こたえなんていらないさ

舞台オタクの観劇感想その他もろもろブログです。

【こっちはめちゃくちゃネタバレです!】刀ミュ 葵咲本紀 初日観劇後の感想

行ってきました…葵咲本紀初日…!今年も刀ミュのある夏がまた巡ってきました。

もうね、なにをどう予想しても無駄だということがわかっていたのと、7月はあほみたいに忙しかったのでノー準備もいいところで、ただの丸腰で臨んだ結果、どえらい目に遭いましたね。ええ。本当に。

…というわけで、以下ネタバレします!ネタバレしかしませんよ!!!
「新作どんな話だったんだろ~?雰囲気だけでも知りたいな!」…みたいなノリでは頼むからこのエントリーを読まないでくださいね!全くおすすめしないぞ!(大声)

いつも言うけど、ただのいちおたくにすぎない私の文章で、刀ミュから受け取れるあなたにとっての初回観劇の衝撃を、目減りさせたくなどないのです!よろしくね!!!
なんならネタバレなしの記事もこっちに用意したので!笑
雰囲気が知りたい方はそちらへどうぞ!
anagmaram.hatenablog.com



いろんな面での動揺が本当にひどいので、いつも以上に支離滅裂な記事になってしまいそうです…
なんも咀嚼なんかできちゃいねえー!って感じなんですが、その勢いだけで叩きつけられるのも初日後だけだなぁと思うので、もうその面白さだけで書きます。
読みにくいと思うし、一般的に考えて読みたいものが書いてあるとは思えないので、そこんとこごめんなさい!
あと出てくるセリフはうろ覚えなので、細かい言い回しは間違ってる前提でお願いします!








◆描かれる時間軸

今回の新作…徳川家康と息子である信康が出てくること、また出陣する刀剣男士に蜻蛉切千子村正がいることから、当たり前のように、見る側には先日再演されたみほとせ(三百年の子守唄)のことがよぎりますよね。
でも、果たして時間軸は、そのままみほとせと繋がっているのかどうか…?
そればっかりは見てみないとわからないなぁ、と思っていました。
実際、歴史上の人物たちのビジュアルが発表になったとき、我々はみんな信康を見て「あれ…?」となったわけです。なんだか、私達が知っているみほとせの信康さまと、雰囲気だいぶ違くない?って。
なのであのビジュアル発表時、もしかしたら今回は、また違う時間遡行先なのかもしれない、と考えた人も少なくない、はず。なんだけど、

んなわけなかったわ
ゴリゴリにつながってましたわ…ちょっとほんと…いやあの…(動揺)
幕末天狼傳→むすはじのリレーと同様に、みほとせ→葵咲本紀へのリレーが明確に、なされていました。
いや、今年になってわざわざみほとせは再演をしたわけだし、普通に考えてそりゃあそうでしょ、って話なんだけど、予想の斜め上を行くような繋がり方だったので…!


なんと、蜻蛉切と村正は、本多忠勝井伊直政として、徳川家康の家臣に成り代わっている状態で、登場するんです。
つまり、本当に、ただのみほとせと地続きの世界なんです。。
ではなぜ他の4振りがいないのかというと…それは、彼らが成り代わっていた徳川家の家臣たちは、すでに史実上で死んでしまった後だから、なんですね。。
まるで今現在、みほとせの出陣が続いているかのように描かれるなんて思ってもいなかったので、
「そそそそ、そんな明確に、めちゃくちゃにつながった世界を!?」って、本当に息が止まりそうになりました…。

一方、場面変わって本丸では、熱心にまだ見ぬ未来のすてーじのれっすんに励む篭手切江と、なぜかそれに付き合わされる御手杵の姿が。
そこへ通りかかる顕現したての明石国行に、どこかから長期任務を終えて本丸へと帰ってきた鶴丸国永。
その中で主は、任務を終えたばかりの鶴丸を再び呼び出し、
「貴方にしか頼めないのです」「奥へ」と、何やら内密な任務を与える様子を見せます。
「ったく、人遣いの荒い主だなぁ」と、まるで全てを承知したような表情で笑い、主の言葉どおり奥の間へと進んでいく鶴丸

…このシーンを見て、刀ミュのとある過去作が、頭をよぎりました。
おや、この描写は…?と。
主から、何かを内密に知らされる刀剣男士。おなじ部隊の中に、明らかな情報格差が生じるこの状況って…あの話に、とっても似てはいないだろうか。
そしてこの印象はまったく間違ってなどいなかったことがわかるのですが…その話は最後に改めて。。。


今回、まず序盤あたりで、みほとせと時間が繋がっている以上に、見ていて心臓がぎゅうぎゅうに痛くなったのが次の理由でした。

◆村正と「心」

村正が…圧倒的に、「心」というものを身のうちに宿した姿になっているんです。
その変化に、本当に、度肝を抜かれたんですよね…
そりゃあ、稽古期間のもっくんが、あれだけ追い詰められた様子のツイートをしまくっていたわけだよ…ってなりました…


冒頭で、村正は紫色の花を手に、「かざぐるま」を歌うのです。
風は季節を巡らせる…と。
物憂げな表情で、どこか遠くを見つめるように。
新作でいきなりかざぐるまを聞かされるとは思っていなかったので、マジで動揺して本当にどうしたらよいかわからなくなったんですが(当然めちゃくちゃに泣いている)、その後に村正と蜻蛉切とで交わされる会話がもう大変。

「あの頃は、楽しかったデスね」と、他の4振りとともに過ごしていた時間のことを懐かしむ村正。
「せめて大倶利伽羅でもいれば、脱いだり脱がされたりできるのデスが」と言ってみたり…
そして極めつけに、村正はこう言うのです。
「ワタシは、あの男が嫌いデス」と。
あの男とは、当然、徳川家康のことを指しています。
妖刀村正である自分にとっては、相容れない存在であることに、やはりまだ強くわだかまりがあるのか…?と思いきや、
「信康さんが死んでから、ますます好きではなくなりました」というような意味のことを、はっきりと言うのです。


そう、村正は、家康の息子である信康が亡くなったことを、明確に深く引きずっているのでした…。
そして更に、検非違使への憎しみとも言えるような感情を剥き出しにする村正。
「ワタシは信康さんを殺したあいつのことが許せないんデス!」
あいつ、というのは、検非違使のこと。
このセリフを聞いたとき、心臓止まるかと思いました。そんな風に、誰かにあたたかく思いを寄せる、まるで<人間>そのものみたいな感情を、いつのまに村正は手に入れていたんだろう、と。

この冒頭のやりとりの最後に、村正は手に持っていた花を「はい」と蜻蛉切に手渡します。
「これはなんだ?」と不思議そうに問う蜻蛉切に彼が答えたのは、
トリカブト、デスよ」という返事でした。

トリカブト
それは、みほとせで幼少期の信康が「珍しい花を見つけてきたぞ!」と、意気揚々と服部半蔵であるところの石切丸に手渡してみせたのと、同じ花です。
そうして信康にゆかりのある花に心を寄せるほどに、村正は信康の死に心を痛め、他の仲間と過ごしていた時間を懐かしみ、長男の死を経てなお天下統一に邁進する家康には、どこか納得できないものを感じている…。
複雑に変化し乱れるその心の在り方は、かつての村正とは大きく異なるものでした。

◆刀剣男士と「心」

そして、この心についての本作での描写は、みほとせの際に私が感じ続けていた疑問―
「石切丸はなぜ力に操られたようになってしまうのか」について、一定の答えを出しているように思えました。

検非違使は今作でも再び現れ、刀剣男士たちはその圧倒的な強さにはやはり歯が立たない様子で、苦戦を強いられます。
しかし村正は「待っていマシたよ…!」と、目をらんらんと輝かせ、戦意を迸らせてひとり検非違使に立ち向かっていきます。
刀を握り込むその手には、なにかとてつもない力を込めて。

その様子は、みほとせで検非違使と戦うときの石切丸に、まるで瓜二つでした。
それを察知して「村正、だがその力は…!」と切羽詰まった声をかける蜻蛉切ですが、村正は一切聞く耳を持たず、本能の赴くままにといった様子で、ひたすらに検非違使に向かって突っ込んでいきます。
しかしその力をもってしても、検非違使を討ち果たすことはできず、途中で傷つきがっくりと力なく倒れ込みます。
そんな村正を庇い、肩を抱いて安全な場所へと連れて行く蜻蛉切


次に村正が気がついた時、蜻蛉切は村正に向かってこう吠えます。
「感情に支配されるな」と。
「覚えているだろう、石切丸様のことを」

…みほとせの石切丸が、検非違使との戦いのシーンでまるで自我を乗っ取られたかのような、力に翻弄される姿を見せることが、私は2017年の初演時から本当にずっとずっと疑問でした。
それについて考え続けた内容を、今年の再演を経て自分なりにまとめた記事が下記です。そしてここに書いたことは、ある意味ではおおよそあっていたのかもしれない…と、今回葵咲本紀を見て思いました。
anagmaram.hatenablog.com
なぜなら、私が石切丸のあの描写について核として捉えたこと、それは「刀剣男士の心」についてだったから。
今回の蜻蛉切の言葉を受けると、あの検非違使との戦いの場面での石切丸は、自分の身に宿る「感情」によって、追い詰められ我を失っていた、ということになるわけです。

刀剣男士に宿る「心」という存在。
それは人間である我々と同じように、彼らをときに悩み苦しめ、誤った方向へ導いてしまいそうにもなる。
でもその心があるからこそ、彼らは強くもなっていく。

「強かったデスよね。石切丸さんも、にっかりさんも。…誰かのために戦える者は、それだけで強い」

これは、今作で村正が蜻蛉切に対してぽつりと零してみせる言葉。
彼が、こんなことを言う日が来るなんて…。
”誰かのために戦える者”という言葉をつぶやいたその時、村正の表情はごく穏やかでもあり、哀切にも満ちているようであって…。

みほとせでの出陣時は、刀剣男士としてこの世に顕現したばかりであり、周囲の人間や男士たちの葛藤が理解できるようなできないような、曖昧な表情でいることの多かった村正。
信康の命日を迎える頃には、そんな彼も誰かの”気持ち”にはっきりと寄り添うようになった様子を見せてはいたのですが、
今作の村正は、さらにその遥か先を行くものでした。
心を得て以来、感情をひとつずつ学んで。その過程の中にはきっと苦しいこともあっただろう、と思わずにはいられない。
そしてそれの最たるものが、村正にとっては、信康の死だったんだろうなぁと…。


葵咲本紀での彼は間違いなく、自分ではない誰かのことを、強く思いやれるようになっているんです。
でも、その思いやりの深さが自分ではまだうまくコントロールできないから、蜻蛉切に「感情に支配されるな」って、言われたんだと思う。

村正にとっては、きっとまだ、全てが新しいのです。人と触れ合うことも、誰かの死を悼むことも、仲間を心配することも。
その戸惑いを、ある意味での純粋さとして表現する、もっくんの村正の研ぎ澄まされた美しさ。
「匂い立つその姿 妖しき光」なわけだけど、その姿は本当に、一輪の花のようだった。
誰かを思う心はそれだけで美しいんだと、そんなことを思わずにはいられなくなるような、新しい村正でした。

