こたえなんていらないさ

舞台オタクの観劇感想その他もろもろブログです。

明日カノ最新シリーズ「洗脳」を最終話まで読んだので、感想をまとめる

ちょっと毛色の違う記事をとつぜんあげます!

皆さんは「明日カノ」読んでますか?
cycomi.com

サイコミで毎週金曜0時に更新される「明日、私は誰かのカノジョ」・通称明日カノを、嬉々として更新日に先読みしている人間です。勿論コミックスは全巻買ってます!
最新シリーズ「洗脳」が1月28日更新分で最終話を迎えたのですが、コメント欄に書き込まれる内容が本当に様々で、読んでいるうちに思わず自分の考えをまとめたくなったので書きます。

※展開について当然のようにめちゃくちゃネタバレをしているので、これから読もうかな~と思ってる方はご注意を!!!




「推しってなんだよマジウケる」について

とりあえずわかりやすいほどに賛否両論!という感じに盛り上がっていたこのワンフレーズについて。
私個人は(日常生活でゴリゴリに推しいるけども)とくに否!とは感じませんでした。その理由は以下です。

最終話、講義が始まる直前に話しかけてきた同級生の女の子に、留奈が「…好きなんだね アイドル?」と話しかける場面があるのですが、
その同級生の持ち物から、彼女にもいわゆる「推し」がいることに気づいた瞬間の留奈は、明らかにぎょっとして青ざめています。
この反応を見て思ったのですが、隼斗の歌い手活動における炎上・その飛び火を経て、自身も開示請求の係争中である留奈にとっては、
推しがいる人たち=ある日突然牙を剥いて襲いかかってくる集団として刷り込まれてしまっているのではないかなと感じました。


シリーズ後半から、留奈がオタクを下に見すぎてる描写がきつい!といったコメントがめちゃくちゃ多かったように思うのですが、
別に炎上前も、彼女はオタクを下に見ているわけでもマウントをとっているわけでもなかったと個人的には感じました。
シンプルにお金の使い方に対する価値観が徹底的に違うだけというか。
なおかつ、炎上後に「ファン・オタク」を十把一絡げにまとめて罵っているような描写も、それこそ「推しってなんだよマジウケる」以前には、とくに見られなかったように思います。

じゃあどうして、留奈は最終的にそんなパンチの効きすぎる一言を繰り出すようになってしまったのか。
留奈の視点から考えると、いわゆるオタク側の感情を類推したり背景にあるものを実際に理解するチャンスって、実は一切なかったんじゃないでしょうか。
隼斗からファンがどういうふうに応援してくれているのかの説明を聞くことはあったし、配信の様子もたまになんとなく見守っていたけど、
別に留奈はバシモトのファンとしてその様子を逐一追っているわけではない。
隼斗が悩んでる風だったオリジナル曲の作曲もできたし、うんうん仕事がんばってるんだろうな~、よかったね!くらいに思っていたら、
ある日突然、そんな意図の一切ない行為を「匂わせだ」と突然叩かれ吊るし上げられ、SNS掲示板で一斉に有る事無い事を書き立てられたわけで、
そこには怒りと恐怖、嫌悪感しか残らなくても当然なんじゃないかなと。

留奈が失ったのは恋愛だけじゃないかもしれない

留奈は炎上の一件で、薄々感じていた隼斗と自分との(おそらくは育ちのバックボーンの)違いに打ちのめされ、その辛さ故にすべてを切り捨てて終わりにしたようにも見えました。

隼斗と自分とは違う、と留奈がひとりで考えるモノローグは複数登場していて、
出会った直後の116話での飲みの場でも「育ちがいいって言うか…人の悪意に触れてこなかったというか…そういう素直な性格っていいよね」と酔っぱらいながら心の声が漏れた感じでつぶやいています。
作曲のきっかけをつくってくれた留奈に、心からの好意でお祝いのワインボトルをサプライズで用意していた隼斗に、
留奈は「世間にはこういう人もいるんだな」とでもいった様に、純粋に胸を打たれていたように見えました。

おそらく、留奈にとって隼斗は「住む世界の違う、光の中に生きる人」でした。
違う背景を持つ者同士だからこそ惹かれあい、時折価値観の違いは感じながらも、恋愛関係としてはあくまでも年相応の明るいものを育んでいたはずの二人は、
見ず知らずの第三者から向けられた悪意のかたまりによって、それを突然解消せざるを得なくなったわけです。
留奈にとっては、もしかしたら今まで知らなかった世界の人と幸せにやっていける可能性もゼロじゃないかも?と思っていた生活に、謎の横槍が入ったような形じゃないのかな。
恋愛関係よりも大きなもの、新しい世界への入り口を徹底的に閉ざされたような感覚になっていてもおかしくないと思う。*1
この経験を以てしてなお、留奈が「推し活」に無条件に肯定的な感情を持てていたら、そっちのほうが不自然じゃないかな、と私は思いました。

隼斗・バシモトはもうちょっと早く覚醒してほしかった

仮にですが、留奈が付き合っている間に隼斗から「こういうファンの人からの言葉がすごく嬉しくて…」みたいな具体的な話を聞いていたりしたら、
留奈の中での「推し活」の印象もまた少しは違ったものになっていたかも?とは思うのですが、おそらくですがその機会もなかったんじゃなかろうか。
というのも、たぶん留奈と付き合っていた時点の隼斗は、自分を叩いてくるのではなく、純粋に楽しく応援しているファンの存在に対しては、あまり深く思いが及んでいなかったように見えます。
留奈と付き合うきっかけになった最初の炎上が足かせとなって、本質的に自分がファンに何を届けていきたいのか、なぜ配信者をやっているのかがわからなくなり、迷走しているように見えました。


最終話の1話前で、グループとしての初ライブを終えた隼斗のもとに届いた1通のDM。
「まつもと」と名乗るファンの長文メッセージは、どこまでも「バシくん」を思いやるもので、
炎上に関する謝罪配信を受けてなお「バシくんの隣に誰かがいてバシくんのことを支えてくれていたら嬉しいな…と思います」と結ばれていました。*2

それを見た隼斗は「っ……」と顔を歪ませ、「ほんと……何やってんだろ俺……」とひとりこぼします。
あの瞬間に隼斗は初めて、人前に立ってパフォーマンスをする自分の活動の意義・それを受け取る先にいるひとりひとりのファンの存在に、
正面から向き合えるようになったんじゃないかなと感じました。

このメッセージを見る直前、同じグループのメンバー(みの)から「活動者としての自覚持って欲しいだけ」と隼斗はお説教をされているのですが、
それも踏まえて、自分がやってきたことを振り返るきっかけが、あのまつもとからのメッセージだったんじゃないかなと。
活動の過程で凹んだメンタルを立て直してくれた留奈と出会い、しかし最終的にその関係が駄目になってしまったことまで含めて「何やってんだろ俺」だったんじゃないかなぁと。

だって、みのが言う通り、隼斗に「配信者・バシモト」としての自覚がもう少し確固としてあったのなら、
今の自分にどういうファンがいるのかを冷静に把握し、その上で避けるべき行動がなんであるのかも判断できていたのでしょう。
もしそうであれば、炎上の発端となった留奈のお店のアカウント「伊織」からのバシモトへのフォローも「そういうのはファンが怪しんで危ないから即止めて!」って言えただろうし、
写真をアップするときは念の為声かけてね、みたいなコミュニケーションも予め取れていた=あのタイミングでの破局は避けられたんじゃないかなと感じました。*3


留奈は活動者ではないし、推しがいた経験もない。
そんな中で一方的に圧倒的な悪意だけをぶつけられたら、そりゃあ留奈は「推しってなんだよマジウケる」にもなるよね、と思ったのでした。
その間を取り持てるのはたぶん隼斗の役割だったけど、それはとくに機能しなかった。なぜなら隼斗自身に自分の活動についての迷いがたくさんあったから、ではないかなと。。
彼自身、自分の行動について中途半端な自覚もあるゆえに、正面切って留奈を引き留めることもできなかったんじゃないかな。
メンバーも留奈との付き合いそのものに対して苦言を呈する人はいなかったですからね……隼斗自身がなんとかしたければなんとかできたかもしれない。
一方で彼女を傷つけたことも、炎上でグループ活動に迷惑がかかったのもどちらも事実。
「何やってんだろ俺」のあとの隼斗はきっと覚醒したんだと思うので、せめて色々が無駄になってないっぽいのは救いだったかも(最終話、登録者数増えて新曲も作れているっぽかったので)。
そもそも隼斗は留奈と付き合って気持ちも安定してうまく行きだした部分があったから、それに比べて留奈は……と思うと、悲しいんだよなぁ。。

プロローグ/エピローグについて

第一話の冒頭に、けっこうキツめの言葉で展開されるモノローグ。

服も容姿も 愛情だって 自分が幸せになるための手段であって 目的じゃないでしょ
その価値観”洗脳”されてるよ

連載期間ストーリーを読み進めながら、私にはどうしても「このモノローグ、主人公・留奈の言葉としては受け取りにくいな……?」という違和感がずっとありました。

留奈はたしかにいわゆるオタクではなく、好きなアイドル・歌い手・俳優などに、わかりやすく言えば「入れ込んで」お金を使う消費行動をとった経験のない子です。
でもだからといって、作中での留奈はそういったいわゆるオタクたちの経験を「バカみたい」といった視点では、決して捉えていなかったように感じていたんですよね。
単に「知らないから理解できない」だけなのであって、それを特に悪し様に捉えている事実はなかったように思います。
隼斗の歌い手・バシモトとしての配信コメントを見守る時に、「なんだかファンのみんなすごく熱いね…」とびっくりして素朴につぶやく場面もありましたが、
あれも別に「顔も見せてないで声だけなのにこんなに沸いてんのウケるww」みたいな体では全くなくて、え、こんな世界があるの!?何!?という純粋な驚きだけだったと感じました。


でも今回最終話の展開と、ラスト1ページに展開されたモノローグを読んで、この違和感がようやく解消されました。
シリーズ第一話のモノローグはもしかして、
最終話、もしくはその少し先の未来にいる留奈の声だったのかな?と考えると、ものすごくしっくりくる気がしたのです。
物語の最終地点を冒頭に持ってきた構成だったのかな、と、最終話を読み終えて感じました。

ラストで留奈は、消費行動についてとりあげた、おそらくはマーケティング関係の講義を受講しています。
彼女の手元には消費の心理や人心掌握術について調べている様子が伺える本もありました。
留奈はこのストーリー「洗脳」で得た一連の経験から、人が消費行動に走る心理をどこまでもシビアに掘り下げていくことに決め、
その結果として、消費行動全般を全力で皮肉った言葉として放っているのが、第一話のモノローグだったのかな、と考えると腑に落ちました。
他の読み方があるかな……と考えたけど、私にはこれしか思いつかなかった!

主人公・留奈はどこに向かうのか

20歳そこそこの女子大生ながら、<お金>を生きる上での第一義に置き、すべてを割り切ったような価値観のもとに夜の仕事で大金を稼ぐ留奈。
先程すこし触れたとおり、最終話の留奈はなんだか不安になるタイトルの本ばかり複数、図書館で借りていることがわかります。
そのラインナップがこちら。

・大学で起業した僕の生き方(←わかる)
・孤独な人程、成功する(←ちょっと悲しいけど、わかる)
・教祖ビジネス(←うん???)
・人を操る対話術(←やめて!???!)

