SNSとタイトルに書きましたが、このエントリー内では「ツイッター」を想定して書きます。
おたくの情報収集に欠かせないツールであるツイッター。最早わたしはツイッターを使えないと生きていけない自信がある。でもそんな便利なツイッターは使い方を間違えた途端、私たちを著しく疲弊させてしまう諸刃の剣でもある。
なんで急にそんな話をはじめたのかと言うと、
「見たくないものを見て不要に消耗することを防ぐ」ために、わたし自身が普段から意識的に心がけていることがいくつかあるんですが、
自分にとって見ない方がいいものは見ない方がいいし見る必要もないと思ってます。それで傷ついたり消耗したりしたら疲れるだけだから
— あなぐま (@numa_mistake) 2019年7月1日
知らないことが多くなっていいの?って思われるかもしれないけど、どうせ全てを知ることはできないから、それならチューニングは自分でした方が良いかなって
↑こんなかんじで考えてることをなんとなくつぶやくと、そこそこ反応を貰うことが多いので、ニーズがあるのかな?と思い、いちどまとめて書いてみることにしました。
(※なお、わたし個人は今現在困っていることは特になにもないです。いたって平和に楽しいおたくライフを送っています!)
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◆1点目:「見たくないものは、見ない」。そのためには戦略的に逃げを打つ
冒頭に貼ったツイートどおりですが、まず前提は、これに尽きると思います。自衛による先手必勝、ですね。
なにが自分にとってクリティカルダメージに直結するのかは人それぞれだと思うんですが、それがある程度わかっていて避けられるなら、あらかじめ避けてしまえ!と思うわけです。
わたしの場合ですが、「なにかを貶めることがもはや目的って感じの言葉遣いをするアカウント」は、まず一切見ないようにしています。
それが推しに関係してようがしてなかろうが、です。
見たところで得られるものがないばかりか、疲弊するだけだとわかっているからです。
あんまり悪質だなと思ったらためらいなくブロックも発動します(TLで見かけることが普段まずないんだけど)。
またそういう類いのアカウントじゃなくても、自分のめちゃくちゃ苦手とする何かが表現されているのを見てしまったときは、そっと静かにそのアカウントをブロックなりミュートなりすることがあります。
もしかすると、ブロックすること自体をためらう人ももしかしたらいるかな?とは思うんですが、たぶんそこまではケアしきれなくていいのではないかな、と。
自分がブロックしたことで誰かを傷つけるかもしれない、までは、もう考えなくてもいいんじゃないかな…?
というのも、ツイッターって「通りすがり」の感覚で良いと思うんです。
フォローするもしないも、それぞれが自分の好きにやるものだし、自分の発言に対する相手のリアクションまでを縛れるものではないと思うんですよね。
「他人を嫌な気持ちにさせる発言は、なるべくしないように心がける」というのはマイルールであり、わたしが言葉を使う上での大前提です。
それでも結果、思わぬ形で誰かを嫌な気持ちにさせてしまうことだって絶対にあると思ってます。
だって、万人に好かれる、万人にとっての正解だけを喋ることは、誰にだって、どうしたって不可能だから。
…という意味で、ブロックしようがされようが、そこはお互い様であり得ることだなって手放した方が、気が楽でいいんじゃないかな。
他人に自分がどう思われるかまでコントロールなんてできないし、しようとするほうが多分まちがっている。だからこそ、ブロックされた/されないに対してストレスを感じても無意味だな、みたいな感覚があるかもしれないです。
なので「これはつらい、本当に無理だ」って思う瞬間があったら、自分を守るためにばんばん使っちゃえばいいと思います。ブロック。遠慮しなくていいと思う。
◆2点目:ツイッターでよく生じるタイプの「論争」は、触らぬ神に祟りなし
これはわたし個人にとって、という感じですが。全ての論争が無駄であるとか、見たくないと言っているわけではないよ!
ただ、そもそもなんですけど、ツイッターって論争に圧倒的に不向きだと思うんです。
というか、テキストを使った建設的な論争、うまくいく方が珍しい気がしています。
まず、ツイッターに限らず「議論」を成立させるためには、相手と自分の問題認識がそもそもおなじフェーズにないと、真っ当な形にはならないですよね。
前提を共有することが不可欠である、といえる。
わかりやすくするために極端な例で説明しますが、Aさんが「四つ足の哺乳類の話を幅広くしたい」と思っている一方で、Bさんは「ネコについてだけ話したい」と思っており、しかもそのことがお互いに伝わってないとしたら、まずは両者の前提を揃える必要があります。
Aさんはまずは「私はネコだけでなく犬やうさぎのことも話したいんです!」ってBさんに伝えて、自分のいる位置をわかってもらわないといけないですよね。
相手と自分がいる位置が揃っているのかを見極め、揃っていないとわかったら合わせようと試みるのって、実際にやるのはけっこう難しいことな気がします。
しかもたいていの場合、ツイッター上でもめている発言者のことなんて、どこの誰なのか、どんな人なのか、背景情報が全然ないことが多いと思うんです。
そういった「相手に対する情報が圧倒的に不足している」という状況の中で、更に「自分に対して敵に相当する立場の人」が発する言葉を、歪みなくフェアに受け取るって…果たしてそんなことができるのだろうか?と思うんですよ。その状態で相手からなにを言われても、ついすべてを否定的に捉えたくなってはしまわないだろうか?
