こたえなんていらないさ

舞台オタクの観劇感想その他もろもろブログです。

大好きとありがとうは、いつだって祈りのように

ジャンルがなんであれ、表舞台に立つ人のことを、わたしは本当に尊敬している。


その身に宿す様々な才で、見る側を魅了し、心が浮き立つような瞬間を数え切れないほど届けてくれる。
存在を思い浮かべるだけで自然と笑顔になってしまえたり、つらい時苦しい時、ふと前を向こうと思えるエネルギーをくれる。

主戦場がどこなのか、舞台なのかテレビなのかライブシーンなのか、彼らが活躍する場には本当に様々なバリエーションがあるけれど、
どんな場においてもその人たちが届けてくれるあらゆるパフォーマンスは、いつだってまぶしく光り輝いていて、
観客であるこちらを心の底から励まし、楽しませ、幸せな気持ちにさせてくれる。
本当に大好きだ。
素晴らしいものをいっぱい届けてくれて、表に立つという役割を選び続けてくれて、ありがとうと思う。感謝の気持ちが自然とあふれる。


そんな彼らに対して、わたしたちができることは驚くほど少ない。
その「仕事」の姿に惹きつけられ、好きになり、応援をするわたしたちには、「仕事」のごく一部の側面しか見えない。

彼らのプライベートになにかものすごく辛いこと、困難なことがあったとしても、それを直に分かち合う役割を、わたしたちが担うことは決してない。
人生の道筋を、共有している存在ではないからだ。
背負った苦しみを減らすことを手伝ったり、身近な支えとなるような場面は、絶対に訪れない。

その役割は、彼らの人生の中で、実際に側にいる人たちだけのもの。
友人、後輩や先輩、恋人、家族、それぞれに特別な立場の人が担うべきもの。
だから、わたしたちにできることは、本当に少ない。何もできない瞬間が、ほとんどだ。
それがファンの宿命である。


しかし、彼らが選んだその「仕事」に、もしも迷いが生じたとき。
「こんなことをやっていて意味があるのか、自分は一体なんのためにこの仕事を続けているのか」
そんな思いがもしも頭をもたげることがあったなら、
わたしたちはその疑問に対して、力強く真正面から「意味がある」と答えることができる。それならば、間違いなくできる。


あなたの選んでいるその仕事は、誰かを力づけたり笑顔にすることができます。
生きている誰かの心持ちを、明るい方向へと変えることができます。
あなたの姿に触れることで、生きる上で必要なエネルギーを静かに得ている人がいます。
比喩ではなく、明日からの日々を改めて生き抜く活力をもらっている人がいます。
あなたの仕事は、誰かの人生にそんな機会を信じられないほどたくさん提供できる、とてつもなく素晴らしいものです。ものすごく尊いものです。


そうやってその仕事に意味を持たせることが、時には逆説的に相手を追い詰める原因になりうることも、理解している。とても苦しい。
だけど、こうして両手にたくさん受け取ってきたポジティブな感情の塊を、否定するのもやっぱり変だと思う。
だから、本人がそう望む限りは、どうか心おきなくその魅力を世界に放ち続けていてほしいと願う。


エンターテイメントにしかできないこと、救えない心は、この世に確実に存在します。
いつもたくさん、光を生み出してくれてありがとう。
全身で味わいたくなる美しい歌声や、見ているこちらの心まで踊るような見事なダンスを届けてくれてありがとう。
感情を揺さぶるお芝居や、見た瞬間に心を惹きつけられてやまない、天からの贈り物のような笑顔を見せてくれてありがとう。


たとえどんなに馬鹿みたいでも、
わたしは彼らにただそれだけを伝え続けていたいし、誰にも聞かれなくても勝手に表明し続けていたい。
こちらからはミリほども、その人生に対しては本当に一切何もできないのだとしても、むしろだからこそ、その「仕事」の側面がもたらす光の大きさを言葉にしたい。


あなたがたが生み出してくれる表現は、いつだってこの世界を明るく照らすのだという事実を、
その様子に元気をもらっている自分の姿で、これからも証明し続けていたい。


自分が知っていること、受け取ったものだけを、わたしはこれからも自分の中でどこまでも大切にする。
許さないと思ったことは永遠に許さないし、知りたくないことを知るつもりもない。

大好きな人たちが、そのかけがえのない内面世界を、外の何者にも侵されず損なわれず、どうか大切に守り続けていられますように。

だいすきです。

【ネタバレあり】刀ミュ 静かの海のパライソ2021 感想その1~鶴丸国永・大倶利伽羅について~

ミュージカル『刀剣乱舞』静かの海のパライソ2021が、去る9月27日にTDCホールにて無事幕を開けました。
今週末で東京凱旋公演が終了予定。このまま行けば、今年こそ最後の宮城公演までの完走が叶いそう…という状況に、何より安堵しています。


既に2回配信もあり初日からだいぶ時間は経ってはおりますが、以下はネタバレ満載の記事になりますので、未見の方はどうぞご注意ください!





パライソのストーリーをごく簡単にかいつまんで書き起こすと、下記のような感じです。


主の命で、島原の地に出陣した鶴丸たち6振り。
敵の狙いは島原の乱か?と思われた到着後早々に、一揆の首謀者のひとりである少年天草四郎が、時間遡行軍によって殺されてしまう事態となる。
歴史の流れを史実どおりのルートに戻そうと、鶴丸一揆を成立させるべくもう一人の首謀者である山田右衛門作を捕えたうえで、日向正宗・浦島虎徹に「天草四郎を演じる」ことを命じ、
島原の民衆たちを集めていくこととする。
そしてその結果として一揆勢は3万7千人となり、原城を奪うまでの勢力に拡大する。つまり、歴史の流れは無事に元に戻りつつある…と言えるのだが―


話の”筋”という意味では、とてつもなくシンプル。
しかし、その上に織りなされる様々な刀剣男士たち、および登場人物の感情の在り方は本当に重厚そのもの。
というか、そもそも題材として「島原の乱」を選んでいる時点で、どうしようもない重たさがあるわけなのですが…

感想として言いたいことを挙げていったら本気で収拾がつかなくなってしまったので、
この記事ではばっさりと割り切って、鶴丸国永・大倶利伽羅のふた振りに関する感想のみをまとめています。
それ以外にもありすぎるほどある感想は、たぶん時間が空きますが後日別記事にてがんばります!


◆冷たい「怒り」を宿し続ける、パライソの鶴丸国永

本作の鶴丸は島原での任務の間中、どこか露悪的というか、わざとらしいほどに説明の足りない様子を見せ、なんだかちょっぴり"嫌な奴"のように振る舞います。
任務の詳細を部隊の皆に伝えないまま出陣し、天草四郎が死んでしまったあとも、あえてあっけらかんとした態度で「天草四郎を演じて、仲間を集めるんだ」「ざっと2万人は必要だな!」とだけ言ってのけます。

仮に人々を集められたとして、その2万人の人々が最終的にどうなってしまうのか…史実を知っていればすぐにわかることなのですが、
恐らくはひと振りだけ詳しい事情を知らない浦島虎徹がそれを悟ることの無いように、「困ったときは、ぱらいそ!って叫べばいい」とまで言って、彼を任務に送り出してしまいます。

結果として今回の刀剣男士たちは、人の命を奪う片棒をかつぐ…どころではない振る舞いをすることになるのですが、鶴丸は確信犯的に黙った上で、それを仲間たちにやらせようとしている。

見ている側がやや戸惑いを覚えなくもないその鶴丸の行動は、複雑に絡み合った「怒り」によるものなのだと思います。


鶴丸のその怒りは、まずわかりやすい形として山田右衛門作に向けられます。
出会った直後から最後まで、一貫して鶴丸は右衛門作につらくあたり続けますが、
その背景には、自分のしていることの重みを本質的には理解しないまま、民衆に火をつけ一揆へと駆り立てた右衛門作の無責任さへの怒りがあるのではないかと思いました。


象徴的だな…と感じたシーンに、原城で板倉内膳正を討ち取ったあとの鶴丸が、背後にいる右衛門作を振り返り、刀で彼を指し示すというものがあります。
鶴丸に刀を向けられた右衛門作は、その場で怯えたように腰を抜かしているのですが、
ここでの鶴丸は右衛門作に「お前が始めた戦は、こういう結果を呼ぶものなんだ、わかってるんだろうな?」「だから、最後まで責任を取れよ?」と告げているように見えました。

右衛門作は、兵を挙げた時点では、まさか自分たちが大名の首を取ることになるとまでは、おそらく考えていなかったのでは…?とも思うのです。
困窮した暮らしについての訴えはあくまでも真っ当なものであり、ある程度の力を示せばお上も考えを改めるのではないか。
もしくは元キリシタン大名の家臣という立場からは、締め付けすぎは抵抗勢力を生み出しかねないと幕府に思い知らせることで、何某かの譲歩を引き出そうとする考えもあったのかもしれません。
しかし兵を挙げたその結果は最終的に「なで斬り」に繋がってしまう。そこまで予め思い至る思慮深さは、右衛門作にはなかったのではないか、と。


大名を殺してしまったことへの衝撃、自分たちが始めてしまったことへの取り返しのつかなさ、そして横から突然現れて死した四郎のフリをしながら凄まじい強さで敵を追い詰めていく、謎めいた鶴丸への怯え。
腰を抜かしている右衛門作からはそういったものが伝わってきました。

鶴丸はこのシーンで右衛門作をそれなりに長い時間見つめ続けているのですが、その表情は本当にひやりとしていて、目には青い炎が宿るようで…内側に燃えたぎる憤りを隠そうともしないその様子に、見ていて心臓がギュッとなりました。


そしてこの鶴丸の苛烈な苛立ちは、右衛門作を通して、自分自身にもはっきりと向かっているのだと思います。
刀である彼がもしも戦そのものを憎むとしたら、その憎しみは必然として、そのまま我が身に降りかかることになります。


たくさんの無力な人たちの命が奪われることへの果てない憤り。
死ななくても良いかもしれなかった、日々の暮らしを全うできたかもしれない3万7千人の命が、むごたらしく消えてしまうことへのやりきれなさ。
しかし自分は刀剣男士として、彼らの無数の命を奪う後押しをしているにほかならない。
いったい自分は、何のために、何をやっているのか。
そうしてまで守る「歴史」とは一体何なのか。
パライソの鶴丸は、刀剣男士という存在である以上深く背負わざるを得ない、矛盾に直面している形なのだと思います。


絶対的な正義も悪もない、ということをわかっていてなお、歴史を守る任務に就くということ。
なぜ憎まれ役を演じる?という大倶利伽羅の問いかけに、
「自分自身を憎めるくらいでなきゃやってられないだろ、こんな戦」と、鶴丸は明確に答えます。


苦境からの脱出に戦という手段を選んでしまった右衛門作、
その中で奪われていく夥しい数の命。
そして何より、任務としてその手助けをせざるを得ない己への矛盾。
自分たちが飛び込んだ渦中の出来事のその全てに、鶴丸はとにかく激しい怒りを覚えているように思いました。

◆「編成を任せて欲しい」という発言の意図

そんな鶴丸が今回の担務に対して取ったアプローチは、おそらく「全てを一人でやる」というもの。
編成を自分にやらせてほしい、と主に依頼した背景がこれじゃないかなと。


次の行き先が島原であると告げられた瞬間から、どう転んでも辛い任務になることがわかっていたから、
鶴丸「しんどいことは全部自分一人でカタをつけようとした」「その上で、障害になりそうな要素は予め省きたかった」から、
編成を自分にやらせて欲しいと言ったのじゃないかな…という気がしています。

本丸を長く支えてきた自身への信頼が既にある程度篤くあり、疑うことなくついてきてくれそうな刀(=浦島)、もしくはまだ馴染みのない刀剣男士(=松井)であっても、本人が信頼している仲間(=豊前)を通じて無理なく指示を聞いてくれそうなメンバー、という感じに、部隊のメンツを決めていった気がするのでした。

言ってしまえば、自分のやることに異を唱えさせないようにしたのではないかなと。

刀ミュにおいては、任務への取り組み方に対して、わりと明確に意見が割れる瞬間が描かれてきたように思います。
ぱっと思いつくだけでも、阿津賀志、幕末天狼傳、つはもの、むすはじいずれにもそういう描写があります。
そのような抜き差しならない局面を、今回の鶴丸は障害であると捉えて、予め意識的に避けようとした節があるんじゃないかなぁと思います。


そして鶴丸の予想の範疇には、天草四郎が敵方に殺される事態もある程度存在していたのではないでしょうか。
敵が歴史改変を狙う以上、それは十分戦略としてありえる話であり、もしそうなった場合にどう立ち回るか?という点にも、思いを巡らせていたような気がします。

ここでつい考えてしまうのは、鶴丸が部隊の中に浦島くんを編成した意図。
泰平の世に生まれた刀であるからこそ、戦というもの・刀剣男士の任務について、まだ理解が浅い傾向があるような描写をされている浦島くん。おそらく本丸の中でもかなり心が若いほうなのでは?と思われます。
鶴丸は、その浦島くんの純粋さが必要になる局面があるのではないか…という点まで読んだ上で、編成しているような気がするのですよね。
言ってしまえばその純粋さを、任務の成功にあたって不可欠なものとして利用する気すらあったのではないかな、と。。
更にその結果として、刀剣男士としての成長を、浦島くんに促したかったのではないかと感じました。
そして日向くんは、そんな浦島くんを隣で支えられるだろうパートナーとして選ばれていそうな雰囲気があります。

松井くんに関してはもっとわかりやすい。
出陣の際に告げている言葉通り、かつて刀だった頃に同じ戦を経験した松井くんの記憶が役に立つ場面を想定もしていたでしょう。
その上でこの出陣が、いつかはやってくる「自らの過去に向き合う」ことのきっかけになればいい、いったん向き合ってしまえば後はまぁなんとかなるだろう!というような意識があるように思います。
豊前は勿論、松井くんのサポート役としての選択。


そして大倶利伽羅は、己の相方として、不測の事態が起きたときの自分にとっての拠り所として、編成に加えたのだろう…と思いました。
正面から何を頼るつもりではないのだけれども、内心でなんの遠慮をしなくても良い相手として…。
また、何となくですが、大倶利伽羅の前だと嘘なく「しゃんとしていられる」のじゃないかな?という気もします。
自然と背筋が伸びるというか、伽羅坊の前じゃカッコ悪いところは見せらんねぇからな!みたいな気概が湧いてきていそうに見えて…。