◆その傍らに在る蜻蛉切

そんな彼の側にいる、同じ村正派の蜻蛉切は、妖刀と言われる村正とは対照的に、徳川家に忠誠の限りを尽くした元の主=本多忠勝の姿を写す、誠実な槍です。

今作では、家康の息子である結城秀康が、敬愛する兄・信康を切腹させた父・家康への許しがたい思いをトリガーとして、時間遡行軍側の力に取り込まれてしまう描写があります。
秀康は自身の持つ刀に振り回されるように、家康の命を奪いにいこうとする様子を見せ、時間遡行軍とともに、倒すべき存在として刀剣男士たちの前に立ち塞がります。
秀康と会敵した刀剣男士たちは、なんとか彼を傷つけることなく止めようと苦心するのですが、今踏み込めば秀康にダメージを確実に与えられるというところで、連携して戦っていた御手杵蜻蛉切はともに迷いを隠せず、結果として秀康と遡行軍を取り逃がしてしまいます。

御手杵にとって、結城秀康はもとの主にほかならず、初めて相まみえたかつての主人に対する動揺や迷いが生じるのは、ごく当然といえるでしょう。
では蜻蛉切はなぜ?というところなんですが、その内面の苦しみを、村正は正確に推し量っていました。


結城秀康を前にしたときのことを振り返り、「覚悟はできているつもりだった」と語る蜻蛉切に、
「貴方にそんな覚悟など、してほしくはありマセン」と強い調子で言う村正。

おそらく蜻蛉切は、任務のためなら、いざとなれば真正面から秀康を傷つける役目を背負おうと思っていたのでしょう。(殺してしまっては歴史改変になってしまうので、そこまでするつもりはないと思いますが)
しかし徳川家に深く忠誠心を抱いていた、自分の元の主、本多忠勝を敬愛している蜻蛉切にとって、徳川の血を引く者に危害を加えることがどれだけ難しいか。蜻蛉切にとってそれはおそらく耐え難いことに違いないと、村正はわかっていたのです。

1回だけじゃとてもじゃないけどセリフを明確には思い出せないんだけど…
「元から汚れているワタシと違って、貴方はそんな役割を背負う必要はないんデス」
「ワタシと貴方は違うかもしれまセンが、それぞれが、それぞれの役割を果たせば良いんです。ワタシたちは、ファミリーなんデスから」
といった内容のことを、村正は言っていたように思います。


蜻蛉切と村正。
在り方、立場、来歴…刀派以外に同じ部分を探すほうが難しいかもしれない彼らだけれど、でもそんな二人は、お互いを<家族>と認めあっている。
誤解されやすい村正にとってのよき理解者であり、保護者である印象であった蜻蛉切が、
一方では村正に深く支えられてもいたのだ…ということが、明確に描かれた今作だったと思います。
まるで手探りをするかように、自分たちの絆をそこに確かなものとして見い出す、夜空のもとでの二人のデュエット。
あまりに美しくて涙が止まりませんでした。
そこに在るのは「心」の交流に、他ならなかったから。

◆刀剣男士を助けた謎の存在

ウウ、ようやくこの話にたどり着いたぞ…。
今回、まじでやばいことが起こりましたね。やばい。本当にやばい。


検非違使に追い詰められ、大量の時間遡行軍に追われる手負いの男士たちのもとに、編笠山を目深にかぶった謎の人物が現れます。
彼は力強い剣さばきで、正確に時間遡行軍を打ち払い、刀剣男士たちが逃れる手助けをするのですが…
その正体とは、みほとせの出陣の中で命を落としたはずの、そして史実上も徳川家康切腹を命じられたはずの、松平信康その人だったのです。

「久しいな、忠勝、直政」
そう言って慈愛に満ちた生き生きとした表情で笑ってみせた彼は、
「今は、掛川の吾兵と名乗っておる」
と、驚く蜻蛉切と村正に告げるのでした。


そして衝撃的な展開はここで終わらず…
検非違使によって負わされた傷からは、服部半蔵の手当によって回復したと語る彼は、あろうことか、蜻蛉切と村正の正体について…彼らが「刀剣男士」であることを、知っていると告げるのです。

似たようなことが、御手杵にも起こります。
元の主を目の前にして少なからず動揺してしまった御手杵の元に、今度は結城秀康そっくりの顔の別人が現れます。
永見貞愛と名乗る彼は、自分は秀康とは双子であり、忌み嫌われる双子であるゆえ、幼子の頃に養子に出された存在で、今は神主として生きている…と説明してみせるのですが、
彼もまた、御手杵たちが「刀剣男士」であることを知っている、と告げます。


信康も貞愛も、なぜ刀剣男士たちの正体を知っているのかというその理由を、
「ある人物から教えて貰ったからだ」と言います。

話の途中まで、その人物が誰であるのかについては明確に語られることなく、あくまでも謎に包まれているのですが…
その先に待ち受けていたのは、あまりにも衝撃的な事実でした。

◆誰が信康に事実を明かしたのか?それは…

蜻蛉切と村正が、吾兵として生き始めた信康に、事の詳細を尋ねているシーン。
かなりな深手を負っていたはずの信康は、石切丸の手によって回復できたのだと語ります。
それを聞き、訝しむ蜻蛉切。仮に石切丸が自らの正体を明かしたのでは、歴史が変わってしまう。
あくまでも服部半蔵として任務の中で信康に接していたはずの石切丸がなぜ?という思いで「しかし、なぜ石切丸様は…」と問いかけた蜻蛉切を、信康は「いや、それは違う」と力強く答えます。

「石切丸は最後まで、わしには半蔵として接しておった」
「では、いったい誰が…?」
疑問を隠せない蜻蛉切と村正に、信康はこんな言葉を述べます。


「とある人物に、教えて貰ったのだ。その人物は、わしのことを”友よ”と呼んだ


このセリフを聞いたときのわたしの衝撃、おわかりいただけるでしょうか…。


「友よ」
その言葉を私達が刀ミュの世界で聞いたのは、いつ、誰の口からだったでしょうか。


歴史上の人物たちのもとに現れ、彼らに「友よ」と呼びかけるのは、
「つはものどもがゆめのあと」での、三日月宗近に、他なりません。


この信康のセリフを聞いた瞬間、衝撃のあまり、構えていたオペラグラスを思わず0.1秒くらいのスピードで降ろしました。
そこからの記憶が10分くらい、まじでありません…。
話に集中しようと思うのだけど、まるで頭を殴られたようになって、何も考えられなくて、涙が止まらなくなった。*1

わたしにとってのつはものの三日月は、本当に言葉に尽くせないほど特別な存在なんです…
俳優として応援している大好きなまりおくんを推し始めるきっかけの事件となった公演であり、あの秋以来、私は三日月に心を奪われてずっと帰ってこられない。
阿津賀志初演でも、プレライでも、厳島でもらぶフェス2016でもなく、私が三日月宗近に真っ逆さまに落ちたのは「つはものどもがゆめのあと」なんです…。その詳細はこのあたりにばかみたいなボリュームで書いてあります…。
anagmaram.hatenablog.com
anagmaram.hatenablog.com


だから本当にこの瞬間「ちょ、お前、三日月、ちょ…まじで…!!!」ってなってね……本当に…もう…
以降、頭の中が見事なまでにぐっちゃんぐっちゃんなので(無理もないよね)、秀康と信康どっちのセリフだったのか思い出せないんだけど、
「彼は、我々が歴史上で悲しい役割を背負わされているとも言った」って言うのよね。

歴史の中で、悲しい役割を背負わされている人もいるそうだよ。信康さんも、その一人なのかもしれない

これは、みほとせでの石切丸のセリフですね…。
三条の皆さん、あなたがたって本当に。
長く在る刀の皆さんに見えているものが、私は本当に怖いです。


三日月がひとりで時間遡行している先は、なにも頼朝や義経たちの時代だけじゃ、当然、なかったって話なんですよね…。
阿津賀志巴里の冒頭で三日月が「華のうてな」を歌ったのは自然なこととして理解できるの。だってあれは、つはものと同じく、源義経についての物語だから。
でもそれだけには当然終わらないってことが、今回あまりにも明確に打ち出されてしまって…
あの人、いったいどこで何をやってるの…?ってなった……


私にとっては、この「友よ」だけで十分すぎるくらい十分な爆弾だったんですけど。
その後に、さらなる恐ろしいダメ押しが待っていました。


物語のラスト近辺、本丸に帰ってきたとおぼしき場面で、鶴丸がおそらくは主に向かって語りかけるシーンがあります。

「ひとつ、わかったことがある」

その言葉を受けて背後に登場するのは、信康と貞愛。

「他の時代にもいるらしい。…我々のような、刀剣男士の協力者。三日月殿に、名前もいただいた」

ウ、ウワア、み、みかづきって、言っちゃったね、ついに名前でちゃったね、って思ってたらさ…もうさ、それどころじゃねえんだわ…
背景にぼんやりと…映像で、見慣れた青い衣を身にまとった姿が…
そして、聞き覚えのありすぎる声が…


「物に支える者…物部(もののべ)とでも、名乗るがよい」


…深刻な記憶喪失になったので、ここのセリフ詳細は全く自信がありません(2日目のソワレに入る友達に聞いてカンニングします)!!!

そしてそれを受けた鶴丸が、またおっそろしいことを言う!

「この世界には、三日月宗近という機能がある」

友達は「機関じゃない?」って言ってたけど、私機能って記憶したんだよね!でも間違ってるかも!
物に支えるって言ってたかも曖昧だ!

…だってさ、そりゃもうだめだよ。むりだよ。受け止めきれないよ!!!!!!
なんの予想もしていなかったところに背後からぐっさりと刺されてもうひどいダメージをくらったのですが、同じく初日にいた友人数名に「あなぐま生きてるかな」「絶対大丈夫じゃないだろうな」って全員から思われていて…
大丈夫なはずねえだろ!!!!!(大声)(みんな心配してくれてありがとう…)
この数ヶ月の間に、推しが三日月宗近として一瞬でも生きたのだと思うと、苦しくてぶっ倒れそうになりました。
いやだって、予想できたはずがなくない!?なんでわたし、新作で三日月宗近に会うことになったの!!?って…ちょっと…ひどい目に遭った…
その場にはいないのに、ここまで存在感を強く意識させられることってあるだろうか…
刀ミュの世界における三日月宗近の描かれ方に心底震える。一体この先に、何が待っているの…?
わたしこれから、ほんとうにどうしたらいいの…!!?ってなった。
いやだって、ねえ!?いくらなんでも流石に予想してなさすぎない!!?そりゃ1000億倍のダメージでしょうよ!!?かんべんしてよ向き合えないよ!!!