隼斗のファンを巡るあれこれに加えて、信頼していた元バンギャの夜のお仕事の先輩・菜々美さんが「レター先生」というなんだかよくわからない存在に心酔していることを知ってしまったり*4
留奈はとにかく「自分以外の何かに全力で仮託する・大金を使う」心理状態について「いい加減にしてくれよ!なんなんだよさっぱりわからねえ!!!」といよいよ叫びたい気持ちになったのかもしれません。

自分も仕事を通じてお客に完璧な幻想を作り上げて売っている自覚は明確にあった様子の留奈だから、
それをスキル・ノウハウとして掘り下げていったら何が生まれるんだろう?という方向に興味の舵を切っている様子が伺えます。
さらにはそこに、自分の生活を多少なりとも破壊した他者の感情を解き明かしたい意図もあるんだろうなと思います。

隼斗との関係を失う原因になったファン側の暴走を見た留奈は、
自分はそういう心理状態や消費行動を掌握する側にうまいこと回って、最終的に存分にお金を稼ぎつつ、もしかしたらある種の復讐を遂げてやる、くらいの青写真も描いているのかもしれないなと。
ラストにあるとおり、もしも「ホントの神は推しが好きな自分」なら、その究極体として誰かから憧れられる「神」を兼ねた自分を、留奈は目標に置いているのかな、と。*5


留奈が、なにか幼少期・家庭環境まわりに複雑な事情を抱えていること自体は、端々の描写から明らかでした。
まだごく若い学生の身で、奨学金を返しても余るほどの大金を夜職で稼ぎ、それでもお金が目減りしていくことの不安に苛まれる場面もありました。
一方で、彼女がどうしてそこまでお金に執着せざるを得なかったのかその理由が具体的に描かれたわけではなかったため、「主人公に共感できない」という感想も集まりやすかったように見えましたが、
全てを一から十までつまびらかに書けば良いというもんではないと思うし、個人的には造形としては十分つたわるものはあったように思います。

今回のヒロインとしての留奈は、このストーリーでどこまでも「孤独を深めた」存在であるように私には見えました。
前シリーズまでのヒロインたちが、今まではちょっと違う外界に一歩を踏み出す雰囲気だったのに対して(前章ヒロイン・萌の変化があまりにも劇的で鮮やかだったのもある)、留奈の変化はそれとは対比的で、より己の内側に潜っていったような印象があります。
むしろ自分とは明らかに違う存在・隼斗との決定的な断絶を経て、やっぱり自分は自分の世界でひとりで生きていくしか無いんだ、というあまり良くない方向への学習を積んでしまったように思えるのがつらい。
雪あたりともっと踏み込んだ会話ができたなら、ふたりは良い理解者どうしとしての関係を育めるんじゃないかなぁと願っていたりするのですが。。
コメントで留奈が復学していることが何よりのハッピーエンドだと書いている人がいたのには、たしかにそうだよな、、と思った。
個人的にはゆあと同様で、この先に何らかの形で幸を掴んでほしすぎるヒロインでした。留奈に幸あれ。。

最後におまけ・心音(ぽぽろ)について

ぽぽろちゃんは……あかんタイプの闇オタクへの超進化、今すぐやめて~~!!!!!笑
最終話、4ヶ月経ってあっという間になんだか垢抜けて、わかる10代の女の子ってほんと急にきれいになるよね、ってしみじみ思ったら「アンチじゃありません」と名乗るド直球そのもののアンチ垢稼働させてんの、それはさすがに草!!!
そっちに行ったらダメだよ!!!戻ってきな!!!!!……ってなった。
「いってきまぁす」の光そのものの笑顔の下に、ちょ、おま、なにとんでもない闇抱えてんねん!なる。。涙
頼むから、誰か彼女を止めてあげて!!!
こういう感じでオタ活を深めていってしまった場合、どこかで方針転換できるチャンスってあるんだろうか。。。私にはちょっと思いつかない。
まつもとさんのような光のオタクに仮に出会っても、今のぽぽろの状態だと内心で当たり前に見下すんだろうしなぁ~~。。おい~~ぽぽろ~~~!!!(若者が闇落ちするのつらい)



2月頭に次章予告ののち、そこから1ヶ月は休載期間になるとのこと。
毎度ものすごいボリュームの取材量なことがわかりますし、をの先生まずはゆっくり休まれてください!
また次章も楽しみにしています!

*1:それ以前にお金に異常に執着するあまり、留奈は隼斗との関係継続に不安がある様子もあったので、勿論すべてが炎上のせいではなかったですが、別離がいつか来るにせよもうちょっと違う形にはなったはず……

*2:コメントでは疑う声が多かったけど、流石にまつもとさんとつながったりはしてないと思います。。せめてそこはそうであれ、バシよ!?笑

*3:「人前に出る仕事なんだからそういう行為は怪しまれて当然、見つかったらファンは燃やして良し!」と言っているのでは全くなくて、自分の提供している商品価値と消費者が何を望むか?を俯瞰した視点で捉える力がないと、ひどく損をしてしまうお仕事なんだろうな、という意味です。

*4:あのレター先生のくだり。留奈は唯一心を許して相談できる人がいた!と思った矢先、その相手もまた自分を他所に預けた存在だったことに恐ろしさを感じたのではないでしょうか。飲みから帰ってきた翌日の留奈が鏡を見て「酷い顔」と言っているのは、菜々美さんからレター先生に勧誘されそうになったことへのショックを表しているのかなと思いました。

*5:コミックス9巻にも入ってる116話で留奈が落ち込む隼斗に対して「神様じゃあるまいし!一人の人間なんだから!」って明るく言ってるセリフがあって(アプリ内だとサムネにもなってる)、最終話まで読んだあとにここを読むとすげ~~~つらい気持ちになった、二人にはお互いのためにうまくいってほしかったなぁ。。足りない部分を補いあう未来もあっただろうに。

2020年に失われた2作品が帰ってくる。ミュージカル「るろうに剣心 京都編」&「エリザベート」上演決定に寄せて

今週はなんだか突然、信じられないほどにハッピーなとんでもない週になりました。


2020年に上演予定だったミュージカルのビッグタイトルが2本、
今年帰ってくることが相次いで発表されました。
1本目はるろうに剣心 京都編」、5月~6月にIHIステージアラウンド東京で。
2本目はエリザベート、10月~来年1月にかけて、帝劇・御園座・梅芸メインホール・博多座をめぐるツアーとして。

どちらも、応援している黒羽麻璃央くんが出演予定だった作品。
2作品ともに2020年に1公演も上演叶わずに全公演が中止となり、そこからもうまもなく、2年の月日が流れようとしています。


2作品の上演決定を受けて、もうただただ、嬉しいです。
今それ以外の言葉が思いつかない。叫び出したい&走り出したいほどに嬉しい!!!
本当に、おめでとうございます!!!
あまりにも嬉しくて、脳内で紙吹雪や餅を撒きながら横断幕をかかげて踊っているような状態なのですが(どんなだよ)、
もう何をやっててもどうにも落ち着かないので荒ぶる気持ちそのままに、こうしてブログを書いております。


まずはるろ剣京都編から!
www.ruroken-musical.com

2020年の夏に全公演中止の発表がされたとき、「当初予定していた演出の実現が、コロナ禍の状況下では難しい」といった旨が、演出の小池先生からは中止の理由のひとつとして告げられていました。
見せ方において美意識のすさまじく高い小池先生にとっては、納得のいかないものはお客さんに提示できないだろうな……と思ったことを覚えています。
小池演出 in ステアラなんて、どう考えても見応えしかないに決まっていて。純粋にミュージカルを好きな人間としてその世界を見てみたかった!と悔しすぎたのですが、今年改めて見られることに。やったぜ!!!

この2年、日本ではブロードウェイ等と異なり舞台上演を完全に止める判断はなされなかった分、コロナ禍における上演ノウハウが本当に膨大な量として積み重なってきていると感じます。
とてつもない苦労と工夫を重ねて、日々幕を上げ続けてくださる作り手の皆様……。
2020年に諦めた演出効果としてどのようなものがあったのかはわからないですが、小池先生は今ならきっと見せたい世界が作れると感じてらっしゃるのかなと思うので、
ステアラでぐるぐる回るるろ剣ワールドが、とにかく楽しみです!!!


まりおくんは本作で、究極の悪役・志々雄真実を演じます。
るろ剣はまりおくん自身が好きな”No.1マンガ”として何度もタイトルを挙げている作品であり、志々雄を演じられることを本当に喜んでいるのが伝わってきていたので、
絶対に上演されてほしい!と願っていた作品でした。

志々雄は全身が包帯に巻かれ、顔はほぼ目と口しか見えない役どころで、言ってしまえば見目麗しい姿を完全に封印することになるわけです。
その分、ひたすらに役者としての本質的な力で存分に暴れまわってくれるのだろうなと思うと、もう、楽しみで楽しみで。。
「推しの悪役見たくないオタクなんているか!?いないだろ!!!」と、お決まりのでかい主語を振りかざしてしまいたくなるほどです。
絶対絶対、楽しいに決まってるもんなぁぁ!!!嬉しいな~~~!!!って転がりまわりたくなる。。嬉しい!!!


そしてこのハッピーすぎるお知らせに大いに沸いてから、なんとたったの2日後に、今度は大ボスが帰ってきました。
www.tohostage.com

いや~~~。。ついに、エリザだよ~~~~。。。
嬉しさのあまりに茫然自失、みたいな状態です。
ちょっとどうしたらいいのか本当にわからない。。


もともと、2019年の秋に、エリザベート2020のキャストが解禁されたとき、私はそれはそれは喜びに狂い倒しまして、
anagmaram.hatenablog.com

でもそのすべては、2020年の4月、本来の初日まであと数日というタイミングで、一度完全に失われました。
anagmaram.hatenablog.com

それ以来、私の中では「2020/4/11」という日付が永遠に忘れられないものになってしまった。
まりおくんが史上最年少ルキーニとして、帝国劇場デビューを果たすはずだった日。
そして2020年は、本来ならば東宝エリザベートの20周年の節目でもありました。


言わずもがな、「エリザベート」はあまりにもビッグタイトル。
出演者には一流ミュージカルスターばかりが名を連ねており、再演を組もうにも、スケジュールやら何やらのやりくりが難しいことは想像に難くない。
1~2年じゃ戻ってくることはできないだろうなと、その時からもう気長に待つしか無い覚悟はしていました。
同じく2020年に全公演中止になったミス・サイゴンは、昨年の段階で早々と2022年の上演が発表になっていて、次はきっとエリザだ……!と念じていたんですが、
実際今回再演が叶うタイミングは、本来の上演時期からは”約2年半後”となります。
本当にここまで、長かったなぁ。。


2年前の春。衣装付きでの通し稽古まで終わっていて、劇場入りもしていて、あとはもうお客さんに見てもらうだけ……という状態で、すべての停止を余儀なくされたエリザ。
私達がそれを目にすることはついに叶わなかったけれど、
でもたしかに演目として積み上げてきた時間がそこにあった、稽古を経て作り上げられたものがあった。
そのことを大事にしたくて、ただただ「なかったことにはしたくない」と、ひたすらにそればかり思い続けていたことを覚えています。
だからあの春、演目を思うブログの結びの言葉には、See you again, someday! という言葉を選んでいた。


観客って、基本やっぱりなんにもできなくて。
大好きなその世界が予定どおりに訪れてくれる日を、ただ信じてじっと待つことしかできません。
実際この2年を振り返ってみても、改めて「なんにもできないよな」ってしみじみ感じます。猛威を振るうウイルスの前に、観客はどこまでも無力です。
素晴らしいエンタメを提供してくれる人たちの輝きを、愛をもって一心に受け取る、それだけ。

