まれ持った役者としての圧倒的な華がある。と常々思っているのだけど、
帝国劇場の舞台ど真ん中、エリザベートの世界の中心で、その華は初日から遺憾なく発揮されていた。
その世界においてひとりだけ存在が異質なものであるとはっきりわかるギラついた異物感が漂っていて、その浮き上がり方に否応なしに目を惹きつけられる。
その場に馴染んで溶け込み同質化するのではなく、あくまでも周囲とは違う役割を担う存在として、エネルギーや圧を発散している。
上演時間中、そのパワーの放出はずっと途切れることなく続いていて、ルキーニに注目していると自然と物語の中心に連れて行ってもらえるような、そんな感覚になれるのだ。
「さぁ、とくとご覧あれ!」といったパッと瞬間的に観客の耳目を集めるセリフにとにかく説得力があるし、何より声がよく通るので、語り手としての語りかけがとても聞き取りやすい*1
エリザベートというひとりの女性の物語を語り聞かせる役割を担う上で、まりおくんのこの持ち前の華やかな存在感は、とにかくプラスに働いているように感じた。

押しも押されぬ「帝劇プリンシパル」としての堂々たる歌唱力

更に、公演が始まってから急角度でぐんぐんと進化した歌唱力の存在もとてつもなく大きい。
ルキーニは、どう考えても歌えないとお話にならないレベルに歌にもしっかりと比重の乗った大役である。
そもそもの曲数が多く、民衆に交じる「ミルク」を除けば、役割上誰とも声を合わせて歌わない、つまりはソロばかり。
その中に難曲ばかりが揃っていて、改めてなんて恐ろしい役なのかと震えた。
でもそんな難曲をきちんと自分のものとして、安定して聞かせきるだけの十分な力が、今のまりおくんにはあったのだ。

過去、主にボリュームの面に課題感があったように思う低音域も、難なくビブラートつきで豊かに響かせたかと思えば、
もともと得意だった高音域での「エリザベート」の繰り返しなどは、ここまでうまくなりますか!?と唸ってしまうほど見事だった。
冒頭の「エリザベート大合唱」のラストではそれこそトートと呼応しあうように歌わなければならず、プレッシャーもかかるだろう中、自分らしさも乗せた本当に堂々とした歌声で魅了するようになっていった。
得意音域すぎるのもあって、あそこは本当になんべんでも聞いていたかった。だって、歌がうますぎる!
ほんの少し鼻にかかった甘さのあるもともとの声が、ルキーニとして違和感ないところにうまく着地していたのもシンプルにすごい。
更には芝居の中で”セリフを言うように歌う”ことも実現できていて……ちょっとあまりにも言うこと無しすぎる歌唱なのでは!?と、ファンは最早あっけに取られて観ていた。
ファルセットも自在に操れるようになっていて本当にびっくりさせられたし。。
「そこでは」とか「さあ」とか、細くたなびくようなファルセットでしっかりと音を安定して置きに行けるの、本当にすごい!


特に、公演最終盤の博多座での充実は素晴らしかったなと思う。
井上芳雄さんとの共演がようやく叶ったことも刺激として大きかったのではないか?と個人的には思っているんだけれど、博多座での歌唱には、技術面でそれまでになかった新たな伸びを随所に感じた。
申し分なく安定した音程やボリュームの上に、表現としてこう歌いたいという要素ががっちりと噛み合っているような感覚になる、本当に惚れ惚れするような歌声だった。
現地観劇ラストになった1月30日マチネに聞いた「ミルク」。民衆を扇動しながら自らも怒りに燃えるような鬼気迫る大迫力で、特に忘れられない。

ルキーニは曲のすべてをまともに歌えて始めて評価の遡上に乗るような役だと思うので、
それをここまで堂々とやってのけたこと、ひとりのファンとして勝手ながらとても誇らしかった。
今回初めてまりおくんの舞台姿を観た人が周囲に何人かいたのだけど、
その全員がまずは「歌がうまいね!」って褒めてくれていて、そうかぁ、真っ先に歌唱力に言及されるほど、歌がうまくなったんだなぁ……と、感慨深くならずにはいられなかった。
歌、本当に上手くなられましたね……!

暗殺の動機がどこまでいっても”Un Grande Amore”なルキーニ

まりおくんのルキーニは、エリザベート皇后暗殺の動機が明確に”Un Grande Amore”のせいなのだな、と納得させられてしまうところも特色のひとつだと思う。

地獄の裁判官への申開きとして、なにか口実やでまかせとしてでっち上げて言っているのではなく、
死を司るトートという存在に自分は導かれただけで、暗殺はシシィ自身が望んだものとして起きたのだと、本心からそう信じて主張していそうな雰囲気があるのだ。

ルキーニ自身が生きていた時の本心や感情が、透けて見えるような見えないような、その在り様にじっと目を凝らすけれど本質はどこにあるかわからないような、
なんともいえない多面的で揺らぎのあるその存在は、トートと同じ世界の住人としての暗殺の正当性を思わずこちらに信じさせてしまう力があった。
その点では「狂気」が特色と表現されても良いのかもしれないが、その単語ひとつで評してしまうには、あまりにもったいない複雑さがあるように思う。

今彼の瞳に宿ったのは何色だろう?と、毎度覗き込みたくなるような感覚だった。
シシィを始めとするハプスブルク家の面々に対する嘲りや怒り、「市民よ怒れ!」と民衆をけしかけながら同時にこっそりと浮かべる飄々とした笑い、
トートに対して見せる恭順の姿勢、幼いルドルフへの眼差しにだけうっすらとよぎる、同情や共感一歩手前の僅かな感情の揺れ。
そしてその合間合間にふと現れる、なにも映さない「無」の瞳。