任務遂行のためならばと、ある意味冷徹に過ぎるほどのシビアさで編成を行ったようにも思える鶴丸が、
一方では大倶利伽羅を自らの隣に配置したという事実。
それは、「島原の乱」にまつわる今回の任務が、それほどまでに本質的に過酷なものだった、そうでもしなければ鶴丸をもってしてでも乗り越えられないものだった、ということを表しているように思えました。

◆みほとせ出陣を経た姿としての大倶利伽羅

今回、そんな鶴丸をとにかく隣で支え続けている大倶利伽羅
パライソのからちゃんを見ていて一番強く感じたのは「みほとせ出陣を経たからこその姿」なのだな、ということでした。
あの戦いを経験した結果、からちゃんの中にはおそらくそれ以前にはなかった感情や気づきが沢山生まれている…ということがはっきりとわかる描写が沢山あって。


物語の中盤、夜空の下でひとり鍛錬を積む大倶利伽羅が歌うソロ曲があり、
その歌詞の中には、下記のようなフレーズが登場します(※細かい点は間違ってるかもですが)。

祈りの言葉も
献げる花も
持たぬ俺はただ
白き息を刻み
この身を鍛えるのみ

ここでいう「祈りの言葉」は、明らかに石切丸のことを指しているのだし、
「献げる花」という言葉からは、どうしたって呉兵のことが思い出されます。


石切丸のように、戦で命を落とした人全てに祈りを捧げるようなことは自分にはできない。
失われた命に花を手向けないのは、「全ての戦を終えたらまた来る」という約束をしたから。
そんな自分は、ただ今目の前のやるべきこと、刀剣男士として向き合うべき「戦」のために、己を鍛える。なすべきことはそれしかない。


みほとせの出陣で出会った飲み込み切れない様々な感情を身の内に含みながらも、"今どうあるべきか"を自らに真っ直ぐに問い続け、心に決めたことを淡々とやり抜く。
倶利伽羅のその決意が静かに爆発しているようなこのフレーズに、刀剣男士としての大きな成長と、なにより根底に流れる優しさを感じてしまって…。
過去の作品からの繋がりによって無理なく描き出される刀剣男士たちの進化を見るのが本当に好きなのですが、ここはかなり痺れたポイントでした。


他にも、からちゃんの中には明確に吾兵が生き続けているのだな…と思うシーンがいくつかありました。

島原の地で浦島が仲良くなった兄と幼い弟のきょうだい。
彼らと無邪気に触れ合う浦島くんに対して大倶利伽羅が「あまり深入りするな」という忠告をしてしまうのは、吾兵と交流し、のちに彼を失った自分を重ね合わせてしまったからだと思いますし、
戦いの最中、きょうだいが斬りつけられそうな瞬間を辛くも救うことができた姿には、呉兵に対して出来なかったことを果たしたのかな…と感じられて、胸が詰まりました。。

パライソのからちゃん、かっこよくて頼れて、なにより優しいのよ…本当に。。
鶴丸の隣にいてくれてありがとう、となんべん思ったことか。ありがとう。。

◆「理想主義者」としての葛藤と悲哀

またしても…という感じですが、本作にもしっかりと、背後に控える存在としての三日月宗近が登場します。
今回は、葵咲本紀や幕末天狼傳再演と異なり、その姿や声こそ現れませんが、むしろその分「この物語において、決して無視できない存在」として浮かび上がってもいるようでもあります。
葵咲本紀での描かれ方に対して、ぐっと深く踏み込んだ形となり、三日月推しとしてはまたあらぬ方向からぐさっと刺されたような思いで、いやほんと…。。


この記事前半で「怒っている」と述べたパライソの鶴丸ですが、
その感情は最終的に全て、三日月へとぶつけられます。

なで斬りによって残酷な幕切れを迎えた島原の乱
戦の最中で命を落とした兄、彼に守られて辛くも生き延びた弟。
まだ息のあるその弟を大倶利伽羅が抱き上げたところで、唐突に"物部"が登場します。
「三日月の手の者だな」と全てを承知したような鶴丸は、彼に「その子を連れていってやってくれ」と頼みます。
承知しました、と弟をその腕に抱いた物部。
そのあとの鶴丸とのやりとりを聞いて、勘弁してよ…となったのですが…

「ああ、三日月宗近さまからのご伝言が…『あまり無理をするな』と。」
「しゃらくせえって伝えてくんな」
「はい。」

いや三日月、おま…なんでそんな逆撫でするようなこという…?(天下五剣だから仕方ないか)(※推しに甘い)になりますし、
鶴丸もそりゃそう返すに決まってるよね…と思うのですが。。
いやほんと…なんでそんなこと言う…。それくらいに、三日月と鶴丸とでは、己が帯びた「役割」に対する物事の捉え方が全く異なるのだろうなと。

刀ミュの三日月は、「歴史の中で悲しい役割を背負わされた者」に心を寄せ、彼らの中の幾人かに物部という役割を与えて、刀剣男士たちの任務の補助を命じています。
その真意や背景は未だ明確にはなされていないわけですが、
パライソで"古くからこの本丸を守ってきた"と称された三日月と鶴丸には、刀剣男士としてのスタンスに目に見えて違いがあることが、今回嫌と言うほどに明確になったなと感じました。


このあと、大倶利伽羅の前で、鶴丸がパライソ作中で唯一感情を剥き出しにするシーンが訪れます。

「3万7千人。ただの数字じゃねぇんだぞ。生きていたんだ。そこに命があったんだ」
「連れて行ってやれよ、静かの海に」
「やれるもんならやってみろ!」

海に向かってひとり激しく咆哮する鶴丸
荒々しく放たれた言葉は、言うまでもなく三日月に向けられたものでした。
その鶴丸の瞳には、ぎりぎりのところで踏みとどまった涙の気配があって…。


鶴丸は、三日月に引き比べるとある種「理想主義者」なのではないのかな?と感じるのですよね。
その理想のもとに、あくまでも刀剣男士としての使命を曲げることなく、正面から果たそうとしているように思えます。
対する三日月はまた少し違っていて…あの人は「刀剣男士として」どうこうの前に、己の意志と体を持つ者として自分が思い定めたことのために、行動しているような気がしています。


パライソの鶴丸の怒りや悲しみは、おそらくこの理想主義者であることに端を発しているのかなと思いました。
鶴丸だとて、理想の果てに生まれる矛盾があることもわかっている。
それが叶うとは限らないとわかっていても、それでも手を伸ばさずにはいられない。

そしてその理想のひとつには、「戦のない世界」があるのではないかな…と、本作を見て思わずにはいられませんでした。


おそらく曲タイトルは「静かの海」だと想像しているのですが、中盤にある鶴丸と大倶利伽羅のデュエット。

クレーターのない月面の大平原である「静かの海」をモチーフとした、シンプルでありながらも静謐で美しいそのメロディ。
二振りのハーモニーがとても見事…という音楽的な局面もさりながら、やはり歌詞が胸に刺さります。*1


この歌は「退屈な場所さ」というフレーズで終わるのですが、
ここを歌う鶴丸の声と表情が、忘れられません。

顔に浮かんでいるのは「憧憬」と評したくなるような切なげな色合い。
夜空に浮かぶ見事な月を真っ直ぐに見上げながら、透き通ったその表情に宿すのは、どうしようもない優しさと哀しさ。


歌い終えて、「いつか、行ってみたいな!」と笑顔で大倶利伽羅に言う鶴丸
それに対して「そうだな」と正面から肯定の意を返す大倶利伽羅


ここでいう「退屈な場所」とは、おそらくは争いや戦のない世界の比喩表現であり、
それを「退屈」と評することで、逆説的に平和に対する鶴丸の切望を表しているんじゃないかな…と感じたのです。

そして、かつて吾兵の墓の前で「全ての戦を終えたらまた来る。それまでは、花は供えないぞ」という誓いを立てた大倶利伽羅だからこそ、
行ってみたいな、というその鶴丸の問いかけに対して「そうだな」という返事をできたのかな、と思うのでした。


戦のない世界の訪れなど、決して叶うことはないとわかっている。
戦の道具である自分達は、"間違いの道具"なのかもしれない。
しかし、そうなのだとしても。
あり得ないその世界を希求する思いが、否定されるものでもない。


大海原への大絶叫のあと、帰ろうぜ、と言った直後に足をもつれさせガクッとよろめいた鶴丸を、大倶利伽羅はすかさず受け止めて立て直します。
そしてぽつりと、しかしはっきりと言うのは「お前は、崩れるな」という一言。
それを受けて、どこかすっきりとした顔でからりと笑い、
「ありがとな、伽羅坊」と、肩をぽんと叩いて彼に背を向ける鶴丸


明確にお互いが思っている本質を口に出し合ったわけではないけれど、彼らはきっと同じ方向を見て、なによりも同じように「命」に思いを傾けている。
理想主義者として自覚を持ってもがき苦しむ鶴丸と、その鶴丸の悲哀をはっきりと共有している大倶利伽羅

それこそ"馴れ合って"いるわけでもなく、ただ隣に在ることで通じ合い、時には肩を貸すその立ち姿…。
この類の関係性の描き方、刀ミュの脚本は本当にいつ見ても見事だと思います。やっぱり大好きだなぁ。。
過不足がなくて、ベタベタしてもおらず、ただ「仲間として隣にいる」ことの嘘のなさというか。これだから刀ミュが好きなんだな、と改めて感じる伊達の二振りでした。*2


パライソのラストシーン。
日向くんの漬けたしょっぱすぎる梅干を食べて賑やかに笑い騒ぐ6振り。そしてその背後に現れる、「あり得たかもしれない」幻の島原の光景。

本来の敵味方、支配する側と武器を取った側が区別なく入り混じり、誰もが快活に笑い、
そしてその手には、ずっしりと持ち重りのしそうな握り飯がある。
互いに傷つけ合うことも、飢えに苦しむこともなく、美しい景色を前にして生き生きと笑い合うその様子こそが、
まさしく「パライソ」なのだな…と思えて、見ていてどうしても涙が止まりませんでした。


鶴丸をはじめとした刀剣男士たちが見たかったもの。決してあり得ない、でもあり得たかもしれないと、願いたくなる景色。
眼前にしたその光景の眩しさに、ダメ押しのように最後の涙を持って行かれて、終演後は毎度抜け殻のようになりました。
言葉にできないものが確かに残る、ただ「重たい」とか「しんどい」では到底片付けられないものを受け取る、間違いなく大好きな作品、それが私にとっての「静かの海のパライソ」でした。



駆け足でほんとうに無理矢理まとめたので粗いんですが、とりあえず1記事目はここまで!
書きたいことはたくさんあるので、また頑張ってまとめますー!

まずは宮城までの全公演完走を、心から祈っております。
全員揃った笑顔での大千秋楽が、どうか今年こそ叶いますように!

*1:かつての足跡が消えることのない…という歌い出しは、アポロ11号の月面着陸のことを指していて、そうか彼らがいるのは2205年!ということを新鮮に思い出したりもしました。

*2:もともと伊達属性のない私ですらこれほどまでに感じ入ったのだから、推しているひとたちはいかほど…お察しします!

ミュージカル「マドモアゼル・モーツァルト」を見た感想(明日海りおさん・華優希さんを中心に)

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10月24日ソワレ公演にて、ミュージカル「マドモアゼル・モーツァルト」を観劇しました。
観劇前は予想していなかったのですが、なんというか持ち重りのするような、ずっしりとした衝撃を受ける作品でした。いい意味で打ちのめされる体験をした。
www.tohostage.com

あらすじは下記の通り(上記公式サイトより引用)。
「作曲家・モーツァルトが実は女性だったら?」という設定のもと、モーツァルトの生涯を描く作品です。

天賦の音楽の才能を持って生まれた少女エリーザは、女性が音楽家になれなかった時代ゆえに、父レオポルトから男の子“ヴォルフガング・アマデウスモーツァルト”として育てられた。モーツァルトは瞬く間に時代の寵児として宮廷でもてはやされるようになる。宮廷作曲家であるサリエリモーツァルトの音楽に否定的だったが、一方で目をそらせない存在でもあった。

モーツァルトが下宿しているウェーバー家の母親は、彼の成功にあやかろうと娘のコンスタンツェと彼を無理矢理結婚させようとするが――。

以下、書き手の偏った思い入れにより、潔いほどに明日海さん・華さんに振り切った感想になっております…!(他キャストの方のファンの皆様、申し訳ありません!)
そして1回のみの観劇ゆえ、セリフの細かな言い回しは不正確かと思いますがご了承ください。

◆性別を偽るモーツァルト。じわじわ真綿で締め付けるように増していく苦しみ

話の筋としては、モーツァルトの才能に嫉妬のような割り切れない思いを抱くサリエリと、
それを全く意に介さず、ただ己の欲するままに音楽を書き続けるモーツァルト…という、過去にもよく描かれてきた関係性がひとつの軸になっていると思います。
本作ではさらにモーツァルトが女性であることにより、その二人の間にほのかに恋愛感情が通い合う、というのが特徴的。

しかしなんといっても、わたしが見ていて打ちのめされたのは、「女性であることを偽っている」という設定によってモーツァルトが帯びる孤独の色合いが、凄まじく強いものになっていたことです。


ただ音楽が好きなだけ。頭の中にとめどなく溢れてくる音楽を、外の世界に放っているだけ。それを自分でも止められない。
音楽の神に”愛されて”しまった存在であるエリーザは、父親の命でその才を捨てずに済むように、男として世に出ていくことを強いられます。

エリーザがそのことについてどのような感情を抱いたのかは、作中では明確には描かれていません。
しかし見ている限りでは、性別を偽って生活していることに、当初はさほど頓着をしていないかのようにも見受けられました。
裏返せば、エリーザにとっては、それほどまでに音楽が己の在り方の中心にあり、作曲ができていればそれで良かったのかもしれない。
おそらく、それがこの物語序盤のモーツァルトの姿です。