だけど、とにかく忘れずに待っている、それだけはちゃんとできたんだなぁと、そんなことを思いました。
待つ間になにがしかの理由で、離れてしまうことだってあるわけです。
諦めずに待っていて、本当に良かったなぁ。


ルキーニと志々雄。本来ならば2020年のまりおくんが演じていたはずの、大きな大きな2つの役。


ルキーニも志々雄真実も、絶対に見られる!なくなったりはしない!って信じて願い続けてはいましたが、
こうして実現してみると、もう訳わからなくなるくらいに、ただただ嬉しいです。
シンプルに「嬉しい!」それだけになってしまう。
実際のところもうそれ以上言うこともないくらいなので、なんだかその嬉しさをどこまでも引き伸ばしただけ……みたいな文章を書いてしまった!笑


本当に今年は、まりおくんにとって「リベンジ」の1年なのだな!って思います。
お仕事情報の解禁があまりにもなく、昨年秋頃からずっとソワソワし続けてはいましたが、これが隠されていたんじゃあしょうがないよね~!って気持ち。


去年ようやくロミジュリで本格的なミュージカル出演が叶い、そこで救われた気持ちも大きかったですが、
2020年に積めたはずの経験がまるごと吹き飛んでしまっている事実には、どうしても悔しさを感じる場面もありました。
ファンですらそうなのだから、ご本人の気持ちはいかばかりか、と思うわけです。
それをようやく。
すべてをぶつけて、まりおくんが板の上で思いっきり晴らせる機会がやってくるのだなぁ。
本当に本当に、良かった!!!涙


2020年にたくさん感じたあの言葉にできない様々な思いは、
今年劇場でしっかりと客席に座って、楽しさの中にきらきらと散らして昇華させようと思います。

2作品の上演決定を、心からお祝いしたいです。おめでとうございます!
あ~~~もう、本当に嬉しい!!!!!今はとにかく、それだけ!!!!!

「推しが結婚したおたく」になったので、その日の感情を書き残す

どうもこんばんは。
……開設から7年目に入ったこのブログ、2022年に入って最初に書く記事が「推しの結婚」についてだなんて、誰も思わないじゃん???
あなぐまです。


というわけで、推しが!推しが!!!
数年来応援している、推しであるところの黒羽麻璃央くんが!
このたび桜井ユキさんと、
ご結婚あそばされました!!!!!


「推しが結婚したらその時お前は」というシミュレーションを私はなぜか昔から念入りにやりつづけており、
2年半くらい前からこの件については検討済みなんですが(なんでだよ)、
anagmaram.hatenablog.com

…かといって、どれだけ殊勝なことを述べていても、受け入れられなくてのたうち回るのかもしれない。こればっかりはその日が来てみないとわからないな~と思う。 でも心づもりをしておくことは別に無駄ではないような気がするので、勢いに任せてだぁっといろいろ書いてみました。 誰かを応援するって、奥が深いです。

とある若手俳優おたくが「もしも自分の推しが結婚したら」について思わず考えました - こたえなんていらないさ

「こればっかりはその日が来てみないとわからない」
いやもう、本当にな!よう言うたな!
今日こそその日 だよ!なんでだよ!!!

というわけで、過去の自分からのバトンを受け取ってアンサーを書いていきたいと思います!
面白がりですいません、だって推しの結婚なんてなかなか経験できないよ、これを記録せずにどうするんだ!?の気持ち!!!笑



推しが結婚するとおたくはどうなるか①過去の自分に答える

  • Q.どうだった?

A.びっくりした。
当たり前なんだけど、本当にびっくりしました。とりあえずそれしか出てこない。
弊社は13時からお昼休みなんですが、13時ちょうどに推しのツイート通知からTwitter見て、ほんとにストンと腰抜かしました。したたかに床に膝を打ち付けた。
だって急!?いや、急!!?そりゃそうなるんだけど、急!!???

まりおくん、このさきの具体的なお仕事内容告知がまだなので「そろそろ舞台の、ミュージカルの解禁、来ないかな~!」って昨年からず~~~っと首を長くして待ってたんですが、
いや解禁、そっちかい!っていう!
そっちかい!びっくりしたよ!!!
こんなにびっくりすること、そうそうないよ!2022年の驚きぶっちぎり1位でもういいよ!笑

  • Q.仕事を休むと決めていた件については?

この件については冒頭にリンクを貼った記事にも過去さんざん書いてたんですけど、
わたくし、「推しが結婚を発表したら次の日は仕事を休む」とかねてからかたく心に決めておりました。

それを踏まえての結論。
A.まぁなかなか、そうも行かない(それはそう)(当たり前)(社会人だからね)

きょうは数時間だけ早退させてもらいました。今すぐ休めって言ってくれたしょくばのひとたち、ありがとう……
いや、正直なところ、これほど自分が信頼できない日もなくて。当たり前か?
ほんととんでもねえミスをやらかしそうでした。笑
信頼できない状態の自分で働くほうが迷惑かかるわ!と思ってしまうほど。そもそもびっくりしすぎてお昼ごはん食べられなかったので、手が震えだしたのと頭痛がしたのがよくなかった!
たぶんなんとかミスはしていないと信じて、明日はふつうに働きます。笑


それほどしつこく「仕事を休む!」って言い張っていたのは、推しの結婚とはきっとそれくらい自分にとっての衝撃的な出来事だと思ってかかったほうがいいぞ、という意味のやつだったんですが、
ここに関しては間違いなくそうだなと実感しました!
推しのいる人は是非ライフハックとして「推しが結婚したら、私は仕事を休むぞ!」って決めておくといいと思います!笑
先述の記事にも書いたけど、実際休むかどうかより、自分の心持ちを客観視する術として有用だな~って思うので。
そのせいなのか、今回の私、比較的受け身が取れてしまった気がするんですよね……?いやそんなことある?なんの訓練???笑

  • Q.推しからのファンクラブ向け報告メッセージについて

これも先述の記事で、FC向けにほんのちょっと早く教えてくれたらとってもうれしい、みたいなことを書いてたんですが、
A.Twitterばっか見ててFCメールに気づけませんでした(おい)

たぶんツイートとほぼ同時にメール配信したっぽいかんじ。うぅ~!!!涙
数十分経ってからメール届いてることに気づいたものの、「いや、こんなん見たら絶対泣くわ……」と思い夜になってから恐る恐る開いたのですが、案の定、泣きましたよね。。
Twitter/インスタに投稿されたのは連名の署名入りタイプ文のメッセージでしたが、FCの方はまりおくんからの手書きメッセージでした。
もうさ、泣くよねーー!!??
ありがとうーーーーってなった。。。うう。。ありがたいな……。

  • Q.他に何か得た知見はありますか?

A.自分が好きなものを食べると元気が出るので良いです。
きょうは焼き肉にいきました。みんなも是非「推しが結婚した日」用のご飯やおやつを考えておこう!!!!!!


  • Q.その他ネタは?

A.フォロワー数が増えた
……いや、減るんじゃなくて!!?って爆笑しておりました!なんで!?笑(お前が自分を面白がっているからでは?)

推しが結婚するとおたくはどうなるか②その日が来てみてわかったこと

で、実際に経験してみるとどうよ!?って話なんですが…
ショックとはちょっと違った。
なんかですね、人生で味わったことのない感情がわきました笑
これまじで、類似の経験が過去にないです!思い当たらない!!!


応援される側と、応援するファン側との関係って、なんていうか他にない独特のものなような気がしていて、
「仕事の姿や仕事にかける思いを我々は色濃く共有するけれど、生活、もっというと人生を共有することが、絶対にない関係性」なのだなと、私は常々思っています。
……そんな人、どう考えても推し以外にやっぱりおらんのよ。笑

例えば「仕事」をフックとして自分の職場の人間関係を考えてみても、それはお互いに自分の「生活」における登場人物ではあるわけで。
なので、今と類似の感情が湧く場面が、全く思いつかず……これは、皆さん経験してみてほしいです!
そういう名前のつかない感情がゴンゴン湧き上がってます!笑
落ち込むという意味のショックではないけど、明らかに「ショック状態」ではあるんだと思います。うむ。


ただ今回、めちゃくちゃびっくりはしたんだけど、同時にものすごくスピーディに納得した自分もいました。
本件の交際は全然知らなかったけど、そういう意味ではなくて、「若くして結婚!」って展開、ある程度予想のつくものではあったんですよね。
結婚した、って聞いて「あ~~~~そうか~~~!うん、なるほど、わかる~~~~!」っていう納得感がものすごくあって、腑に落ちるところが強かったというか。


それがなんでかというと、まりおくんは結婚願望がだいぶしっかりとあることを、以前からインタビュー等でこちら側に明かしていました。
自分にとっての大切な人と家庭を作りたい思いの強さを、ファン側もけっこう長い間存じ上げていたんですよね。
いろんなインタビューなどでそのあたりの気持ちを繰り返し聞くたび、そうなのであればちゃんとその願いも叶うといいなと、こちらからも自然と思っておりました。

そうは言っても人気商売でかなり難しい局面もあるだろうし、なかなか一筋縄ではいかないだろうけど、でもご本人が「人生において幸せでありたい」って真っ直ぐに言うとおり、とにかくそうなってくれ!こっちからも願っている!!!という思いが強かったのです。
純朴な青年なのだなと感じるようなその側面に触れるたび、職業柄、そういうごく普通の幸せを早い段階で手にするのはけっこう難しいのかもしれないことが、むしろ勝手に切なくなるほどだったといいますか。
人前にでるお仕事って、本当に大変だから。


そんなような背景があったので、勿論驚いてひっくり返りはしたんですけど、青天の霹靂的なものはあんまりなくて、内容にはめっちゃ納得する、が結論でした。
個人的には30代超えたらさくっと結婚するんだろうな~と思っていたので、予想より数年早かった!!!って感想が、一番大きいかもしれないな。
なんとなく、32歳くらいで結婚するんだろうな~って、思ってた!違ったわ、もっと早かったわー!!!

最終的に、推しが結婚したおたくはどうなったか

あくまでも私の場合なんですが、
最終的には、「なんてかっこいい人なんだろう!!???」という感動が新たにやってきてしまいました。
結論、惚れ直している……!(※頭の中身がおめでたい指数200%)


だってこれ、なかなかできる決断じゃなくないです!!?
同じ三日月宗近*1とはいえど、鈴木拡樹くんとはご年齢もやっぱり結構違いますし。
まりおくんのお仕事のポジションで28歳の今結婚するって、業界的に見てもだいぶ早い方だと思うんですけど、
「周囲から見てどうなのか」みたいな物差しじゃなく、今のお二人にとってその結論が自然だから結婚しよう!って決断にまっすぐ至れるところが、本当にすごいなと。

単に若くてイケメンだから人気があるのではなくて、まりおくんはしっかりと表現・お芝居の実力で今の地位を掴み、「俳優」として歩んできたのだし、この先もっと進化を遂げようとしているし……何より「俳優として正面から評価される存在でありたいし、そうあれる」と思うまりおくんの自負心や覚悟が、今回の決断にも表れているような気がしました。
なので今のこのタイミングのご結婚、いや、めちゃくちゃかっこいいな……?ってならざるを得なかったです!
常々パイオニアでありたいというまりおくんだけど、そのとおりの行動なのだな~と。え~~~かっこよすぎるな!???