これを語る上で外せないのが、なんといっても「HASS」の凄みではないだろうか。
狂気以外の語彙で表したいと言いつつもうまく言葉が見つけられないんだれけど、シェネラーから軍服への早変わりの時点で、その一挙手一投足がもうたまらない……。
ニヤッと笑みを広げて腰から軍帽をピッと取り出して被るその芝居がかった手つき、
「皇太子は赤新聞に投書している!我々の指導者ではないッ!」の早口で甲高い神経質そうな声、
闇広のイントロの中でハーケンクロイツの旗の後ろに消えていく瞬間にルドルフに向ける、あの表情のバリエーション。
ニヤッと目をかっぴらいた不気味な笑みを浮かべる時もあれば、全くの無のまますっと姿を消す時もあり、どんなに遠い席でも毎度オペラグラスに必死にかじりついて見つめていた。あまりにも好きすぎて。


狂言回しとして明確に観客を引っ張り続ける力がありながら、同時に何を考えているかわからない掴みどころの無さを同居させているところ、
本当に、これはまりおくんならではだなぁ……と毎公演、しみじみと心ゆくまで幸せを噛み締めるように観ていた。
彼のこのお芝居の繊細さ、複雑な織り上げ方が、本当に大好きなので。


その複雑性は、ラストの「悪夢」でぎゅっと凝縮されていく。
フランツが悪夢の中でトートと対話しているあいだ、下手側の階段に腰掛けて俯いている時のまりおルキーニ。
その存在がとつぜん周囲の世界から切り離される様子は、まりおくんの持ち味の真骨頂だなぁ……と嘆息しながら見ていた。
あんなに明確に狂言回しとしての役割を担っていたのに、急にひとりだけぽつんと別な位相に飛んでいってしまう。

そうして自分ひとりの世界にいるルキーニは、目をカッと見開いて首をぐりんと回し、どこにも焦点の合っていない眼差しで、なにかをぶつぶつと呟きながら暗がりの中で徐々に顔を俯けていく。
そこに降ってくるトートの「ルキーニ!早く取りに来い!」の呼び声。
はっと顔を上げたまりおルキーニは、一瞬なにが起きたのかわからないようなぼんやりした表情を浮かべるのだが、その目がナイフを認めた瞬間、顔じゅうにギラリと鋭い光が宿る。
まるでなにか救済を受けにいくかのような感極まった表情でトートを振り仰いだかと思うと、ふらふらとそちらへ歩み寄っていく。
必死に取り縋るフランツの存在など全く目にも入らない様子で、彼の意識はきらめく凶器に向かって一直線に収斂し、そして”皇后暗殺”という幕引きとして結実していくのだ。


あのトートの声により、ずっと世界の額縁の”外”にいたルキーニがぐいっと世界の内側に引きずり込まれて、
その精神が一気にシシィを暗殺した時間軸に巻き戻っていく様子、何度観てもゾクゾクさせられてたいへんに見事だったし、とにかく大好きだった。
最初から最後まで、あぁ、このルキーニにとってはその行動原理が”Un Grande Amore”だったのだなぁと思わせられるアプローチ、それがまりおルキーニの特徴だったように思う。*2


公演期間中色々とあっため続けていた感想を一気に放出したんだけれど、演劇キックの劇評で近いことが書いてあったりして「やっぱりそうだよねー!」と思えてなんだか嬉しかった。
とても読み応えと愛がある劇評だったので貼っておく。

帝国劇場から博多座までの旅路で進化を続ける『エリザベート』上演中! | えんぶの情報サイト 演劇キック

以下引用したここなんかが特に好きで「同意!」しかなかった。

これまでのルキーニ像より、制御できない自身の感情をトートに操られていく一面も見えたのが、黒羽の演じるルキーニとして印象深い。証言が認められて、無罪放免になってもいいのでは?と思わせもするルキーニで、小池の潤色によく叶っている。


ひとまずはこんなところかな。。
もともと大好きな作品が観られる時点ですでに満足しかなかったけれど、
推しがルキーニを演じるという全く新しい観劇体験ができたことにより、自分の中でのエリザベートという作品そのものの解釈が刷新されて、本当に心の底から贅沢な数カ月間でした。


思い入れとかあれやこれやは取っ払って、とにかく”感想”だけを頑張って書いてみたんですけど、どうでしょうかね。。?
いうまでもなく、ここに書かれている諸々はもちろんファンの欲目という可能性が十二分にございますので、そこんところはひとつお手柔らかによろしくお願いいたします。


そんなわけで、かつての秋にうわ言のように繰り返し続けた「推しがエリザでルキーニ」が、ようやく叶った次第です。にしても、お前本当に書くのが遅いよ。あっためすぎだよ。なにを孵化させる気だよ。。

ここに至るまでに本当に、それはもう本当に、いろんなことがありすぎましたよね。

この記事は調子にのって①ってナンバリングしたんですが、エリザ全体についてと、「なんかもうどうにもなんねぇよな!!!」だった2年半分の巨大感情について、別記事も書けたらいいな~と思っています……この先の体力次第!

追記:ぶじ②がかけた
anagmaram.hatenablog.com

*1:この点に関しては、推しの声ゆえにあまりに耳に馴染みすぎていて私が聞き取りやすいだけなのでは…!?とまで考えたけど、普段あまり舞台を観ない友人からも同様の感想をもらったため安堵した。

*2:前楽の配信で初めて上山竜治さんのルキーニを観た時、同じ役でもここまで違うものなのか!と本当に新鮮だった。上山ルキーニは、明確に意志を持ってシシィを暗殺しに行っていて、その動機や辿ってきた感情の道筋が二人のルキーニで全く違うことがよくわかり、Wキャストって本当に面白いな!と改めて思った。