「オペラグラス禁止とオレンジ色の服はNG」の件について、昨日からおびただしい数のツイートを目にした。
舞台オタクはみんな怒っていた。
発端となった記事はたまたま早めのタイミングで読んだが、舞台オタクの反応がああなるのは無理もなかろうと思う。
fan.books.rakuten.co.jp
私がいち観客として観劇を愛しているのは、その自由さにある。
目の前に広がる、生きた役者によって繰り広げる世界を、どのように観てもよいということ。
おなじ光景が広がっているとしても、どこに注目するのかは観客ひとりひとりに委ねられていて、細部に注目したってよいし、俯瞰的な視点から全景を楽しんだってよい。
その判断はすべて、観客の自由意志に基づくものだ。
だからこそ、自分にとっての、自分だけの観劇体験がそれぞれの中にかけがえのないものとして生まれ得て、そしてそれは他の誰からも侵せない。
この特性から、私は客席に座っていて究極的に「個」を感じているし、そこにたとえようもない精神的な充足感も味わっている。
オペラグラスは禁止、という発言がなぜここまで観劇を趣味とする人々の反発を招いたのか、
その理由は人によって様々だと思うが、私個人に関して言うと、この「観劇の自由さ」を侵犯されるものだったから到底受け入れられないな、と率直に感じた。
その上で、新たに発表された下記の文章も拝見した。
https://comrade.jpn.com/shindosan/pdf/shindosan_info250723.pdf
冒頭に書いていらっしゃるように、前提として「自由である」という認識がおありならば、やはり「禁止」という一方的に行動を封じるような言葉はシンプルに使うべきではなかったのだろうと思います。
そして、映像とは異なる生の舞台で演出意図を伝えるのはとても難しい、という趣旨の内容についても述べておられるが、
それはそのままイコール「映像ではなく舞台なのだから、当たり前なこと」のようにも私には映った。
そもそもの話になるが、演出意図どおりに作品が伝わりやすい座席というのは、多分劇場内において実際のところかなり少ないのではないか?と観客としてはつねづね思っているからだ。
同じシーンであっても、「1階席のセンターブロック、前から7~10列目あたり」で観るのと、「2階後方のサイドブロック」で観るのと、「1階のめちゃくちゃ前だがほぼ壁ぎわ」で観るのとでは、当然のことながら見え方が全然異なる。
照明の加減も変われば、役者の立っている向きやセット、自分のいる座席位置の組み合わせによって、板の上にいる役者のうち「誰の顔が見えるのか」すらが変わるのだ。
同じ作品でも、座る席が変わるとこうも受け取る印象が変わるのか、情報量が変化するのか、としょっちゅう体感しているし、
いわゆるドセンの席で観られた時に初めて「ここはこういう意図をもって作られた場面だったのか!」とびっくりしながら理解することは、ままある。
でも観劇って正直、そういうものに決まっているのだ。
ものすごく観やすい席で観られることばかりなんかじゃない。むしろそうじゃないことのほうが、我々観客にとっては正直ものすごく多い。
演出意図がどうしても伝わりにくいであろう端の席であっても、極端に斜めの視界であっても、
でもその場に生きている役者の生の表現から伝わってくることは絶対にあるので、その体験を愛して劇場に足を運んでいる。
そしてだからこそ、オペラグラスを使いたい瞬間だってものすごく出てくる。
角度的に見づらいけどオペラグラス越しならキャッチできる表情はたくさんあるし、
メインの場面じゃないところで起きている芝居こそをみたいときなんて、本当にいくらでもある。
そういう時に、暗がりで照明があまり当たらない位置にいる役者をオペラグラスで観て「今どんな表情をしているのだろう?」と確認したりする。それが私にとっての普通の行動であり、感覚である。
同様に、好きな役者の顔をとにかく必死で観たい時だってたくさんあるし、「床におちる照明がきれいに見えるはずの席だから今日は全景を楽しみたい!」という日だってある。
そして、その場面で起きている演出的な視線誘導に気づきながらも、それをわざとガン無視している時だってある。だって他に観たいところがあるんだもの。
その時の気分で、その時の好きなように、観ている。それが舞台の楽しみ方だし、醍醐味だと思っているから。
なにが言いたいかと言うと、演出意図を観客に伝えづらいことは、イコールそのまま「生の芝居を届ける」演劇の本質でもあると思うので、
「演出意図が伝わりづらいから全体を見てほしい、だからオペラグラスは禁止」というような言葉が選ばれてしまったことには、
それは作品を作る側から観客へ対しての信頼関係の毀損が行われている、というふうに感じる。
作り手としての意図が完璧に伝わることはないかもしれない、思うように観てもらうことは難しいかもしれない。
そうだとしても「生の表現」にしか出来ないことを愛するから、演劇はつくられていて、
私たち観客は劇場に足を運ぶのではないでしょうか。
板の上に立ち上がった作品がどのように受け取られるか、どう観られるかは、
演劇作品を作る以上、観客に100%の自由さで委ねられてあってほしい。
それが、板の上と観客との間にあるべきコミュニケーションであり、信頼関係なのではないか?と思う。
こちらの精神性の自由さや想像力を信頼して手渡してもらえない限り、観客として作品を受け取ることは難しい。
どのように作品を観るかは徹頭徹尾観客の自由意志によるものであり、私はそこを譲る気はこれからもないなと思った。
そして最後に蛇足となるが、観客側に「守るべき」マナーがあるとしたら、それは「他の観客の鑑賞行為を妨げない・迷惑行為を行わない」ためのものだけだと思うので(例:上演中にスマホを鳴らさない、前のめりにならないなど)、
身につける衣服についてよくわからないNGが設けられても、それは観劇マナーとは似て非なる別物である。
特定の色の服を着て来ないで云々の話は、もしも本当にそういった行動を取らないでほしいと役者のかたご本人が望むのなら、
ご自身のファンクラブなりでターゲットを絞って発信すれば良いと思う。でもそれは、「観劇マナー」の話ではない。
書かれていないことまでを読み取ることはしない上で*1、明確に自分の中で表明したいと思った内容について書きました。
私はこれからも自分の自由な意志で、好きなように、舞台を観ます。観劇が大好きなので。
*1:そもそもそういった発言がなされるのは観客をバカにしているからだ、一種のマンスプレイニングだとする向きの発言もかなり多く見ましたが、バイアスをかけずに「書いてあること」に対する反論を試みようと思った次第です