個人的にはなんですけど、「結婚したとて、別にこれで離れていかないよね?」って、腹を据えてファンを信頼してくれているような気もしたのでした。
なんていうのかな~、「俳優」としての自分を見てもらいたいし、見てくださってると思っています!って気持ちが伝わってくるような気がして。
……そうだよー!(勝手にレスポンス)


桜井ユキさん、わたしが知ったきっかけは「だから私は推しました」という2019年放送のNHKのよるドラで(まじでめちゃくちゃに面白いので再放送してくれ~!)、
www.nhk.or.jp
そのときに「お芝居がうまくて素敵な女優さんがおる!!!」と思ってお名前を知ったことを覚えています。いやほんと、このドラマ面白いのよ!!!おすすめです!

わたしが認識したために意識に入ってくるようになっただけなのかもしれませんが、ユキさんはこのドラマ以降で地上波ドラマへのご出演が増えていらっしゃったような印象があって、
「リコハイ!!」のお知らせを知ったときもわーいユキさんと共演だ~と嬉しかったし、リコハイ自体が面白かったし、お二人が仲良さそうで楽しくて、
なんかもう結論「良」しかねぇな!!!???となってます。
……え~~~!!??めちゃくちゃ嬉しい!!!!!(驚きすぎて、喜びが遅延している様子)


(うわーん!!!)


当日の結論は、こんな感じに落ち着きました。
もちろん受け取り方には個人差があって、「無理なのでちょっと時間をくれ」って人もめっちゃたくさんいると思うし!
元気でない人は思いっきり寝込んだり甘いもの食べたりしよ!!!焼き肉もおすすめ!!!
わたしは若干面白がりに振れすぎなところはあって反省もしてるんですけど!なんかどうしても、こうなっちゃうんですよ。笑

あっけらかんとしていられることが正しいとは全然思っていないので、人には人の乳酸菌!の気持ちで、それぞれご自愛いたしましょう!
私もほんと3日後には寝込んでるかもしれないし!笑

そして毎日はつづいてく

丘を越え僕たちは歩く*2……みたいな気持ちです。いや~~~もう本当に、人生なんだなぁ。

私にとってまりおくんは、兎にも角にも「幸あれ」と思い続けてきたお人で、
そんな大好きな人が、人生をともに歩みたいと感じる素敵な人と巡り会って、ひとつのゴールの形に至ったこと、
どうしたって本当に本当に嬉しいし、心からおめでたいことだなって思います!

わたしたちファンは、仕事面の充実を支えられることもあるのかもしれないけど、まりおくんの人生を支えることはできないから。
それは身近にいる特別な役割の人が担うものだってずっとずっと思っていたから、なんか最終的にやっぱりものすごく嬉しくて、勝手ではあるんだけれど、なんとなくホッとしました。


まりおくん、ユキさん、
このたびはご結婚、本当に本当におめでとうございます。
お二人のこれからが幸多からんことを心からお祈りしています!
きっととても素敵な家庭を築かれるのだろうと思っております!


まりおくんの新しいお仕事の姿を見られる日が、私は引き続き、とてもとても楽しみです!
婚姻ステータス以外に、首を長くしまくっているお仕事情報の解禁も、しつこく待ってますのでどうぞよろしくお願いします!!!笑

*1:とつぜんの「三日月宗近婚姻合わせ」が起きたの、本当に面白くなってしまった……なぜ?おめでたいお日柄だとして、いやそこ揃う!?笑 ひろきくんもご結婚本当におめでとうございます!

*2:今回の件、頭の中のテーマソングが「ぼくらが旅に出る理由」に決定しました。なんかもうこれ。人生!!!かつて自分の結婚式の退場曲につかったせいかもしれない。

2021年の観劇とイベントまとめ

晦日じゃなくてもうちょっと早く書いてもいいのに、どうして毎年12/31になるんだろう。笑
2021年を振り返ります!
主に宝塚で配信を色々見たので、去年と同じく★=現地、●=配信/ライビュで印をつけてみた。
マチネソワレは回数カウントに必要なとこだけ書きました。

◆1月

1/9 ★ミュージカル『刀剣乱舞』 壽乱舞音曲祭(初日)
1/10 ★ミュージカル『刀剣乱舞』 壽乱舞音曲祭(ソワレ)
1/11 ★ミュージカル『刀剣乱舞』 壽乱舞音曲祭(ソワレ)
1/13 ★宝塚花組 NICE WORK IF YOU CAN GET IT(マチソワ)
1/16 ★ミュージカル『刀剣乱舞』 壽乱舞音曲祭(マチネ)
1/17 ★ミュージカル『刀剣乱舞』 壽乱舞音曲祭(マチソワ)
1/22 ★ミュージカル『刀剣乱舞』 壽乱舞音曲祭(マチソワ)

◆2月

2/6 ●宝塚花組 NICE WORK IF YOU CAN GET IT
2/11 ★ポーの一族(マチソワ)
2/14 ★宝塚宙組 アナスタシア

◆3月

2/4 ★結婚しないの!?小山内三兄弟
3/8 ★ミュージカル『刀剣乱舞』東京心覚
3/13 ★ミュージカル『刀剣乱舞』東京心覚
3/14 ★ミュージカル『刀剣乱舞』東京心覚
3/27 ★笑ゥせぇるすまん THE STAGE
3/28 ★宝塚雪組 f f f -フォルティッシッシモ-~歓喜に歌え!~/シルクロード~盗賊と宝石~

◆4月

4/4 ★笑ゥせぇるすまん THE STAGE
4/11 ★黒羽麻璃央ファンミーティング2021(1~3部)
4/18 ★宝塚星組 ロミオとジュリエット
4/24 ★宝塚花組 アウグストゥス-尊厳ある者-/Cool Beast!!(マチソワ)

◆5月

5/4 ●エリザベート TAKARAZUKA スペシャル・ガラ・コンサート(スペシャルver)
5/10 ●宝塚花組 アウグストゥス-尊厳ある者-/Cool Beast!!(宝塚大劇場千秋楽)
5/15 ●瀬戸かずやスペシャルライブ Gracious!
5/18 ●華優希スペシャルライブ 華詩集
5/21 ★ミュージカル「ロミオ&ジュリエット」初日
5/23 ★ミュージカル「ロミオ&ジュリエット」(ソワレ)
5/27 ★ミュージカル「ロミオ&ジュリエット」(マチネ)
5/29 ★ミュージカル「ロミオ&ジュリエット」(ソワレ)
5/30 ★ミュージカル「ロミオ&ジュリエット」(ソワレ)

◆6月

6/5 ★ミュージカル「ロミオ&ジュリエット」(ソワレ)
6/6 ★ミュージカル「ロミオ&ジュリエット」(ソワレ)
6/10 ★ミュージカル「ロミオ&ジュリエット」(マチネ)
6/12 ★ミュージカル「ロミオ&ジュリエット」(東京千秋楽)
6/20 ★宝塚花組 アウグストゥス-尊厳ある者-/Cool Beast!!(マチネ)
6/26 ★宝塚花組 アウグストゥス-尊厳ある者-/Cool Beast!!(ソワレ)
6/27 ★宝塚花組 アウグストゥス-尊厳ある者-/Cool Beast!!(ソワレ)

◆7月

7/3 ★宝塚花組 アウグストゥス-尊厳ある者-/Cool Beast!!(マチネ)
7/4 ●宝塚花組 アウグストゥス-尊厳ある者-/Cool Beast!!(東京宝塚劇場千秋楽)
7/9 ★ミュージカル「ロミオ&ジュリエット」(マチネ)
7/10 ★ミュージカル「ロミオ&ジュリエット」(マチネ)
7/11 ★宝塚宙組 シャーロック・ホームズ-The Game Is Afoot!-/Délicieux!-甘美なる巴里-
7/11 ★ミュージカル「ロミオ&ジュリエット」(ソワレ・大阪千秋楽)
7/17 ★ミュージカル「ロミオ&ジュリエット」(ソワレ)
7/17 ★ミュージカル「ロミオ&ジュリエット」大千秋楽
7/20 ★ACTOR'S☆LEAGUE 2021
7/25 ★宝塚月組 桜嵐記/Dream Chaser

◆8月

8/14 ★もしも命が描けたら
8/15 ●宝塚月組 桜嵐記/Dream Chaser(東京宝塚劇場千秋楽)
8/22 ★もしも命が描けたら
8/27 ★宝塚花組 哀しみのコルドバ/Cool Beast!!
8/28 ★宝塚花組 哀しみのコルドバ/Cool Beast!!(マチソワ)

◆9月

9/4 ★宝塚宙組 シャーロック・ホームズ-The Game Is Afoot!-/Délicieux!-甘美なる巴里-
9/11 ★宝塚花組 哀しみのコルドバ/Cool Beast!!
9/12 ★宝塚花組 哀しみのコルドバ/Cool Beast!!(マチソワ)
9/18 ★演劇調異譚「xxxHOLiC
9/20 ★黒羽麻璃央28th Birthday Party大阪(1~2部)
9/25 ★黒羽麻璃央28th Birthday Party神奈川(1~2部)
9/27 ★ミュージカル『刀剣乱舞』静かの海のパライソ(初日)

◆10月

10/2 ★ミュージカル『刀剣乱舞』静かの海のパライソ(ソワレ)
10/3 ★ミュージカル『刀剣乱舞』静かの海のパライソ(ソワレ)
10/10 ★宝塚雪組 CITY HUNTER-盗まれたXYZ-/Fire Fever!
10/16 ★ミュージカル ニュージー
10/24 ★ミュージカル マドモアゼル・モーツァルト
10/30 ★ミュージカル『刀剣乱舞』静かの海のパライソ(ソワレ)
10/31 ★ミュージカル『刀剣乱舞』静かの海のパライソ(ソワレ)

◆11月

11/3 ★ミュージカル『刀剣乱舞』静かの海のパライソ(ソワレ)
11/6 ★宝塚花組 元禄バロックロック/The Fascination!
11/7 ★宝塚花組 元禄バロックロック/The Fascination!(マチソワ)
11/23 ★ミュージカル グリース

◆12月

12/13 ●宝塚花組 元禄バロックロック/The Fascination!(宝塚大劇場千秋楽)
12/26 ★ミュージカル フィスト・オブ・ノーススター ~北斗の拳
12/30 ●ACTOR'S☆LEAGUE 2021 延長戦オンライントークイベント



音曲祭が2021年の頭の出来事っていうのがもはやピンとこないレベルで太古の記憶になりつつあります。
こうしてまとめると「ロミジュリを見ないと死ぬ」って感じの人になってましたが、本当に今年は「推しがロミオ」大事件に尽きました…。生きててよかったになりまくった。
5月後半から7月までの気の狂い方、後から振り返ると我が事ながら引いてしまう。その詰め込み方、そりゃあヘトヘトにもなるわ!
ロミジュリと花組のはざまで全力疾走するしかなかったのでこんな仕上がりになってしまった。

作品数は宝塚を見るようになった影響で増えまして、22本でした。
全体的に「いやお前ようこの状況下でそんな見たな」と思うような回数なんですが、わたしが今年払い戻しの憂き目にあったチケット、実は1公演だけだったんです。かなり少ない方だったと思う。
今年はたまたま、そういう巡り合わせだったみたい…去年との差よ。
新幹線の乗り方を完璧に思い出した1年でもあったなぁ。

推し・花組以外でも、見られてよかった~!と心から思う作品に出会えた豊作の1年でした。
ニュージーズとマドモアゼル・モーツァルトは本当に見に行けてよかった。
ポーの一族はこの目で見られる日が来るのか?と信じられない思いだったし、北斗の拳も出来ればもう1回見たいくらい面白かったです。
ついでに書くと見られなくて悔いが残ったのは、ジェイミーとストーリー・オブ・マイ・ライフです。どっちもホリプロミュージカルだな!