押し切られるような形で実現してしまったコンスタンツェとの結婚も、性別を偽っている以上、本来は絶対に避けなければならないはずのことなのに、
「このまま独身でいるほうが作曲生活に差し支えそうだし、まぁ意外となんとかなるかも!?」…くらいの勢いで踏み切ってしまっているようにも感じられました。
ただ愉しげに、明るい光に取り憑かれたように曲を書き続けて聴衆を魅了するモーツァルトの表情は、いつも笑顔を湛えたもので、物語の序盤ではそれが暗く曇ることはありませんでした。


しかし、最初に彼女が苦しみを覚えるのは、コンスタンツェの愛に応えられないことを痛感したとき。
「結婚した夫婦として、男女が同じ部屋にいるのに、なにもないなんてことはないでしょう?」と健気にかつ正面から迫るコンスタンツェ。
彼女のごまかしのない真っ直ぐな愛に対し、自らの素性を隠し続けることができなくなったモーツァルトは、ごめん、傷つけるつもりはなかったんだ…と詫びながら、自らの身体をコンスタンツェのもとに晒します。
しかし当然の帰結として、コンスタンツェはその事実を受け入れることができず、叫びながら寝室を走り出てしまいます。
「自分が女じゃなかったら、こんなことにはならなかったのに」というどうしようもない感情が、一人部屋に取り残されたモーツァルトを苛む。


次にモーツァルトの表情に陰りがさすのは、自分の弟子のフランツとコンスタンツェが恋仲になったことを悟ったとき。
一度は家を飛び出していったものの、「他に行くところなんてないもの」と言って戻ってきたコンスタンツェを、モーツァルトは大喜びで出迎えます。
君は何の気兼ねもしなくたっていい、自由なんだ!と、ただ自分の側にいることだけを彼女に頼むのですが、その結果としてフランツと愛し合うようになったコンスタンツェは、彼との間に子供を授かることになります。
ふたりの逢い引きを目撃し、関係を悟って胸を突かれたような表情を浮かべるモーツァルト

ここでも彼女の感情が明確に語られることはありませんが、
同性であれど、やはり”伴侶”として心の支えにしていたコンスタンツェが他の男性に心を委ねたことになのか、
それとも家族として新たな命を宿すという行為は決して実現しない、自分たち二人の歪な関係になのか…
いずれにせよ、モーツァルトの胸中がおだやかならぬものであることが、この場面からは伝わります。


そして最終的に彼女を果てなく苦しめたのは、サリエリの思いに応えられないことを知った瞬間。
父レオポルトの死を知ったモーツァルトは「もうモーツァルトでいる必要はないんだ!」と快哉を叫び、突然女性の格好で演奏会に出かけると言い出して、コンスタンツェを仰天させます。
コンスタンツェの制止も虚しくそうして女性の姿のモーツァルトが出かけて行った先は、サリエリの演奏会だったのですが…あろうことかサリエリは、女性の姿をしているモーツァルトに出会って一目惚れをしてしまうのでした。
その場は「モーツァルトの従姉妹のエリーザです」という説明で無理やり切り抜けはしたものの、その夜サリエリはわざわざ花束を携えて、モーツァルトの家を訪ねて来てしまいます。


後日、モーツァルトは再びエリーザの姿となり、ウィーンを発つのでお別れを言いに…と、サリエリの元を訪ね返します。
そして会話の流れで促されるまま、エリーザはサリエリ自身が作曲した曲をピアノに向かって弾き始めるのですが、やはりその中身はどうしようもないほどに”モーツァルト”。
「素敵な曲。」とうっとりした表情を浮かべた次の瞬間、「…でも、変化が必要ね!」と言ったかと思うと、ものすごい勢いでもとの曲をアレンジし、楽譜を無視して変奏曲に仕立てあげていってしまうのです。
奔流のように輝きながら溢れ出るその旋律に打ちのめされ、更に恐らくはエリーザの正体にうっすらと勘づいたサリエリは「何故、楽譜通りに弾かないんだ!」「出ていってくれ!」と激しく怒鳴り、演奏を止めさせます。
「貴方に喜んでほしくて…」としどろもどろに告げるエリーザ。出て行けとはいったものの、同時に慕う思いを止めることもできず、咄嗟に「行かないでくれ」と縋るサリエリ

…しかしもう、どうしようもなかった。
この場面でエリーザのもとに訪れたのは、「自分が音楽を愛するだけで、目の前にいる大切な人を傷つけてしまった」という事実でした。


どの方向にどう進んでも、がんじがらめになってしまっているようなその状況、見ていて胸が締め付けられるように苦しかったです。
常人の感覚では及ばないような天賦の才を持って生まれただけで、背負う孤独はすでに深い。
それなのに、そこに更に何重にも色合いの異なる、様々な孤独が否応無しに塗り重ねられていく。
その行き場のなさに、客席に座っている間じゅうなんと表現していよいかわからない感情になり、一幕も二幕もあらゆる場面で涙が止められませんでした。

◆存在そのものとしての説得力が桁違い。明日海さんのモーツァルト

上記のとおり、常軌を逸したと言いたくなるような孤独を背負ったマドモアゼル・モーツァルト
それを体現する明日海さん、ただとにかく、圧巻でした。

女性であることを隠すゆえ、
コンスタンツェが望むように彼女を愛してあげることができない。
コンスタンツェが自分の弟子との間に心を通わせ、子供までもうけることを決して咎められない。
サリエリに愛を打ち明けられても、応えることができない。

そこに最終的に、
自分が「モーツァルト」であるゆえに、その音楽の才能で、サリエリを傷つけてしまう。

しかし、二重否定のようなその状況を演じる明日海さんの佇まいは、まるであかるく白い光が透けているようなんですよね。
どこまでもピュアで、胸の内にただ美しい旋律を宿し、まさに「神に選ばれた存在」のような、絶対的な存在感を放っていました。

モーツァルトを生きる明日海さんからは、世を憂うようなまなざしも、自分の身を呪うような恨み節も一切感じ取ることはありません。
それゆえ逆説的に、研ぎ澄まされたあまりにも純度の高いその孤独の在り方が、本当に突き刺さるように伝わってきました。
わかりやすく自己憐憫に陥ることもなく、一方でどこか感覚が周囲とはズレ続けているような様子がまた、天才ゆえに周囲とは分かち合えない、自分だけの宇宙の中に生きているから…というようにも感じられて。
その孤独の有り様、真実性が凄まじく強かったのです。

モーツァルトの純粋さに響き合うような、あの明日海さんのなんとも言えない透明感が、物語を受け取る側の辛さに拍車をかけていたと思いますし、役としての説得力をもたらしていたと思います。
その姿が本当にまばゆくて…彼女に焦がれては突き放し、でも丸ごと理解したくなるサリエリの気持ちも、最後まで側を離れられないコンスタンツェの気持ちも、わかるような気がしてしまう。
それくらい、明日海さんのモーツァルトは、とにかく魅力的でした。

◆複雑すぎるコンスタンツェを演じきった華優希さんの芝居力

……華ちゃんさん~~~!!!!!涙
(※急にタガが外れた人)

ここで説明を申し添えますと、わたくしは去年の花組はいからさんが通る」で突然の宝塚落ちを決めており(※犯人:柚香光さん)、れい華を愛してやまない人間なので…華優希さんが!大好きなのです。
思い余った挙げ句、愛を込めて「華ちゃんさん」と呼びならわしております。
anagmaram.hatenablog.com

なのでどうしても胸がいっぱいになりすぎてちょっとなかなか冷静に書けないのですが、、華ちゃんさんのコンスタンツェ、本当に本当に、良かった。。
芝居心でこちらを容赦なく殴ってくるような、まさに華優希さんにしかできないコンスタンツェでした。


モーツァルトに恋をしているとき、さらに結婚して結ばれたのちの、ひたむきに彼を愛してなんとか気を引こうとする健気な様子。
寝室に入ってもまったく手を出してこないモーツァルトに業を煮やして、生脚をネグリジェから控えめに出してみたり、それとなく胸元をアピールする姿勢をとってみたり…という涙ぐましい努力の様子が、ま~~~本当に可愛らしく、何よりコミカルで。
やっぱりコメディエンヌ要素が抜群に!うまかった!好き!!!!
ちょっとした間のとり方やセリフの言い方で、客席をしょっちゅう笑わせていて、「流石なんだよな~~!涙」と嬉しくなっておりました。お前は何目線なんだ。


そもそもなんですけど、出だしのコンスタンツェのあのセリフ!
「触らないで!…お願いです。この部屋から出ていってください。二人きりになりたいの」。もう…。
あれを聞いた瞬間、壊れたように涙がぐあ~!って出ましたから…
華ちゃんさんがまた舞台に立っている!っていう嬉しさと、こちらをのっけからガツン!と殴ってくるような芝居純度100%のその声に、わたしはバカみたいに泣いてしまったのですが、
特段思い入れ無くシンプルに舞台として見に来ている友人が、同じように「このセリフだけで泣けた」と言っていたので、やっぱりその力は本物だな~…と思った次第でした。


華ちゃんさんのコンスタンツェは、なにもわかりやすくモーツァルトを許しているわけではない、というのがポイントな気がします。
恋し、愛したはずの相手に裏切られたという気持ちは明確に抱いていそうですし、その後も例えば「あなたも辛かったのね」みたいなわかりやすい慰めを口にするようなこともなく。
パートナーとして献身的に側にいなければと思ったわけでもなく、あくまでも世間体をとりあえず守っておくことを前提として、妻の役割を担おうとしていたフシがあります。
フランツと恋仲になったときの様子を見ると、モーツァルトに対しては消え失せた男女としての恋愛感情が、明らかにフランツに向いていることが伝わる様子でしたし、その恋路においてはモーツァルトは障害でしかなく…。
父の死を受けて突然女性として振る舞いだそうとするモーツァルトに激昂するシーンでは、「貴方のためになんでわたしはこんなに苦しまなくちゃならないの?わたしがなにか悪いことをした?」と、涙ながらに強い口調でモーツァルトを罵ります。


しかしコンスタンツェは、結局何があってもモーツァルトの側を離れることをしなかった。

愛する男だと思って結婚したけれど、それは偽りだった。
その後に出会った新しい恋は、正当な形で実る機会を、永遠に奪われた。
「君は自由なんだ」と言われながらも、その実、望むものから疎外される原因を作っている相手、それがモーツァルト

でも、それでも。
音楽に全てを捧げ、全身から命を削り出すようにして作曲を続けるその姿に、
その果てに生み出される音楽の素晴らしさに、
コンスタンツェの心の奥底は否応無しに揺さぶられ、ただ隣に居ることを選択し続けたのではないだろうか。と思うのです。


一言では言い表せないような内面の複雑性を持ちながらも、
一方では場面ごとに、その瞬間の感情が嘘のない真実であると、観客に有無を言わせず表現によって伝えられる。
それが華ちゃんさんのコンスタンツェだったな…と思います。
端的に言うとつまり…やっぱりお芝居がうまい!!!涙 大好き!!!
この先も絶対にお芝居を続けてほしい気持ちでいっぱいです。どうか続けてくださいますように!

◆明日海りおさんがモーツァルトを、華優希さんがコンスタンツェを演じた意味

宝塚の元花組男役トップスターである明日海りおさんが、「本当は女性であるが男性として生きる」役を演じ、
かつてコンビを組んだ過去のある、元花組娘役トップスターである華優希さんが、その妻役を演じる。
この状況はちょっと出来すぎている、と言えそうですし、ここまで来るとその背景を取っ払って観劇するのは、知っている側からするとなかなかに至難の業だと思います。

…なんですが。
見ているうちに、そのあたりの「文脈に引っ張られすぎずに、純粋な作品鑑賞がちゃんとできるかしら?」みたいな遠慮のようなもの、本気でどうでもよくなりました。
それくらい、本当にお二人にしかできないモーツァルトとコンスタンツェだったと言わざるを得なくて。
むしろお二人がそれぞれに背負った物語の存在こそが、明日海さん・華ちゃんさんにしか叶えられない表現を生んでいるのだとも見ながら自然と思えたので、
無理して背景を無視しようとする必要もないよな…と感じたんです。


単に「元コンビで、かつ退団直後に夫婦役で出演なんてエモい!」みたく、わかりやすくテンションが上がる部分も当たり前にあるとは思うんですが、
それを超えた先に、もっとずっしりとした実感としての、お二人で演じるからこその唯一無二の味わい、みたいなものが残りました。
話題性がどうとかそういう問題じゃなく、今の明日海さんと華ちゃんさんが共演することに、ちゃんと意味があったと思います。

性別の垣根を行き来する中で、同時にこれ以上ない孤独な立場を経験されたであろう明日海さんだからこそ演じられるモーツァルトだったと思いますし、
「男性を演じる女性」を絶対的な相手役として過ごしてきた華ちゃんさんだからこそ、モーツァルトを男性として見たらいいのか、女性として見たらいいのか、複雑に混乱しているコンスタンツェに説得力をもたせられた部分があるのだと思います。


物語の終盤に、モーツァルトとコンスタンツェがデュエットで歌うシーン。あの場面にこみ上げた感情については、どう表現したらよいのかわかりません。

ろくに食事も睡眠も取らず、魂を乗っ取られたかのような勢いでオペラ「魔笛」を書き続けるモーツァルトに、お願いだから少し休んで!と懇願するコンスタンツェ。
それでもその筆を止めることは誰にも、モーツァルト自身にもできないのだと悟った彼女は、ただ隣で見守ることしかできなくなるのですが、
ついにオペラを書き上げて「できた…」と零したモーツァルトの声を聞きつけて、そのもとに駆け寄ります。

「よかった、本当によかった」と一緒になって涙を流し、オペラの完成を喜ぶ彼女に、モーツァルトは「ありがとう…君がいてくれなかったら、僕は作曲を続けることはできなかった」と告げます。
そして、それを受けたコンスタンツェは、「わたし、あなたの音楽、大好き!」と声高らかに叫ぶのです。


単なる自己犠牲の精神でもなく、相手への憐れみの情でもなく、
「自分でもなぜかよくわからないけど、でもこの人のことを放っておけないから、側にいよう」というようなその結論の果てに、
コンスタンツェがモーツァルトに手渡した「あなたの音楽、大好き!」という言葉。