…この件については、なんかちょっと時間が経てばたつほどどうしたらいいかわからなくなってきてるので、唐突にまとめに入ります。(あきらめの境地)

◆「葵咲本紀」の意味するもの

なんとこのタイトル。石切丸がみほとせで書いていた例の出陣記録に対して、村正がつけたものだということが、今回一部のラストにわかります。
石切丸に題名をつけてほしいと頼まれるも、どうしたものかと考えあぐねていた蜻蛉切に「ほら、貸してごらんなサイ」と言って、村正がさらさらと書きつけたのが「葵咲本紀」という題名だったのでした。
「なかなか良いじゃないか」と笑う蜻蛉切
葵が咲く…とつぶやく彼に、村正はこんなことを言います。
「咲く、という字には、花が咲くという以外に、もうひとつ意味があるのデスよ」
「…ほぉ、どういう意味なんだ?」
「それは…内緒デス」
そう言い残し、穏やかに微笑んで去っていく村正を、やれやれ、といった風に見送る蜻蛉切


<咲>という字が持つ、もうひとつの意味とは。
以下、新漢語林より。

【咲】
字音 ショウ(セウ)
字義 の古字。わらーう(わらふ)。


葵が咲く=笑う、物語。
徳川家の家紋である、<葵が笑う>ということは、おそらく、
徳川家康が笑っている>ということを指すのでしょう。

家康と笑顔。
刀ミュを見てきた私達が、その光景を考えるときに真っ先に浮かぶのは、
「笑顔が一番です」と、明るい微笑みをもって、家康の傍らに居続けた者。
そう、みほとせの世界で鳥居元忠として生きた、家康の愛刀である、物吉貞宗の姿です。


彼が家康に伝え続けた、笑顔を絶やさずに生きる、ということ。
その意味や力が、ひとつの物語として新しくここに結実した。
そんな未来を、今回<葵咲本紀>で見せてもらったような気がします。


この題名の意味を知ったとき、

「よく、生きられましたね」

あの物吉くんの愛に満ちた声の響きが、頭の中にこだまするような感覚になりました。



…私にとっての初日感想はこんな感じです!
言いたいことがありすぎて…全然書ききれない。無理すぎる。
信康の生き方の美しさとか、江くんと結城秀康のもっていた刀の話とか、明石が何かに感づいてる様子とか、鶴丸は主に何を託されたのか…とか。考えること言いたいことはまだまだ本当にたくさんあるんだけど、なにぶんわたくし刀ミュの三日月宗近強火担なもので…今かけるのはこれが限界ですっ…!
ハァそしてみほとせオタクの皆さんちゃんと葵咲本紀のチケットもってるかな!?って心配になった…これ見られなかったら大後悔してしまうやつ…お願いみんな見て!(念)
そして私のようなつはものオタクに関しては…これは…ねえ…ほんとに…。何が起こるか、わからないのがミュージカル刀剣乱舞、ですね。。


8月はちょこちょこ銀劇に行くので、また何かしら書くかも。
オチもまとまりもない長文にお付き合いくださった方、ありがとうございました!

*1:余談ですが、観劇していてこのタイプの衝撃をくらったのは、別ジャンルのお話で申し訳ないけど、TRUMPシリーズの2作目であるLILIUMを見た2014年以来、でした…単独のセリフひとつが、ここまでの動揺をもたらすことがあるんだという経験…

【ネタバレなしで】刀ミュ 葵咲本紀の初日感想を書いてみる(主に刀剣男士の印象について)

8月3日、刀ミュ新作「葵咲本紀」の初日、天王洲銀河劇場で見てまいりました!

観劇後の感想として、ネタバレ満載のエントリーをすでに一本がっつりまとめたのですが(このあと別に更新予定)、おそらくニーズ(?)としては、ネタバレなしの感想も世の中には求められているのではないか…?という気持ちになり、普段やらないんですがタイトルどおりのものを短めにさくっと書いてみようと思います!

そもそも<ネタバレ>の定義が難しいので、以下のような内容を書くor書かないよ!というのを明らかにしておきますね。

  • 演出および脚本の中身には、一切触れません
  • 刀剣男士に抱く「印象」については作品の中身に触れない程度に述べます

「嘘つき!これだってネタバレじゃん!」って感じる方もたくさんいると思うので(いわゆるエモバレ)、本当になんの情報も入れずに観劇に臨みたい方は、このエントリーについてもどうぞ読まれないようにお願いします。
「詳しくは知りたくないけど、なんとなく雰囲気だけ掴みたい」って感じでソワソワしている方には、もしかしたら読んでも良いのかも、みたいな記事をイメージしています!

ただ、話せないことが多すぎるので半ばネタっぽくなるよ。笑




鶴丸国永:かっこいい

鶴丸…めっちゃかっこよかった…!!!まじでかっこよかった!びっくりした~!
すでに刀ステの世界には存在してる鶴丸が、ついに刀ミュの世界に!ってワクワクしていたんですが、期待を遥かに超える最高の鶴丸がそこにいたよ!
来夢くんのお顔が比較的かわいらしい寄りなので、もっと楚々とした(?)鶴丸なのかな~って思っていたら、とんでもなかった。めちゃくちゃに雄々しくて頼りがいのあるウルトラかっこいい鶴丸国永がそこにはいました…!
私の中では、ビジュアルとステージ上で一番ギャップが大きかったのが彼でしたね!いい意味で予想を裏切られました。あまりにかっこよくて感動したもの。
鶴丸としての表現が動揺するくらいに好みどストライクだったので、二部は鶴丸うちわを作ることに確定したよ!
まず、声の出し方が素晴らしいなと思う…。「じ、自信に満ち溢れた平安刀…!?ウアァ好き……!!!」ってなる。(※あなぐまの推し刀が誰なのかを思い出してみよう)(みかづきむn)(以下略)
たぶん体の動きの面はこれから74公演駆け抜けていくなかで絶対にもっと進化するだろうと思えたので、凱旋の頃の仕上がり具合がめちゃくちゃに楽しみです…!えーんマジでかっこよかった~!鶴丸好き!

御手杵:本人

「…あの、ご本人いらっしゃいました?」ってなった。
いや~~~すげえ。田中涼星くん、見る前から「これは絶対に御手杵でしかないだろうな」って思ってたんですけど、実際に見てみたら、マジで御手杵だった。何を言ってるかわからないと思うんですが、マジで御手杵なんですよ(真顔)
なんていうか、似てるとかいうレベルじゃないんだよ…ご本人だった…御手杵がそこにいたわ…あんなんびびるわ…。
声の出し方もちょっとゲーム原作に寄せているところありそうですよね!?
元のお顔立ちの中でも、とくに鼻筋のあたりが御手杵に元々似ていらっしゃるかな、とは思ってたんですけど、今回目前にしてみて、衝撃がすごかった。だって、ただの御手杵なんだもの!!!(大声)
他に言うこと無いのかよって感じなんですけど、ネタバレしない範囲でってなると繰り返しこう叫ぶしかできねえ!!!笑
御手杵のあの朴訥した感じっていうか、三名槍として堂々としてはいるけど「俺は突くことしかできねぇから」って頭をかきながら言っちゃうみたいなあの雰囲気が…そのまんま舞台上にいます!
御手杵推しの皆さん、期待してていいと思います!!!

◆篭手切江:かわいい

…江くん、まじでしぬほどかわいい~!!!キャー!!!江くん~!!!!ってなる。感動した。
演じてる田村くんは3rdのジローちゃんなんだよね!どうりで…って心底納得しました。(全国氷帝で1回見ただけだからさすがに印象まで覚えてないんだけどっ…!)
江くんが実装された時、審神者たちは「この子は刀ミュに来るしかないのでは…?」って感じていたわけなんですけど、
いや~。見事なまでに、清々しいまでに、私達がイメージするとおりの江くんがそこにいました!笑
とある演出がマジで最高に可愛いので、劇場で全力でニコニコしてほしいです。
あと、脇差みがあってそこも素晴らしく良い!小回りの利く機動の高さを存分に感じさせる動きをしてました!刀ミュの脇差、ほんと全員かわいいよね…。

◆明石国行:本人

「…あの、ご本人いらっしゃいました?」ってなった。(※2回目)
だって!ほんとに!本人なんだもの!!!すげえ!!!拍手喝采する。
明石国行…そもそもがかっこいいですよね…「自分に働けいいますか?」って一見やる気ない風に見せて、戦うとめっちゃ強い太刀っていうキャラクター造形がもう反則だと思うんだけど。
なんていうか仲田くんの明石、”一筋縄ではいかない”ところがすごく良く表現されていて、これまた最高の明石でした…。
明石について語ろうとすると作品の中身を喋ってしまいそうになるのでぐっと黙る。。これ以上は言えねえ!
あと二部の明石、超~かっこよかったです。ウェエ~!?ってなった。歌って踊る明石国行。それだけでもう、大事件すぎません…?
明石推してる人、最高すぎてしんじゃうんじゃないかな。…がんばってください!!!(励まし)

◆村正派の二人:拝ませてくれ…

今回もはや刀ミュにおけるベテラン組として出陣している、spiさんの蜻蛉切ともっくんの千子村正は…
もう見ていて、拝ませてくれ、という気持ちになりました。
あなたがたのいる刀ミュが私は大好きです。。
ほか4名の刀剣男士が、俳優としてのキャリアも年齢もまだまだ若い、本当に新人!というクラスの子たちだったなかで、二人にかかったプレッシャーは相当なものがあったと思う。作品の成立可否はある程度二人の肩にかかっていたと言ってもおそらく過言ではなくて。
みほとせ初演の時は、他にも荒木宏文さんという頼もしいベテランがおり、石切丸の崎山つばさくんは二度目の出陣でもあったから、期待される役割はまた違うものがあったと思うのですが…
今回、刀ミュ本公演としての完全新作はむすはじから約1年半ぶり。そこに、新人4名+ベテラン2名の布陣が引かれたわけです。その布陣を見るにつけ、spiさんともっくんへの、制作陣からの途方も無い信頼と期待を感じますよね。
さらには先日の源氏双騎出陣を経て、お客さん側の期待値も、これまでとはまた異なる手触りになっている部分もあって…本当に、大変だったと思う…!
今回の蜻蛉切と村正について深く語ると、物語のネタバレになってしまうので何も言えないんですが、
ただただ、お二方の表現が心から好きだ、と思いました。
刀ミュの世界に生きてくれてありがとう、という気持ちで改めていっぱいになったよ…!

◆「刀ミュ」というひとつの作品ユニバース

今回これをめちゃくちゃに痛感させられましたね…。
具体的になにがどう、というのは言えない。言わないけど、<ミュージカル刀剣乱舞>という、ひとつの作品世界が、また新たにものすごく強固なものとして確立されたなぁ、みたいなことを感じました。
まさかこんなアプローチをしてくるなんて…って、心底ゾクゾクさせられた。

もし仮に、今回の葵咲本紀が初めての刀ミュ観劇になる方がいらしたら、とにかく過去作を見ておくことを全力でおすすめいたします。
「どれを見たらいい?」っていうのには諸般の事情により答えられないので、阿津賀志山異聞から順番に全部!って感じです!笑 もう、全部見ておいて!!!笑

過去作はバッチリ履修済みだぜどんと来い~!な人は、もうそのまま、えーい!と飛び込んで来てください。
私はこころの準備ゼロって感じで初日に臨んだところ(まあ準備のしようもないんだけど)、予想の1000億倍のダメージをくらいました。いい意味で、ですけど、本当にめちゃくちゃにダメージを受けて一発重傷で本丸に逃げ帰る感じになりました。
何が怖いって、このダメージの受け方というか方向性が、同じように刀ミュが好きで追ってきたのだとしても、きっと人によって多種多様にわかれるところですよね…(※傷ついた微笑みを浮かべながら)
「刀ミュ、マジ怖い!!!大好き!!!」ってなりました。


わからないけど、今作はある程度好き嫌いはわかれるのかもしれないし、もしかしたらちょっと難解に感じられる人もいるのかな…というような気はするんですが、
これはもう見てみてもらわないことには!という感じです。
表現のアプローチには色々と新しい部分が見受けられます。なのでたくさんびっくりすることにはなると思う…!
そうそう、歴史上の人物も全員素晴らしくて…ここもまた詳しく触れるとネタバレしてしまいそうだから取り上げることはできなかったんですけど、とりあえず「全員良い!」ってことだけ声を大にして言っておきますね!