結局のところ、すべては感染状況次第…の日々が続いていますが、舞台おたくとしては永遠にしぶとく生きてやる!と改めて心に誓います。舞台が好きだ!
同時にメリハリもつけようと思う。色々と…。お金もちゃんと貯めます。ほんとだよ!笑
そして来年こそ、まりおくんの帝劇デビュー・リベンジが叶うといいな。


2022年もなるべくたくさんの舞台の幕が、予定通りに上がり続けますように。
今年もたくさんの楽しい思い出をありがとうございましたと、心からの感謝を込めて。
皆様もどうぞ良いお年を!

大好きとありがとうは、いつだって祈りのように

ジャンルがなんであれ、表舞台に立つ人のことを、わたしは本当に尊敬している。


その身に宿す様々な才で、見る側を魅了し、心が浮き立つような瞬間を数え切れないほど届けてくれる。
存在を思い浮かべるだけで自然と笑顔になってしまえたり、つらい時苦しい時、ふと前を向こうと思えるエネルギーをくれる。

主戦場がどこなのか、舞台なのかテレビなのかライブシーンなのか、彼らが活躍する場には本当に様々なバリエーションがあるけれど、
どんな場においてもその人たちが届けてくれるあらゆるパフォーマンスは、いつだってまぶしく光り輝いていて、
観客であるこちらを心の底から励まし、楽しませ、幸せな気持ちにさせてくれる。
本当に大好きだ。
素晴らしいものをいっぱい届けてくれて、表に立つという役割を選び続けてくれて、ありがとうと思う。感謝の気持ちが自然とあふれる。


そんな彼らに対して、わたしたちができることは驚くほど少ない。
その「仕事」の姿に惹きつけられ、好きになり、応援をするわたしたちには、「仕事」のごく一部の側面しか見えない。

彼らのプライベートになにかものすごく辛いこと、困難なことがあったとしても、それを直に分かち合う役割を、わたしたちが担うことは決してない。
人生の道筋を、共有している存在ではないからだ。
背負った苦しみを減らすことを手伝ったり、身近な支えとなるような場面は、絶対に訪れない。

その役割は、彼らの人生の中で、実際に側にいる人たちだけのもの。
友人、後輩や先輩、恋人、家族、それぞれに特別な立場の人が担うべきもの。
だから、わたしたちにできることは、本当に少ない。何もできない瞬間が、ほとんどだ。
それがファンの宿命である。


しかし、彼らが選んだその「仕事」に、もしも迷いが生じたとき。
「こんなことをやっていて意味があるのか、自分は一体なんのためにこの仕事を続けているのか」
そんな思いがもしも頭をもたげることがあったなら、
わたしたちはその疑問に対して、力強く真正面から「意味がある」と答えることができる。それならば、間違いなくできる。


あなたの選んでいるその仕事は、誰かを力づけたり笑顔にすることができます。
生きている誰かの心持ちを、明るい方向へと変えることができます。
あなたの姿に触れることで、生きる上で必要なエネルギーを静かに得ている人がいます。
比喩ではなく、明日からの日々を改めて生き抜く活力をもらっている人がいます。
あなたの仕事は、誰かの人生にそんな機会を信じられないほどたくさん提供できる、とてつもなく素晴らしいものです。ものすごく尊いものです。


そうやってその仕事に意味を持たせることが、時には逆説的に相手を追い詰める原因になりうることも、理解している。とても苦しい。
だけど、こうして両手にたくさん受け取ってきたポジティブな感情の塊を、否定するのもやっぱり変だと思う。
だから、本人がそう望む限りは、どうか心おきなくその魅力を世界に放ち続けていてほしいと願う。


エンターテイメントにしかできないこと、救えない心は、この世に確実に存在します。
いつもたくさん、光を生み出してくれてありがとう。
全身で味わいたくなる美しい歌声や、見ているこちらの心まで踊るような見事なダンスを届けてくれてありがとう。
感情を揺さぶるお芝居や、見た瞬間に心を惹きつけられてやまない、天からの贈り物のような笑顔を見せてくれてありがとう。


たとえどんなに馬鹿みたいでも、
わたしは彼らにただそれだけを伝え続けていたいし、誰にも聞かれなくても勝手に表明し続けていたい。
こちらからはミリほども、その人生に対しては本当に一切何もできないのだとしても、むしろだからこそ、その「仕事」の側面がもたらす光の大きさを言葉にしたい。


あなたがたが生み出してくれる表現は、いつだってこの世界を明るく照らすのだという事実を、
その様子に元気をもらっている自分の姿で、これからも証明し続けていたい。


自分が知っていること、受け取ったものだけを、わたしはこれからも自分の中でどこまでも大切にする。
許さないと思ったことは永遠に許さないし、知りたくないことを知るつもりもない。

大好きな人たちが、そのかけがえのない内面世界を、外の何者にも侵されず損なわれず、どうか大切に守り続けていられますように。

だいすきです。

【ネタバレあり】刀ミュ 静かの海のパライソ2021 感想その1~鶴丸国永・大倶利伽羅について~

ミュージカル『刀剣乱舞』静かの海のパライソ2021が、去る9月27日にTDCホールにて無事幕を開けました。
今週末で東京凱旋公演が終了予定。このまま行けば、今年こそ最後の宮城公演までの完走が叶いそう…という状況に、何より安堵しています。


既に2回配信もあり初日からだいぶ時間は経ってはおりますが、以下はネタバレ満載の記事になりますので、未見の方はどうぞご注意ください!





パライソのストーリーをごく簡単にかいつまんで書き起こすと、下記のような感じです。


主の命で、島原の地に出陣した鶴丸たち6振り。
敵の狙いは島原の乱か?と思われた到着後早々に、一揆の首謀者のひとりである少年天草四郎が、時間遡行軍によって殺されてしまう事態となる。
歴史の流れを史実どおりのルートに戻そうと、鶴丸一揆を成立させるべくもう一人の首謀者である山田右衛門作を捕えたうえで、日向正宗・浦島虎徹に「天草四郎を演じる」ことを命じ、
島原の民衆たちを集めていくこととする。
そしてその結果として一揆勢は3万7千人となり、原城を奪うまでの勢力に拡大する。つまり、歴史の流れは無事に元に戻りつつある…と言えるのだが―


話の”筋”という意味では、とてつもなくシンプル。
しかし、その上に織りなされる様々な刀剣男士たち、および登場人物の感情の在り方は本当に重厚そのもの。
というか、そもそも題材として「島原の乱」を選んでいる時点で、どうしようもない重たさがあるわけなのですが…

感想として言いたいことを挙げていったら本気で収拾がつかなくなってしまったので、
この記事ではばっさりと割り切って、鶴丸国永・大倶利伽羅のふた振りに関する感想のみをまとめています。
それ以外にもありすぎるほどある感想は、たぶん時間が空きますが後日別記事にてがんばります!


◆冷たい「怒り」を宿し続ける、パライソの鶴丸国永

本作の鶴丸は島原での任務の間中、どこか露悪的というか、わざとらしいほどに説明の足りない様子を見せ、なんだかちょっぴり"嫌な奴"のように振る舞います。
任務の詳細を部隊の皆に伝えないまま出陣し、天草四郎が死んでしまったあとも、あえてあっけらかんとした態度で「天草四郎を演じて、仲間を集めるんだ」「ざっと2万人は必要だな!」とだけ言ってのけます。

仮に人々を集められたとして、その2万人の人々が最終的にどうなってしまうのか…史実を知っていればすぐにわかることなのですが、
恐らくはひと振りだけ詳しい事情を知らない浦島虎徹がそれを悟ることの無いように、「困ったときは、ぱらいそ!って叫べばいい」とまで言って、彼を任務に送り出してしまいます。

結果として今回の刀剣男士たちは、人の命を奪う片棒をかつぐ…どころではない振る舞いをすることになるのですが、鶴丸は確信犯的に黙った上で、それを仲間たちにやらせようとしている。

見ている側がやや戸惑いを覚えなくもないその鶴丸の行動は、複雑に絡み合った「怒り」によるものなのだと思います。


鶴丸のその怒りは、まずわかりやすい形として山田右衛門作に向けられます。
出会った直後から最後まで、一貫して鶴丸は右衛門作につらくあたり続けますが、
その背景には、自分のしていることの重みを本質的には理解しないまま、民衆に火をつけ一揆へと駆り立てた右衛門作の無責任さへの怒りがあるのではないかと思いました。


象徴的だな…と感じたシーンに、原城で板倉内膳正を討ち取ったあとの鶴丸が、背後にいる右衛門作を振り返り、刀で彼を指し示すというものがあります。
鶴丸に刀を向けられた右衛門作は、その場で怯えたように腰を抜かしているのですが、
ここでの鶴丸は右衛門作に「お前が始めた戦は、こういう結果を呼ぶものなんだ、わかってるんだろうな?」「だから、最後まで責任を取れよ?」と告げているように見えました。

右衛門作は、兵を挙げた時点では、まさか自分たちが大名の首を取ることになるとまでは、おそらく考えていなかったのでは…?とも思うのです。
困窮した暮らしについての訴えはあくまでも真っ当なものであり、ある程度の力を示せばお上も考えを改めるのではないか。
もしくは元キリシタン大名の家臣という立場からは、締め付けすぎは抵抗勢力を生み出しかねないと幕府に思い知らせることで、何某かの譲歩を引き出そうとする考えもあったのかもしれません。
しかし兵を挙げたその結果は最終的に「なで斬り」に繋がってしまう。そこまで予め思い至る思慮深さは、右衛門作にはなかったのではないか、と。


大名を殺してしまったことへの衝撃、自分たちが始めてしまったことへの取り返しのつかなさ、そして横から突然現れて死した四郎のフリをしながら凄まじい強さで敵を追い詰めていく、謎めいた鶴丸への怯え。
腰を抜かしている右衛門作からはそういったものが伝わってきました。

鶴丸はこのシーンで右衛門作をそれなりに長い時間見つめ続けているのですが、その表情は本当にひやりとしていて、目には青い炎が宿るようで…内側に燃えたぎる憤りを隠そうともしないその様子に、見ていて心臓がギュッとなりました。


そしてこの鶴丸の苛烈な苛立ちは、右衛門作を通して、自分自身にもはっきりと向かっているのだと思います。
刀である彼がもしも戦そのものを憎むとしたら、その憎しみは必然として、そのまま我が身に降りかかることになります。


たくさんの無力な人たちの命が奪われることへの果てない憤り。
死ななくても良いかもしれなかった、日々の暮らしを全うできたかもしれない3万7千人の命が、むごたらしく消えてしまうことへのやりきれなさ。
しかし自分は刀剣男士として、彼らの無数の命を奪う後押しをしているにほかならない。
いったい自分は、何のために、何をやっているのか。
そうしてまで守る「歴史」とは一体何なのか。
パライソの鶴丸は、刀剣男士という存在である以上深く背負わざるを得ない、矛盾に直面している形なのだと思います。


絶対的な正義も悪もない、ということをわかっていてなお、歴史を守る任務に就くということ。
なぜ憎まれ役を演じる?という大倶利伽羅の問いかけに、
「自分自身を憎めるくらいでなきゃやってられないだろ、こんな戦」と、鶴丸は明確に答えます。