それはモーツァルトにとっては、己の存在の全肯定に等しいものだったのではないかな…と思いました。


形がこじれていなければ、男女として結ばれていた未来もあったかもしれないサリエリを、モーツァルトは音楽そのものによって傷つけてしまっている。
しかし一方で、自分が性別を偽ったゆえに手ひどく傷つけたはずのコンスタンツェが、今度はその”音楽”を通じて、モーツァルトの存在そのものを最後に全肯定する。

いわゆる”赦し”ともまた違っているようなそれは、
魂の響き合いがもたらした、本質的な連帯だったのではないかな、と思います。


その場面を演じるお二人は、本当にしっかりと横並びの存在に見えました。
肩を並べ、どこか子供のような無垢さを漂わせて一緒に歌うその姿は、
過去に経験されてきたはずの、ある種絶対的に過ぎた関係性の在り方を、明確に乗り越えたものだったと思います。
いま、このお二人の組み合わせでこの物語を観劇できたこと、本当に幸せに思いました。



わかりやすい華やかさや美しさより、もっと観念的・概念的な要素を表現する方向へと振り切っている舞台美術も、
モーツァルトの著名な楽曲をベースとしながらも強いグルーブ感をもって自由自在にうねるような音楽も、
時にはモーツァルトの音楽に魅了される聴衆を、時には奏でられる音楽そのものを溢れる躍動感で表現するアンサンブルキャストの皆さんも、
全てが確固たる世界観の中に集約されていて、ものすごい集中力をもって見ることができました。
どこか不気味な空気感があるというか、なにかちょっとした悪夢のようでもあり…。
根底にほのかな怖ろしさを感じる側面があって、ただ美しいだけではない世界な点が、本当によかった。


最後に。
凄まじい孤独を背負いながらも、モーツァルト自身が不自由であったわけでは決して無くて、
その人がどのように幸福だったのか、もしくはそうではなかったのかは、きっと本人にしか決められない。

性別という括りを超えて、ただその人がその人らしくあるということ。
その「自己決定権」こそが、きっと生きる上における真の意味での自由なのであり、魂のきらめき、喜びの根源であるのだと感じます。


わたしがマドモアゼル・モーツァルトから受け取ったのは、そんなメッセージでした。
「良すぎてしんどい」というだいぶ珍しい感想を抱いた、忘れられない観劇体験になりました。
見られてよかったです。

ディズニーミュージカル「ニュージーズ」@日生劇場を見た感想

日生劇場で上演中のミュージカル「ニュージーズ」を10月16日ソワレで観劇してきました。

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背後に見えてる宝塚…ではなく、今回は日生劇場です

2020年に上演予定だったもののコロナの影響で全公演中止、そこから約1年半後の上演となりましたが、本当に見られてよかった。
音楽がアラン・メンケン日本初演のディズニーミュージカル、そこに演出が小池修一郎先生…という情報を見た時点で絶対に絶対に!見たかったし、そんなのもう「勝ち確」でしょ?!とすら思ってたんですけど、予想してたものの数十倍素晴らしいものが見られて、その幸福感に大げさでなく客席で涙が出ました。。
あ~~本当に!素晴らしかった!!!見てよかった。


以下、ざっとですが感想をまとめます。
(※これを書いている人はざっくりと「ミュージカル」が好きな、いち舞台おたくです!そしてネタバレ的な部分、中身にも触れるので未見の方はご注意ください。)

なんかもう、良すぎて、「良い…」しか言えなくなりそうになるのですが、ミュージカルが好きな人が「こんなものが見たいな~」と思うものを「ばっちり用意しといたよ!!!」って感じで、惜しげもなくゴージャスにどかん!とこちらに手渡してくれる。それがニュージーズでした。良すぎる…。




◆圧倒的ハイクオリティ&息つく間もないダンスシーンの数々

まずわたしが度肝を抜かれたのは、やはりダンスの迫力にでした。

20世紀目前、1899年のニューヨークの街で、ひとりひとりが”個人事業主”として新聞を売り歩く少年たち、ニュージーズ。その多くは孤児で、頼る保護者のいない中、自分たちの力で新聞を売りさばいてたくましく生きています。

作品の中心にいるのは、主演の京本大我くん、そして隣で一緒に話のメインを担う松岡広大くんと加藤清史郎くん
京本くんはマンハッタンを取り仕切るニュージーズのリーダー格、ジャックを演じ、広大くんはジャックの相棒的存在のクラッチー、加藤清史郎くんは一般的なニュージーズたちとは異なり、両親がいながらも父の怪我により幼い弟連れで働き始めたやや毛色の変わった少年、ディヴィを演じます。


出演キャストの大半は、上記3名と一緒にニュージーズを演じる、若手を中心とした俳優の皆さんです。
すでにミュージカルで実績を多数積まれた方がいたり、バレエ団に所属していた方がいたり、はたまたこの舞台が初出演の方もいたりと、様々なバックグラウンドの方が集合しています。ベテランとルーキーが入り混じった層の厚いチームなのですが、彼らが繰り広げる圧倒的なダンスシーン、見応えがものすごいことになっていて。あっけにとられてしまいました。

日生劇場のステージ横幅をいっぱいに使って、躍動し、跳ねまわる。エネルギーが空気中に直に放出されているようで、その生き生きとした表情も相まって、本当に目がまんまるになりました…。鳥肌が何度立ったことか。
バレエの素養のある方が多いのか、跳躍やピルエットがふんだんに取り入れられていて、ちょいワルな少年たちの物語なんだけれど、どこか洗練されたお洒落さのようななんとも言えないまとまり感もあって。
不良少年を表現するのにバレエの要素があることには、不思議なくらい違和感がありません。
二幕の冒頭にあるタップダンスのシーンもものすごい迫力で、あまりのかっこよさに涙が出たほど。タップまで見られるとは思わなんだ。。


大規模なミュージカルの場合、そういった見せ場になるようなダンスシーンって、いわゆるアンサンブルと呼ばれるキャストの方だけで構成されることもままある気がするのですが、ニュージーズの場合は主役級の3名もそこに当たり前に混じっていて、本当に全員で同じことをやるんですよね。(※タップダンスのシーンは物語の進行上、清史郎くんだけが参加しているのですが)
そしてその真ん中で堂々と跳ねまわる京本くん、本ッ当にかっこよかったな~!お見事でした。(キャストさんについて詳しくは後ほど!)


次に、やはりなんといっても音楽!
アラン・メンケンって、天才なんだと思う。…思わず言わなくていい当たり前すぎることを言ってしまった。
どうしたって心が踊らずにはいられない、圧倒的にハッピーなオーラをまとったリズミカルな旋律。歌う方は絶対にめちゃくちゃ大変な気がするんですが、聞いてるぶんにはもう、最高のひとことです。いやぁ楽しいよ…。でも本当に歌う側にとっては、かなり難しいと思う…!

二幕にある、ジャックとヒロインのキャサリンが二人で歌うデュエット「信じられるもの」を聞いているとき、途中で「わたしは!ホール・ニュー・ワールドを書いた作曲家です!」ってメロディを通して自己紹介されてる気持ちになって、ちょっと笑ってしまいました。それくらい強烈に、アラン・メンケンを感じた。笑

誰が聞いても文句なし、と言いたくなるようなパーフェクトに楽しくて賑やかなそのメロディに、先述の超クオリティのダンスがばんばか乗っかるわけですよ。
そう!そして群舞シーンは、ダンスだけじゃなくて歌もすごいんですよ!コーラスの厚みにもうめちゃくちゃびびりましたよ。
あれだけ踊って歌もしっかり揃えてくるって、どんだけレベルの高いカンパニーなの!?と思います。
もうこんなの見せられたら、どう転んでも楽しいに決まっていて、最終的に客席で「ミュージカル泣き」みたいな状態になった。ああ、これこそがミュージカル!みたいな喜びによって勝手にじわじわ出てしまう涙。
あ~~わたしはこれが!こういう瞬間が好きなんだ~!!!って全身が喜びに打ち震えるような感覚でした。
正面から最高のものをどーんと容赦なくぶつけられて、「うわ~~楽しい~~!!!」ってびっくりして心の中で興奮して転がりまわるのが、本当に大好き。(随分と落ち着きのない心象風景だな!)


つづきまして、各メインキャストさんの感想を!(主役は敢えて最後に触れるスタイルで)

松岡広大くん

わたしが舞台で見るのはわりとお久しぶりです!
広大くんはやっぱりどうしたってあらゆる点で芸達者で、見ていて感動のあまり「…アミューズ!!!」みたいな気持ちになる。(どんな気持ちだよ)(アミューズに全幅の信頼を置いているタイプのおたく)
今回彼が演じているのは右足が不自由なクラッチーという少年。常に右脇に松葉杖を抱えている状態で舞台に立っています。
なのでつまり、冒頭に絶賛したダンスシーンの全てで、本来広大くんが得意であるはずのダンスが完全に封印されているという状況…!
なんですが、他のみんなと同じようにとんだり跳ねたりができないクラッチーが、集団の中にいて決して阻害されたり埋没してしまわない振り付けと演出のつけられ方が本当に巧みでしたし、
何より周囲に比べ極端に可動域が限られた状態でもしっかりと「ダンスをしてる」ことがわかる広大くんの体の使い方が見事でした。
やはりあれは広大くんの抜群の運動神経とリズム感があればこそなせる技で、せっかくなら全力のダンスが見たい!とついこちらは思ってしまうけど、それなくしてもしっかりと魅せることが出来ているのが、抜群にかっこいいなあと!

あとは彼のお芝居がやっぱり好きです~。溢れ出る感情がとても濃くて生々しくて、ちょっと荒ぶるくらいの激しさでドン!と勢いよくその場に提示されるので、自然と気持ちが揺さぶられて泣いてしまう。
二幕の「感化院からの手紙」は、ボロボロ泣きました。本当にお芝居がうまい。
久しぶりに見られて嬉しかったな!

◆加藤清史郎くん

本当は、るろ剣京都編でその姿を見るはずだったんだぁ~…!(リベンジをずっとずっと待っております。待ってますからねこいけせんせ~!)
まだ二十歳になったばかりなのですね、と知ってその若さにびっくりするような、いや待てあの清史郎くんがもう二十歳なの!?ということにびっくりするような…。いずれにしてもびっくりしている。
ディヴィは他のニュージーズたちとは境遇が異なり、いわゆる「学のある」少年です。
ジャックに出会った当初はやや線を引いた態度を取りますが、その後実際に新聞を売っていく中で徐々に打ち解けていきます。
その頭脳でストライキのアイディアをどんどんと出し、ジャックやニュージーズの仲間たちをまとめていく明晰さ、かと思えばごく情熱的な一面もある少年。
前者の特徴は、なんとなくですが清史郎くん本人の持ち味というか人柄のようなものがうまく出ているのかな?と感じましたし(ものすごく似合ってて!)、
後者については半ば体当たりのようにがむしゃらに演じている熱さ・若さが今だからこその要素として噛み合った結果なのかなと思いました。
あとはやはり、役者としての説得力をすごく感じたんですよね。そこは流石のキャリアなんじゃないかなと…「俺を見ろ!」という圧を自然と出してしまえるタイプの役者さんというか。ディヴィは俺、というよりは僕、なんですが。思わず目が惹きつけられてしまうシーンがたくさんありました。
また別なミュージカルでお会いしたいので…るろ剣京都編、マジで頼む~!!!

◆咲妃みゆさん

今回初めて拝見しました!キャサリン、本当に魅力的だった…!
いってしまえばジャックたちの”敵”であるピュリツァーの娘であることを隠し、ペンネームを名乗ってジャックたちのストライキを取材する彼女ですが、
ジャックに一途に恋をするだけなのともちょっと違うし、もちろん上流階級からの同情でもなく、かといって板挟みになる自分の立場への哀れみでもないし…キャサリンのキャラクターってその芯になにがあるのか、どう構築されるべきものか、実はけっこう難しい気がします。
でもみゆさんのキャサリンはとにかく瞬間ひとつひとつに嘘がなかったなぁと。一生懸命で一本気で、愛らしかったしこんなの好きになってしまう!って思いました。

なにより、歌が素晴らしかった~!!!一幕にあるキャサリンのソロ「何が起きるのか」は、おい作曲家容赦ねえな!?と思うような難しい譜面で、セリフのように歌わないといけないかと思いきや高音低音あっちゃこっちゃ行くし、リズムは跳ね回るし、な、難曲…!と思わず感じたんですが、それをものの見事に歌いこなしていらっしゃいました。
最後のロングトーンを決めたとき、拍手しながら痺れてました。超~~かっこよかった!!!
二幕冒頭でニュージーズたちに混じって、スカートをふん!とたくし上げて本気のタップダンスを披露するところも、負けん気の強いキャサリンの特徴がキュートに炸裂していて、思わず笑顔になりました。可愛いよ~かっこいいよ~!

ラストシーン、新聞の卸値がもとに戻り、売れ残ったぶんは新聞社が買い戻してくれる新しい制度がスタートした場面。
自分の役割は終わったとばかりにニューヨークを立ち去ろうとするジャック。
彼を引き留めるキャサリンは「それにあなたは、もうひとつエースのカードを持ってる」と言います。
「それは…?」と問いかけるジャックに、キャサリンは満面の笑みでばっと勢いよく両腕を広げ、「わたしよ!」と高らかに答えます。
あの真正面の自己肯定からくるポジティブさが、嫌味なくかんぺきにハマる、あれは咲妃みゆさんのチャーミングさがあってこそ…!本当に素晴らしいヒロイン像だなと思いました!
千と千尋のリンが俄然見たくなりました!


そして最後になりましたが、

京本大我くん

もうね、素晴らしいの一言でした~!かっこよすぎる。ジャック、似合いすぎてる!