ネタバレせずに言えるのはこれくらいかな…!書いてたら早く二回目みたくてウズウズしてきました。

新人キャストも盛りだくさん、いったいどんな作品になるのか見当もつかない…という中で開いた初日の幕でしたが、私は刀ミュをずっと愛してきたひとりのファンとして、これ以上なく満足して帰ってきました!
とくにキャスティング能力の確かさには今回も舌を巻いたわ…。

皆さんの葵咲本紀観劇が、どうか楽しいものになりますように~!

刀ミュ「髭切・膝丸双騎出陣2019」を通して、刀ミュの源氏兄弟について考えた感想

源氏双騎出陣、全17公演、本当にお疲れ様でした…!
キャンセル待ちはもちろん当たらずだったので、現地観劇は7月7日の1回きり、7月14日は自宅で配信を見届けました。
楽の幕が下りた直後に来年の再演も発表されて、めでたい限りですね!


正直、一回見ただけだと詳細を噛み砕いて理解しきることは、とうてい出来なかったです。キャパを超えまくっていた。
なので今回の双騎でなされた「試み」というか、作品の全体像について、ひとまず自分の中に落とし込もう、とした記事だけとりあえず書いてました。
anagmaram.hatenablog.com

でも千秋楽の配信を見たら、改めて言葉にしたい気持ちがふつふつと湧いてきました。間違いなく、そうさせるほどの熱量がある演目だった。
毎度同じことを言って恐縮ですが、歴史や古典芸能の知識に裏打ちされたなにかを語ることは私にはできないので、それは他の方に譲ります!いや、バックグラウンドのある人にとっては、こんなに考察しがいのある構成もなかなかないと思う…。
私はあくまでも「刀ミュをずっと見てきて、刀ミュという作品を愛している立場」から、自分なりに感じたことを書いてみたいと思います。




◆双騎が描き出したのは、”刀ミュ”における源氏の兄弟刀の在り方ではないか

そう、楽の配信を見終えた今、言いたいことはこれなんである。
今回浮かび上がったのって、刀ミュの世界における兄弟刀としての、髭切と膝丸の関係性というか、刀剣男士としての在り方そのものだったのではないかな?っていう気がしたんです。
双騎の一部・二部のふたつの世界を通して、ふた振りの「刀剣男士」としての成り立ち、生き様…みたいなものが、こちらに伝わってきたような気がしていて。
どういうことなのか、なんとか言葉にしてみようと思う。

今回、髭切と膝丸が演じた一萬・十郎と、箱王・五郎のふたりに特徴的だったのは、
「ひとたび道が別れても、同じ想いを持つ兄弟は再びめぐりあう」
「兄弟はお互いを深く愛して信頼しあっている」

ということだったかな、と感じているんです。
そしてそれはすなわち、髭切・膝丸自身の在り方としてオーバーラップするといえるのではないかな、とも思っていて。
以下にそれぞれについて書いていきます。

◆1点目:めぐりあう兄弟

まずこの1点目について痛感したのが、今回の二部で披露された曲「双つの軌跡~となり~」での歌詞の変更でした。
元々はつはもの公演の一部で歌われた曲なんですが、今回おもいっきり新バージョンになっていて…
なんせ歌い出しの歌詞よ!いきなり新しい内容てんこ盛りでしたよね…そこで明確に「ぎょええ~!!!真正面からめぐりあっている~!!!」って大興奮した記憶はあるんですけど、すみません現地1回配信1回じゃ、具体的な歌詞は全てが飛んでます!笑


ただひとつだけ明確に言えることがあって。
この歌、途中で膝丸がソロパートで歌う歌詞が、
「弥久を彷徨いたどり着いたのは 貴方のとなり
になっていました。

これ、7月7日に観劇した時はまじで聞き間違いだと思ってたんです。自分の耳が都合よい解釈でもしたか!?って思って自信がなくて。サイドシート前方だと、正直音のとどく射程範囲外って感じで、初めて聞く歌詞は聞き取るのがけっこう難しかったのもあり…。
だけどフォロワーさんがブログで言及してらしたのを読んで、「き、きのせいじゃなかった…」となり、今日の配信でしっかり聞いて打ちのめされました。


ご存知のとおり、本来の歌詞は「誰かのとなり」なんですよ。ここ。

つはものの劇中で膝丸は、岩融と今剣が歴史上には実在しない刀である件に触れるとき、自分たち自身も「彼らほどではないが、曖昧な存在」だということを、何回か口にします。
源氏の兄弟刀とされる刀は日本に複数現存していると言われていて、来歴が明確になっているわけではない。
だけれどきっと、義経や頼朝の時代に存在していたことは事実といって差し支えないだろう…といった、事実解釈にグラデーションが生じうる中で顕現している刀剣男士だから、彼らにとってたどり着いたのは「誰かのとなり」なんだと思っていたんです。
明確に、兄と弟が、確かなものとして隣り合う、とは決して言い切らない余地を残すといいますか…。
その余白がこの歌において、ものすごく好きなポイントだったんです!つはものの当時。


だけど今回その歌詞を明確に、「貴方」に変えて歌ってきている。
それはつまり、刀ミュの世界の髭切と膝丸が、「そう在りたい」と思っているからに他ならないのではないかな…って、そんなふうに思ったのです。


今回の双騎出陣は、ふた振りが刀ミュ本丸に顕現してからはだいぶ時間が経ってからの出来事、と捉えていいように思っています。
一方でつはものは、それこそ彼ら兄弟が本丸にやってきた直後の物語。
だからこそ、久方ぶりに相まみえた兄弟にとって、弥久をさまよいたどり着いたのは「誰かのとなり」と捉えるのがおそらくは自然だった。

しかし彼らは、つはもので人の身を得た刀剣男士として、はじめての仲間たちとの出陣をともに経験します。
きっとその後も本丸において同じ時を過ごしてきた髭切と膝丸のなかでは、<兄弟>という存在、お互いにとっての自分/相手を、「どう捉えるか、どう位置づけるか」というところが、徐々に変容していったのではないかなと、そんなことをこの歌詞変更から考えたのです。


お互い、実在した刀としての逸話や来歴は謎に包まれている部分も多いけれど、でも今こうしてともに戦い、同じ任務を背負って歩む刀剣男士として、確かに隣に存在している。
過去の事実がどうであれ、今向き合っているその事実こそを、真ん中に置いていこうと、そんなことをふた振りは考えているのではないか…って。


事実、つはものの劇中には、「もし仮に、今剣のように自分が歴史上に存在しないと知ってしまったらどうする?」といった内容を問いかける膝丸に対して、髭切が下記のように返すシーンがあります。

「どうでもいいことだと思うけど、そんなこと。歴史上に存在していようといまいと、いまここに存在していることは事実だろ?それでいいんじゃないかなぁ」
「…そうなのだろうか」
「まあ細かいことを言い出したらきりがない、大雑把に行こうよ」

この言葉を受けた膝丸は、全く兄者は…とすこし気抜けしたように、やや呆れたように笑いながら返していました。
大雑把にいこうよ、だなんてまとめられてしまったこともあり、生真面目な膝丸は、この時点では髭切が述べた言葉をまるごと受け止めることは、おそらく出来ていなかったのだと思う。
だけどそれから時間が経ち、刀剣男士として様々な経験を積んだ彼は、改めて「双つの軌跡」を歌う今、
”貴方の隣”
という言葉を、選べるようになったのではないかなって。


つはものを観劇していた当時、先に引用した髭切の回答は、おそらくは「刀ミュの世界における刀剣男士」を理解する上で、一つの真実を貫いているように感じていました。
実際、作中で「歴史上に実在しない」と明言されてしまう今剣も、史実上の実在を否定されても壊れてしまうことなく、その事実をしっかりと受け止め切ります。

つはもののラストシーン近辺において、義経の最期の場に駆け寄った今剣は、「今剣ともうします!」と、覚悟を決めて自らの名を名乗ります。
その後に続く「このなまえに、ききおぼえはありませんか?」という、自らの実在を懸けた義経への必死の問いかけは、「いや、初めて聞いた。だが、良い名であるな。あの世にいっても、覚えておこう」と敢え無く返されてしまいます。
あの瞬間の今剣には、途方もない絶望や諦観がきっと訪れてしまったと思う。
でも同時に、<あの世にいっても覚えておこう>という返答により、大好きな敬愛する元の主に、<今ここにいる>自分の存在が間違いなく届いたという大きな救済も、もたらされたと思っているんです。
そしてそんな事実を受け止めねばならない今剣の隣には、同じ気持ちで支えてくれる仲間がいる。
いちばん大切なのは「今ここに存在していること」なんだと、上記のシーンを通して、つはものでは明確に描かれているように思いました。


髭切も膝丸も、過去の歴史の中に、刀としてどこまで確かな存在としていられたのか、今となってはわからない。
そう、それこそ歴史は水の流れのようなものだから…。
なにが正史なのか、数百年時を遡れば、過去の物語は様々に移ろい、色合いを変えていく。
でも、今の自分が、誰の隣に立っているか、それは疑いようもなくわかっている。
それ以上に、今の自分にとって、確かなことはない。
そんな答えを、源氏の兄弟刀が刀ミュの世界で見つけて提示してくれたのかな、と感じました。


そのめぐりあいは、一部の物語では、「武士の道と仏の道に別れた兄弟が、大人になり再会し、誓った仇討ちを果たす」という形で描かれます。
あそこで、明確に「一度は道が別れても、想いを果たすために最後は同じ道を行く」という描写があるところに、私は髭切・膝丸を感じずにはいられなかったのですよね…。
その物語を踏まえた上での「双つの軌跡~となり~」の歌詞変更だったので、叫びそうになりましたし、ものすごく胸が熱くなりました。。

◆2点目:眼差しと背中で支えあう兄弟

私が凛としていられるのはお前の眼差し、私が追いかけたいのは貴方の背中。
一部で一萬と箱王が歌うこの歌詞、本当にやられた…。
兄弟ふたりの、直接伝えはしない、互いへの思いの、この果てしないあたたかさよ。。
この曲のタイトル、綾なす…ナントカって言ってたね!配信後コメントでせっかく教えてくれたのにど忘れしちゃったな~!