苦境からの脱出に戦という手段を選んでしまった右衛門作、
その中で奪われていく夥しい数の命。
そして何より、任務としてその手助けをせざるを得ない己への矛盾。
自分たちが飛び込んだ渦中の出来事のその全てに、鶴丸はとにかく激しい怒りを覚えているように思いました。

◆「編成を任せて欲しい」という発言の意図

そんな鶴丸が今回の担務に対して取ったアプローチは、おそらく「全てを一人でやる」というもの。
編成を自分にやらせてほしい、と主に依頼した背景がこれじゃないかなと。


次の行き先が島原であると告げられた瞬間から、どう転んでも辛い任務になることがわかっていたから、
鶴丸「しんどいことは全部自分一人でカタをつけようとした」「その上で、障害になりそうな要素は予め省きたかった」から、
編成を自分にやらせて欲しいと言ったのじゃないかな…という気がしています。

本丸を長く支えてきた自身への信頼が既にある程度篤くあり、疑うことなくついてきてくれそうな刀(=浦島)、もしくはまだ馴染みのない刀剣男士(=松井)であっても、本人が信頼している仲間(=豊前)を通じて無理なく指示を聞いてくれそうなメンバー、という感じに、部隊のメンツを決めていった気がするのでした。

言ってしまえば、自分のやることに異を唱えさせないようにしたのではないかなと。

刀ミュにおいては、任務への取り組み方に対して、わりと明確に意見が割れる瞬間が描かれてきたように思います。
ぱっと思いつくだけでも、阿津賀志、幕末天狼傳、つはもの、むすはじいずれにもそういう描写があります。
そのような抜き差しならない局面を、今回の鶴丸は障害であると捉えて、予め意識的に避けようとした節があるんじゃないかなぁと思います。


そして鶴丸の予想の範疇には、天草四郎が敵方に殺される事態もある程度存在していたのではないでしょうか。
敵が歴史改変を狙う以上、それは十分戦略としてありえる話であり、もしそうなった場合にどう立ち回るか?という点にも、思いを巡らせていたような気がします。

ここでつい考えてしまうのは、鶴丸が部隊の中に浦島くんを編成した意図。
泰平の世に生まれた刀であるからこそ、戦というもの・刀剣男士の任務について、まだ理解が浅い傾向があるような描写をされている浦島くん。おそらく本丸の中でもかなり心が若いほうなのでは?と思われます。
鶴丸は、その浦島くんの純粋さが必要になる局面があるのではないか…という点まで読んだ上で、編成しているような気がするのですよね。
言ってしまえばその純粋さを、任務の成功にあたって不可欠なものとして利用する気すらあったのではないかな、と。。
更にその結果として、刀剣男士としての成長を、浦島くんに促したかったのではないかと感じました。
そして日向くんは、そんな浦島くんを隣で支えられるだろうパートナーとして選ばれていそうな雰囲気があります。

松井くんに関してはもっとわかりやすい。
出陣の際に告げている言葉通り、かつて刀だった頃に同じ戦を経験した松井くんの記憶が役に立つ場面を想定もしていたでしょう。
その上でこの出陣が、いつかはやってくる「自らの過去に向き合う」ことのきっかけになればいい、いったん向き合ってしまえば後はまぁなんとかなるだろう!というような意識があるように思います。
豊前は勿論、松井くんのサポート役としての選択。


そして大倶利伽羅は、己の相方として、不測の事態が起きたときの自分にとっての拠り所として、編成に加えたのだろう…と思いました。
正面から何を頼るつもりではないのだけれども、内心でなんの遠慮をしなくても良い相手として…。
また、何となくですが、大倶利伽羅の前だと嘘なく「しゃんとしていられる」のじゃないかな?という気もします。
自然と背筋が伸びるというか、伽羅坊の前じゃカッコ悪いところは見せらんねぇからな!みたいな気概が湧いてきていそうに見えて…。


任務遂行のためならばと、ある意味冷徹に過ぎるほどのシビアさで編成を行ったようにも思える鶴丸が、
一方では大倶利伽羅を自らの隣に配置したという事実。
それは、「島原の乱」にまつわる今回の任務が、それほどまでに本質的に過酷なものだった、そうでもしなければ鶴丸をもってしてでも乗り越えられないものだった、ということを表しているように思えました。

◆みほとせ出陣を経た姿としての大倶利伽羅

今回、そんな鶴丸をとにかく隣で支え続けている大倶利伽羅
パライソのからちゃんを見ていて一番強く感じたのは「みほとせ出陣を経たからこその姿」なのだな、ということでした。
あの戦いを経験した結果、からちゃんの中にはおそらくそれ以前にはなかった感情や気づきが沢山生まれている…ということがはっきりとわかる描写が沢山あって。


物語の中盤、夜空の下でひとり鍛錬を積む大倶利伽羅が歌うソロ曲があり、
その歌詞の中には、下記のようなフレーズが登場します(※細かい点は間違ってるかもですが)。

祈りの言葉も
献げる花も
持たぬ俺はただ
白き息を刻み
この身を鍛えるのみ

ここでいう「祈りの言葉」は、明らかに石切丸のことを指しているのだし、
「献げる花」という言葉からは、どうしたって呉兵のことが思い出されます。


石切丸のように、戦で命を落とした人全てに祈りを捧げるようなことは自分にはできない。
失われた命に花を手向けないのは、「全ての戦を終えたらまた来る」という約束をしたから。
そんな自分は、ただ今目の前のやるべきこと、刀剣男士として向き合うべき「戦」のために、己を鍛える。なすべきことはそれしかない。


みほとせの出陣で出会った飲み込み切れない様々な感情を身の内に含みながらも、"今どうあるべきか"を自らに真っ直ぐに問い続け、心に決めたことを淡々とやり抜く。
倶利伽羅のその決意が静かに爆発しているようなこのフレーズに、刀剣男士としての大きな成長と、なにより根底に流れる優しさを感じてしまって…。
過去の作品からの繋がりによって無理なく描き出される刀剣男士たちの進化を見るのが本当に好きなのですが、ここはかなり痺れたポイントでした。


他にも、からちゃんの中には明確に吾兵が生き続けているのだな…と思うシーンがいくつかありました。

島原の地で浦島が仲良くなった兄と幼い弟のきょうだい。
彼らと無邪気に触れ合う浦島くんに対して大倶利伽羅が「あまり深入りするな」という忠告をしてしまうのは、吾兵と交流し、のちに彼を失った自分を重ね合わせてしまったからだと思いますし、
戦いの最中、きょうだいが斬りつけられそうな瞬間を辛くも救うことができた姿には、呉兵に対して出来なかったことを果たしたのかな…と感じられて、胸が詰まりました。。

パライソのからちゃん、かっこよくて頼れて、なにより優しいのよ…本当に。。
鶴丸の隣にいてくれてありがとう、となんべん思ったことか。ありがとう。。

◆「理想主義者」としての葛藤と悲哀

またしても…という感じですが、本作にもしっかりと、背後に控える存在としての三日月宗近が登場します。
今回は、葵咲本紀や幕末天狼傳再演と異なり、その姿や声こそ現れませんが、むしろその分「この物語において、決して無視できない存在」として浮かび上がってもいるようでもあります。
葵咲本紀での描かれ方に対して、ぐっと深く踏み込んだ形となり、三日月推しとしてはまたあらぬ方向からぐさっと刺されたような思いで、いやほんと…。。


この記事前半で「怒っている」と述べたパライソの鶴丸ですが、
その感情は最終的に全て、三日月へとぶつけられます。

なで斬りによって残酷な幕切れを迎えた島原の乱
戦の最中で命を落とした兄、彼に守られて辛くも生き延びた弟。
まだ息のあるその弟を大倶利伽羅が抱き上げたところで、唐突に"物部"が登場します。
「三日月の手の者だな」と全てを承知したような鶴丸は、彼に「その子を連れていってやってくれ」と頼みます。
承知しました、と弟をその腕に抱いた物部。
そのあとの鶴丸とのやりとりを聞いて、勘弁してよ…となったのですが…

「ああ、三日月宗近さまからのご伝言が…『あまり無理をするな』と。」
「しゃらくせえって伝えてくんな」
「はい。」

いや三日月、おま…なんでそんな逆撫でするようなこという…?(天下五剣だから仕方ないか)(※推しに甘い)になりますし、
鶴丸もそりゃそう返すに決まってるよね…と思うのですが。。
いやほんと…なんでそんなこと言う…。それくらいに、三日月と鶴丸とでは、己が帯びた「役割」に対する物事の捉え方が全く異なるのだろうなと。

刀ミュの三日月は、「歴史の中で悲しい役割を背負わされた者」に心を寄せ、彼らの中の幾人かに物部という役割を与えて、刀剣男士たちの任務の補助を命じています。
その真意や背景は未だ明確にはなされていないわけですが、
パライソで"古くからこの本丸を守ってきた"と称された三日月と鶴丸には、刀剣男士としてのスタンスに目に見えて違いがあることが、今回嫌と言うほどに明確になったなと感じました。


このあと、大倶利伽羅の前で、鶴丸がパライソ作中で唯一感情を剥き出しにするシーンが訪れます。

「3万7千人。ただの数字じゃねぇんだぞ。生きていたんだ。そこに命があったんだ」
「連れて行ってやれよ、静かの海に」
「やれるもんならやってみろ!」

海に向かってひとり激しく咆哮する鶴丸
荒々しく放たれた言葉は、言うまでもなく三日月に向けられたものでした。
その鶴丸の瞳には、ぎりぎりのところで踏みとどまった涙の気配があって…。


鶴丸は、三日月に引き比べるとある種「理想主義者」なのではないのかな?と感じるのですよね。
その理想のもとに、あくまでも刀剣男士としての使命を曲げることなく、正面から果たそうとしているように思えます。
対する三日月はまた少し違っていて…あの人は「刀剣男士として」どうこうの前に、己の意志と体を持つ者として自分が思い定めたことのために、行動しているような気がしています。


パライソの鶴丸の怒りや悲しみは、おそらくこの理想主義者であることに端を発しているのかなと思いました。
鶴丸だとて、理想の果てに生まれる矛盾があることもわかっている。
それが叶うとは限らないとわかっていても、それでも手を伸ばさずにはいられない。

そしてその理想のひとつには、「戦のない世界」があるのではないかな…と、本作を見て思わずにはいられませんでした。


おそらく曲タイトルは「静かの海」だと想像しているのですが、中盤にある鶴丸と大倶利伽羅のデュエット。

クレーターのない月面の大平原である「静かの海」をモチーフとした、シンプルでありながらも静謐で美しいそのメロディ。
二振りのハーモニーがとても見事…という音楽的な局面もさりながら、やはり歌詞が胸に刺さります。*1


この歌は「退屈な場所さ」というフレーズで終わるのですが、
ここを歌う鶴丸の声と表情が、忘れられません。

顔に浮かんでいるのは「憧憬」と評したくなるような切なげな色合い。
夜空に浮かぶ見事な月を真っ直ぐに見上げながら、透き通ったその表情に宿すのは、どうしようもない優しさと哀しさ。


歌い終えて、「いつか、行ってみたいな!」と笑顔で大倶利伽羅に言う鶴丸
それに対して「そうだな」と正面から肯定の意を返す大倶利伽羅


ここでいう「退屈な場所」とは、おそらくは争いや戦のない世界の比喩表現であり、
それを「退屈」と評することで、逆説的に平和に対する鶴丸の切望を表しているんじゃないかな…と感じたのです。