わたしが舞台で拝見したことがあるのは2019年のエリザベート・ルドルフ役だけなんですが、その2年前の記憶とひきくらべても圧倒的に歌がうまくなられていたと思いました。声量が格段にアップされたのでは?と感じた。
ものすごく「正統派」だなぁ!と感じる、とても丁寧なミュージカル歌唱に、新たにパワフルさがガツンと加わっていたような印象を受けました。

ジャックはニュージーズたちのリーダーで誰からも一目置かれるような存在なので、ある種のカリスマ性が必要な役ですが、その点の説得力もすごくありました。
みんながついていきたくなっちゃう頼もしさ、好きになってしまうかっこよさが備わっていて。
役どころとしてはれっきとした(?)不良少年であるわけなので、端正なお顔立ちからくるノーブルな印象からは割とイメージがつかない部分があったのですが、実際に見てみたら、そこに対する違和感はまったくありませんでした。

あの世界観の真ん中にいることが、とても似合っている。とくに一幕は出ずっぱりというか、出てる間は歌ってるか踊ってるかセリフ喋ってるかで、その運動量というか負担は凄まじいものだと思うのですが、それをクールにこなしている(ようにこちらからは見える)のも、本当にすごい。
小池先生が彼を主役に!と望んだの、すごくわかるな~という気持ちに勝手になってしまいました。


特に素敵だな、と思ったのは二幕、屋上でのキャサリンとの場面です。
素性を隠していたキャサリンに怒るジャック、嘘をついていたわけじゃないわと言い返すキャサリン
君が男なら/私が男なら殴ってた、という売り言葉に買い言葉のような言い合いの果てに、じゃあ殴ってみろよ!とキャサリンにけしかけるジャック。
でもキャサリンは殴る代わりに、唐突にジャックにキスをします。
その後の、ややぎこちないままなんとなく会話が本筋(ストライキをどうするのか)に戻ったあと、ジャックはキャサリンを制して、
「…これは?」と訝しげな表情で彼女をじっと見つめ、自分たちふたりの間にある空間を、そっと指し示します。
俺たちの関係って何?と、曖昧にせずに正面から問いかけるあのシーン。
なにかキザにかっこつけるでもなく、やたらぶっきらぼうになるでもなく、ジャックの心根の在り方がまっすぐなんだなぁと感じるような、やや無防備さも感じさせられるような空気感で…なんだか見ていてものすごく、キュンとなりました!ときめいてしまった。
とにかく見ていてファンの方はさぞや嬉しかろう…と思ってしまうような本当に素敵な主役姿でした。再演が叶ったこと、改めて心から良かったなぁと思いました。

◆どうしてこんなに魅力的な物語となったのか?映画版と異なる舞台版の脚本、キャサリンという存在について

以下はごく個人的な興味にもとづく、ちょっとした掘り下げであり、蛇足です。


もとは映画として作られたニュージーズは、改めて舞台作品とされる際に、脚本に変更が加わったそうです。(※パンフレットによる)
もともと、ジャックたちのストライキを取材し応援する新聞記者が男性だったところを、ピュリツァーの娘役としてキャサリンを創作し、彼女を新聞記者としたとのこと。
この変化により、豪華な製作陣の割に映画公開時には目立ったヒットとならなかった作品が、舞台版では打って変わって大ヒットした…という旨のことが書かれてあったのですが、すごく納得感があるような気がしました。


キャサリンはその当時で考えてみれば、恐らくはだいぶ珍しい「職業婦人」です。仕事を持つ若い女性はまだ一般的ではなかったはずで、ある意味ではキャサリン自身も、社会のメインストリームからは外れた存在と捉えることができます。
その世界の中心にいるのは、あくまでも彼女の父親たち。金持ちや政治家たち。


キャサリンは、ジャックたちによる新聞の卸値値上げ抗議のストライキを一面で取り上げる記事をサン紙に書くことで、彼らに加勢します。そして最終的には自分の父親の持ち物である古い印刷機を勝手に使い、強硬姿勢を貫くピュリツァーにカウンターを食らわせるような紙面をニュージーズたちと一緒にこっそりと作り上げてしまうわけですが、
その行動原理の根底には、一種の連帯感、仲間意識みたいなものがあるのかな、と感じました。


もちろんジャックとキャサリンでは置かれている生活境遇は全く違います。いくら仲間に慕われていてもジャックがその日暮らしを強いられていることに変わりはありませんし、キャサリンはおそらく寝食の心配をしたことなど生まれてから一度もないでしょう。
でも作品中ではそんな二人が、不思議なほど横並びに見えるのです。
「ええい、みんなで一緒になってやっちゃえば、なんとかなるでしょっ!」みたいなあの破れかぶれな勢いでゴリ押してしまえる感じ。
その中心にあるのは、ごく自然発生的な仲間意識のようなものじゃないのかなぁ…と思うのです。


原作映画を見てないからわからないけど、ジャックに協力する新聞記者が、たとえば上司に叱責ばかりされているうだつのあがらない男なら、あいつらをぎゃふんと言わせてやろう!といった連帯は、ジャックとの間に生まれ得る気はするんですね。
しかし仮にそうだとしても、社会構造的にはその記者はジャックの「上」にいる存在なのだと思うんだよなぁ。男として真っ当に職を持ち、あくまでも権力側の末端にいるような気がする。

でもキャサリンは違う。最初から彼女の前にはひとつ線が引かれていて、父親たちと将来的に同じ土俵で戦う存在だとは、おそらく誰からも目されていない。
ジャックとキャサリン「あらかじめ社会からはみ出した者」同士だったからこそ、全然立場が違うようであっても、同じ位相で無理なく手を取り合えたのかな?と思ったのでした。


もちろん、単純に記者が女性になることにより生まれたロマンスが、物語に新たな味わいをもたらした効果には、当然大きなものがあるとは思います。
月夜の屋上でのデュエット、それこそロミジュリのバルコニーみたいで素敵だったもん。

でも、キャサリンのモチベーションの中心はなんだか恋心とはちょっと違うような気が、個人的にはですが、しました。

印刷機を動かすために、言ってしまえば”上流階級仲間”である同業他社の息子たちをあっけらかんと引き込んでいるのも、使えるものは全部使っちゃえ~!みたいな図太さがあって、そこがまた良くて…!
いい意味で彼女にはだいぶ、自分勝手、自分本位なところがあるというか…?

あなた=ジャックのために、じゃないんだな、と思うんですよね。キャサリンが頑張るのは、わたしのために、なのだと思う。
目の前の大好きな仲間にとって"わたし"が良いと信じるゴールのために、できることをやりたい。そういう心意気を感じました。
というのも、当然見ているこちらの勝手な感じ方なんですけど、時代・お国柄を考えると、自立心にあふれるキャサリンの造形ならば、それもまたありえるのかなって。


…だらっと書いた割にあまりうまくまとめられなかったんですけど、ええとつまり、
お仕着せのような単純な「いい話」や、主人公たちのロマンスが描かれているだけに終わるのではなく、登場人物たちそれぞれに残るエゴイスティックさがリアルな人間くささに繋がっている点が、深い魅力のひとつになっている作品なのかな…と感じました!我ながら強引なまとめだ!
そしてその奥行きを生み出したのが、立ち位置の複雑さをまとうキャサリンの存在なのじゃないかなぁ、と。


ピュリツァー(松平健さん)もね、単純な悪役なわけじゃないところが、とってもいいんだ…。
彼はあくまでも自分のポリシー、商売人としての明確な損得勘定で動いているからこそ、得になると判断すれば最後はジャックの提案にも乗るわけで。
損得を見極めるや否や、変わり身は早いピュリツァーのあの人間味がとても好きでしたし、目の前で意を翻した相手を特に馬鹿にするでもなく、あくまで「ビジネス」の相手として受け入れるジャックの清々しさもまた、心地よく胸に残りました。



今回のチケットは一般でもぎ取ったやつで(土曜ソワレなどよくもまぁ買えたもんだ)、チケ難ぶりが半端なかった印象ですが、
近い将来、数年後にまた再演してほしいなと心から思いました!
ミュージカル作品としても、このクオリティは間違いなく最高峰だと感じます。


絶対にまた見たい、とここまで強く感じた舞台作品に出会うのは、正直久しぶりでした。

そして再演がいつか叶ったとして同じメンツで見られる保証はもちろんないので、本来の予定から一年半越しの2021年、ニュージーズに出会えたことに心から感謝したいです。
ほんっとうに、楽しかった!!!やっぱりミュージカルは最高!!

宝塚花組全国ツアー公演を見た/哀しみのコルドバ感想その②:エリオの最期とその他の登場人物たち

花組全国ツアー「哀しみのコルドバ」感想、後半です。
エリオの最期についてと、主役ふたり以外についてまとめました。
前半記事はこちらから。




◆運命を全て引き受け、ひとりで死に飛び込む高潔な魂

ロメロとの決闘の場面で、エバと自分との隠された繋がりを知らされてからのエリオ。
あの短い時間で、彼は自分の人生の行く先を、ひとりで決心してしまいます。
噴き出すような激しい怒りはごく僅かな時間で通り過ぎ、全てを悟った諦観へとあっという間に至ってしまうその様子は、エリオが本来無鉄砲なことなどしない、ごく大人びた人間であることを表してもいるようで、見ていてとても辛い。


エバと結ばれることはできない。しかし彼女にその真実を伝え、絶望させることもできない。
そう思ったエリオが選んだ道は、マタドールとしての栄光の絶頂の最中に、自ら命を落とすことでした。

コルドバの街に朝を告げる鐘の音を聞きながら、「終わった…」と呆然と零されるその声。
「どうしてエバにこのことを言えよう」と一人つぶやくその瞳からは、一筋の涙が流れ落ちている。
それを指でくっと拭い、全てを心の奥深くに押し込めて、教会で待っているエバを穏やかな笑顔で迎えに行くエリオ。


「すべてうまくいった」「僕はね、この国の青空が好きだ」「これからはそこに、君の微笑みが加わる」
これがフラグじゃなかったら一体なんだっていうんでしょうか。。。ウォォ……
終始穏やかで優しい笑みを浮かべながら、エバの手をとり、二人を待ち受けている明るい未来を言葉にして次々に提示していくエリオ。
それだけを聞いていれば、たしかになんの心配も要らないように思える、はずなのに。
「悔いを残さない戦いができるだろう」という言葉を聞いて振り向いたエバの「エリオ…?」という、不吉な何かを予感するような、不安げな表情。
愛する相手が、自分の目の前に立って輝かしい未来を約束してくれているのに、抱きしめられたエバはなぜか涙を止めることができない。。
……いや、悲しすぎん???
闘牛場に、エバ『一緒に』行くことをことさらに強調するエリオだけど…いや待って?あなたその闘牛場で、これからなにをする気で???涙


闘牛場のマタドールたちの支度のシーンに張り詰める緊張感と、それを象徴する音楽がとても好きでした。
若々しさ溢れるアルバロの勇ましい出で立ち、そこにエリオの最後の戦いだと聞きつけてやってくるビセント。
そして満を持したように下手から登場する、威風堂々たるグランエリオの姿。
曲の効果も相まって、ここの柚香さんの「背中」の格好良さといったらもう。。たまらず、ぐっと唇を引き結んでしまった…。
あのマントはカポーテと呼ばれるもの、でしょうか。ゴージャスな金の刺繍が施された重たそうなその真紅のマントを翻し、振り返ってビセントの姿を認めた彼は、ニヤリと不敵に笑む。
誰にも告げずに、これから死ににいくと決めているあの状態で、自分と対比されるような運命を選んだビセントの姿を見つけてなお笑えるエリオの精神力は、本当に凄まじいものがあるなと思います。
「元気にやってるか?」という、頼れる兄貴分としての声掛けと、よかった、という安堵の笑顔と。
そして戦いを激励に訪れる、紳士たるリカルド・ロメロ。
「悔いのない戦いを」とはなむけの言葉を贈る彼は、半分くらいはこれから訪れる悲劇を予感していたのでは?と思わずにはいられません。


華々しいファンファーレに彩られた、熱狂渦巻く闘牛場。
目を射抜くような眩しいスポットライトに浮かび上がる、エリオの美しいシルエット。
そこにかぶさっていく、幕開けとまったく同じ、静と動が入り乱れるギターの情熱的な旋律。
ひらりと身を翻し、猛然と向かってくる牛をかわしていたはずのエリオは、ある瞬間、何かを覚悟したように、ひらりとその手からムレータを取り落とす。
轟くような蹄の音が、どんどん大きくなっていって。
ああ、これは……と思った次の瞬間、視界は真っ赤に染められて、苦悶の表情に顔を歪めたエリオが、ゆっくりと、その場に崩れ落ちていきます。
そこにかぶさる和泉しょうさんの、深い響きのモノローグ。

まるで走馬灯を見送るかのように、眉根を寄せて、でもかすかな微笑みすら湛えながら体をよじるエリオの視界を、静かにエバが横切っていく。

そしてついに、真っ白な光の中に、エリオはその肉体を永遠に横たえます。
仰け反るような体勢がほろりと解けるように、最後に取り落とされたその左手が落ちる瞬間、ティンパニの響きが非情に鳴り渡る。
「エリオーーーーーッ!!!!!!」というエバの絶叫、救命の手配をしようとする慌ただしい声。全てを悟った様子のロメロ。
何が起きたのか信じられない表情をしていたビセントは、「見届けてほしい」というエリオの願いを受け取ったかのように、胸に手を当て、静かに横たわるエリオに、礼を送ります。

……いや、つらすぎるから!!!号泣

あのあと、遺されたエバはどうしたのでしょう。。
ロメロはきっと、エバに真実を告げないで欲しいというエリオの願いを、生涯守り続けてくれるような気がします。
あれはあまりに不運に過ぎる事故だったのだと、悲嘆に暮れるエバの隣にそっと寄り添い、その先の彼女を守ってくれるような気がする。
……というか、せめてそうであってくれないと、なんかもう、救いがなさすぎるから!!!!涙


哀しみのコルドバ、痺れるほどにタイトルどおりの作品だなと思いました。
マリアとパウラ、母同士の喧嘩のシーンから、二人がきょうだいなのだということは薄々察せられたのですが、
でもエリオがあんなふうに死んでしまうとは正直想像つかなくて……嘘でしょ!!嘘だといって!!!という気持ちで、幕が下りてから本当に呆然としてしまいました。

もっと他の道はなかったのか!?と思うんですが、エリオの置かれた状況から彼が選べる道は、やっぱりあれしかなかったのか……と納得せざるを得ないような、でもやっぱり悲しすぎるような。。
愛する二人は決して結ばれることはないと世を儚んでも、エリオはエバを道連れに心中を選ぶタイプの男ではないんだよな……
でも彼女の心を「自分と同じ絶望を味合わせる」ことから守ることができたとして、エバの立場からするとあなたが死んじゃったら元も子もないのでは!!?とも思うんですが。。
それでもどうしても、彼にはあの結末しか選びようがなかった。
それが、エリオ・サルバドールという男の、高潔な魂の行き着く先だったのだな、と思います。

◆役者が揃ってる!花組の充実を感じるお芝居

1記事目ではひたすら主役二人にフォーカスを当てて書きまくってきましたが、それ以外の花組生の皆さんも、本当に最高に素敵だった!!!
以下おひとりずつの感想です!