曽我物語は、兄弟による、仇討ちの物語です。
知っている人にとっては当たり前の知識になっているような、著名な古典作品だと思うのですが、私自身は「聞いたことが言われてみれば、高校の頃にあったかもしれないような、気のせいのような…」といった感じで、全く知識がありませんでした。恥ずかしながら。いや、多分なんらかの形で確実に習ってるだろうな…。笑
その前提で見ていたので、当然ながら大きな違和感を得ることはなかったのですが、今回の曽我物語の結末って、それこそwikiで読めるものとはそもそも異なっています。
歴史上の史実がどうだったのかも含め、物語成立の時代は武士の世のはじまりにまで遡るからこそ、曖昧な部分はおそらくあるだろうな、としか思っていなかったのですが、もっと厳密なたぐいのものだったみたい。どうやら。兄弟がどうやって命を落としたのかは、ある程度明確ではあるみたいだ。
実際、手元の「精選版 日本国語大辞典」で「曾我兄弟」を引いてみたけど、二人の最期については、

母の再嫁によって曾我氏を称した兄弟は、建久四年(1193年)富士野の狩場で父の仇を討ち取ったが、兄は仁田忠常に打たれ、弟は五郎丸に生け捕りにされ殺された。

とありました。


でも、今回演じて見せられた曽我物語の結末では、二人は名実ともに力を合わせて父の仇を正面から討ち果たし、よくやったと泣き笑いの表情でしっかりと抱き合います。
あの日、家族で見上げた夕焼け空の思い出が蘇るように、再び聞こえてくるかりがねを耳にしながら、お互いの体に身をもたせかけ、あたたかい微笑みのなかで命を終えていくのです。

…そう、そこにあったのは、「兄弟愛」以外の何物でもなかったんですよね。


ここでつはもののセリフを再び引用しますが、頼朝に鎌倉入りを拒絶されて嘆く義経を見た後、兄弟同士で仲違いをするのを見るのはやはりつらいな、といった旨のことを言った膝丸に、

「どうかな?兄弟同士で骨肉の争いなんて、歴史の常だと思うけど?」

と、ごく飄々とした様子で、髭切が答えるシーンがあります。
確かに、現に義経と頼朝は仲違いをした悲劇の兄弟にほかならず、それ以降も刀として長い時を経てきた彼らにとって、兄弟=仲睦まじいもの、という単純な図式を結ぶことは、きっと簡単ではないと思うのです。


だけど、今回「髭切・膝丸が刀剣男士として曽我物語を演じる」ことになったとき、ふた振りが見せてくれたのは、家族と兄弟への愛に満ちた、哀しくもあたたかい物語でした。
これもまた、今刀剣男士としてここに在る彼ら自身が選んだ、兄弟としての在り方を巡る、ひとつの答えなのではないかと思うのです。
つまり、髭切と膝丸のふた振りにとって、兄弟による仇討ちは、ああいった色合いで語られるべきものだったんだと。

史実として明確にどうであったか、ということよりも、物語を通して彼らが届けたかったのは、命を落とした敬愛する父の無念を、愛する母を一人残す哀しみを負ってなお、お互いに手と手を取り合って晴らそうとした、兄弟の姿だったのではないかな、と。

髭切・膝丸がそのようにあたたかな兄弟愛を演じてみせたことについては、源氏推しのフォロワーさんがとても素晴らしい考察を書いてらして、許可頂いたのでリンク貼ります、是非~!
正直わたしはこちらを読んで満足してしまった部分があるほど、源氏を好きな人にしか書けないな!と唸らされる素敵な文章でした。
sfractal.blog77.fc2.com



刀剣男士は、刀であると同時に人である。モノナリヤ、ヒトナリヤ、の存在。

今回の源氏双騎出陣は、「意志を持ち、体を持つ」刀剣男士として、髭切と膝丸が自らの在り方を見つめ直し、それを外部に提示するそんな機会になっていたのではないでしょうか。


「物が語る故、物語」であるそんな新しい作品を、見せてもらえたことの興奮が未だ醒めません。
書けば書くほど、まとめたいことがたくさん出てきて…!余裕あったらまだ書くかもしれません!

【※超ネタバレです!】刀ミュ「髭切・膝丸双騎出陣2019」感想【見てから読んでね!】

源氏双騎、7月7日ソワレに行ってきました!(諦めかけてたけど当引買えたおかげで行けた!奇跡だ!)
なんか「ものすごいものを見た」という感想しかとりあえず湧いてこない…びっくりした…

やーーー…とにかくツイッターでのネタバレは厳禁だと思っているので、ブログに引きこもりに来ました。
というわけで、以下全力でネタバレします!!!
言ったよ!言ったからね!ネタバレするって言ったからね!!!
まだ見てない人は、現地観劇だろうがライビュ予定だろうが、以下絶対に読まないでほしい!言ったからね!!!(2回目)
別にネタバレ気にしないです~な人にも、できれば見る前には読まないでほしい…。まじで。あの体験から得られるものを、いちおたくに過ぎないわたしの文章で余分に目減りさせてほしくなどない。頼む。
まだ見ていなかったら、いったんこのページを閉じましょう。そして観劇orライビュ後に、どうぞ戻ってきてください。

というわけで、以下を読むのは観劇済みの人のみor楽が終わったあとで、なにとぞよろしくお願いしますー!

(あとあくまでも1回みたきりの記憶で書いてるから間違ってるところ当然あるので!大幅に間違ってて直せるところあれば直しますね)

続きを読む

SNSで「見たくないものを見て傷ついてしまう」問題について(解決策:逃げる)

SNSとタイトルに書きましたが、このエントリー内では「ツイッター」を想定して書きます。
おたくの情報収集に欠かせないツールであるツイッター。最早わたしはツイッターを使えないと生きていけない自信がある。でもそんな便利なツイッターは使い方を間違えた途端、私たちを著しく疲弊させてしまう諸刃の剣でもある。


なんで急にそんな話をはじめたのかと言うと、
「見たくないものを見て不要に消耗することを防ぐ」ために、わたし自身が普段から意識的に心がけていることがいくつかあるんですが、


↑こんなかんじで考えてることをなんとなくつぶやくと、そこそこ反応を貰うことが多いので、ニーズがあるのかな?と思い、いちどまとめて書いてみることにしました。
(※なお、わたし個人は今現在困っていることは特になにもないです。いたって平和に楽しいおたくライフを送っています!)




◆1点目:「見たくないものは、見ない」。そのためには戦略的に逃げを打つ

冒頭に貼ったツイートどおりですが、まず前提は、これに尽きると思います。自衛による先手必勝、ですね。
なにが自分にとってクリティカルダメージに直結するのかは人それぞれだと思うんですが、それがある程度わかっていて避けられるなら、あらかじめ避けてしまえ!と思うわけです。


わたしの場合ですが、「なにかを貶めることがもはや目的って感じの言葉遣いをするアカウント」は、まず一切見ないようにしています。
それが推しに関係してようがしてなかろうが、です。
見たところで得られるものがないばかりか、疲弊するだけだとわかっているからです。
あんまり悪質だなと思ったらためらいなくブロックも発動します(TLで見かけることが普段まずないんだけど)。
またそういう類いのアカウントじゃなくても、自分のめちゃくちゃ苦手とする何かが表現されているのを見てしまったときは、そっと静かにそのアカウントをブロックなりミュートなりすることがあります。


もしかすると、ブロックすること自体をためらう人ももしかしたらいるかな?とは思うんですが、たぶんそこまではケアしきれなくていいのではないかな、と。
自分がブロックしたことで誰かを傷つけるかもしれない、までは、もう考えなくてもいいんじゃないかな…?
というのも、ツイッターって「通りすがり」の感覚で良いと思うんです。
フォローするもしないも、それぞれが自分の好きにやるものだし、自分の発言に対する相手のリアクションまでを縛れるものではないと思うんですよね。


「他人を嫌な気持ちにさせる発言は、なるべくしないように心がける」というのはマイルールであり、わたしが言葉を使う上での大前提です。
それでも結果、思わぬ形で誰かを嫌な気持ちにさせてしまうことだって絶対にあると思ってます。
だって、万人に好かれる、万人にとっての正解だけを喋ることは、誰にだって、どうしたって不可能だから。
…という意味で、ブロックしようがされようが、そこはお互い様であり得ることだなって手放した方が、気が楽でいいんじゃないかな。
他人に自分がどう思われるかまでコントロールなんてできないし、しようとするほうが多分まちがっている。だからこそ、ブロックされた/されないに対してストレスを感じても無意味だな、みたいな感覚があるかもしれないです。
なので「これはつらい、本当に無理だ」って思う瞬間があったら、自分を守るためにばんばん使っちゃえばいいと思います。ブロック。遠慮しなくていいと思う。

◆2点目:ツイッターでよく生じるタイプの「論争」は、触らぬ神に祟りなし

これはわたし個人にとって、という感じですが。全ての論争が無駄であるとか、見たくないと言っているわけではないよ!
ただ、そもそもなんですけど、ツイッターって論争に圧倒的に不向きだと思うんです。
というか、テキストを使った建設的な論争、うまくいく方が珍しい気がしています。


まず、ツイッターに限らず「議論」を成立させるためには、相手と自分の問題認識がそもそもおなじフェーズにないと、真っ当な形にはならないですよね。
前提を共有することが不可欠である、といえる。
わかりやすくするために極端な例で説明しますが、Aさんが「四つ足の哺乳類の話を幅広くしたい」と思っている一方で、Bさんは「ネコについてだけ話したい」と思っており、しかもそのことがお互いに伝わってないとしたら、まずは両者の前提を揃える必要があります。
Aさんはまずは「私はネコだけでなく犬やうさぎのことも話したいんです!」ってBさんに伝えて、自分のいる位置をわかってもらわないといけないですよね。
相手と自分がいる位置が揃っているのかを見極め、揃っていないとわかったら合わせようと試みるのって、実際にやるのはけっこう難しいことな気がします。

しかもたいていの場合、ツイッター上でもめている発言者のことなんて、どこの誰なのか、どんな人なのか、背景情報が全然ないことが多いと思うんです。
そういった「相手に対する情報が圧倒的に不足している」という状況の中で、更に「自分に対して敵に相当する立場の人」が発する言葉を、歪みなくフェアに受け取るって…果たしてそんなことができるのだろうか?と思うんですよ。その状態で相手からなにを言われても、ついすべてを否定的に捉えたくなってはしまわないだろうか?

…というような背景により、「果たしてツイッターでなにかしらの結論が出るような建設的な議論が展開できるのか?」と問われると、わたしはだいぶ首を傾げざるをえません。


おたく同士によるツイッター上の論争では、往々にして上記のような背景から「そもそも話が噛み合わない」状態が起きているような気がしています。
その結果として、噛み合わない話をただ延々と、いかに「自分の方が正しいかを周りに表明する」ために、やり続けてしまう面があるのではないか?と思うんです。
私がツイッター上の議論が苦手な理由は主に、ここにあります。

解決に持っていきたいという意志よりも、自己の正当性を周りに認めてもらいたいという欲求の方が主になってくるその様子を見ているのが、なんともいえず苦手なんです…。
めちゃくちゃ個人的な感覚なのであまり一般的ではないと思うんですが、その「自分の意見を周りに正しいと思わせたい」という意志に基づいて言葉が使われている様子自体が、あんまり得意じゃないのです。
見てるだけで、どうしてもヘトヘトになってしまうんですよね。。
話題がなんであるにせよ、自分側が信じる正しさのみで相手を殴り続けるみたいなその様子に疲弊してしまう。
なのでやっぱり、論争系もなるべく見るのを避けるようにしてます。(これも基本的にTLに流れてこないから見るケースがレアだけど。)
これは1点目に書いた内容とは異なって、予め避けられるたぐいのものではないので、出くわしてしまったら「くわばらくわばら」と思ってそそくさと逃げます。
ある意味では建設的でもなんでもないけど、なんか知らんがめちゃくちゃバトってんな!ってやつを見かけたら、とにかくそっと離れて見ないふりをする。それに尽きます。


人間、言われると言い返したくなりますもんね。それもわかるんだよな。
でもその、言い返す時の自分の言葉の使い方には敏感になっておきたいっていうか…言い方は強いですが、叩きのめすことが目的になってないか?っていうのが気になります。
すべての議論を避けるべきという話でもないし、話し合える可能性をはなから諦める、という話でもないのですが、自分の属する界隈において起こるすべての論争に付き合っていたら、間違いなくおたくは無駄に疲弊すると思う。
仮にですが、推しや自分の好きな作品や大切な友人にとって、何かものすごく不利益を生じさせる風説の流布がなされたりしたら、そのときはめちゃくちゃ頭をつかってどう戦略的に戦うか、わたしは考えるかもしれない。でもそうじゃない限りは、とりあえず論争地帯からは距離をとっておくと、心の安寧が保たれやすいように思います。