そして、かつて吾兵の墓の前で「全ての戦を終えたらまた来る。それまでは、花は供えないぞ」という誓いを立てた大倶利伽羅だからこそ、
行ってみたいな、というその鶴丸の問いかけに対して「そうだな」という返事をできたのかな、と思うのでした。


戦のない世界の訪れなど、決して叶うことはないとわかっている。
戦の道具である自分達は、"間違いの道具"なのかもしれない。
しかし、そうなのだとしても。
あり得ないその世界を希求する思いが、否定されるものでもない。


大海原への大絶叫のあと、帰ろうぜ、と言った直後に足をもつれさせガクッとよろめいた鶴丸を、大倶利伽羅はすかさず受け止めて立て直します。
そしてぽつりと、しかしはっきりと言うのは「お前は、崩れるな」という一言。
それを受けて、どこかすっきりとした顔でからりと笑い、
「ありがとな、伽羅坊」と、肩をぽんと叩いて彼に背を向ける鶴丸


明確にお互いが思っている本質を口に出し合ったわけではないけれど、彼らはきっと同じ方向を見て、なによりも同じように「命」に思いを傾けている。
理想主義者として自覚を持ってもがき苦しむ鶴丸と、その鶴丸の悲哀をはっきりと共有している大倶利伽羅

それこそ"馴れ合って"いるわけでもなく、ただ隣に在ることで通じ合い、時には肩を貸すその立ち姿…。
この類の関係性の描き方、刀ミュの脚本は本当にいつ見ても見事だと思います。やっぱり大好きだなぁ。。
過不足がなくて、ベタベタしてもおらず、ただ「仲間として隣にいる」ことの嘘のなさというか。これだから刀ミュが好きなんだな、と改めて感じる伊達の二振りでした。*2


パライソのラストシーン。
日向くんの漬けたしょっぱすぎる梅干を食べて賑やかに笑い騒ぐ6振り。そしてその背後に現れる、「あり得たかもしれない」幻の島原の光景。

本来の敵味方、支配する側と武器を取った側が区別なく入り混じり、誰もが快活に笑い、
そしてその手には、ずっしりと持ち重りのしそうな握り飯がある。
互いに傷つけ合うことも、飢えに苦しむこともなく、美しい景色を前にして生き生きと笑い合うその様子こそが、
まさしく「パライソ」なのだな…と思えて、見ていてどうしても涙が止まりませんでした。


鶴丸をはじめとした刀剣男士たちが見たかったもの。決してあり得ない、でもあり得たかもしれないと、願いたくなる景色。
眼前にしたその光景の眩しさに、ダメ押しのように最後の涙を持って行かれて、終演後は毎度抜け殻のようになりました。
言葉にできないものが確かに残る、ただ「重たい」とか「しんどい」では到底片付けられないものを受け取る、間違いなく大好きな作品、それが私にとっての「静かの海のパライソ」でした。



駆け足でほんとうに無理矢理まとめたので粗いんですが、とりあえず1記事目はここまで!
書きたいことはたくさんあるので、また頑張ってまとめますー!

まずは宮城までの全公演完走を、心から祈っております。
全員揃った笑顔での大千秋楽が、どうか今年こそ叶いますように!

*1:かつての足跡が消えることのない…という歌い出しは、アポロ11号の月面着陸のことを指していて、そうか彼らがいるのは2205年!ということを新鮮に思い出したりもしました。

*2:もともと伊達属性のない私ですらこれほどまでに感じ入ったのだから、推しているひとたちはいかほど…お察しします!

ミュージカル「マドモアゼル・モーツァルト」を見た感想(明日海りおさん・華優希さんを中心に)

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10月24日ソワレ公演にて、ミュージカル「マドモアゼル・モーツァルト」を観劇しました。
観劇前は予想していなかったのですが、なんというか持ち重りのするような、ずっしりとした衝撃を受ける作品でした。いい意味で打ちのめされる体験をした。
www.tohostage.com

あらすじは下記の通り(上記公式サイトより引用)。
「作曲家・モーツァルトが実は女性だったら?」という設定のもと、モーツァルトの生涯を描く作品です。

天賦の音楽の才能を持って生まれた少女エリーザは、女性が音楽家になれなかった時代ゆえに、父レオポルトから男の子“ヴォルフガング・アマデウスモーツァルト”として育てられた。モーツァルトは瞬く間に時代の寵児として宮廷でもてはやされるようになる。宮廷作曲家であるサリエリモーツァルトの音楽に否定的だったが、一方で目をそらせない存在でもあった。

モーツァルトが下宿しているウェーバー家の母親は、彼の成功にあやかろうと娘のコンスタンツェと彼を無理矢理結婚させようとするが――。

以下、書き手の偏った思い入れにより、潔いほどに明日海さん・華さんに振り切った感想になっております…!(他キャストの方のファンの皆様、申し訳ありません!)
そして1回のみの観劇ゆえ、セリフの細かな言い回しは不正確かと思いますがご了承ください。

◆性別を偽るモーツァルト。じわじわ真綿で締め付けるように増していく苦しみ

話の筋としては、モーツァルトの才能に嫉妬のような割り切れない思いを抱くサリエリと、
それを全く意に介さず、ただ己の欲するままに音楽を書き続けるモーツァルト…という、過去にもよく描かれてきた関係性がひとつの軸になっていると思います。
本作ではさらにモーツァルトが女性であることにより、その二人の間にほのかに恋愛感情が通い合う、というのが特徴的。

しかしなんといっても、わたしが見ていて打ちのめされたのは、「女性であることを偽っている」という設定によってモーツァルトが帯びる孤独の色合いが、凄まじく強いものになっていたことです。


ただ音楽が好きなだけ。頭の中にとめどなく溢れてくる音楽を、外の世界に放っているだけ。それを自分でも止められない。
音楽の神に”愛されて”しまった存在であるエリーザは、父親の命でその才を捨てずに済むように、男として世に出ていくことを強いられます。

エリーザがそのことについてどのような感情を抱いたのかは、作中では明確には描かれていません。
しかし見ている限りでは、性別を偽って生活していることに、当初はさほど頓着をしていないかのようにも見受けられました。
裏返せば、エリーザにとっては、それほどまでに音楽が己の在り方の中心にあり、作曲ができていればそれで良かったのかもしれない。
おそらく、それがこの物語序盤のモーツァルトの姿です。

押し切られるような形で実現してしまったコンスタンツェとの結婚も、性別を偽っている以上、本来は絶対に避けなければならないはずのことなのに、
「このまま独身でいるほうが作曲生活に差し支えそうだし、まぁ意外となんとかなるかも!?」…くらいの勢いで踏み切ってしまっているようにも感じられました。
ただ愉しげに、明るい光に取り憑かれたように曲を書き続けて聴衆を魅了するモーツァルトの表情は、いつも笑顔を湛えたもので、物語の序盤ではそれが暗く曇ることはありませんでした。


しかし、最初に彼女が苦しみを覚えるのは、コンスタンツェの愛に応えられないことを痛感したとき。
「結婚した夫婦として、男女が同じ部屋にいるのに、なにもないなんてことはないでしょう?」と健気にかつ正面から迫るコンスタンツェ。
彼女のごまかしのない真っ直ぐな愛に対し、自らの素性を隠し続けることができなくなったモーツァルトは、ごめん、傷つけるつもりはなかったんだ…と詫びながら、自らの身体をコンスタンツェのもとに晒します。
しかし当然の帰結として、コンスタンツェはその事実を受け入れることができず、叫びながら寝室を走り出てしまいます。
「自分が女じゃなかったら、こんなことにはならなかったのに」というどうしようもない感情が、一人部屋に取り残されたモーツァルトを苛む。


次にモーツァルトの表情に陰りがさすのは、自分の弟子のフランツとコンスタンツェが恋仲になったことを悟ったとき。
一度は家を飛び出していったものの、「他に行くところなんてないもの」と言って戻ってきたコンスタンツェを、モーツァルトは大喜びで出迎えます。
君は何の気兼ねもしなくたっていい、自由なんだ!と、ただ自分の側にいることだけを彼女に頼むのですが、その結果としてフランツと愛し合うようになったコンスタンツェは、彼との間に子供を授かることになります。
ふたりの逢い引きを目撃し、関係を悟って胸を突かれたような表情を浮かべるモーツァルト

ここでも彼女の感情が明確に語られることはありませんが、
同性であれど、やはり”伴侶”として心の支えにしていたコンスタンツェが他の男性に心を委ねたことになのか、
それとも家族として新たな命を宿すという行為は決して実現しない、自分たち二人の歪な関係になのか…
いずれにせよ、モーツァルトの胸中がおだやかならぬものであることが、この場面からは伝わります。


そして最終的に彼女を果てなく苦しめたのは、サリエリの思いに応えられないことを知った瞬間。
父レオポルトの死を知ったモーツァルトは「もうモーツァルトでいる必要はないんだ!」と快哉を叫び、突然女性の格好で演奏会に出かけると言い出して、コンスタンツェを仰天させます。
コンスタンツェの制止も虚しくそうして女性の姿のモーツァルトが出かけて行った先は、サリエリの演奏会だったのですが…あろうことかサリエリは、女性の姿をしているモーツァルトに出会って一目惚れをしてしまうのでした。
その場は「モーツァルトの従姉妹のエリーザです」という説明で無理やり切り抜けはしたものの、その夜サリエリはわざわざ花束を携えて、モーツァルトの家を訪ねて来てしまいます。


後日、モーツァルトは再びエリーザの姿となり、ウィーンを発つのでお別れを言いに…と、サリエリの元を訪ね返します。
そして会話の流れで促されるまま、エリーザはサリエリ自身が作曲した曲をピアノに向かって弾き始めるのですが、やはりその中身はどうしようもないほどに”モーツァルト”。
「素敵な曲。」とうっとりした表情を浮かべた次の瞬間、「…でも、変化が必要ね!」と言ったかと思うと、ものすごい勢いでもとの曲をアレンジし、楽譜を無視して変奏曲に仕立てあげていってしまうのです。
奔流のように輝きながら溢れ出るその旋律に打ちのめされ、更に恐らくはエリーザの正体にうっすらと勘づいたサリエリは「何故、楽譜通りに弾かないんだ!」「出ていってくれ!」と激しく怒鳴り、演奏を止めさせます。
「貴方に喜んでほしくて…」としどろもどろに告げるエリーザ。出て行けとはいったものの、同時に慕う思いを止めることもできず、咄嗟に「行かないでくれ」と縋るサリエリ

…しかしもう、どうしようもなかった。
この場面でエリーザのもとに訪れたのは、「自分が音楽を愛するだけで、目の前にいる大切な人を傷つけてしまった」という事実でした。


どの方向にどう進んでも、がんじがらめになってしまっているようなその状況、見ていて胸が締め付けられるように苦しかったです。
常人の感覚では及ばないような天賦の才を持って生まれただけで、背負う孤独はすでに深い。
それなのに、そこに更に何重にも色合いの異なる、様々な孤独が否応無しに塗り重ねられていく。
その行き場のなさに、客席に座っている間じゅうなんと表現していよいかわからない感情になり、一幕も二幕もあらゆる場面で涙が止められませんでした。

◆存在そのものとしての説得力が桁違い。明日海さんのモーツァルト

上記のとおり、常軌を逸したと言いたくなるような孤独を背負ったマドモアゼル・モーツァルト
それを体現する明日海さん、ただとにかく、圧巻でした。

女性であることを隠すゆえ、
コンスタンツェが望むように彼女を愛してあげることができない。
コンスタンツェが自分の弟子との間に心を通わせ、子供までもうけることを決して咎められない。
サリエリに愛を打ち明けられても、応えることができない。