リカルド・ロメロ/永久輝せあさん

髭をたくわえた大人の渋さに、ひとこちゃんが本来もつ華やかな色気が加わって、とてつもなく魅力的なロメロさんでした!
身分があり、誇り高い男性としてのロメロが、怒りを隠さないシーンがとても好きです。
闘牛場での逢引に行き合い、「私の予感があたったね」というその第一声から、声に滲む静かな怒り。
エバ。今日のところは、私と帰るんだ」という、有無を言わさぬその命令口調。エバを呼ばう声に明らかに怒りの感情が満ちていて、ウォォ…とゾクゾクしました。
しかし紳士たるロメロだから、エリオが置かれたどうしようもない状況を知ったあとは、とにかく理解に溢れた言動に終始します。
あれはなにも、やせ我慢で言っているのではなく、本心でそうエリオに語りかけていることがわかって。
ロメロは、自分の国の国民的英雄であるエリオのことを、本気で尊敬しているのだなぁということが伝わります。
男同士として傾ける、ある種同志のような、好敵手としての尊重がそこにはありました。
だからこそ、ロメロはエリオにその未来を、栄光を守って欲しかったのだと思います。。か、かなしい。。

アンフェリータ・ナバロ/音くり寿さん

もう健気すぎて、泣かずにはおれない!!!
ただただ、ほんっとうに可愛い。彼女が好きだという、ひまわりの花そっくりに明るくて朗らかで。
きっと彼女は幼い時分から、誰よりも目立つエリオに憧れ、恋をして、ひたむきに彼を思ってきたのでしょう。
婚約が決まったときは、夢が叶うような思いだったに違いありません。
そんな彼女に突きつけられる、残酷すぎる現実。
「辛かったでしょうね、あの人」と、エリオを慮る様子まで見せ、でもその後にこぼす「結婚したかったなぁ……!」の万感。
あんなの見せられたら、そりゃあ泣いちゃうよ!!!悲しすぎるけれど、本当に大好きなシーンでした。
そこから始まる「ひまわりの歌」の素晴らしさ。
夜明けを思わせる深い青に身を浸すアンフェリータ。その背後に浮かび上がる、コルドバの町並み。
絵としてあまりに美しく、いつも歌いだしではオペラを外して全景を堪能していました。

くり寿ちゃんの歌声には、本当に心からの情感が迸っていて、歌声で心情をこれでもかと表せる、類まれな娘役さんだなぁと感じます。
アンフェリータは、誠実で頼れるエリオのことをよく理解していたからこそ、彼が告げてきた「結婚できない」という事実の重みを、受け入れざるを得なかったのだろうなぁ。
でもそうして、せめて新しい門出を前向きに見送ろうとしていたはずなのに、愛する相手にいきなり目の前で死なれるの、つらすぎん!!?かわいそうすぎる!!!フェリーペ、あとは頼むよ……!!!

フェリーペ大尉/優波慧さん

フェリーペは物語の中でも、色んな人の秘密の打ち明け話を偶然聞いてしまうという重要な役割を担いますが(ちょっとご都合主義すぎるくらいの出くわしっぷりである笑)、
優波さんの安定感は、今作の中でもとても大きな役割を果たしていたように感じました。
柚香さんの一期下である96期で、今回の座組の中でも今の花組の中でも上級生に入りつつある優波さん。
お芝居でもちょっとした身のこなしでも、とにかく見ていて安心感があるというか。確実にこの物語を支えているなとわかる、どっしりとした屋台骨のような存在感がありました。
特にアンフェリータに語りかける、私のところへいらっしゃいませんか?の一連のセリフがとても素敵でした。
神奈川公演で見たときには、梅芸のときよりも、一歩ぐっと踏み込んだような、ただアンフェリータに優しく語りかけるだけではなくて、自分の中にある彼女への想いを込めて言葉を送り出すような力強さが生まれていて、見ていて自然と心があたたかくなるようでした。泣いた。
「私のところには、あなたが漂える、風や林があります」というあのセリフ、本当に素晴らしいですよね。。
哀しみの最中でなにもわからなくなっている人にかけるのに、あんなにぴったりな言葉はないと思う。
アンフェリータの苦しみがそっと和らげられるような、柔らかな羽根のように寄り添う在り方が、見ているこちらにとっても大きな救いでした。

ビセント・ロペス/聖乃あすかさん

ほのかちゃん、なんだかとっても背中が大きくなったというか!?男役としての新しい何かを見たような気持ちに勝手になりました。すごくかっこよかったな。
プロローグの後、闘牛士たちが歌い踊るシーンでソロで登場されますが、歌声の響きがとても深まっていたことにも驚きました。
役柄としては、ビセントにはビセントのどうしようもない葛藤があったのだと、とくに神奈川公演で感じました。
伯爵夫人との関係を咎められてエリオに食ってかかる勢いが、梅芸よりも神奈川のほうが断然強かったのです。
「俺はもう、どうでもよくなった!」の吐き捨て方を見ていて、確かにあそこまで完璧なグラン・マタドールが隣にいれば、自分なんて取るに足らない存在だと思ってしまうこともあるだろうし、その世界での行き詰まりを感じざるを得ないよな……という感覚になって。
身分ある人物の妻と恋に落ちるなど、馬鹿げた危険な振る舞いだということは、ビセントにだって嫌というほどにわかっていて、でもそれを真正面から他でもないエリオに諭されるのは、きっと我慢ならないものがあったのじゃないかな……。
身のうちに秘める「熱さ」が弾け出るような、若くてエネルギッシュなビセント、とっても魅力的でした!
ほのかちゃんはあのノーブルなお顔立ちの美しさにどうしても目が行きますが、それでいてとっても「男」っぽさをめきめきと身につけなさっているように感じて、めっちゃかっこいいです。自然と応援したくなってしまう。
そして物語的には、ビセントが無事にメリッサと一緒になれていて本当によかった。。せめてそこは、最後まで幸せな人生を送ってほしいよね。。

アントン・ナバロ/和海しょうさん

アントンはぜったいしょうさんしかあり得ない~!と思うほどにぴったりで最高の親父さんでした。
いやまず、なんといっても驚くほどの人格者。
愛弟子が、愛する娘を袖にして、初恋の人と一緒になりたいです!って言ってきて、普通許せるもんかね?!と思う。笑
そんなにものわかりのよいことあります…!?と最初はあっけにとられてもいたのですけど、でもアントンもギリギリのところで堪えているんだなっていうのが、神奈川公演で伝わってきました。(※さっきから神奈川公演の進化について触れまくってしまってますが、後半になって皆さんの芝居の熱量が上がったというのと、観劇回数を経てわたしの理解力が増したというのもあります。)
「もういいだろう、今日のところは帰りたまえ」と辞するように促すまでのセリフ、本当は激昂したいような思いもありながら、でもエリオの言うことだから並大抵の覚悟ではない、何を言っても無駄なこともわかっている、という葛藤が滲むようでした。
最後にもう一度コルドバで闘牛をやらせてほしいという、もっともなようで身勝手なエリオの願いをどうするか、アントンは決めかねていたのだと思うのですけど、
部屋を出る間際にエリオがこぼす「アンフェリータ……」の声の悲痛さに、心を決めたのかなという気がします。
エリオもまた、この状況に苦しんでいるのだと知って。。いやでも、それにしても人格者だなやっぱり、、

幕開けと幕引きそれぞれの場面で担当されているモノローグの声もほんっとうに素敵すぎて!花組にしょうさんがいてくださってよかった!と言いたくなる。
物語の額縁をびしっと決めてくださるような唯一無二の美声、毎度聞き惚れました!


さおたさんとゆめさまのマリアVSパウラの場面はいつみても迫力満点で最高すぎて笑ってしまったし、
うわ~花男!って感じのイケ散らかしてる男役さんだ!アルバロどなた!?となって高峰潤くんを覚えたし、
美羽愛ちゃんのソニアはもうほんっと~~に愛すべき妹で可愛さの塊だし、
どこを見ていても花組、好きだな~!」と思うお芝居で、幸せでした!
34人しか出演していないので(専科の美穂圭子さんを加えて35名出演でした)、下級生にもふんだんにセリフがあって、大劇場の作品とはまた違う楽しみ方があるというか!
プロローグのダンスで魅せる華やかさと、ひとりひとりがしっかりとその役を生ききる命の通ったお芝居が両立している、それが今の花組なのかなという印象があります。
これでまだ生徒さんの半分なんだもんな!と思うと、次の大劇場が楽しみで仕方ないよ~!



とても歴史ある作品の再演、どんな印象を受けるのかなぁと思っていたのですが、
不思議なほどに古さを感じない、今の柚香さんを中心とした花組で出会えて本当によかった!と心から思う作品でした。見られてよかった。
この作品の中心で輝く柚香さん、やっぱりトップスターになるべくしてなられた方なのだわ、、と一人で噛み締めてしまうほど。
でも本当にエリオの柚香さんに出会えて幸せだったなぁ。。予想の数百倍素敵でした。最高だったよ〜!!!


言いたいことがありすぎて字数が削れず、お芝居だけでまさかの2記事でしたが、後日改めてショーの感想を書きます!

宝塚花組全国ツアー公演を見た/哀しみのコルドバ感想その①:エリオとエバを巡って

先週末に千秋楽を迎えた、花組全国ツアー「哀しみのコルドバ/Cool Beast!!」を、梅田芸術劇場神奈川県民ホールで観劇してきました。
まずは無事に全日程が終えられたことが、本当に良かった…!
新娘役トップスターに星風まどかさんを迎えたお披露目公演となった今回、どんなものが待っているのかな?ととてもワクワクしていたのですが、本当に「見てよかった~!」と叫びたくなるような素晴らしいものが見られました。やっぱり花組は最高!
まずはお芝居の「哀しみのコルドバ」感想から!(しかも字数の関係で、お芝居だけで2記事になっております。。笑)




◆初演は1985年(!)歴史ある作品との初めての出会い

繰り返し再演されてきた名作とされる今作。なんと初演は、1985年!(知ったときは本当にびっくりしました…歴史が伊達じゃなさすぎる。)
再演ですが敢えて一切の情報を入れずにマイ初日を迎えたのですが、見終わったあとはTwitterで「うわああああ!!!」しか言えなくなっていました。色々と、衝撃的すぎて。。


響き渡る鐘の音とともに暗くなる場内。そこへ流れてくる、短調のギターの旋律。
柚香さんの開演ご挨拶のアナウンスの中、ステージ中央に浮かび上がる、すらりとしたシルエット。
スポットライトにバッ!と照らし出されたのは、白地に金の豪華な刺繍の入ったマタドール姿の、眩しすぎる柚香光さん…!
張り詰めた静寂の中に零される「オ・レ…」の、とんでもないセクシーさといったら!色気といったら……のっけから息の根を止めに来られた。
いやいや、冒頭でいきなり吐息配合率80%みたいな、そんな声の出し方アリなんですか!?なって、幕開けから「あ~~これはもうだめだ~~!!!」になってしまいました。柚香さんを観に行くと、いつだって助からない。(※知ってた)


もう、ここからはじまる一連のプロローグの場面、素晴らしすぎました!
スペインを思わせる情熱的な旋律をひとりひとりが力強く踊りこなし、手拍子を響かせ、足を踏み鳴らす。迫力がものすごくあって、遠い席でも全景を目に入れたくて、思わずオペラを外して見入りました。
花組のダンスがひとかたまりの勢いになって押してくる「圧」がすごく好きだなぁと見ていていつも思うんですが、それを改めてとてもとても強く感じる場面でした!
個性がぎゅぎゅっと詰まっているのに、それが集まると不思議なくらいに、ひとつの色合いを生んでいる感じがたまらなく大好き!