ここまで書いたことは、ご覧のとおり結論「逃げる」に終始していますが、見たくないものを見ないのは、別になにも責められたり、恥ずかしがったりするようなことじゃないと思います。

というのも、

◆言葉に対する感受性を無視してはいけない

と思っているからです。

例えば、自分が好きなものを、ひたすらに悪し様に言う言葉を読み続けていたら、気持ちよくいられる人の方が少ないと思う。
または、やたらとネガティブに周囲への呪詛を吐き散らし続ける様子なども、見ていて疲れるなぁと思って自然なのではないでしょうか。
ましてや、人を怒らせよう、悲しませようとすることを明確に意図してるような言葉はどうか。そこからダメージをくらってしまうことなんて、もはや自明すぎやしないでしょうか。


そうと分かっているものに、いちいち翻弄されて疲れてしまうのって、ざっくりいうと勿体無いし、損ではないかなと思うんです。
自分にとってつらいものを見たら傷ついてしまって当たり前なんだから、そこはまず、自分の感受性を守ることを最優先にしていいんじゃないかな。
その「言葉を見て疲れる、傷つく」ということに、蓋をする必要はないんです。むしろそこには、もっと自覚的になるべき。


なぜかというと、自分の感受性を守れるのは自分だけだから。
自分がなにに対して傷つきやすくて、なにに対して喜びを感じるのか。
その点について、ある程度意識的になって行動するだけで、ツイッター上で出くわすしんどいことは確実に減らせるし、反対に嬉しい場面も増やせる気がしています。
そこを他人や環境に任せるのではなくて、あくまでも自分のために、自分の裁量の範囲内でコントロールしようと試みるのは、戦略的かつ重要な守りの姿勢だと思います。


毎日当たり前のように、ものすごい量の情報に触れる生活。
その中で「言葉」が果たしている役割は、とてつもなく大きいと思う。
私は言葉に寄りすぎな人間ではある自覚はあるんだけど、言葉の使い方は間違いなく癖になります。
引き寄せとかそういうたぐいの話は得意じゃないけど、自分が使う・選ぶ・好む言葉によって、周りに集まってくる言葉の色合いが変わってくることは絶対にあります。
だからこそ、使うなら明るいことに、気持ちが楽しくなるようなことに言葉を使っていたいと常日頃思っているところがあります。実際にできてるかどうかは置いといて、「心がけている」とはいえると思う。
同じように、こういう言葉の使い方は苦手だ、しんどいと思うものからは、めちゃくちゃ逃げるようにしています。でないと、あっという間に傷ついてボロボロになってしまうことが明白だからです。


ツイッターという「ほぼテキストのみ」のツールを頻繁に使う以上は、言葉から受ける影響/自分の言葉が与える影響、どちらも軽んじすぎるのは危険です。
そこに介在する自分の感受性の在り方には、しっかりと耳を傾けたほうがいいのではないでしょうか。

わたしは、主に趣味において、「自分にとっての<好き>を見つけたあとは、それを守り育てていく内なる戦いがある」と思っているんですが、
その一環としてまずは「感受性を守る戦い」があるような気がしています。
楽しいおたくライフを継続していく上では、その戦略があったほうが、比較的うまくいきやすいし、何より自分が楽だと思います!
というわけで、言葉に対してしんどさを感じるときは、遠慮なくかつ積極的に「逃げ」を発動することをおすすめします!



普段わりとそういうことを考えながら、ツイートしたりブログを書いたりしているな、というお話をまとめてみました。
…というとものすごく考えている人っぽいけど、んなことはなくて、見てのとおりツイートの大半は思いついたまま脊髄反射的に喋っているだけです!笑

「その道が、光にみちていますように」 ―ライブドアニュースの黒羽麻璃央くんインタビューに寄せて―

応援してる人が、その人自身について語っているテキストを読むのが、私はとてもとても好き。
「1万字インタビュー」とかほんと最高ですよね。嬉々として読む。
…と常々思ってるのですが、今回のこれは読んで、本当にやられた。
どう言葉にしていいかわからない。言うまでもなく、泣きながら読んだ。
news.livedoor.com

そもそも昨日、このツイートを仕事中にみたんだけれども、

そんなディスクリプション、無理だよ。無理にきまってるよ。。

【覚悟】人気に甘えていたら死ぬ。必要なのは「実力」

本文読む前に、おたくはもう、このアオリ文だけでしんじゃったよ…。

読む前から「これはもう、だめだ(死を覚悟)」って感じだったんですが、さらにそこから担当されたライターさんが誰かを知って「これはもう、本当にだめだ(諦観)」となりました。

…横川さんのお仕事だったのかーーー!!!!!涙

それを知った瞬間、記事を開く前から「ありがとうございます」と思いました。横川さんが手がけられるインタビューなら、絶対に読みたいものが読めることがわかる。フラットなスタンスや対象に向かう姿勢の丁寧さ、何より愛を、とても信頼しているライターさんです…。
たぶん横川さんのお名前が舞台おたく界隈にひろく認知されたのは、私が知る限りでは、清光単騎2017のレポがきっかけだったと思います。
「まるで我々のような様子のおかしさで素晴らしい文章を書くライターさんがいる」と、当時ツイッターでめっちゃ話題になってた。豊富な語彙と丁寧な日本語で紡がれる、しかし「様子のおかしい」としか言えない名文、何度読んでも癖になります。
せっかくなのでその記事も貼っておこう!いつもお世話になっています!
entertainmentstation.jp


で、今回のインタビュー、帰宅して心を落ち着けてから読みました。覚悟を決めて。読んだんだけど…
「WEBインタビューを読んでその感想を書く」というわけのわからんことをこうしてやってしまいそうになるくらい、本当に来た。くらった。
とても丁寧にまとめられた真摯なインタビューなので、まずは冒頭に貼ったURLを読んで…読んでほしいです…。推しであるところの黒羽麻璃央くんの真っ直ぐさや飾らない人柄が、これでもかというくらに伝わってきます。
以下はそれを読んだ結果行き場がないのでここぞとばかりにブログに叩きつけている、私の個人的なうわごとです!インタビュー内容に具体的に触れたり紹介したりというより、とにかく読んでいて湧き上がってきた「ウワーーッ!!!!涙」という気持ちを言語化しただけのやつです!
というか、もう私のうわごとはいいので、みんな!とにかくライブドアニュースの記事を読んで!!!(なにがしたいんだ)




◆「恵まれている」からこそぶつかるもの

まりおくんは、圧倒的にかっこいい。
恵まれたとしか言えないお顔立ちやスタイル。さらに運動神経はなにをやらせても抜群で、なんと歌まで歌えてしまう。
めちゃくちゃ「持っている」ものが多い人だなって、今の彼を見たら誰もが自然にそう思うことだろう。
でも本人は、あくまでも「実力で勝負したい」とだけ言い切る。
ここ最近、インタビューで語る内容がまた徐々に変わってきたような…?と思っていたんだけど、今回のインタビューに滲む冷静な覚悟は、今までの比ではないな、と感じた。


まりおくんは苛烈なまでに、自分の立ち位置を見極めようとするところがある。その様子はシビアすぎると思うことがあるくらい。
おそらく、ある面では「持っている」人間であることを冷静に自覚してもいるからこそ、足りない部分に目がいったり、もっとできることを増やしたいと、強く感じるのだろう。

そして、圧倒的な強みであるはずのその美しい容姿が、場合によってはマイナスに働くことも、確かに避けては通れない事実なのかもしれない。
かっこよければかっこいいほど、顔立ちが整っていればいるほど、”そうじゃない”ところで評価されにくくなるところは絶対にある。そしてそれは多分、悔しさを生む瞬間もあるだろう。
…そういう場面があるってこと、応援している側からしても、時折なんとなくだが感じるくらいだ。

だから、横川さんが書いてくれたここの箇所で、わたしはめちゃくちゃに泣いた。

容姿に恵まれた俳優は、時として軽んじられることもある。とくに若い女性ファンの多い2.5次元舞台で活躍する俳優は、なおさらのこと。だからこそ彼はなりたいのだ、野次さえも実力で黙らせることができる人間に。

そんなふうに、まりおくんの語る言葉をすくい取ってくれた横川さんに、ただただ感謝の気持ちしかない。
ご自身が普段から2.5次元他、各種舞台およびエンタメを愛している横川さんだからこそ、この言葉を書けるのだと本当に思う。
記事紹介のこのツイート、全文にラインマーカーを引きたい気持ちだった。ありがとうございます…。


そして先程の引用箇所を読んだときに、思い出した別な文章があった。
それは今年の春にまりおくんが出演していた「ミュージカル ロミオ&ジュリエット」の公演パンフレットに、演出の小池修一郎先生が寄せていた文章である。
キャスト陣へのコメントのうち、まりおくんについて語ってくださった言葉を以下に引用する。

マーキューシオの黒羽麻璃央2.5次元スターのミュージカル初登場だが、見かけによらず(失礼)大変ユニークで面白い。未知と無限を秘めている。

ここも、初めて読んだとき、ほんとうにぼたぼたに泣いた。
感動しすぎてこの2文、正直そらで言えてしまうほど…嬉しさのあまり、あきれるほど繰り返して読んだから。
この言葉だけで、小池先生がとてもフェアな視点で、まりおくんのことを見てくださってることがわかる。
「見かけによらず(失礼)」と表現されているけれど、それはつまり、容姿からイメージされるものにはとらわれず、本質を見てくださっているということだ。
どれだけ人気演目にでていようが、2.5次元界隈で有名な存在だろうが関係なく、あくまでも「一人の俳優」として今のまりおくんを捉えてくれている。そのことが明確に伝わってきて、ファンとしてはただただ嬉しかった。

そんな現場でまりおくんが見せてくれたマーキューシオは、本当に間違いなく、彼の俳優人生において新しい扉を開くものだったと思う。
まりおくんにとっての千秋楽となった大阪公演前楽のカーテンコールでの挨拶、「純粋に、もっとうまくなりたいと思いました」という笑顔が、胸に刺さって忘れられない。

◆「2.5次元の◯◯」という呼称がもたらすもの

そんなまりおくんは「2.5次元俳優」という呼ばれ方をすることが、この半年ほどでとても増えた。
テレビ等へのメディア露出が、以前とは比べ物にならないくらい多くなっているのだが(少なからず昨年末の紅白の影響も感じる)、そのたびにキャプションとして、名前の隣に「2.5次元俳優」だとか「2.5次元の王子様」といったキャッチフレーズが踊っているのを目にする。


この「2.5次元の云々」という語られ方、個人的にはとても扱いが難しい。
そもそも「2.5次元作品」とはなにか。
漫画やアニメ、ゲームなどの原作から、まるで抜け出てきたような現実離れしたビジュアルのキャラクターにより、原作の世界観が忠実に再現された舞台。ごく簡単に説明するならば、こんな感じになるだろうか。
そんな2.5次元作品には、確かに他では見せられない、明らかに2.5次元にしかない魅力がある。好きだからこそ観客のひとりとしてそのことがよくわかるし、最近は世間的に見ても、ある意味とてもキャッチーな単語になりつつあるようにも思う。
だけどそうやって「2.5次元」という言葉を、自分が好きな俳優に対してまるでラベルのように使われた瞬間に、わたしはどうしても違和感を覚えるのだ。
なぜなら、まるで推しが「そのジャンル”だけに”属する人」として規定されることに繋がりかねないか?と、不安になってしまうから。それ以外の世界では「2.5次元の人でしょ」というふうにしか、見てもらえなくなってしまうのではないか?と思うからだ。


