こたえなんていらないさ

主に刀ミュ(ミュージカル『刀剣乱舞』)を愛しながら、舞台まわりをぐるぐるしている人

推しが売れるとき、何が起こるか ―きっと訪れるファンの「構成変化」について

ここのところ、「推しが売れる」ことについて、定期的に考えている。ほぼ毎日のように考えている、と言ってもいいかもしれない。

というのも、この一年、わたしは自分が応援している人の活躍の場がどんどん広がっているのを、目の当たりにしているのだ。

一番大きい変化はやはり、映像のお仕事がぐんと増えたことだと思う。
結果として、推しがテレビに出ているのを見ても、全然驚かなくなった。出演情報を「すごいなぁ」と思いながらも、ごく当たり前のように受け入れるようになった。
変化って急に起こるときもあれば、少しずつ外堀を埋められるように環境が動いていくこともあるんだろうな、そして今はきっと後者なんだろう…と思いながら、ぼんやりと時の流れを見守っている。
今から一年後は、いったい何がどうなっているのだろう。


推しが売れるとき、応援しているこちら側から見た<推しを取り巻く環境>は間違いなく大きく変わると思うんだけれど、
最近ふと気になったのが、売れたときの「本人からみたこちら側=ファン」の変化についてだった。

以降はわたしの超勝手な、オチなどないひとりごとである。




◆ファンという集団が、推しから信頼をもらえることのありがたさ

のっけからおたくのうわ言で申し訳ないが、わたしが推しているところの黒羽麻璃央くんは、とてもファンを信頼してくれる人である。少なくとも、わたしはそう思っている。
年に数回開催されるファンイベントで、その様子はとても顕著に現れる。

まりおくんの個人イベントのキャパは最大で700人ちょっと。小さいと300人台。
その数百人規模のかたまりの我々「ファン」に対して、まりおくんはいつも、とてもあたたかい感情、言うなれば「信頼」を寄せてくれているな、と感じさせる態度で接してくれる。
特定の、個別のファンを特別扱いする、ということは一切ない。そうではなくて、1対nの関係としての、対集団としての「信頼」なのだ。そこがミソ。ファンという<集団>に対する確固たる信頼があることが、言葉の端々や立ち居振る舞いのあらゆる部分から、なんともいえず、ものすごく感じられるのである。(具体的なエピソードはたくさんあるんだけれど長くなりすぎるので割愛する。*1
個人イベントでまとっているその空気感は、まりおくんがどこかよその現場にゲストの1人として登壇している時と、明らかに違う。


そんな個人イベントのときにまりおくん本人から溢れてくるのは、言うなれば「だって、今日ここに来てくれている皆さんは、俺のことを好きなんでしょう?だから来てくれたんでしょう?」といった、全力のありがとうムードである。
そこに疑いをさしはさむ余地なし、といった風なのだ。
その様子は、心のバリアゼロって感じである。ある意味、無防備とも言えるくらい。
あたかも、ごろん!と目の前に寝っ転がって撫でられるのを待っているねこ、みたいな具合なんである。推しをねこに例えるんか?という気もするけど、心象風景としてはこれがぴったりくる。


どうしてそんなことが可能なんだろう…と複数回イベントに参加する中で考え続け、わたしがたどり着いた結論は、まりおくん自身が「自分はファンから好かれている、もっといえば愛されている」ことを、当たり前の事実として信じてくれているからではないか、というものだった。
…誰かを応援していて、こんなにありがたいことが他にあろうか。ないよ。絶対にないよ!

「そう!よくわかってるね!ここにいる全員、君のことが大好きなんだぜ!」と大声でレスポンスしたくなるほど、ファンに寄せられるその信頼の純度は高くて、その様子だけでなんかもう、泣きそうになる。

だって、繰り返しになるけど、こんなにありがたいことってないと思う。人前に立つ仕事を選んだ人が、自分がファンに好かれているとごく自然に思えるって、ものすごく健全なことじゃないだろうか。わたしは応援している人には、できる限りそうあってほしい。
推しが推し自身を好きでいてくれるかどうかって、ファンの精神衛生を大きく左右する事項だとも思う。
たとえこちら側が「ファンはみんな君のことが好きだよ!好かれて当然の存在だよ!自信持って!」っていくら願ったとして、結局は全部本人の心が決めることで、こちらからどうこうできることじゃない。
だからそんなふうにファンに対して「ここにいるみんな、俺のことをすきなひとたち!」って言ってくれてるようなまりおくんの様子を見てると、わたしはなんともいえない、満たされたような気持ちになるのだ。