そしてその真ん中で踊り続ける柚香さん。見ているこちらの目が吸い寄せられて、どうしようもなくなります。
軽やかなのに力強いステップを踏む足さばき、ぴっと真っ直ぐに決めた腕、指先に送られる鋭い視線、後ろにぐんと蹴り上げて伸ばされた左脚の美しすぎるライン。
なんであんなに素敵なのですか?と改めてぽかんとしてしまった。
そしてやっぱり、柚香さんは布と会話できる。(断言)
あれは確実に、布とおしゃべりしている。。柚香さんの手にかかれば、布まで完璧にダンスの中で「音ハメ」ができてしまう。
どうやったらそんなふうに動かせるのでしょう…?と目が点になってしまう、鮮やかに過ぎる華麗なムレータさばき。(あの赤い布は「ムレータ」と呼ぶので良いのでしょうか?)
宙に華やかに翻る、その布のシルエットまでが、どの瞬間も美しくて。
いつもオペラグラス越しに柚香さんを見るとき、もちろんお顔も見たいのだけど可能なら全身を一度に視界に収めたい!と思うのですが、今回はそこに「布の軌道もちゃんと見たい」までが加わって、いっそのことオペラ使わないほうがいいんでは!?という新たな葛藤が生まれたりしていました。
柚香さんに花形マタドールなんて……それは……大正解だよ!!!劇団ありがとう!!!(大声)


そして遅れて群舞に加わるひとこちゃんとまどかちゃん。
お二人それぞれが放つ確かな存在感と、とてつもない華やかさといったらもう!
なんていうんでしょう、柚香さんの脇を固めるお二人が揃った瞬間は、とにかく「圧倒的に華がある!」と叫びたくなるような、強すぎる絵面だったなぁとしみじみ思います。豪華絢爛!目が忙しい!!!
最後はエリオのソロ「コルドバの光と影」でプロローグは終了しますが、もうこの歌からして好きすぎた!
柚香さんの歌声で聞く「ソル・イ・ソンブラ」が良い。あまりにも良い!!!最後の「ソールイソンブーーラーーーーー!!!!!」で、柚香さん声デッカ!ってなるのも含めても~~~大好き!カッコ良!!!!!
初回を見たとき、全力で拍手をしながら軽く放心していました。なんて心を掴まれる幕開けなのだろうと。


以降、おもに主役二人の印象を軸にした感想を綴ります。

◆理知的…なのに足を踏み外していく、エリオ・サルバドール

柚香さんのエリオは、本来とても理知的で、皆の憧れの存在であるに足る、どっしりと安定した芯の通った人物なのだなと感じます。
マタドールとしての場数も踏み、輝かしい功績を残す中で、貴族が主催する夜会に招かれても萎縮することなく、堂々と落ち着いた好ましい振る舞いができる。
自分が周囲にどういう影響を与える存在なのか、その中で自分がなすべき行動はなんなのか。そういったことを時間をかけて冷静に分析して、「そうあるべき自分」を無理なく上手に構築してきた、そんな人物に見えました。
周囲の闘牛士たちから寄せられる信頼の篤さはいろんな描写からも明らかですし、そんな彼だからこそ、師匠のアントンは娘のアンフェリータを嫁がせようと決めたのでしょう。


しかしそんなエリオの冷静な姿は、8年前に突如姿を消した初恋の相手、エバシルベストルの再来で、徐々にもろく崩れ去っていきます。
エリオが招かれたリカルド・ロメロ主催の夜会で、ホステス役を務めていたエバ
コルドバからある日突然いなくなった彼女は、母の再婚のためセビリアへ引っ越し、その後財産のある相手と結婚し、裕福な階層の暮らしを手に入れています。
しかし夫を亡くしてすでに未亡人となり、今はリカルドの恋人として社交界の華となっていました。
数年越しの、思いがけない形での、初恋の相手との再会。
戸惑いながらも喜びを隠しきれず、思い出話に花を咲かせるふたり。


展開や結末を何も知らないで見ていた初回観劇の段階から、この「回想のコルドバ」の場面で、頭の中では「だめです!それはいけません!!!」というサイレンが鳴り響いていました。
エリオ、だめよそんな無邪気に喜んじゃ!!!って思わず止めに入りたくなるような。。

あの場面、最初の方のエバはまだ、「あの頃の私とは、今はもう違うのよ」というような自負心で、心に頑丈な鎧をまとっていたようで。口調も貴婦人らしいそれを貫いているし……
でもエリオは、ただ嬉しそうににこやかに、あの頃僕らは、まだ二十歳になっていなかったね、と朗らかな声で語りかける。エバの心を、知らず知らずのうちにそっとこじ開けるような、純粋な真っ直ぐさで…。
なので、悲劇に転がっていく恋の再燃、最初にスイッチを押したのは、意外にもエリオだな~って思うんですよね。。
「雲を踏むように 歩き続けたね」という歌詞で顔を見合わせて、それこそ雲を踏むように踊る軽やかな足取りで、手と手を取り合った二人の心の弾むさまといったら。

いやわかる、うんうん確かに幸せだよね、大好きだったんだよね……でも待って!なんかもう、足元にぱっくり、運命の裂け目が見えてる気がするの私だけ!?というような気持ちで、すでにハラハラしながら見ていた初回。。
回数を経るたびに、この場面の二人の無邪気さや幸福感が増してゆき、その分見ているこちらのダメージも増す、という状況でした。。幸せなのに、見てて辛い場面。。


エリオには、アンフェリータという結婚を間近に控えた婚約者がいます。
劇中の描写を見るにおそらく、アンフェリータが最初にエリオに恋をして、それを父親のアントンが取り持ってやった形のような婚約なのかなと思うのですが、
エリオはアントンの愛弟子として、また彼のもとで働くマタドールの一番の実力者としてその婚約の申し出を受け、ある種「自分の役割」としてその結婚を誠実に全うしようとしていたのかな、と想像しています。

なのできっと、そこには燃えたぎるような熱情は存在はしていない。
代わりにあるのは、年下の妹を思いやるような、すでに家族であるかのような、あたたかで落ち着いた愛情。

伯爵夫人との道ならぬ恋に突っ走っていくビセントの姿を見たアンフェリータが「ちょっといいわね」と茶化すところの「こら」と軽くたしなめるような声や、
アンフェリータにせがまれてマドリードのお祭りで二人で踊る場面のにこやかな表情からは、
エリオがアンフェリータに向ける、兄のような保護者然とした優しさを感じました。

国一番のマタドールとしての栄誉ある生活を隣で支えてくれるはずの、配偶者としては申し分のないその存在に、エリオなりにきっと安らぎを得ているのだろうし、彼女を大切にしようという真心も確実にあるはず。
ただ、そこには「恋」だけが存在しない。
だからこそ、エバとの再会で、それまでのエリオの中でとくに意識されてこなかった、ある種見知らぬ存在としての昏い恋の熱情に身を焼かれるようなもうひとりの自分が、抑えようもなく立ち上がってしまったのだろうな…と思います。

◆こんな名曲があるのか!?と驚かされた「エル・アモール」

「わかんないわよ、恋は魔性の操り芝居、って言うし!」というからかいを交えたアンフェリータのセリフから始まる、登場人物がそれぞれに切なる恋心を歌い上げる「エル・アモール」。
いや~ほんとうにたまらん。もう、こんな名曲があるのかーーー!?と客席で唸りました。
歌に登場するのは、2組の三角関係を構成する、4人の登場人物たち。
アンフェリータとエバに挟まれるエリオ、ロメロとエリオに挟まれるエバ
それぞれの心情が歌詞に織り込まれて歌い継がれていくだけでなく、サビでは立ち位置を持って明確に関係性を提示するという、シンプルなのに、これでもか!という程にビシッと決まっている演出。
あそこだけリズムが三拍子になるのも心憎い~!変拍子かっこいいよ〜。
最初、アンフェリータの歌を聞いているエリオは、終始穏やかな笑みを浮かべているのに、エバが歌い出した途端にはっと身じろぎをして、軽く眉根を寄せて煩悶するような表情に移り変わってしまう。。
「構わない あなたなら」に合わせてエリオとエバが差し出し合う手の勢いが、一回目はまだためらいがちなのに、二回目では堪えきれずというように力強くなっていて。。

とにかくドラマティックで情感に溢れており、見ているお客さんに過不足なく登場人物たちの心情を伝えられる、素晴らしい演出であり楽曲だなと思います。見ていて本当に、心を揺さぶられました。
そして最終的には「会えなくて血が滲む」と言い切ってしまうところ。もう、後戻りはできなくなっている…。
なんというんでしょう、ある意味ではとても芝居がかったナンバーとも言えるわけなのですが、それが必然!と誰もが思うような、作品の世界観を形作るような楽曲で、素晴らしいの一言です。
歌っている全員の声の個性も良すぎますし。。
柚香光/星風まどか/永久輝せあ/音くり寿 という並びの豪華さよ!なんといっても、100期歌うま娘役の歌唱力に交互に殴られる衝撃!
なんかこう、この瞬間に居合わせられて幸せだなぁ……と客席でしみじみ感じ入りました。

◆そんなつもりはないはずなのに、破滅に誘ってしまうエバシルベストル

「その身に情熱を宿す、美しいファム・ファタール」というのはロメロによるエバ評なわけですが、
いやほんと、エバ、あなたって人は。。
見ていてとにかく、本人には「そんなつもりはない」という気が、とてもする。
彼女だって別に破滅に向かいたいわけではなく。ただ真っ直ぐに、自覚した恋心に向かって、退路を断ってその身を投げ出してしまっただけ…。


エバが「私もコルドバへ行くわ」と告げたあとの、エリオの動揺が苦しいです。
かすかに身を引いて、「エバ…?」と戸惑いを隠さないその声には、明らかに「君は何を言い出すんだ?」という響きが溢れている。
それを受けたエバは、「安心して、邪魔はしないわ」って言うけどもさ!……でもさ!
そのあとに実際にコルドバに現れたエバは、思いつめた表情で、「とうとう来たわ」って言っちゃうわけですよ。。
……ねえ~~~!実際のところ、とうとう来たそのあと、どうするつもりだったのよぉ~~~!!!(地団駄)
そうは言っても、会ったらもうだめって、わかってたんでしょお!?
だけどそんな自分の身のうちで暴走する恋心を止めることが、彼女にももう、できなかったんでしょうね……。


闘牛場に現れたエバの、覚悟を決めた「エリオ…来たわ」「とうとう来たわ」から始まる、長台詞の独白。
エリオはエバの存在に心を乱されこそすれ、コルドバに戻る前に「故郷で自分を取り戻そう!」と力強く決心しているし、やっぱりそうなるつもりはないはず、だったわけです。
ああ、それなのに。不意打ちのように、思いもかけぬタイミングで現れたエバに動揺し、「今日はまだ…闘牛はやらない」という、誰が聞いてもわかりきったことを答えるしかなくなっている、追い詰められたエリオ。
そんなエリオの目の前で、心の内をすべてさらけ出すように、もはや捨て鉢になったように、まくしたてる勢いでこれまでの思いや今の自分の心情をとめどなく喋り続けるエバ
その姿には自分への嫌悪感や羞恥心、ロメロ、アンフェリータ、そしてエリオ自身へのとどまることのない罪悪感、もしもエリオに拒絶されたらという怯え……そんな全てがぐちゃぐちゃにないまぜになっていて、自分でも自分を持て余してしまってどうしたら良いのかわからない、悲痛な叫びに満ちていました。
それを聞いているエリオの、どうしようもない苦しげな葛藤。辛抱たまらずに彼女を抱き留め「もう、言葉はいらない」と、エバの身に埋もれるようにして零される、その思いつめた掠れ声。

あの瞬間、エバを心の赴くままに自らの腕に掻き抱いた瞬間、エリオは自分の心に嘘を付くことが、どうしてもできなくなってしまった。
フェリーペ大尉が言うように、冷静で、理知的である彼が、婚約者のいる身でかつての恋人のもとに我が身を投げ出すなど、本来はあり得ないことのはずなのに。
頭で考えれば駄目だとわかる全てを振り切って、彼女に向かって自分のすべてを差し出す覚悟を決めてしまう…。
そして優しくエバを見つめて、「よく、来てくれたね。」「あの頃の二人に戻ろう」と語りかけるのでした。。……ああ~~~!!!(サイレン)


まどかちゃんのエバには打算的なところがありそうで、その実まったくない気がします。
夜会を取り仕切る堂々たる大人の女のようでいて、内側には少女のようなあどけなさが、まだそのままに残っている。
「母と二人で8年間必死で駆けてきた」人生だったから、きっとエバは激変する暮らしの中で、自分の少女時代をいっぺんに封じ込めてしまったんじゃないでしょうか。
エリオに再会してからの彼女は、社交界の華として咲く未亡人というより、純粋な瞳で愛する人との未来を見つめようとする十代の少女のようでした。
成熟した女の中に、大人になりきれない夢見る少女を無意識に保ち続けているようなそのアンバランスさ、危うさみたいなものが、周囲を狂わせる。どうしても彼女を一人にはしておけないと手を差し伸べさせてしまう。
妖艶な魅力で男を誑かすというジャンルではなく、本人の意図しないところで相手を深淵に引きずり込んでしまう、ビーフェイスの破滅型ファム・ファタール……。それがまどかちゃんのエバだなぁと思いました。
そこにぶつけられるのが、あの頼れる立派な青年として成長した柚香さんの大人なエリオなので、どうしようもない悲劇が生まれる。


「もうなんか、その組み合わせだと、この話こうなるわ…」という説得力がすごくある二人だったなぁと思います。
エリオがもっといい加減でフラフラしているような男なら、この物語はそこまでの悲劇にはなりえないように思います。
そうなるはずじゃなかった、しっかりして誰もが憧れる存在による、それまでの己の否定にもなるような行為を伴うから、こんなにも苦しいのだろうなと…。



字数があたまおかしいことになりそうだったので前半記事は一旦ここまで!
エリオの最期を巡る感想と、主役おふたり以外の生徒さんの感想を、後半にてまとめます!

追記:後半記事はこちらからどうぞ。

「ACTORS☆LEAGUE 2021」アクターズリーグを東京ドームで観戦してきた

「推したちが東京ドームで野球大会!」を、本当に観に行く日がくるとは思わなかった…!
actors-league.com
7月20日に一夜限りで開催された俳優たちによる夢の球宴、ACTORS☆LEAGUE 2021/アクターズリーグを東京ドームで観戦してきました。
応援している黒羽麻璃央くんが発起人となって企画された、この嘘みたいなどでかいエンタメイベント。
あまりにも楽しかったので、思わず感想を書いてます!配信もあったので細かなレポ要素はほぼないですが、現地組の体験記として記録に残します。




◆1.ウォーミングアップ~開会式

試合開始は17時から。この日は午後休みを取って、16時すぎにドーム入りしました。
2チームそれぞれのウォーミングアップが事前に告知されていたので、まりおくんがキャプテンを務めるBLACK WINGSの練習時間に間に合うように行ったんですが、
もーーーーこの時点で最高すぎた。だってもう、
推しがかっこよすぎた(耐えきれず大声)

…のっけからたがを外してしまいすみません。それくらい最高なものがいきなり眼前に広がっていたので、本気で取り乱してしまいました。笑
だってまりおくんが野球をしている姿、ものすごく好きなんです!なんたってあの運動神経の良さ…!体の使い方のセンスが隠しようもなくキラキラに光っていて、他のお仕事で見せるのとはまた色合いの違う真剣な表情が見られて、なんかもうシンプルに「運動ができてかっこいい!!!」という小学生のような感想をひたすら抱いてしまうのが常なんですが…それを目の前でずっと見られる!!??となって、この練習時間からハッピーすぎてテンションが振り切れてしまいました。もはや動揺してた。

野球姿は、これまで始球式、番組の企画、ご本人がSNSにちらっと上げてくれるバッティングセンターでの数分間の動画etc.で見る機会があったんですけど、当然こんな長尺で見れた試しはない!つまりとっても見たかったやつ!まじで夢!!!になった…ほんっとうにかっこいい。
かっこよすぎてわけがわからなくなってしまい、忙しなくオペラグラスを覗き込んでは、ガチで客席で頭を抱えてしまいました。かっこいい…(他に言えることがなくなり黙り込んでしまう様子)
は~なんであんなにかっこいいんだろう~!!?
そしてご本人は自分の野球姿がこんなにファンに喜ばれる自覚はおありなのだろうか!!?めちゃくちゃありますよ!!!なぜならかっこいいので!!!(大声)