そういう私は、当然ながら2.5次元作品がものすごく好きである。
もはや誇りを持って、このジャンルを愛していると言える。
テニミュで舞台の楽しさを知り、帝一の國で規格外の愛と面白さを浴びて、刀ミュでエンタメの底力に殴られた。2013年に舞台にハマって以降、私の観劇人生は常に2.5次元の名作たちに彩られている。
長年知っていたまりおくんのことを突然推し始めるきっかけになったのは他でもない刀ミュだし、そもそもまりおくんのことを初めて知ったのはテニミュだ。どうしたって当たり前のように、私がまりおくんを語る時、切っても切れないものとして2.5次元はそこにある。
だからこそ「2.5次元の◯◯と呼ばれることが嫌だな」という感情は、とても扱うことが難しい。
だってそれは、大好きな作品そのもののことも、まりおくんをはじめそこで頑張っているキャストたちのことも、まるで否定するような気がしてしまうから。


そう、2.5次元を愛しているからこそ、その呼び名そのものについては、そもそも「否定」すること自体がとても難しくなる。しかし一方で、推しがあたかも2.5次元のみに属するかのように扱われるのは嬉しくはないし、むしろつらい…という、どうしようもないアンビバレンツが、2.5次元を語る上で私の中には生じるのだ。
おおよそ2015年以降に大きく盛り上がった、2.5次元のビッグタイトルに出演した世代の俳優たちは、多かれ少なかれこの問題に頭を悩ませることになるのではないか、という危惧を、少し前から個人的に抱いている。


だけどまりおくんは、その壁すらも、率先してぶち破っていこうとしている。
立役者のひとりとして2.5次元を愛しながら、一方で外の力でそこにのみ留め置かれ規定されることには、明確に抗おうとしている。
その気概は、いろんな場面で伝わってくる。今回のようなインタビューや、イベントで話してくれる内容から。
「圧倒的に売れたい」「スターになりたい」という言葉、何回も聞いてきた。
そうはっきりと口にできる覚悟って、並大抵のものではないと思う。
ある意味では自分を強烈に追い込んでいるけれど、でもそうしてまで目指したいもの、歩んでいきたい道が、まりおくんにはあるということだ。

◆まりおくんと三日月

先日、刀ミュ(ミュージカル刀剣乱舞)で、とても大きな発表があった。
毎年冬に恒例のものとして行われてきたライブ演目「真剣乱舞祭」をいったん終えて、代わりに新しく、もっとお芝居要素の強い演目「歌合 乱舞狂乱」を全国9都市で公演するのだという。

そして、この公演に出陣する刀剣男士の中に、まりおくんが演じる三日月宗近の名前は、なかった。

刀ミュが始まって、今年で4年目になる。
三日月宗近は、刀ミュという作品において、常に中央に立つ象徴的な存在である。
2019年は、そんな三日月が2015年のトライアル公演以降初めて、一度も公演・ライブのたぐいに出演しない年になることが、この発表で確定した。


SHOWROOMの生放送でこの発表を聞いたとき、当然めちゃくちゃ寂しかった。
だってまりおくんの三日月が、本当に大好きだから。
あのうつくしさは唯一無二だ。
一部のミュージカルのパートでこちらを圧倒する、表情や歌声にこめられる哀切も諦観も、強さの中に同居する果てのない優しさも。
華やかに舞っているような優雅な殺陣も、ライブパートで見せる腹の立つくらいに決まりきったかっこよさも、全部全部、本当に大好きだ。
だから「あ、今年はまりおくんの三日月を見れないんだ」って思った瞬間、どうしたって泣けて仕方なかった。


でもつまり、今のまりおくんは決断したのだ。
刀ミュの三日月宗近という役を、今年は「選べない、選ばない」ということを。
そうでないなにかを、今の自分のために、自分で選んで決めたのだ。

そのことに思い至った時、三日月がいないと知った最初に感じたひりひりするようなさみしさは薄れた。
その代わりに、まりおくんが決めた「選択」を、ただひたすらに肯定して応援したいな、という気持ちが自然と湧いてきた。

人前に立つ仕事は過酷だ。
期待や夢を背負いながら、自らの希望や周囲からの要請やタイミング、色んなものを天秤にかけて、でも常に前に進まなければならないというその困難さは、きっとこちらから推し量れるようなレベルのものじゃない。
そんな中であれだけ人気のある役を長年務めて来ているからこそ、見えてくるものがあるだろう。

この先二度と三日月を演じないわけではないと思っているし、なにがどうなっていくのかは全くわからないけれど、とにかく今はまりおくんの選択を、ただ応援しようと心に決めた。


「圧倒的な実力派になりたい」というその覚悟。
今のまりおくんが目指そうとしている姿、掴み取りたいと思っているもの。
インタビューで語られている言葉が、どうしようもなく本気なことが読んでいて痛烈にわかった。
その夢を絶対に叶えてほしいし、叶えられる力が間違いなくあると思う。

だってまりおくんは、演じたキャラクターの人気やひとりでに目を引くその美しさだけで、今の位置にたどり着いたわけでは決してないから。
わたしはファンになってまだまだ日は浅いけど(ようやく1年半とちょっとが経ったところ)、その短い期間であっても、それだけはわかる。


迷いも苦しみも、見えない部分に絶対にたくさんあるだろうけど、ただその道を、応援したい。
そこに、光だけがあればいい。
できることはなにもないけど、心からそう、願っている。




横川さん、本当に丁寧で素敵なお仕事を、ありがとうございました。届きましたし、刺さりました。
その言葉どおり、これから何度も何度も、読み返すと思います。
ケガによる挫折から野球を諦め芸能界を目指したこと、テニミュの頃のフェアウェルや全国氷帝のコンテナの話…刀ミュつはもので大きく成長を遂げたその背景、ロミジュリでの木村達成くんとの久々の板の上での再会や、古川雄大くんへの憧れ…。どこをとっても全編サビみたいな、とんでもないインタビューでした。ファンの端くれとして、御礼を申し上げます…!
そしてライブドアニュースさん、素敵な企画の1人目にまりおくんを選んでくれて、ありがとうございました。

「将来的には何かしら演劇で賞が欲しいです。お芝居って正解もないし、点数をつけるものでもない。でもその中で人に評価してもらって、何かカタチとして残せることって大事だと思う。何でもいいから、お芝居で賞をもらえる俳優になりたいです」


これは、インタビューの最終盤に語られていたまりおくんの言葉。

いつかきっと、そんな姿を見せてもらえる日が来る。
その光景を心待ちに、私はこれからも黒羽麻璃央くんを応援していきたい。

ミュージカル「エリザベート」2019年版を見た感想

見たくて見たくて暴れ倒していた今年のエリザ、ついに見てきたよ~~~ッ!!!

インペリアルシアターッ!(帝国劇場)

…わたーーしだーーーけにーーーー!!!!!!!涙

ついのっけから全力である。エリザがなんの話かわからない人を勢いよく置いてけぼりにしてしまう、ぽかーんな出だしになってしまいました。大好きすぎる演目なためにちょっとテンションが振り切れています。

超有名で超人気の定番ミュージカル演目ゆえ、説明するのも野暮な気がしますが!
www.tohostage.com
美貌でその名を世に知らしめ、ハプスブルク家に嫁ぎながらも奔放に生き抜こうともがき、最後はアナーキストの凶刃に命を落としたオーストリア皇后・エリザベート(愛称シシィ)の一生を描いているのですが、<彼女の死は一体何によってもたらされたのか>という問いかけからスタートする、史実とファンタジーが複雑に融合した作品です。
彼女の人生を翻弄し続けたのは、”黄泉の帝王”トート、またの名を死。
幼い頃おてんばな少女だったシシィは、木登りをしている時に誤って木から転落し、一度命を落とします。死を統べるものとしてシシィのもとを訪れたトートは、自ら思いもよらない形で、突然シシィに恋をしてしまい、結果として彼女の命を奪う代わりに、現世へと送り戻してやるのです。
死の御手としてシシィを見つめ続けるトートと、オーストリア皇后となり自由な振る舞いを封じられても、自分の人生を切り拓こうともがくシシィ。二人は事あるごとに邂逅するけれど、生き抜く力強さを携えたシシィは、死へ誘おうとするトートの手を決してとろうとはしない。
エリザベート殺害の犯人、ルイジ・ルキーニを狂言回しとして、シシィと彼女を取り巻くハプスブルク家の人々の物語が豪華絢爛な世界観の中に描かれるミュージカルです。


…うん、でもまぁ、詳しい説明は公式のURLで読めるので!(説明できた気がしない!すません!)
見てきた本日ソワレのキャストはこちらです!

気のせいかな!?と思ってカメラロール辿ったけど2016年も子ルドは加藤憲史郎くんだった!3年経っても子ルドできるのすごない!?

ここで、いつもつい書いてしまう断り書き的なやつ。(小心者なので)
わたしはいわゆるグランドミュージカルを本拠地にしているおたくではないので、残念ながらそれっぽいことは言えないです!笑
でもエリザはとにかくあらゆるツボに刺さりまくってて。。2015年・2016年に上演されたバージョンを見て「なんだこれ好きすぎるぞ」と思い、2016年以来3年ぶりの再演となる今年も、めちゃくちゃに楽しみにしていたんです…!
まぁそんな感じで、特にミュージカル的に詳しい知識を持って作品を語るってことは決してできないんですが(なので人によっては的外れだったり物足りなかったりするエントリーかと思います)、ただただ好きすぎるので、とりあえず個人的な感想を書きます!





◆古川トートと愛希シシィ、最高に好みでした…

今回のキャストでいう個人的メイントピックは、なんといっても、トートですよっ…古川雄大さんのトートが!ついに!この世に…!ウゥ~!!!
わたしは2015年も2016年も、ルドルフは古川雄大さんで見てたので、ついに満を持してのゆんトート爆誕…ってなってもう…うっきうきのそわそわでした…。(ちなみにトートは2年とも城田優さんで見ました!)
愛希れいかさんもすごく良いよ~!って友達から予め聞いてて、どちらも楽しみにしてたんだけど、
お二人とも、さいっこうに良かったー!!!!!!!涙

エリザ、物語の軸がそうなので当然っちゃ当然なんですけど、私はどちらかっていうとシシィの一代記としてのみ、この作品を受け取ってきたところがあるんですよね。

というのも、東宝版を見ている限りでは、トートとの<愛の物語>っていう印象を受けたことが正直なくて。確かにトートからシシィへの尋常ではない執着心は感じるのだけど、それが恋や愛のたぐいか?と言われると、それはようわからんな…みたいな気持ちがしていた。まぁ、トートは人ではないので一般的な恋心とは違って当然ではあると思うのですけれど。
でも以前、友人に花總まりさんが宝塚でシシィを演じられていた時の映像を見せてもらったことがあって、その時に初めて「あ、ラブストーリー要素確かにあるなぁ」って感じたんですよね。そこで初めて「愛と死の輪舞」」にも納得したといいますか!