そこに最終的に、
自分が「モーツァルト」であるゆえに、その音楽の才能で、サリエリを傷つけてしまう。

しかし、二重否定のようなその状況を演じる明日海さんの佇まいは、まるであかるく白い光が透けているようなんですよね。
どこまでもピュアで、胸の内にただ美しい旋律を宿し、まさに「神に選ばれた存在」のような、絶対的な存在感を放っていました。

モーツァルトを生きる明日海さんからは、世を憂うようなまなざしも、自分の身を呪うような恨み節も一切感じ取ることはありません。
それゆえ逆説的に、研ぎ澄まされたあまりにも純度の高いその孤独の在り方が、本当に突き刺さるように伝わってきました。
わかりやすく自己憐憫に陥ることもなく、一方でどこか感覚が周囲とはズレ続けているような様子がまた、天才ゆえに周囲とは分かち合えない、自分だけの宇宙の中に生きているから…というようにも感じられて。
その孤独の有り様、真実性が凄まじく強かったのです。

モーツァルトの純粋さに響き合うような、あの明日海さんのなんとも言えない透明感が、物語を受け取る側の辛さに拍車をかけていたと思いますし、役としての説得力をもたらしていたと思います。
その姿が本当にまばゆくて…彼女に焦がれては突き放し、でも丸ごと理解したくなるサリエリの気持ちも、最後まで側を離れられないコンスタンツェの気持ちも、わかるような気がしてしまう。
それくらい、明日海さんのモーツァルトは、とにかく魅力的でした。

◆複雑すぎるコンスタンツェを演じきった華優希さんの芝居力

……華ちゃんさん~~~!!!!!涙
(※急にタガが外れた人)

ここで説明を申し添えますと、わたくしは去年の花組はいからさんが通る」で突然の宝塚落ちを決めており(※犯人:柚香光さん)、れい華を愛してやまない人間なので…華優希さんが!大好きなのです。
思い余った挙げ句、愛を込めて「華ちゃんさん」と呼びならわしております。
anagmaram.hatenablog.com

なのでどうしても胸がいっぱいになりすぎてちょっとなかなか冷静に書けないのですが、、華ちゃんさんのコンスタンツェ、本当に本当に、良かった。。
芝居心でこちらを容赦なく殴ってくるような、まさに華優希さんにしかできないコンスタンツェでした。


モーツァルトに恋をしているとき、さらに結婚して結ばれたのちの、ひたむきに彼を愛してなんとか気を引こうとする健気な様子。
寝室に入ってもまったく手を出してこないモーツァルトに業を煮やして、生脚をネグリジェから控えめに出してみたり、それとなく胸元をアピールする姿勢をとってみたり…という涙ぐましい努力の様子が、ま~~~本当に可愛らしく、何よりコミカルで。
やっぱりコメディエンヌ要素が抜群に!うまかった!好き!!!!
ちょっとした間のとり方やセリフの言い方で、客席をしょっちゅう笑わせていて、「流石なんだよな~~!涙」と嬉しくなっておりました。お前は何目線なんだ。


そもそもなんですけど、出だしのコンスタンツェのあのセリフ!
「触らないで!…お願いです。この部屋から出ていってください。二人きりになりたいの」。もう…。
あれを聞いた瞬間、壊れたように涙がぐあ~!って出ましたから…
華ちゃんさんがまた舞台に立っている!っていう嬉しさと、こちらをのっけからガツン!と殴ってくるような芝居純度100%のその声に、わたしはバカみたいに泣いてしまったのですが、
特段思い入れ無くシンプルに舞台として見に来ている友人が、同じように「このセリフだけで泣けた」と言っていたので、やっぱりその力は本物だな~…と思った次第でした。


華ちゃんさんのコンスタンツェは、なにもわかりやすくモーツァルトを許しているわけではない、というのがポイントな気がします。
恋し、愛したはずの相手に裏切られたという気持ちは明確に抱いていそうですし、その後も例えば「あなたも辛かったのね」みたいなわかりやすい慰めを口にするようなこともなく。
パートナーとして献身的に側にいなければと思ったわけでもなく、あくまでも世間体をとりあえず守っておくことを前提として、妻の役割を担おうとしていたフシがあります。
フランツと恋仲になったときの様子を見ると、モーツァルトに対しては消え失せた男女としての恋愛感情が、明らかにフランツに向いていることが伝わる様子でしたし、その恋路においてはモーツァルトは障害でしかなく…。
父の死を受けて突然女性として振る舞いだそうとするモーツァルトに激昂するシーンでは、「貴方のためになんでわたしはこんなに苦しまなくちゃならないの?わたしがなにか悪いことをした?」と、涙ながらに強い口調でモーツァルトを罵ります。


しかしコンスタンツェは、結局何があってもモーツァルトの側を離れることをしなかった。

愛する男だと思って結婚したけれど、それは偽りだった。
その後に出会った新しい恋は、正当な形で実る機会を、永遠に奪われた。
「君は自由なんだ」と言われながらも、その実、望むものから疎外される原因を作っている相手、それがモーツァルト

でも、それでも。
音楽に全てを捧げ、全身から命を削り出すようにして作曲を続けるその姿に、
その果てに生み出される音楽の素晴らしさに、
コンスタンツェの心の奥底は否応無しに揺さぶられ、ただ隣に居ることを選択し続けたのではないだろうか。と思うのです。


一言では言い表せないような内面の複雑性を持ちながらも、
一方では場面ごとに、その瞬間の感情が嘘のない真実であると、観客に有無を言わせず表現によって伝えられる。
それが華ちゃんさんのコンスタンツェだったな…と思います。
端的に言うとつまり…やっぱりお芝居がうまい!!!涙 大好き!!!
この先も絶対にお芝居を続けてほしい気持ちでいっぱいです。どうか続けてくださいますように!

◆明日海りおさんがモーツァルトを、華優希さんがコンスタンツェを演じた意味

宝塚の元花組男役トップスターである明日海りおさんが、「本当は女性であるが男性として生きる」役を演じ、
かつてコンビを組んだ過去のある、元花組娘役トップスターである華優希さんが、その妻役を演じる。
この状況はちょっと出来すぎている、と言えそうですし、ここまで来るとその背景を取っ払って観劇するのは、知っている側からするとなかなかに至難の業だと思います。

…なんですが。
見ているうちに、そのあたりの「文脈に引っ張られすぎずに、純粋な作品鑑賞がちゃんとできるかしら?」みたいな遠慮のようなもの、本気でどうでもよくなりました。
それくらい、本当にお二人にしかできないモーツァルトとコンスタンツェだったと言わざるを得なくて。
むしろお二人がそれぞれに背負った物語の存在こそが、明日海さん・華ちゃんさんにしか叶えられない表現を生んでいるのだとも見ながら自然と思えたので、
無理して背景を無視しようとする必要もないよな…と感じたんです。


単に「元コンビで、かつ退団直後に夫婦役で出演なんてエモい!」みたく、わかりやすくテンションが上がる部分も当たり前にあるとは思うんですが、
それを超えた先に、もっとずっしりとした実感としての、お二人で演じるからこその唯一無二の味わい、みたいなものが残りました。
話題性がどうとかそういう問題じゃなく、今の明日海さんと華ちゃんさんが共演することに、ちゃんと意味があったと思います。

性別の垣根を行き来する中で、同時にこれ以上ない孤独な立場を経験されたであろう明日海さんだからこそ演じられるモーツァルトだったと思いますし、
「男性を演じる女性」を絶対的な相手役として過ごしてきた華ちゃんさんだからこそ、モーツァルトを男性として見たらいいのか、女性として見たらいいのか、複雑に混乱しているコンスタンツェに説得力をもたせられた部分があるのだと思います。


物語の終盤に、モーツァルトとコンスタンツェがデュエットで歌うシーン。あの場面にこみ上げた感情については、どう表現したらよいのかわかりません。

ろくに食事も睡眠も取らず、魂を乗っ取られたかのような勢いでオペラ「魔笛」を書き続けるモーツァルトに、お願いだから少し休んで!と懇願するコンスタンツェ。
それでもその筆を止めることは誰にも、モーツァルト自身にもできないのだと悟った彼女は、ただ隣で見守ることしかできなくなるのですが、
ついにオペラを書き上げて「できた…」と零したモーツァルトの声を聞きつけて、そのもとに駆け寄ります。

「よかった、本当によかった」と一緒になって涙を流し、オペラの完成を喜ぶ彼女に、モーツァルトは「ありがとう…君がいてくれなかったら、僕は作曲を続けることはできなかった」と告げます。
そして、それを受けたコンスタンツェは、「わたし、あなたの音楽、大好き!」と声高らかに叫ぶのです。


単なる自己犠牲の精神でもなく、相手への憐れみの情でもなく、
「自分でもなぜかよくわからないけど、でもこの人のことを放っておけないから、側にいよう」というようなその結論の果てに、
コンスタンツェがモーツァルトに手渡した「あなたの音楽、大好き!」という言葉。

それはモーツァルトにとっては、己の存在の全肯定に等しいものだったのではないかな…と思いました。


形がこじれていなければ、男女として結ばれていた未来もあったかもしれないサリエリを、モーツァルトは音楽そのものによって傷つけてしまっている。
しかし一方で、自分が性別を偽ったゆえに手ひどく傷つけたはずのコンスタンツェが、今度はその”音楽”を通じて、モーツァルトの存在そのものを最後に全肯定する。

いわゆる”赦し”ともまた違っているようなそれは、
魂の響き合いがもたらした、本質的な連帯だったのではないかな、と思います。


その場面を演じるお二人は、本当にしっかりと横並びの存在に見えました。
肩を並べ、どこか子供のような無垢さを漂わせて一緒に歌うその姿は、
過去に経験されてきたはずの、ある種絶対的に過ぎた関係性の在り方を、明確に乗り越えたものだったと思います。
いま、このお二人の組み合わせでこの物語を観劇できたこと、本当に幸せに思いました。



わかりやすい華やかさや美しさより、もっと観念的・概念的な要素を表現する方向へと振り切っている舞台美術も、
モーツァルトの著名な楽曲をベースとしながらも強いグルーブ感をもって自由自在にうねるような音楽も、
時にはモーツァルトの音楽に魅了される聴衆を、時には奏でられる音楽そのものを溢れる躍動感で表現するアンサンブルキャストの皆さんも、
全てが確固たる世界観の中に集約されていて、ものすごい集中力をもって見ることができました。
どこか不気味な空気感があるというか、なにかちょっとした悪夢のようでもあり…。
根底にほのかな怖ろしさを感じる側面があって、ただ美しいだけではない世界な点が、本当によかった。


最後に。
凄まじい孤独を背負いながらも、モーツァルト自身が不自由であったわけでは決して無くて、
その人がどのように幸福だったのか、もしくはそうではなかったのかは、きっと本人にしか決められない。

性別という括りを超えて、ただその人がその人らしくあるということ。
その「自己決定権」こそが、きっと生きる上における真の意味での自由なのであり、魂のきらめき、喜びの根源であるのだと感じます。


わたしがマドモアゼル・モーツァルトから受け取ったのは、そんなメッセージでした。
「良すぎてしんどい」というだいぶ珍しい感想を抱いた、忘れられない観劇体験になりました。
見られてよかったです。