…長々と取り乱し失礼しました。叫びたいことをひととおり叫んだので、落ち着きます!笑
この練習時間からすでに、グラウンドにいる全員がとにかくほんっとうに楽しそうでした!
ウォーミングアップの間じゅう、そこここに笑顔が溢れていて、「この日が叶って最高!嬉しい!楽しい!」という感情が伝わってきて。
キャリアも年齢もバラバラだけれど舞台を中心に活躍している俳優…という共通項に、新たに「野球」が掛け合わさって集まったメンバーは、いわゆるカンパニーともまた異なりますし、本当に独特の空気感があったんじゃないかな?と思います。この特別なひとときの、真剣勝負を一緒に楽しもう!というワクワクした空気に満ちた一体感。
監督の山崎育三郎さん自らがノックをしたりもしていて、「なんだろうこの楽しい空間は???」となり、着いた瞬間から本当に開催されてよかった!という気持ちでいっぱいになりました。


そして17時になり、オープングセレモニーが始まります。
コミッショナーを務める城田優さんが、ゆっくりとグラウンドの中心まで歩まれて、ご自身が作詞された大会テーマソング「L・A・S・T」を歌唱されました。
「いや、城田優のソロ歌唱から始まる大会、贅沢すぎんか?」とならざるを得ない。やっぱりスケールが色々おかしいって!?笑 という気持ちでまた楽しくなって笑ってしまった。
しろたんの歌声、帝劇コンぶりに聞いたけどやっぱり最高だな~!とテンション爆上げになっている中、城田さんが序盤で一瞬見せた手拍子を促す動きだけで瞬時に意図を察知し、きっちり裏拍での手拍子を始めた観客席は「さすが舞台オタクの集い!!!」といった感じで、すごく楽しかったです。笑

城田コミッショナーの美声披露のあと、両チーム選手がひとりずつ呼び込まれ、マイクの前でひとことずつ意気込みをご挨拶。全員にしっかりとスポットがあたる作りになっていました!
ここぞとばかり、あの手この手で個性たっぷりにアピールをしていく俳優の皆さん。特に猛ダッシュで台に滑り込み止まらずにずっこけてマイクスタンドをぶっ倒した橋本祥平くん、怪我がなくてまじでよかったです!w

ここでまりおくんがしたご挨拶が「今現在、日本の中心は、俺たちアクターズリーグだー!!!」だったんですが、もうかっこよすぎて「アアアアア」になりました…いやほんと、なんでそんなかっこいいのだ…?(※お前は全部の感想をそれでしめる気か?)

ゲスト解説をつとめる佐藤流司くん、荒牧慶彦くんの紹介も行われ、国会斉唱は松也さんと育三郎さんお二人でのアカペラ歌唱!
両キャプテンの選手宣誓では和田琢磨くんがフレーズをど忘れして固まる→まりおくんと二人で爆笑、というほっこりした一幕もありつつ、いよいよ満を持しての試合開始へ!

◆2.プレイボール!

ABEMAでの事前特番で、すでに先攻後攻は決まっており、1回表はDIAMOND BEARSの攻撃から始まりました。
先発投手は宣言どおり、まりおくん…!3年前のコラボナイターぶりに、東京ドームのマウンドに、今度はガチの野球のために…!と胸が熱くなります。
いやほんと、なんであんなに雰囲気が”本物”なんだ!?ってなるくらい、投手姿がサマになっているので…再びかっこいいしか言えぬタイム勃発です。ロジンバッグを握る動作とかでもう無理!ってなる。
あまりにもかっこいいのでつい感極まって「推しがピッチャーって最高だね!??」と口走り、隣りにいた友人からは「めったに言う機会のなさそうなセリフだねw」と冷静に返されました。本当だよ。笑

オペラグラスで投球モーションをガン見して投げる直前に肉眼に切り替えて球の軌道を追う、って見方をしてたのですが、これ最高すぎて永遠にできるわ…になりました。
流石に序盤は緊張してたのかなぁ!?とも感じたんですが、きっちり三振をとり失点0に抑えたまりおくん!
特にあの、1回表最後の投球でストライク決まったときの、渾身のガッツポーズ…!だからかっこいいんだってばぁぁぁ!!!!!
(※…推しが三振を取る話を嬉々として観劇ブログに書いてる状況、やっぱりどうしても面白すぎる気がしています。笑)


試合が始まった直後は、出場選手のみんなも少し浮足立っているところが強めで(そりゃそうなる)、「すごい!俺たちほんとに東京ドームで野球やってる!お客さんが見てる!!!」みたいな空気だったんですが、
回が進むごとにどんどんとみんな野球にのめり込んでいく様子が伝わってきて、それもまた面白かったです。
見てるこちらもだんだんと普通に野球の試合を見てる感覚になっていくというか…。だって、見応えがありすぎたよ~!
守備のファインプレーとか自然と拍手しちゃうよね!!!
皆さん、本当に運動神経が良いんだな…というのが伝わる場面ばっかりでした。3ベースヒットか!と思う当たりをセンターできっちり獲ったり、的確に一塁へ送球したり、いや本業役者ですよね?というのがだんだんわからなくなっていきました。笑


試合中、選手間のちょっとしたやり取りが垣間見えるのもすごく楽しくて!
敵チーム同士だけど一塁ランナーとショートの選手が楽しそうに会話してたり、
かと思えば、ピッチャー交代前の投球練習の間にライトを守るとりちゃんから、マイク無しのただの肉声(大声)で「えらい静かやな!」が響き渡ったり。笑
一塁ベンチの真上にあたる位置で観戦してたのでBLACK WINGS側のベンチ内の様子は全くわからなかったんですが、ベンチに出入りする様子やバッターボックスに入る前の素振りの様子、あとはいくみん相手にガチの投球練習を続けるまりおくんが見られたので、最高でした…。
腕組してる育三郎さんの背中なんて、完璧に監督のそれだったし!笑

球場で野球観戦をするのは2019年の楽天生命パークでの観戦イベントぶりだったんですが(ええ、まりおくんのファンはとにかく「野球」に慣れているんです…笑)、
野球の攻守のテンポがある仕組み、熱中しつつもどこかゆったり見られるのがやっぱり楽しいです。
「仮にどんなに打たれてもホームベースに返さない限りは点は入れられないけど、でもアウトを取るまでピッチャーは投げ続けないといけないんだよな…」って試合展開を見ながら思わず唸ったり。いや、ほんとにガチで野球を見ている感覚になりました。笑
福岡で育ったためにどうしたって野球には馴染みがあるので(※主語が巨大*1)、野球ならばいける!と違和感なくすっと入っていけるのも、個人的には楽しい体験なのでした。

◆3.試合以外の演出など

今回解説席にいた荒牧くんは野球経験がなく、いわゆる初心者としての立ち位置だったのですが、その視点が解説に生きており、「詳しくない人にどう楽しんでもらえるか?」という意識に溢れていたのが素敵でした!
実況の清水さんが「荒牧さん、リクエストというのは…」みたいな感じで要所要所で用語の解説を挟んでくださっていて、それに対するあらまきくんの素直なリアクションがすごくよかった!
無理なく知りたいことが入ってくる感じで、普段野球に親しみのない層がしっかり楽しめるような工夫を細かいところでもしてくれているなぁと。

対するりゅうじくんは野球経験アリなのでまた違ったスタンスになるわけですが、そもそも最初のご挨拶も「全編イタリア語でやります!」なりゅうじ節炸裂からでしたが笑、
試合が進むにしたがって目の前の熱戦に自然と感じ入っていき、お得意のボケが少なめになっていく様子がまた新鮮ですごくよかった…!笑
付き合いの長い俳優さんへのツッコミコメントの安定感はもちろんなんですが、あまりイメージのない野球の話題をりゅうじくんから聞けるのもなんだかすごく楽しかったなぁ。
まりおくんがピンチの局面でふたたび登板したとき、あらまきくんが「左投手だとやっぱり相手は打ちにくいとかあるんですか?」という質問を清水アナにしていたのですが、
そこから「佐藤さんはどちらですか?」「僕は右・右です!」みたいな会話があったりして、いや~新鮮だわ!ってなりました。(りゅうじくんは左ピッチャーは苦手で右打ちなんだそうです。)


試合途中でまさかの「猫」乱入&高野くんとの攻防戦があったり(気ぐるみの中にいたのが染谷俊之くんとわかったときの、あの驚きたるや!)、
コミッショナーの部屋」と称した城田さんとの2ショットトークコーナーが設けられたり、
松也監督の「ピッチャー、俺!」からの育三郎監督の「代打、僕!」が見られたり、
最終回の攻撃での助っ人カードで絵に描いたような助っ人外国人選手の体でspiさんが現れたり、
本筋の試合以外にも本当にエンタメ要素がギュッとつまりまくっていて、とにかくめちゃくちゃ沢山笑いました。

野球経験ゼロですが!という前フリで登場した高野洸くんも、コミッショナーの部屋でものすごく楽しい!を連発していて実際楽しそうだったし(そして彼には猫を捕まえる特命がくだされる笑)、
岡宮来夢くんが「もし選手だったら入場曲にしたいのは?」という質問に「キセキですかね!」と回答するそれこそ奇跡の瞬間もありましたし(そんな彼の隣にいるのは城田優さんw)。

とにかく徹頭徹尾「見てくれるお客さんを楽しませよう!」という気概にあふれていたなぁと感じます。
みんなが楽しそうな姿を見てるだけでこちらは十分楽しいのに、そこに予告どおりのエンタメ要素がドカドカと入ってきて、笑っている間にあっという間に終わってしまった!という感覚でした。
20時での試合終了が予め告げられていたので、進行の結果全7回までの予定よりも早い6回で試合が終わってしまったのは確かに残念ではありましたが、でも見ている側の充実感は半端なく高かったです!


試合はDIAMOND BEARSが6-1で勝利をおさめる結果となりました。
表彰式では「ハッスル賞」など独特の賞が用意されていたのですが、鰻1年分とかハーゲンダッツ100個とか、スケールがほんものだ!?になったのがまた面白くて。
極めつけに、MPVの岩瀬恒輝くんに贈られたのがスポンサー:トヨタからのまさかの車だったのには、客席が大きくどよめいていました…!笑 いや、車て!?笑

最後のお別れはふたたびテーマソング「L・A・S・T」に乗せて、両チームの選手がぐるっとドーム内の客席の真下を周回してくれる演出に。
このとき、笑顔で客席に手を振ってくれているみんなの表情が、本当に充実感に満ちていて。
「そうだよねぇ、こんなに楽しいことって、ないよねぇ!」と、見ているこちらも歌に合わせて手拍子をしながら、全力で笑顔になりました!

◆4.観戦を終えて

事の発端は、昨年秋のまりおくんのツイートでした。


ファンの間ではもう十二分に知れ渡っているまりおくんの野球愛なので、「おぉ、これはなにかやるんだな」とは思っていたのですが、それから半年ほどが経過した、今年の春。
ある日突然、明らかに「野球が好き」とわかっている俳優さんを中心に、「明日、大きめの情報解禁があります」「夢が叶います!」といった言葉が続々とツイートされる事態になり、
それを見ていた我々が「え、なに?野球大会?」とうっすら察してしまっていたあの流れは、本当に面白かったです…!笑


実際に解禁されたときは、まず「東京ドーム」という文字を見て目を疑って爆笑し、さらにメンバーにIMYのお三方がコミッショナー・監督として名を連ねていることに度肝を抜かれ*2
こんなことが実現可能なのか!と、とにかくお知らせだけでめちゃくちゃに楽しくなってしまってました。
2時間あったABEMAでの事前特番では、これでもか!というくらいメンバーからの野球愛が伝わって、「元ネタ全然わからないけどクオリティが異様に高いことだけはわかる」野球選手モノマネに爆笑したり、
巨人とのコラボタオル発売ではまさかの巨人の選手からの激励コメントが両キャプテンに届いたりと、なんでこんなに楽しいんだろう?となるエピソードには事欠かなかった印象。
ひたすら当日が楽しみな気持ちで迎えたのですが、期待以上の時間を過ごすことができました!


「自分たちのやりたいことを叶えながら、お客さんを巻き込んで絶対に最高の時間にしてみせる!」という気概をまりおくんからひしひしと感じていたのですが、
様々なエンタメが本意ではない状況を強いられつづけている中で、なんとか観客有りでの開催を実現できたこと、本当に心からよかったなぁと思います*3
興行的にもしっかりと成功していたらいいな…!
そして是非、来年以降も継続的な開催が叶ったら最高に嬉しいなぁと思います。うん、とにかく、心底楽しかった!!!



現地・配信問わず、周りで観戦した人が「楽しかった!」と口々に言う様子を見ていて、それだけでもとても幸せな気持ちになりました。
この時勢下で実現に漕ぎ着けるまで、色々と困難なことも多々あったものと想像しますが、野球×エンタメの新しくてとびきり楽しいひとときを届けてもらえたことに大感謝です。


また来年、ACTORS☆LEAGUE 2022の開催を願ってやみません!
そしてまりおくん、こんなとんでもなくて楽しすぎるイベントを実現してくれて、ありがとうございました&本当にお疲れさまでした!!!

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灼熱!な東京ドーム前で野球カードを記念撮影

*1:やはり地元に根ざした球団があるのって相当に体験としてでかいなと思います。ホークスと共にある感が強いので、住んでる頃はやっぱり試合結果とか選手の名前とか当たり前にわりと理解してました。個人差、もちろんあると思いますけれども!笑

*2:ミュージカル界の大先輩であるIMYのお三方と、仲間の俳優陣をつなぐような役割を果たせているのも、今のまりおくんの立ち位置だからこそ出来ることだと感じて感無量なのでした

*3:恐らくエンタメ演出を担っていたのであろうサポートメンバーの皆さんが直前で出演叶わずになってしまったのは大変残念でしたが…!該当の方もどうか予後が大事無いことを祈っております。