…なんだけどっ!!!
今回ゆうたさんのトートを見て、ラブストーリーとしてのエリザの姿を、私個人としては初めて東宝版で把握できました。それが自分の中でけっこう衝撃的に大きな変化だったので、このエントリーを書くきっかけになりました。

なんていうか、、ゆうたさんのトート、とても真っ当にシシィに恋をしている…!ものすごく、ロマンチックなんですよ…!
決してベタベタしているとかそういう意味ではなくて、、本当に突然、自分でもコントロールが出来ない範疇で、シシィの存在に囚われてしまったんだろうなぁという感じで…。
なんだろうなあ、見ていて意外なほどに表情が!お顔つきが!雄弁に感情を物語る系のトートだったの!!!
直近だとロミジュリでゆうたさんを見たんだけど、その時とも当然違っている魅力が炸裂していて。。好きすぎた…。あんなの見られるなんて幸せすぎた。
ロミジュリの時、ゆうたさんのロミオは、とにかく死に愛されるロミオであることが特徴だと思って見てました。その時もすごく好きだったのでロミオ役については詳しめに感想を書いたりしました。
anagmaram.hatenablog.com

そんなふうに、独特に陰のある美しさを持ち味とする彼が<死>そのものを演じたら、一体どうなるんだろう!?って思ってたんですが、

  • ただただ、似合う。似合う以外に語彙が見つからなかった
  • あまりにも美。徹頭徹尾、美。美しすぎる。オペラ越しに美貌で殴られた

…っていうところまではある種予想どおりでした。でも、

  • シシィに真っ当に恋をしている

っていうのは正直全然想像してた方向性じゃなかったので、「ウワァ~!?」と頭を抱えて転がりましたわ…(興奮した)。


彼は帝王というだけあるのだから、思いのままにならないことなど、本来はきっとないはずなのです。そもそも生きている人間に振り回される必要なんてないはず。
それなのに、シシィを現世へ戻す決心をして以来、彼はずっと手に入らない愛を求めて彷徨うことになる。
愛と死の輪舞の「禁じられた愛のタブーに」って歌詞があまりにも似合いすぎてッ…!
あともーーー、本当にどんどんばかすか歌がうまくおなりになりますね!!?
最後のダンスのいちばんラストのシャウトなんか、かっこよすぎて「ヒィィィ」って背中を椅子に張り付かせました。。ゆうたさんの声ほんとスキナンダヨーー!!!
今まで聞いた中で一番ハリが強い歌い方をしている気がしたけど、それもやっぱり”帝王”ゆえんなのかな!?ロミオのときはもっと青年っぽい若いゆらぎを感じさせる歌声だったので!


今回、ゆうたさんのトートを通じて特に印象が変わったのは、二幕の「私が踊る時」でした。
フランツを説き伏せ、反目し合う皇太后ゾフィーとの対決に打ち勝ち、子育てを自分の手に取り戻したシシィ。ハンガリー王妃となった戴冠式のあとに「勝ったのね」と高らかに宣言し、あなたとはまだ踊らない、とトートの手を勝ち誇った笑顔で拒絶するのですが、その時シシィに手を差し伸べているトートの後ろ姿に、なんともいえない切なさが滲んでいて…。
シシィが思い通りにならないことにいらつくというよりも、彼女への恋心が成就しないことへの苦しさみたいなものを強く感じさせられて。うわ、こ、恋してんじゃん…!?ってなって、初めて「私が踊る時」で泣いてしまった。。
トートに感情移入してエリザみたのは本当に初めてだわ。。
もちろん、今回の二人の組み合わせで見てもこの曲においては<対決>の色合いは感じるのだけど、そこにロマンチックな要素が解釈として入ってきたのが、自分の中でものすごく新鮮でした!


そしてそんな帝王の愛を受けることになるシシィのれいかさん!愛称は「ちゃぴ」さんだと教わったのでもうちゃぴさんで書くね!
…ちゃぴさんのシシィも、本当にめっっちゃくちゃに良い!!!!!!
一幕の弾けるような若々しさも、徐々に羽をもがれてゆく二幕の重苦しさも、本当にどちらも素敵で…
歌声も抜群に素晴らしかった~!!!
歌や場面によって声音を変えるというか、明確な歌いわけもしないといけないし、音域は半端なく高いし、リーヴァイさんはなんて難しい譜面を用意するんや…って見るたびに思うんですけど、どれものびのびと歌いこなしていて、聞いてて大好きになるシシィの歌声でした。
年を重ねるごとに、自分の自由を貫くためにある意味では傲慢さを身にまとっていくシシィ。天真爛漫な少女時代の表情も、したたかさを身につけ、自信を漲らせて嫣然と微笑む皇后たる姿も、どちらも魅力的に演じられていて、叶うならちゃぴさんでもう一回みたいです。。
自分の中にシシィという存在が染み込みきっているのだろうなぁ…と思った。間違いなくそこには説得力がありました。美しくてかっこよかった…!

◆あとはひたすら、エリザの好きなところを書きますのコーナー

まとめる気がないことがありありとわかる見出し。ま、まとまらないんよ…。

  • 音楽が好き…!

なんなんだろうこの魅力。。なんでこんなにぶっ刺さるのかなぁ!?
私自身の音楽に触れた原体験が圧倒的にクラシック育ちだからのせいもあるのかな、とはちょっと思うんですが、クラシックをベースにするけど妙にキャッチーさを感じさせるメロディばかりですよね。引きが強い。ウィーンからやってきたメロディたち…うっとりしてしまうぜ…。
「第一の尋問」~「我ら息絶えし者ども」からして、とてつもなくやばくないですか…?
シンコペーションでおりていくマイナーコードでぶち上がり、その後メジャーコードにがらりと転調するあのダイナミズム。。今日もあそこ鳥肌立ちまくった…!
「ミルク」も「キッチュ」も、最強にかっこいいよね~!!!

エリザは主に音楽のせいにより、特に一幕はほぼずっと泣く、みたいなわけのわからん人間になってしまうんですが、その中でもやっぱり出色なのは「私だけに」ですよねーーーー!!!…と思っています。どれかひとつだけ好きな曲を選んで、って言われたら、迷わずにこれを選ぶ。
最初はピアノだけの静かな伴奏に、徐々に弦楽器と管楽器が加わってゆき、最終的に華々しく打ち鳴らされるドラムスから一気に盛り上がっていくラスト…そして満を持して張り上げられる、シシィの劇中で一番のハイトーン。このカタルシスはなんぞ!!?
どこを見渡してもドレス!っていうシーンが多い中、真っ白い飾り気のないネグリジェ姿でぽつんと立ったシシィがひとりで歌うという演出もまた刺さる…!!!
身を飾るものが何もなくても、彼女の魂こそが眩しく光り輝いているのだ、ということが端的に伝わってきて、もう襟元までぼったぼたに涙を流して泣いてしまいます…。(オペラグラスを外したくないのでハンカチが持てなくて…涙は流し続けるしかなくなるのであった。)
あの曲を聞いてる瞬間、ミュージカルが好き!エリザが好き!ってなって、客席に座っていられる幸せで爆発しそうになる。いやほんと、実はそれくらいこの演目が好きなのでした。。

  • 強さが招く孤独と、絶望と

そもそもが、シシィの生き様に惹かれてしまう…。
諸刃の剣のようなその強さに、自らの身を焼かれるようになりながらも、それでも前に進み続ける…っていう人物造形がもう言わずもがなで私は好きすぎるのですが…
シシィには、自分勝手な面ももちろんたくさんあるんだけどね。。わかっちゃいるんだが、絶対に好きにしかなれないんだよな~…。
でもそんなシシィも、最初から周囲を突っぱねて我儘に生きる気なんてなかったはずなんですよね。
「あなたが側にいれば」でフランツを愛にあふれたまなざしで見つめる彼女の笑顔には絶対に嘘はなかったし、フランツだってシシィを孤独に追いやるつもりはなかったんだよな…って思う。
この二人のすれ違いも悲しくて、その後に待ち受ける展開を思うと、一幕の「あなたが側にいれば」も号泣シーンになってしまうのだった…。
同じような理由で冒頭の「パパみたいに」もめちゃ泣きだし。パパからの「アデュー、シシィ」が、リプライズ含めてもうダメです。
孤独に苛まれるルドルフに対して、頑なに手を差し伸べることができなくなってしまっている彼女を見ても、なんでか責める気持ちになれなくて…っていう私はシシィに肩入れしすぎなんだろうなぁ!
でもそれで言うと、以前見たときは「フランツお前、妻に迎えたんだから責任もって守ってやれよォ!?」ってそればっかり思ってたけど、今はフランツのことも同じように責められないっていうか、かわいそうに思えてきてて…これは単に、見る側の私が以前より大人になったのでしょうか。。笑

  • 視界がドレス天国…

わたし、ドレスが好きなんです…。特にその背景とか理由とかで思いつくものはないんだけど(ないんかい)、ドレスというものを見るとテンションが爆上がりしてしまう。
服飾史的におそらくハチャメチャ正しいのだろう色とりどりのドレスが、これでもか!とばかりに出てくるエリザ、それだけで目が幸せなのです。。
パニエがぱんぱんに入っているシルエットも、ドロワーズがちらりと見える幼いシシィが着るすとんとしたワンピースも、人生の後期にシシィが着るヴィクトリア調スタイルのバッスルドレスも、全部大好き…。。。
シシィ付きの女官たちの装飾の押さえられたシックなドレスも好きだし、ゾフィーの重厚すぎる威圧感満点のドレスも好き!
宮殿に戻ったシシィがルドルフを拒絶してしまうところの、ダークグレーのファー付きのドレスとベールつきのトーク帽も…ルドルフのお葬式の真っ黒なレースのベールも…!ウゥ~!全部好き~!!!…って具合に、ドレスが好きです。笑
もちろん一番好きなのは星のドレスなんですけどね!
有名な肖像画の装いをそのまま衣装に仕立ててあるあのドレス。2015年にはじめて見た時は「ウヒョ~~!?肖像画と同じだ!!?」ってそこにまず大感動しました。
望む生活についての確約をフランツから勝ち取った彼女が、光り輝くばかりの美しさで笑みを湛える、あの一幕のラスト。
最後にバッ!と扇を顔の前にかざすあのシーンに、ばかみたいになってビャー!って泣いてしまう…今日も泣きました。。あの演出、心底天才だと思う…。



だいたい5000字で打ち止めようと思っていたのに、エリザが好きなところ、ちゃんと言語化したことなかったので、書き始めたら止まらず大変なことになってしまった。笑
というか、世界史好きには刺さるに決まっている世界なんだよな。。
背景にずっと吊り下がっている巨大な双頭の鷲のレリーフにそもそもテンションが上がってしまう。そしてそれがカラフルに点滅するところが、ちょっとおもしろくてまた好き。

あーーーー、やっぱり自分が好きって明確にわかっているものを見ると、ものっすごく元気がもらえる!と思いました。
観劇後は楽しすぎて幸福感に頭ふわふわになるあまり、帰り逆方向の電車に乗りそうになった。電車に乗れなくなるのは観劇後の舞台おたくあるある(だと思う)。
このエントリーで全然触れる余裕がなかったんですけど、初めて見た京本くんのルドルフもものすごく素晴らしかったですし、成河さんのルキーニはやっぱ最高でした。
7月にまた観劇にいくのでそれも楽しみ…!たつなりくんのルドルフを見たらまた別な意味での感動に襲われてしまうよ…!ようやく見られる花總まりさんのシシィも楽しみ!

はぁ、とくにまとまってないけど、好きなことを好きなように書いたから満足したー!笑