…というような背景により、「果たしてツイッターでなにかしらの結論が出るような建設的な議論が展開できるのか?」と問われると、わたしはだいぶ首を傾げざるをえません。
おたく同士によるツイッター上の論争では、往々にして上記のような背景から「そもそも話が噛み合わない」状態が起きているような気がしています。
その結果として、噛み合わない話をただ延々と、いかに「自分の方が正しいかを周りに表明する」ために、やり続けてしまう面があるのではないか?と思うんです。
私がツイッター上の議論が苦手な理由は主に、ここにあります。
解決に持っていきたいという意志よりも、自己の正当性を周りに認めてもらいたいという欲求の方が主になってくるその様子を見ているのが、なんともいえず苦手なんです…。
めちゃくちゃ個人的な感覚なのであまり一般的ではないと思うんですが、その「自分の意見を周りに正しいと思わせたい」という意志に基づいて言葉が使われている様子自体が、あんまり得意じゃないのです。
見てるだけで、どうしてもヘトヘトになってしまうんですよね。。
話題がなんであるにせよ、自分側が信じる正しさのみで相手を殴り続けるみたいなその様子に疲弊してしまう。
なのでやっぱり、論争系もなるべく見るのを避けるようにしてます。(これも基本的にTLに流れてこないから見るケースがレアだけど。)
これは1点目に書いた内容とは異なって、予め避けられるたぐいのものではないので、出くわしてしまったら「くわばらくわばら」と思ってそそくさと逃げます。
ある意味では建設的でもなんでもないけど、なんか知らんがめちゃくちゃバトってんな!ってやつを見かけたら、とにかくそっと離れて見ないふりをする。それに尽きます。
人間、言われると言い返したくなりますもんね。それもわかるんだよな。
でもその、言い返す時の自分の言葉の使い方には敏感になっておきたいっていうか…言い方は強いですが、叩きのめすことが目的になってないか?っていうのが気になります。
すべての議論を避けるべきという話でもないし、話し合える可能性をはなから諦める、という話でもないのですが、自分の属する界隈において起こるすべての論争に付き合っていたら、間違いなくおたくは無駄に疲弊すると思う。
仮にですが、推しや自分の好きな作品や大切な友人にとって、何かものすごく不利益を生じさせる風説の流布がなされたりしたら、そのときはめちゃくちゃ頭をつかってどう戦略的に戦うか、わたしは考えるかもしれない。でもそうじゃない限りは、とりあえず論争地帯からは距離をとっておくと、心の安寧が保たれやすいように思います。
ここまで書いたことは、ご覧のとおり結論「逃げる」に終始していますが、見たくないものを見ないのは、別になにも責められたり、恥ずかしがったりするようなことじゃないと思います。
というのも、
◆言葉に対する感受性を無視してはいけない
と思っているからです。
例えば、自分が好きなものを、ひたすらに悪し様に言う言葉を読み続けていたら、気持ちよくいられる人の方が少ないと思う。
または、やたらとネガティブに周囲への呪詛を吐き散らし続ける様子なども、見ていて疲れるなぁと思って自然なのではないでしょうか。
ましてや、人を怒らせよう、悲しませようとすることを明確に意図してるような言葉はどうか。そこからダメージをくらってしまうことなんて、もはや自明すぎやしないでしょうか。
そうと分かっているものに、いちいち翻弄されて疲れてしまうのって、ざっくりいうと勿体無いし、損ではないかなと思うんです。
自分にとってつらいものを見たら傷ついてしまって当たり前なんだから、そこはまず、自分の感受性を守ることを最優先にしていいんじゃないかな。
その「言葉を見て疲れる、傷つく」ということに、蓋をする必要はないんです。むしろそこには、もっと自覚的になるべき。
なぜかというと、自分の感受性を守れるのは自分だけだから。
自分がなにに対して傷つきやすくて、なにに対して喜びを感じるのか。
その点について、ある程度意識的になって行動するだけで、ツイッター上で出くわすしんどいことは確実に減らせるし、反対に嬉しい場面も増やせる気がしています。
そこを他人や環境に任せるのではなくて、あくまでも自分のために、自分の裁量の範囲内でコントロールしようと試みるのは、戦略的かつ重要な守りの姿勢だと思います。
毎日当たり前のように、ものすごい量の情報に触れる生活。
その中で「言葉」が果たしている役割は、とてつもなく大きいと思う。
私は言葉に寄りすぎな人間ではある自覚はあるんだけど、言葉の使い方は間違いなく癖になります。
引き寄せとかそういうたぐいの話は得意じゃないけど、自分が使う・選ぶ・好む言葉によって、周りに集まってくる言葉の色合いが変わってくることは絶対にあります。
だからこそ、使うなら明るいことに、気持ちが楽しくなるようなことに言葉を使っていたいと常日頃思っているところがあります。実際にできてるかどうかは置いといて、「心がけている」とはいえると思う。
同じように、こういう言葉の使い方は苦手だ、しんどいと思うものからは、めちゃくちゃ逃げるようにしています。でないと、あっという間に傷ついてボロボロになってしまうことが明白だからです。
ツイッターという「ほぼテキストのみ」のツールを頻繁に使う以上は、言葉から受ける影響/自分の言葉が与える影響、どちらも軽んじすぎるのは危険です。
そこに介在する自分の感受性の在り方には、しっかりと耳を傾けたほうがいいのではないでしょうか。
わたしは、主に趣味において、「自分にとっての<好き>を見つけたあとは、それを守り育てていく内なる戦いがある」と思っているんですが、
その一環としてまずは「感受性を守る戦い」があるような気がしています。
楽しいおたくライフを継続していく上では、その戦略があったほうが、比較的うまくいきやすいし、何より自分が楽だと思います!
というわけで、言葉に対してしんどさを感じるときは、遠慮なくかつ積極的に「逃げ」を発動することをおすすめします!
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普段わりとそういうことを考えながら、ツイートしたりブログを書いたりしているな、というお話をまとめてみました。
…というとものすごく考えている人っぽいけど、んなことはなくて、見てのとおりツイートの大半は思いついたまま脊髄反射的に喋っているだけです!笑