そんな具合だから、まりおくんのイベントはいつだってものすごく嬉しいし、楽しい。幸福感がはんぱない。間違いなくみんなに好かれている推しが、自分が好かれていることを体感して嬉しそうにしてくれているのだから、楽しくないはずがないのだ。
こっちが勝手に好きでいることを喜んでもらえることのありがたさというか…応援しててよいんだな、喜んでくれてありがとう、と思えるようなかけがえのない時間。
いつ出かけてもこの雰囲気は変わらない。だから「は~ほんとに応援しててよかったな!」という弾けんばかりのウルトラハッピーオタクになって、わたしはいつもイベントからの帰途につく。

◆「ファン」の構成要素が変わる時

…でも今後、仮に。
まりおくんがものすごく売れる日が来るとして、それがじわじわとでも、いきなりでも、どんな形なのかはわからないけどとにかく今の比じゃないくらいに売れて世間に知られて、こういう上記のような規模の個人イベント開催が難しくなる時が来るとしたら。
ツイッターやインスタのフォロワー数が、今とは比べ物にならないくらい増えて、いいねもコメント数も爆発的に伸びて、本人ですら把握しようもないような数になったとしたら。


その時は、まりおくんにとっての「ファン」の様子も、きっと大きく変わるんじゃないかな、と思ったのだ。
変わって見えるのはこちら側から見た本人だけじゃないはず。
向こう側から見たファンだって、きっと同じように変化することになるのだ。
少なくとも、お互いに顔の見えるような距離で、向こう側からファンを把握することは、きっとすごく難しくなることだろう。


その時、ごく当たり前のように「俺のことをすきなひとたち」と思ってもらえていたわたしたちファンの構成要素は、内訳がきっと大きく変わる。
今までなんとなく前提として共有してきた歴史のようなもの、文脈みたいなものを持たないけれど、まりおくんのことを新しく知って好きだと述べる人は、きっとたくさんたくさん、増えていることだろう。
ファンの母数が増えていけば、それはきっと当然の帰結だ。


そして、そうやっていつしか内訳の変わった「ファン」に相対したとき。
思わぬ瞬間に「あ、そうか、もう前とは違うんだ」って、心がひやりとしたり、もしかしたら少し傷つくような瞬間が、推し本人に訪れてしまうのではないだろうか。
最近になってふと、そんなことを考えるようになった。

IfにIfを重ねた話であって、正直なんの意味もないんだけど、仮にそういう事態が起きたら…と考えると、どうしたってわたしは勝手につらい気持ちになってしまう。
ファンというかたまりに圧倒的な信頼を寄せてくれるまりおくんだからこそ、本質的に傷ついたり、ショックを受けたりすることになってしまうんじゃないか…そんな風に思えるから。


売れるって多分、そういうある種非情な仕打ちをする側面もあると思う。
規模が拡大するならば、それは絶対に避けて通れない未来。


いつかそんな日が来た時に、こちら側からできることなんてやっぱりなにもないんだけれど、
だけどせめて「かつて同じ場にいて、信頼感が通じあってた時間を間違いなく過ごしたよね!」っていう記憶を持ち合わせる「ファン」のひとりとして、ただその場に居続けられたらいいなぁ、と思った。
たとえどんなに売れたとしても、推しが芸能界の荒波のど真ん中の波の先端(どこだよ)に放り出されたような時でも、ファンとしてただ、応援する者として、そこにいられたらな、と思ったのだった。
極めつけにわけのわからないことを言うと、多分それは「ひとりにしないよ!」という感覚に近い。
いろんなことが変わったかもしれないけど、前から変わらずに大好きで君のことを見てるよ!って、その時に言うことができたら、それが一番いいなと思った。
そんなことを思ったって、本人に伝える手段は、たぶんどこにもないかもしれないけど。



売れて人気が出るにつれて起こる環境変化は避けられないし、かつ当たり前のこと。そこに抗うことは本質じゃない。
だから、推しにとってのファン=「俺のことをすきなひとたち」の定義だって、いつかきっと、どうしたって変わっていくんだろう。


でもだからこそ、応援しているかぎり、この人のことが好きだなと思う限り、ファンとして「今ここにいる」ってことを、わたしは何度だって選び続けていたいな、と思う。